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松山市立味生小学校訪問紀

2013年06月04日 | 伊予松山歴史散策
昨日、6月3日松山市立味生小学校を訪れた。
その理由は・・下記の通りである。

松山市立味生小学校は、温泉郡味生村に明治40年4月味生尋常小学校として現在地に創立された。大正15年に松山市と合併し松山市立味生尋常高等小学校と改称。戦後教育改革で昭和22年学校改革制度が実施され6・3制の学校体系となり、昭和22年4月に味生小学校と校名は改称され現在に至っている。
前置きが堅苦しいものとなったが、凄い事があったし、凄い物が保存されている。それは、味生小学校本館建築の必要性が生じた。その時地元出身の新田長次郎氏が資金を提供し大正13年に校舎が落成した。
落成式に、元総理大臣・清浦奎吾氏、北豫中学校長・秋山好古氏、株式会社新田社長・新田長次郎氏が臨席して式典は行われた。・・これが凄い事である。

地方の小学校校舎の落成式に元総理大臣が列席するなど例の無い事項で、大変の出来事、地元の村長をはじめ大変な気苦労があったのではと推察する。多分新田長次郎さんは、元総理というよりもわしの友人として列席するのだから別に心配するなよ・・との計らいがあったと思う。それからもう一人、幼い時からの親友、秋山好古校長も参列するからといったのだろう。
昨日はその足跡を辿りに行った。校長先生と教頭先生のご都合のいい日を前もって伺っていたのが、連絡は6月3日に来て下さいと連絡があったので参った。

いろいろ教頭先生から伺ったが、なにせ89年も昔の事で当時の資料は残っておらず、唯残っていたのが、新田長次郎氏と清浦奎吾氏の扁額と、味生小創立100周年記念誌に掲載してある落成式当時の参列者の集合記念写真であった。校長先生の許可を得て写真を撮らせて頂いた。
清浦奎吾氏と新田長次郎氏の扁額は、体育館に掲示してあり、高い場所に掲示してあり撮るのに一苦労した。体育館正面舞台向かって左に清浦奎吾氏の扁額、体育館正面舞台向かって右に新田長次郎氏の扁額があった。・・これも凄い贈物である。

註:清浦奎吾内閣は、短命の内閣であったが当時の大惨事関東大震災復興の足掛かりの基礎を創った総理大臣で、この時大蔵大臣として清浦総理を支えた松山市出身の勝田主計がいる。その後文部大臣も歴任する。


現在の松山市立味生小学校校門。


校門を入ると綺麗な花壇が出迎えてくれた。


校門横には大きな60周年記念碑が建立されている。


記念碑の横にもう一つの記念碑がある。


元総理大臣清浦奎吾氏が、大正13年落成式に参列された時に揮毫された扁額・・官位正二位、立派である。


扁額を大きくカットしてみた。


新田長次郎氏の揮毫で、温山とある。温山とは、新田長次郎氏の雅号である。


扁額を大きくカットしてみた。


校長室に掲げてある「新田長次郎氏」である。
創業者新田長次郎は、製靴用皮革製造に携わっていたが、その技術を生かした革ベルトを品評会に出展。そこで革のなめし技術が認められ、大阪紡績から動力伝動用革ベルトの製作を依頼された。それまでは、革ベルトは輸入品しかなく、高品質な国内生産品が求められていた。これに応える品質の動力伝動用革ベルト製造に日本で初めて成功したのがニッタだ。
このことがきっかけで、ニッタの紡績業界での知名度は非常に高まり、いまでも紡績用機械にはニッタの製品が使われている。当時は東洋のベルト王と称された。また現、松山大学の創設者でもある。


大正13年本館落成式に参列された皆さんと記念の写真、この原板があればそれを複写させて頂きかったが残念ながら無かった。記念誌から撮らせてもらった。


味生小学校創設100周年記念誌の表紙。


味生小学校創設100周年記念誌の一部。


大正13年に建築された本館校舎は、現在中校舎となっている。
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