台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺跡

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

「心の故郷~ある湾生の歩んできた道~」

2018-01-30 15:47:53 | ビデオ・映画紹介

林監督(クリエイティブ21)による第5作目の台湾を舞台にしたドキュメンタリー映画「心の故郷~ある湾生の歩んできた道」が完成しました。既に基隆を舞台にした「風を聴く~九物語」や「風が舞う~雨が舞う 金瓜石残照」などで日本統治時代の台湾を映画化しており、この度は4年の歳月をかけ、戦前、戦中及び戦後を通じて湾生(台湾で生まれ育ち、戦後日本に戻って来た人々)たちの生きてきた時代(戦争、敗戦、引揚、復興の時代)の湾生の心のうちに迫る大作です。

近年、とみに台湾は親日的であるといわれています。これらは湾生が一体どのようにして生まれた故郷の土地や学んだ学校、そして同じ日本人であった台湾の方々と交流を深め、互いの絆を深めていった努力のたまものであると思っています。

ナレータには台中生まれの湾生、川平朝清さん(琉球放送初代アナウンサー、沖縄放送協会会長を経て昭和女子大学名誉教授)、テーマ音楽作曲・演奏は台湾人声楽家を祖父にもつ彩愛玲さん、イラストは中国引上げ体験のある漫画家、森田拳次さんが描いております。

上映は5月19日(土)より渋谷ユーロスペースで行われます。どうぞ多くの方に観賞していただきたく思います。

なお、「心の故郷」の完成記念として、「美麗島x竪琴 -聴いて見て感じる台湾」と称してクリエイティブ21主催による彩麗玲さんによりグランドハープの演奏会が4月19日(木) Hakuju Hallにて開かれます。スクリーンには台湾の街々の映像と日本統治時代の写真が映し出され、また、「心の故郷」のダイジェスト版も公開されます。詳しくは、下記パンフレットをご参照ください。

 

 

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第2冊目の本が出版されます

2018-01-02 14:21:07 | 新刊

新年明けましておめでとうございます。

今年も宜しくお願い致します。

今年の3月末に念願の第2冊目の本が潮書房光人新社から出版されることになりました。どうぞご期待願います。

<概要>

タイトルは「台湾 日本統治時代の社会に息づいた神社(仮)」で、この中で240社の神社を紹介しております。前半は、「総督府と神社」とし、当時の社会背景を基に総督府が公認した神社68ヶ所を全て網羅しました。後半は「産業及び社会と神社」とし、樟脳、林業、水力発電、製塩、酒造、製糖、鉱山(金鉱山と石炭)、移民村(農業と漁業)、軍隊、蕃社(原住民部落)、学校、遊廓等、ありとあらゆる産業及び庶民生活に関連した神社170ヶ所を網羅しました。神社の紹介とは別に、それぞれの産業及び社会構造の歴史まで及ぶことになり、神社研究調査書とは別の意味で、面白さがあると考えています。「おわりに」では、これまで神社の調査を行ってきた段階で生じた数多くの疑問点(神社はいつまで忠烈祠として利用されていたのか、神社は誰によって、なぜ、取り壊されたのか、なぜ、近年、神社遺構の保存、修復、復元が盛んに行われているのか、なぜ、台湾にこれほど多くの遺構や遺物が残っているのか、等々)に対する私なりの回答を掲載しております。

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能高寺の手水鉢

2017-12-17 09:14:11 | 日本統治時代の遺構と遺物

2016年に埔里図書館に訪問した際、職員から館内に展示されている手水鉢を見せてもらった。説明書には、隆生橋(埔里鎮隆生路2段)の付近で発見されたものとある。この手水鉢には「大正十二年十一月吉日 佐藤善次奉納」と刻まれており、当時の能高寺(真宗本派本願寺埔里布教所)に埔里で土木業を営む佐藤善次が奉納したものであると書かれている。

能高寺は、昭和6年(1931)10月27日に霧社事件で亡くなられた殉職殉難者139人の1周年法要が行われた場所でもあった。

現在は埔里基督長老教会(埔里中山路2段)となっている。


 




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海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社

2017-11-23 17:00:14 | 高雄州

今回は神奈川大学非文字資料研究センター News Letter No.38に掲載された「台湾本島及び澎湖諸島の神社跡地等の調査」は I 調査概要、II 海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社、 III 澎湖西嶼の震洋格納庫跡と西嶼弾薬本庫跡で構成されています。この中で「海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社」に付いて寄稿しました。

 

鄭時代~清朝時代の台湾

鄭成功がオランダ人を台湾から追放し、1661年、首都を承天府(現在の台南市内に残る赤崁楼)とし、し、北に天興県、南に萬年県(現在の高雄市左営地区)を置く。同時に、前、後、左、右、中の5つの「衝鎮」を置いて衛兵を駐屯させる。「左」の衝鎮は左営と呼ばれた。その鄭成功は台湾を「反清復明(はんしんふくみん)(清に抵抗し明の復興を企てる)」の拠点とするが、間もなく病没する。その後、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて、1683年、清朝の攻撃により鄭氏政権は崩壊する。翌年、清朝は台湾府を福建省に設置、その下部に諸羅県、台湾県、鳳山県を設置する。台湾県、鳳山県が鄭時代の旧萬年県の管轄地区に相当した。

現在、左営に残る旧城の基礎は、1722年に土の城を築いたもので、1825年に再建されたものである。

1787年、旧城が林爽文事件によって破壊されたため、埤頭街(現在の高雄県鳳山市)に鳳山県新城が新たに建築され、同時に県都が移転する。そして、この新しい県都を「新城」、それまでの左営旧県都を「旧城」と呼ぶようになった。

震洋特攻隊とは

太平洋戦争末期、沖縄失陥後、米軍の日本本土上陸は時間の問題と言われた。米軍の上陸に備え、九州南海岸と四国南海岸には大量の軍隊を投入して陣地を構築した。しかしながら、米軍に対抗するうえで戦力となる航空機や戦艦はもはや十分なく、日本帝国海軍は限られた物資の中、起死回生の特攻兵器の開発に着手する。その中の1つが「金物(かなもの)」という秘匿名称を持つ新兵器であった。   

この「金物」とは、船外機付衝撃艇として研究されたが、結局、自動車エンジンを使用した木合板(ベニア板)製の滑走艇とし、ガソリンまたはエタノール・アルコールとガソリンとの混合を燃料とし、艇首部に爆薬を装設、敵艦艇に衝突するようにしたもの。後に「震洋」と呼称される。「震洋」とは、太平「洋」を「震」撼させる、という意味が有った。

台湾の震洋部隊

 台湾には、淡水(第102震洋隊、第105震洋隊)、基隆(第25震洋隊)、高雄(20震洋隊、第21震洋隊、第29震洋隊、第31震洋隊)、海口(第28震洋隊、第30震洋隊)、そして、馬公(第24震洋隊)の10震洋隊が存在した。

 高雄左営には4部隊あり、その内、3部隊は左営埤子頭(清朝鳳山県旧城内)にあった。第20、21及び29震洋隊は、昭和19年(1944)11月~12月、佐世保を出港し、11月末~翌年1月初めにかけて左営港に到着する。それぞれの隊は183から191人で構成され、53~55艇の震洋艇(緑色のペンキで塗られていたため、通称「青蛙」と呼ばれていた)を保有していた。

左営港に到着した震洋隊は、清朝時代に築かれた左営旧城の城壁に沿って舎営所を築く。震洋艇が配置された格納壕のある海岸までは約2.5kmの地点であった。舎営所は現在の「左営区西自助新村」であり、西自助新村とは、1949年、国共内戦で敗れた国民党軍人やその家族(外省人と呼ばれ、共産党との内戦に敗れた国民党と共に大陸各地から台湾に移り、定住している人々)が移り住んだ居住地の1つで、一般に眷村(けんそん)と呼ばれる。2013年3月までは、この地が震洋隊の舎営所であったことが一般には知りえなかった。仮に、想定はされていても、その閉鎖的な地域性もあり、歴史調査は行われなかったのであろう。

政府の土地区割整理に伴い、西自助新村に居住する外省人の立退きが終わり、この左營旧城に於ける清朝時代の歴史遺蹟の調査が行われ、遺蹟の掘り起こしが始まる。その過程で防空壕跡が至る所に発見され、調査が進むにつれて、この地域一帯が旧日本海軍震洋隊の舎営基地であることが判明する。防空壕跡の場所には一定の法則があった。「必ずマンゴ(芒果)またはロンガン(龍眼)樹の下」である。従って、これらの樹木の下には防空壕があった。米軍の偵察機に発見されないためである。このお陰か、この地域は米軍の爆撃を受けていない。

 他に例のない瓢箪に似たドーム型の防空壕が17ケ所見つかっている。壕内の高さは約2.1㍍あり、壁の厚さは65cm、両側に入口がある。25名程度が入れる。  

 旧城城壁に沿って、士官舎、兵舎、炊事所、倉庫、便所、車庫、燃料庫や充電所が並んでいた。また、城壁の一カ所は通路となって城壁を通して、左右の往来ができた。

高雄からの問い合わせ

 2014年2月に入り、高雄でIT関係の会社を経営する傍ら左営旧城の歴史研究を行っている廖德宗さん及び一緒に調査研究を行っている郭吉清さん(高雄市旧城文化協会顧問)から連絡が入る。「左営旧城内に日本海軍第20震洋隊(薄(すすき)部隊)の基地に神社遺跡(基壇)があり、震洋隊が左営に建立したものではないか。また、その神社遺跡傍に手水鉢が土の中に埋まっている」との内容であった。その報告と一緒に、神社参道(15段の石段)が清朝時代の城壁と共に写されていた。早速、海外神社研究会のメンバーである坂井久能特任教授に連絡を取る。坂井さんは営内神社(軍隊の施設内に建立された神社)を一貫して研究しており、その道の専門家である。

 台湾と日本からの情報交換により、次々と台湾から質問が寄せられた。

①   旧城から発見された基壇、手水鉢および参道の石段は神社のものか?

②   海外に海軍が造営した神社があるか。写真はあるか?

③   仮に、震洋隊が造営した神社であるなら、その祭神は?

④   『回想 薄 部隊:海軍第二十震洋特攻撃隊』が奈良県立図書館にあり、この中に神社の記述があるか?

震洋神社の確証

 思いがけなく、この回想録の口絵に、「震洋神社とその製作者」とのタイトルが付いた小さな祠の前で写された隊員があった。この写真は、震洋神社の存在を証明する手掛かりとなる。また。回想録には、戦後の部隊処理の記述で、「先ず震洋神社を焼く(兵舎後の城壁の上に安置してあった)」とあった。この記述より、間違いなく口絵の写真は「震洋神社」であり、現存する基壇、手水鉢や石段は「震洋神社」のものであることが証明された。

 更に、薄部隊長のご子息との連絡も取れ、平成5年(1993)発行の『薄会(第20震洋特別攻撃隊)戦友だより』に、この神社の正式名は震洋八幡神社であり、ご祭神は佐世保市の亀山八幡宮の分霊であることが判明する。また、この小冊子に神社奉焼時の写真と本殿前の鳥居も掲載されていた。

震洋神社調査

2017年2月、改めて震洋部隊舎営基地及び神社跡地の調査を行う。神社位置は写真に示す通り、城壁の上にあり、写真の通り、石段を昇ったすぐにあった。実測から基壇底辺が120x130cm、基壇上部80x94㎝、高さ68㎝と判明する。石段を昇ってすぐに鳥居があり、左側に手水鉢が配置されていたと考えられる。第20震洋隊がこの地に入ったのが昭和20年1月であるため、神社造営は同年前半頃と想定される。

 終戦と共に神社本殿は奉焼される。奉焼にあたり、本殿は基壇から分離され、近くの山すそに運ばれて奉焼されたのではないか、坂井特任教授は分析している。確かに、写真から奉焼は城壁の上ではないことが分かる。城壁の上では火の粉が飛び散り、危険であるためである。更に社殿の周りに注連縄が張り繞らされ、紙垂(しで)が付けられているので、焼く前に神道儀式として「奉焼式」が行われたことが判明する。

震洋八幡神社(『回想薄部隊)』

城壁上の基壇

城壁の一部。写真左側に石段がある

第20震洋隊舎配置図(「薄部隊 戦友だより」)

※城壁に「震洋八幡神社」と鳥居の印がある

 



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車路墘(しゃろけん)回憶(下)

2017-10-08 19:49:00 | 台南州

もっと車路墘について知りたい。歴史を繋ぐ人がいる限り、歴史は残るとの思いで、2014年4月、現在の車路墘を知る張静芬さんが日本を訪問し、前原博久さん(前原清廣さんの長男)、高井雄三さん、池田恵美さんと過去の車路墘を知る4人の初めての出会いが実現した。日本人の3人から異口同音に発せられた言葉は「今の車路墘はどうなっていますか」であった。ゆっくりと70数年前を確かめるように思い出しながら、誰とはなしに、語り始めた。3人の言葉は勝手気ままに話の順序もなく、堰を切ったように次から次と話題が交錯したので、同行した張さんの通訳は当惑したと思われる。しかし、来日した張さんは、昔の車路墘が真に現在の場所に生きていることを実感して、「私達は虎山と車路墘を守ってゆきます」と決意を語り、ここに車路墘を知る新しい4人の仲間が誕生した。

 この後、徐々にではあるが車路墘について分かってきた。この地はかつて「虎山」とも呼ばれた。清朝時代の正式な地名は牛稠仔で、現在の成功村である。この地から新石器時代の石器や陶器が見つかっているので、紀元前数千年前から大きな集落が形成されていたことが窺える。丁度、車路墘製糖の北側一帯といった方が分かりやすい。

 製糖会社入口左の坂を多少し上ると左側に、昭和9(1934)年5月27日に建立された阿弥陀仏亭がある。入口には一対の唐獅子が安置されており、石座には奉納者12人の名前が刻まれている。阿弥陀仏亭が何故に建立されたのかは明らかではないが、一人の女性が身を以って爆弾の破裂から工場を救ったとの言い伝えが残っている。

 一方、虎山神社は昭和8(1933)年6月7日、当時の製糖所所長糸井益雄の発案で、製糖工場の発展と従業員の健康を願い、職員及び工員の浄財によって虎山の高台購買部付近に造営された。現在の進修館一帯である。糸井氏は神紋の作成や鎮座祭執行に関わる全ての行事を取り仕切ったとのことで、神社の例祭には大人に交じって子供達もお神輿担ぎに駆り出され、終日賑わったらしい。

2003年7月、廃業となった仁徳糖廠は、その事務所だけを残し、外は全て倉庫太鼓を中心とする十鼓撃楽団の演奏練習場に貸出された。その後、演奏練習場は十鼓文創園区となり、創園区を経営する張靜芬さんご夫妻の熱意により、新たに太鼓を交えた音楽のテーマパーク「十鼓仁糖文創園区」として、国際芸術村に変身した。また、製糖工場の製糖工程を知ってもらうために、製造ラインや倉庫の部分に修理が施され、現在はスタッフ30人で運営されている。その後2012年に入り、「旧製糖工場保存運動」や「加油!男孩(少年頑張れ!)」の撮影ロケで仁徳糖廠が使用され、その知名度が上がり、旧仁徳糖廠が保存されることになった。現在、一日3部、4セットの演目、7人編成の鼓楽が毎日上演されている。台湾の古都と言われた台南市に響き渡る太鼓の音で、今日も台湾文化の伝承が続けられている。

十鼓文創園区は、仁徳糖廠からその施設と場所を賃借しているので経営は楽ではないが、車路墘を知る人達のために、そしてまた新しい文化創世発祥の地としての知名度を高めるために、30人のスタッフ全員が日々で一生懸命頑張っているとのことであった。

 

阿弥陀仏亭   

虎山神社跡地

川畑キサ子先生とのお別れ時の集合写真(虎山神社前で)提供:高井雄三




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