EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 48 北宇和郡松野町の碑

2016年02月22日 | 伊予松山歴史散策


北宇和郡松野町蕨生(わらびお)甲1番地・天満神社にある「忠魂碑」。

好古揮毫石碑の中で、愛媛県最南端にあり、この神社を探すのに一苦労した。
度々道を間違え、地元の方から所在を聞きながらたどり着いた。
地名も難しい呼び名である。


1.碑  文 :  忠魂碑
2.所 在 地: 北宇和郡松野町蕨生(わらびお)甲1番地  天満神社  
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 吉野生村在郷軍人分會
5.建立年月日: 大正14年 4月
6.石碑大きさ: 高さ1m60㎝  横幅35㎝ 

忠魂碑建立は、大正14年4月、秋山好古が北豫中学校校長に就任した年の揮毫である。
日本の歴史の時代区分は通常、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中核を呼称するもので、大正時代は(年数が大正元年〜大正15年で、期間は14年間)日本史で一番短い時代区分である。
大正時代は、文明開化から日清、日露の戦いを経て近代国家構築の真っ最中、大正12年関東大震災が発生し、世界的にも国内的にも波乱万丈の激動の時代、明治時代まで呉服屋だった三越や白木屋、大丸、高島屋といった老舗(しにせ)が、次々に「百貨店」に変身を遂げ、明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年。
その前の年には「東京六大学野球」がスタートしている。
短い大正時代にいろんな大きな出来事があった時代に建立された忠魂碑である。


石碑左側に「吉野生村在郷軍人之分會」と刻んである。
吉野生村(よしのぶむら)は、昭和30年まで愛媛県北宇和郡にあった村であり、現在の松野町の東半分を占める農山村、昭和の合併で松野町となり、現在に至っている。平成の合併はしていない。
愛媛県内で平成の大合併をしてない自治体は、この松野町と、伊予郡松前町のみである。
藩政時代、宇和島藩であったが明暦3年伊予吉田藩となり、維新以降、明治22年 12月15日、 町村制・市制施行時の吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3ヵ村の合併により吉野生村となる。昭和30年 3月31日 、 松丸町との1町1村の合併により松野町となり現在に至っている。


忠魂碑向かって右側で、大正14年4月建立とある。
秋山好古が北豫中学校校長に赴任した時である。
誰が好古に揮毫依頼したのか詮索してみたい。・・もしかして山下亀三郎の紹介かも?


石碑「忠魂碑は」天満神社拝殿前にひっそりと建っていた。
大東亜戦争前は、多分石碑辺りは草一つなく整然と手入れが行き届いていたでしょうが、現在は余りにも平和な時代になり、当時祖国の為に尊い命を亡くした英霊に対して何も感じなくなったのか?御霊が可哀相な気がした。・・この忠魂碑には当時の村民の思いが籠められていたと思うのに。
これに比べて新潟市の忠魂碑は、現在でも毎年忠魂碑の前で慰霊祭が行われている。素晴らしい心配りである。その行為が新潟市民文化遺産に認定されたのだと私は感じる。

註:新潟市の「忠魂碑」の所在地は、新潟市江南区沢海二丁目15番30号(旧新潟県中蒲原郡横越村大字沢海)の、北方文化博物館に隣接している日枝神社にあります。


北宇和郡松野町蕨生甲1番地にある 天満神社正面。
忠魂碑は、入口の右側に樹が見えるが、その後方に建っている
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋山好古揮毫石碑写真展が新... | トップ | 秋山好古揮毫石碑紀行 49... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊予松山歴史散策」カテゴリの最新記事