
秋山好古 揮毫石碑紀行 28番目「和泉 泉永寺」
地元の方から情報頂く。
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和
泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。
1606年森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。
森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。
昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
揮毫は、当水利組合長が好古に揮毫依頼した。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」といっていた。
秋山好古揮毫の石碑写真集P35に掲載してある。
平成17年10月2日に写真取材に行った。
1.碑 文 : 追 遠 記 念 碑
2.所 在 地: 松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 不明
5.建立年月日: 昭和 2年 8月
6.石碑大きさ: 高さ2m37cm 表幅62cm 横幅 45cm
地元の方から情報頂く。
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和
泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。
1606年森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。
森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。
昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
揮毫は、当水利組合長が好古に揮毫依頼した。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」といっていた。
秋山好古揮毫の石碑写真集P35に掲載してある。
平成17年10月2日に写真取材に行った。
1.碑 文 : 追 遠 記 念 碑
2.所 在 地: 松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 不明
5.建立年月日: 昭和 2年 8月
6.石碑大きさ: 高さ2m37cm 表幅62cm 横幅 45cm
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