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松山市宮前地区を散策・伊豫の関ヶ原合戦跡

2012年09月14日 | 伊予松山歴史散策
9月11日、三津刈屋畑の激戦のあった古三津・松山市宮前公民館周辺を散策した。
慶長5年(1600)9月15日、美濃国関ヶ原村松尾・不破関で行われた天下分け目の関ヶ原の戦いがあったが、伊豫国でも同年9月15日、竹原の能島水軍、村上元吉率いる3500の兵(河野・毛利・村上水軍連合軍)が伊豫国奪回(河野氏のお家再興)の為に三津浜に上陸し、古三津字刈屋畑の民家に散宿した。

「この中に、秋山内膳正良久が居た・・もしかすると秋山好古・眞之兄弟の祖先かも??」また三原にいた因島村上水軍、村上義充も三津に来て加藤嘉明軍と戦った。
元吉は加藤嘉明が関ヶ原の戦いに東軍として出陣、嘉明の居城、松前城の明け渡しを迫ったが、その夜松前城留守役の佃十成の奇襲策戦により打ちのめされた。戦いは壮烈なもので23日まで続き、旧河野家の家臣荏原城主平岡直房も村上軍に加担し戦いは、久米郡の如来院にまで及んだ。

しかし村上軍は、加藤軍に敗退し、関ヶ原の戦いは東軍勝利との連絡が届き、村上軍は残った兵を集め竹原に退却した。・・これが伊豫の関ヶ原合戦である。
宮前公民館周辺(古三津一丁目)の個人邸内には現在も亡くなられた方々の霊を祀る塚・祠・屋敷神様があり丁重に祀られている。

註1:久米郡の如来院は、現在の松山市南久米町、日尾八幡神社の北に位置する寺。
註2:伊豫刈屋畑の戦いで、加藤嘉明留守役軍が村上元吉率いる(河野・毛利・村上水軍連合軍)に破れていたら加藤嘉明は関 ヶ原から帰ってくる城がなかったのである。
註3:加藤嘉明は、松山城築城に於いて松前城留守を護り尽した恩賞として北郭を造り屋敷を佃十成に与えた。・・これが俗に言われる「佃郭」である。

画像は、三津刈屋畑の激戦で戦死された方の霊を祀る、塚・祠・屋敷神様である。
以前は、毎年9月16日が来ると、村上一統の供養の為に各家が輪番制で、刈屋畑の惨敗を慰める「村上さん」の行事をしていたとある。
次は三津地区を散策、加藤嘉明が参勤交代時に使う御茶屋をつくり井戸を掘ったこれが現存しているので紹介します。


松山市宮前公民館横に掲示している、宮前地区の文化遺跡案内図


古三津一丁目にある村上大明神


古三津一丁目にある村上大明神の社


古三津一丁目にある村上大明神の説明板


古三津一丁目、岡田氏邸内に建立されている供養の石碑


三津刈屋畑の激戦で戦死された「加藤さん」の屋敷神社


三津刈屋畑の激戦で戦死された「長袖さん」の祠、現在も代々家長が受け継ぎお祀りしている


三津刈屋畑の激戦で戦死された「長袖さん」の供養塔


三津刈屋畑の激戦で戦死された「阿部兵庫守・橋本兵庫介」の供養塔、祠で地元では、阿部さん・橋本さんの名前で祀られている


各供養塔、祠、屋敷神には説明板が設置、見学には邸内にあるので許可が必要


古三津地区は現在も画像のような路地が沢山残っている


広島県竹原市にある村上元吉の供養塔・・建立者は松山市三津在住の能島村上水軍の末裔「村上金之典」、平成11年9月16日、元吉400回忌・・とある・平成15年5月12日私が現地撮影


広島県竹原市が設置している「村上元吉」の説明板・・平成15年5月12日私が現地撮影


村上元吉の位牌・・祭壇中央大日如来右側の位牌
広島県竹原市にある長生寺を平成15年5月12日伺い、住職の許可を得て撮影
長生寺は、伊豫国最後の守護河野通直の為に小早川隆景が創建した・・河野通直とその母の墓がある
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