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仙波 太郎陸軍中将/秋山 好古と陸軍大学第1期生同期

2010年01月19日 | 伊予松山歴史散策
仙波 太郎陸軍中将/秋山 好古と陸軍大学第1期生同期

 仙波太郎は安政二年(1855年)4月21日に、久米郡福音寺(後の愛媛県温泉郡久米村大字福音寺)に生まれ、幼名を惣太郎といった。
父は旧和気郡馬木村の庄屋田所与惣右衛門の弟で、仙波家の養子となった。
その資性は飄逸(ひょういつ)磊落(らいらく)であり、他面に謹厳(きんげん)重厚(じゅうこう)でもあって、また能書家でもあった。

仙波家は同村の庄屋であったが、太郎の幼少に家計の不如意から、家産は次第に減少した
ようである。
彼も少年時代から三津浜で魚類を買って、松山に行商したり、小野村の山奥の駄馬に行って入会林で粗朶(そだ)を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな労賃を得て家計を援けた。

ことに父が病床に臥してから、母と二人で苦労を重ねたが、この間に処しては母は貧しいなかにも太郎を激励し、その薫陶(くんとう)に全力を傾け激しい労働のかたわら、寸暇(すんか)を惜しんで南久米の三輪田塾に学び、直接米山の教えを受け明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、病床にあった父は彼を激励、意を決し上京、叔父の松田通博の学友河東坤(碧梧桐の父)の愛撫を受けた。

その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となった彼は、故郷星ノ岡に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。

同16年4月創設された陸軍大学第1期生として入学同期生に秋山好古がいた。 
其の後陸軍大学教官、ドイツ留学その時射撃術を習得帰国後射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは彼がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である・・・・・
中略・・・・・・・・・
陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、このころ「陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた福岡歩兵第24連隊長となりその後第二旅団長を経て明治43年11月30日陸軍中将・・・

中略・・・かねてから永住の地を岐阜県加納町に決定していた。
退役後夫人、矢野たまの出身地である加納町に居住した。
大正9年5月衆議院議員に当選わが国の社会教育に貢献、彼は質実剛健で正義の士あって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断と処理となし得た立派な社会人でもあった。
 
仙波太郎と久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに寄贈した。
また昭和2年(1927年)に生誕地福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建てて寄付し、村の社会教育のために努力した。
 昭和4年(1929年)没 75歳

註:陸軍大学校は明治16年参謀将校の育成と軍事研究等を主任務として創設され、第1期生は、選抜された19名が入学、その中に伊予松山から秋山好古と仙波太郎がいた。卒業できたのは10名で、主席で卒業したのは、東条英教(東条英機の父)で秋山好古は7番目、仙波太郎は3番目の成績で二人とも卒業出来た。
教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は2年であった。

参考1:陸軍士官学校の教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は4年であった。
参考2:旧伊予松山藩主、久松がフランス留学の時おつき役として依頼を受けたが「私は、藩主久松様には世話になってない、庄屋として多くの年貢を献上してお世話をした方である。よって断わる。」と言った。それで好古が行くことになった。                


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