台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

第2回 「台湾の神社と歴史を巡るツアー」

2019-04-27 06:59:23 | 産経新聞 台湾神社ツアー

4/21~4/23まで、基隆から桃園、新竹および苗栗の神社跡地を巡ってきました。今回は21名の参加があり、益々「神社ツアー」に対する関心が高まってきたことを喜んでおります。桃園神社では、桃園市政府の特別のご配慮により当時の社務所が修復中にも関わらず、拝観を許可して頂きました。また、新竹神社は、現在の跡地である収容所が昨年の10月に閉所となっておりました。今後、新たに公園として再利用されるとのことですが、そうなると残された建物(社務所、神楽殿、絵馬殿)がそのまま利用される可能性は少ないと思われます。

なお、次回は7/中~末を予定しており、台中市を中心に中部を巡る予定です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後藤新平のデスマスク 新聞掲載の紹介

2019-04-16 17:47:22 | 鎮南山臨済護国禅寺

この度の記事に関しまして、数多くのメデアで取り上げて頂き、大変ありがたく思っております。また、数多くのお問い合わせも頂き、改めて後藤新平のデスマスクの存在を公表できて嬉しく思います。引き続き、調査不足の面を補うべく、進めていくつもりです。

下記に、読売新聞 4/11夕刊、胆江日日新聞 4/11および毎日新聞(東京版) 4/12の記事を掲載いたしますので、ご一読願います。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮南山臨済護国禅寺(下)~後藤新平とデスマスクの謎

2019-04-13 21:14:06 | 鎮南山臨済護国禅寺

昭和4(1929)年4月3日、後藤新平伯爵は日本性病予防協会総会及び岡山県支部発会式に総裁として講演のため東京発夜行列車に乗り、岡山に向かった。翌朝の午前7時過ぎ、醒ヶ井駅付近を走行中、着替えを終えた後藤は、講演原稿の見直しをしていた時、突然原稿を取り落として、ゆらゆらと泳ぐように倒れた。

同行していた小野法順秘書は、同車にたまたま乗り合わせていた財部彪海軍大臣に急報。財部海相は車掌を呼び、「私は財部だが、米原に着いたらすぐに大津の赤十字分院に電話をかけさせ、いま国家の重臣が列車内で倒れたから責任のある医師を乗車させるように伝え給え。次に京都駅長を呼び出し、これも同様国家の重臣がいま倒れたことをすぐ府知事と市長に伝え、入院の手配をするように言ってくれ給え」と指示を出した。

列車は8時47分に京都駅に到着した。小野秘書らは後藤を抱きかかえてコンパートメントから運び出そうとするが、その時昏々としていた後藤は突然口を開き「岡山、岡山」と叫びながら、左手であたりの物を掴んで降車を拒んだ。狭い廊下から車外に搬出することも困難だったので、後藤は窓から車外に移され、担架で京都駅貴賓室に運ばれた。

応急手当を施された後藤は、京都府立医科大学付属病院に入院となった。当分の間、絶対安静を要するが、目下のところ心配はないとのこと。しかし、高齢であり、初めての脳溢血でないため憂慮された。一時快方に向かうが、恐れていた嘔吐や吃逆(ヒャクリ)があり、更に栄養の摂取量が少ないため、衰弱が激しくなった。

13日午前3時過ぎ、後藤は危篤状態に陥り、午前5時30分に逝去した。享年73。戒名は臨済宗妙心寺派管長香月徹宗より「天真院殿祥山棲霞大居士」が授けられた。

また、特旨をもって正二位勲一等に叙された。

ところで、当時の新聞報道によると、家族の希望で故人のデスマスクをとることになったとある。後藤の臨終直後の午前6時、上野製作所(注①)の荒谷技師が病室に入り、作業が開始された。そして、石膏の型から3つのデスマスクが製作されたようで、4月15日発行の『神戸新聞』夕刊にはその写真が掲載されている。

ここに2つの疑問が生じた。

1 デスマスクの製作を希望したのは家族の誰なのか? あるいは、外部からの希望が働いていたのか?

2 3つのデスマスクは現在どこにあるのか?

1については判明できていない。

2について、1つのデスマスクは発見できている。

台北市を走るMRT淡水信義線圓山駅を降りると、臨済宗妙心寺派の寺、台北市の「市指定古蹟」に指定されている鎮南山臨済護国禅寺がある。明治45(1912)年に建てられた本堂は2008年に建て替えられたが、日本統治時代の優雅さを今も保っている。この寺は第4代総督児玉源太郎の開基(寺院を創立した人)であり、民政長官後藤新平とも縁が深い。社務所横に彌陀殿があり、その2階は藏經樓となっている。ここに後藤のデスマスク1つが保管されているのだ。

2006年11月、私は初めてこの建物に足を踏み入れた。すると、夥しい位牌の中にひときわ大きな黒塗りの厨子があり、その中に小さめな顔に自慢の口髭と顎髭をのばしたデスマスクがあった。デスマスクを製作すると、顔全体がいくぶん小さくなるようである。

左右の扉には左記のように書かれていた。

 

〈扉右〉

昭和四年四月十三日於于京都府立病院逝去

天真院殿祥山棲霞大居士 霊位

伯爵 後藤新平閣下像

〈扉左〉

献納 辜顕栄

 

この厨子を献納したのは辜顕栄だった。辜は日本の台湾統治に積極的に関与し、後藤新平から絶大な信任を得ていた。その関係で、辜は樟脳の製造・販売から塩田開発、アヘン、タバコ販売などの特権を台湾総督府から与えられて巨富を築いた。大正12(1923)年には勲三等に叙せられ、昭和9(1934)年7月に貴族院議員に勅選された最初で唯一の台湾人であった。後藤との交友は深く、大正12年に辜が所有する大和製糖の明治製糖による合併、官塩売捌総館の資格取消や債務問題の解消にあたって後藤にその協力や援助を仰いでいた。それだけ、辜は後藤に頼るところが大きかった。 

後藤が脳溢血で京都の病院に入院した一報は辜顕栄にも入った。辜は4月9日に近海郵船の大和丸で基隆を出発し、12日に京都に着いた。息子一蔵の了解を得て、後藤と面会を果たしたが、後藤は既に意識不明の危篤状態にあった。

デスマスクをとることを決めたのは家族か、それとも辜顕栄であったのか、さらには別の発案者がいたのか。時間的に考えて、少なくとも辜顕栄が発案したものではなさそうだ。

さらに、デスマスクを納めた厨子がなぜ鎮南山臨済護国禅寺にあるのかが長年の疑問であった。『台湾日日新報』昭和5年4月12日に「故後藤伯 一周忌」と題して、4月13日に財団法人台湾婦人慈善会(注②)が主催者となって臨済護国禅寺で法要が執り行われることになったとあり、「同寺には昨年伯が東京府立大学病院で薨去の際取ったデスマスク(死面)が辜顕栄氏の寄贈によって安置されてある」とある。

残る2つのデスマスクの所在は明らかになっていない。だが、確実に3つのデスマスクのうちの1つは献納者として辜顕栄が名乗り出たのであろう。デスマスクは海を渡り台湾に運ばれたことの裏づけができた。

《注》

①上野製作所の所在地は、当時の報道で「京都市東山松原下ル」、電話帳で「京都市東山松原角」。現在の東山区役所(京都市東山区清水五丁目一三〇番地の六)の北東に位置する。業種は理化学機器・標本となっている。

②後藤新平の夫人によって設立された。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後藤新平のデスマスク

2019-04-13 08:39:30 | 鎮南山臨済護国禅寺

皆様に約束しておりました「発表」を4/11に行うことが出来ました。ニッポンドットコム(nippon.com)を初めとして読売新聞夕刊、毎日新聞、胆江日日新報、岩手日報や各種メディアなどで取り扱っていただきました。特に、ニッポンドットコムの繁体字版では大変な反響があり、多くの読者に読んでいただきました。90年前の今日に亡くなった後藤新平を改めて皆様に知って頂きたく思います。

なお、来週早々には所属する一般財団法人 台湾協会の会報でも「後藤新平とデスマスクの謎」として取り上げておりますので、別途このブログに掲載しますので、ご期待ください。

 <ニッポンドットコム(nippon.com)掲載内容>

後藤新平のデスマスク、台湾で発見!

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00672/

後藤新平的面部遺像在臺灣發現!

https://www.nippon.com/hk/japan-topics/g00672/

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする