台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏

2019-03-17 10:39:25 | 台湾協会

今月号の台湾協会報では前回の「鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔」に続いて、「鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏」を 掲載しております。来月号は「鎮南山臨済護国禅寺(下)」として非常に注目に値する記事を掲載しますのでご期待ください。

ー本文ー 

前月号で紹介した鎮南山臨済護国禅寺裏手の萬霊塔前の広場に、9体の石仏が並んでいる。これらの一部は大正14年(1925)4月14日(旧暦3月21日)の弘法大師の忌日に、台北市在住の真言宗高野山弘法寺(現在の西門町にある天后宮)の信徒である鎌野芳松、平尾伊三郎、大神久吉、二宮實太郎及び尾崎彌三郎の五人の発起により、四国にある弘法大師ゆかりの88ヶ所の寺院巡礼に真似て、台北市を中心とした「台北新四国八十八ヶ所霊場」が新設されたことに由来する。この88ヶ所巡礼場の発願文には、「冀クハ大師ノ慰霊長ヘニ此霊場ニ影向(注①)シ、我等同胞ノ幸福ト新領土ノ隆昌ヲ護持シ給ハンコトヲ」云々とある。

88ヶ所巡礼場が新設された大正14年は台湾始政30周年記念の年に当たる。この2年前には関東大震災が発生していることから、悲惨から立直り、希望と繁栄を仏に求める気持ちがあったのであろう。 

この日、第1番札所となった弘法寺で、新霊場に奉安する88体の仏像開眼供養が行われた。新設された霊場は次のとおりである。

 

《台北新四国八十八ヶ所霊場》

第1番 弘法寺

第2番 天台宗台北布教所

第3番 艋舺(豊川)稲荷

第4~5番 新富町不動尊

第6番 曹洞宗台北別院

第7番 大正街公園

第8~10番 三板橋墓地

第11~14番 臨済護国禅寺

第15~18番 浄土宗布教所

第19~35番 芝山巖

第36~44番 士林より草山までの道路道筋

第45~61番 草山より竹子湖までの道路道筋

第62~71番 草山より北投までの道路道筋

第72~80番 北投星の湯佐野の山付近 

第81~87番 北投より大師山 

第88番 北投鉄道院

 

この台北新四国八十八ヶ所霊場で、第11~14番霊場は鎮南山臨済護国禅寺となり、4体の石仏(11番 藤井寺 薬師如来、12番 燒山寺 虚空蔵菩薩、13番 大日寺 十一面観世音菩薩、14番 常楽寺 弥勒菩薩)は護国禅寺に隣接した圓山公園(現在の花博公園)の陸軍墓地(注②)から護国禅寺にいたる道端に安置されていたようである。従って、護国禅寺(本尊は釈迦牟尼仏)から陸軍墓地までは短い巡礼の行程の一部であり、戦後、これらの石仏は萬霊塔前の広場に移設されたのであろう。

しかし、萬霊塔前の石仏を観察すると、14番常楽寺の弥勒菩薩がない。一方で、浄土宗布教所(注③)にあった16番(観音寺 千手観世音菩薩)と18番(恩山寺 薬師如来) 、北投星の湯佐野の山付近にあった75番(善通寺 薬師如来)、 78番(郷照寺 阿弥陀如来) 、79番(高照院天皇寺 十一面観世音菩薩)と80番(國分寺 十一面千手観世音菩薩)の6体の石仏を見ることが出来る。これらは戦後、まとめてこの地に集約されたのであろう。

 この台北新四国八十八ヶ所霊場とは別に、1997年5月に岐阜県の臨済宗妙心寺派永昌寺住職であった東海亮道和尚の発起によって、「台湾三十三観音霊場」が開創された。これらは台湾西部(台北市、新北市、基隆市、新竹市、台中市、南投県、台南市、高雄市、屏東県)に点在する観音霊場で、33ヶ所をめぐる巡礼行の札所である。日本統治時代の大正4年(1915)から敗戦で台湾を引揚げるまで臨済宗の布教につとめ、台湾各地に寺院を創建した東海宜誠和尚と縁のあった寺が選ばれた。

2001年4月、台湾三十三観音霊場の結願霊場となった高雄市阿蓮区の光徳寺で37体の開眼法要が行われ、札所となった寺には彫刻家亀谷政代司(注④)による小さなブロンズの観音像「孝養観音」が安置された。なお、この台湾三十三観音霊場での第1番札所は鎮南山臨済護国禅寺であった。

一般の旅行ガイドブックには、「台北新四国八十八ヶ所」に安置された石仏と「台湾三十三観音霊場」に安置されたブロンズの観音像とが区別されずに紹介されていることもあるので注意していただきたい。

 

《注》

①影向とは、仏が仮の姿をとって現れること。

②明治28年(1895)の台湾割譲で、北白川宮能久親王率いる近衛師団が台湾平定に当たったが、多くの戦病死者を出すこととなり、その遺骸は台湾各地に埋葬された。第4代台湾総督児玉源太郎の発案で、これらを圓山公園に集め、明治34年(1901)11月に竣工したのが陸軍合葬墓地である。戦後、納骨堂や合葬墓標は取り壊されて、現在はその痕跡を残すものはない。

③布教所は初め北門街に設けられたが、明治40年(1907)に陸軍墓地北側の忠魂堂内に移転。建物の老朽化のため、さらに昭和4年(1929)に樺山町(現在の中正区)に移転。戦後は善導寺と改称され、現在に至っている。

④瀬戸市名誉市民だった長江録彌に弟子入りし、その縁で瀬戸にアトリエを構える。1981年に日彫展で日彫賞を受賞、1985年に日展で特選を受賞、若い頃からその作品は高い評価を得る。その後、日展や日彫展の審査員を務め、愛知県芸術文化選奨を受賞するなど、日本を代表する彫刻家。

第13番 大日寺 十一面観世音菩薩

 

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鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔 

2019-02-21 19:43:33 | 台湾協会

今月の台湾協会報に3回にわたり「鎮南山臨済護国禅寺」にまつわる記事を掲載いたします。最初は『鎮南山臨済護国禅寺(上)~児玉源太郎と髪塔』です。なお、来月は『鎮南山臨済護国禅寺(中)~台北新四国八十八ヶ所霊場と石仏』です。ご期待ください。

 MRT圓山駅を降りると臨済宗妙心寺派で、台北市の「市指定古蹟」に指定されている鎮南山臨済護国禅寺がある。2008年に建て替えられたが、そもそもは明治45(1912)年、設計は阿部権蔵が行い、高石組によって建立された。その木造入母屋造り様式には日本の伽藍建築を継承し、宋の禅寺様式を模している。鎮南山臨済護国禅寺と呼ばれた「鎮南山」とは、第4代台湾総督児玉源太郎が『鎮南山縁起』と題して詠んだ七言絶句「不是人間百尺臺 禪關僅傍碧山開 一聲幽磬何清絕 萬里鎮南呼快哉」に由来した。    

 明治32年12月、臨済宗妙心寺派は大阪府堺市龍興山南宗寺高僧であった梅山玄秀を派遣する。梅山は10人の雲水僧侶(修行僧)を引率して渡台し、当時の剣潭寺東房(持仏堂の一室、家事、食堂、接客及び諸寮の一室)を借り、持仏堂には奉持した観世音尊像を安置した。仏教の教えに深く帰依していた児玉は、内地人の坊さんがいるというので、ある日横澤秘書官を連れて訪ねてみると、粗衣粗飯から室のありさま、見るに忍びぬ惨澹たるものであった。そして玄秀和尚に「之は酷い。どうだ和尚、金が要れば遣さう。一箇月いくらあったよいか」に対して「一笠雙鞋の雲水托鉢の身には椀一個あれば沢山だ。謂れなくして喜捨を受ける訳に参らぬ」と答える。こんな禅問答が行われ、僅かな浄財を受けることで玄秀和尚は納得したという。この時から児玉と玄秀和尚の親密な関係が始まり、お互いウマが合うようになったのであろう。  

 自身が臨済宗信徒であった児玉は、ある日「どうだ寺を建てないか。俺が一肌脱いでやる」と言い出したが、和尚は「恥じるらくは島人に未だ一人の帰依者もない、玄秀薄福未だ閣下の誠意を享くるに堪えない」と断った。児玉には仏教の教えにより人心の安定を図るとともに、将来的には清国南部方面にも布教を進めようとする意図があった。その為の精舎の建立であった。そして台湾の富豪である林本源家から伽藍建立敷地として、圓山公園の西側に広大な土地が永代寄贈されるよう働きかけた。明治33年6月、精舎の建設が起工し、7月に当時の台北県山仔脚庄三八番地に、粗末ではあるが「圓山精舎」が完成した。玄秀和尚及びその門下はそれまでの剣潭寺からこの地に新しい布教の拠点として移居した。この時、第一の賓客として児玉源太郎が招かれ、落成の宴が催された。陶然と心地よい機嫌になったときに詠んだのが前述の詩である。そして同年11月に鎮南山臨済護国禅寺の公称許可を得て、清国福州に出張所を設けて布教が始まった。

 児玉は明治39年まで台湾総督を務めるが、明治33年に台湾総督のまま伊藤内閣で陸軍大臣を兼任した。そして日露戦争では満州軍総参謀長を務める。明治37年、陸軍大将に昇進した児玉は翌年12月29日に日露戦争の終結により台湾に凱旋した。翌年の元旦に台湾神社を参拝したのち、児玉は臨済護国禅寺を訪問し、長い間計画していた堂宇(伽藍)建立を梅山玄秀師に提案した。

 しかしながら、児玉は明治39年7月24日に東京で死去したため、梅山玄秀師は最大の理解者を失い、それまでの計画が水泡に帰してしまった。同年7月28日には盛大な追悼会が臨済護国禅寺で執り行われた。また、9月9日の忌明には大法要が行われ、この時、梅山玄秀師は改めて児玉大将の意思を継ぎ、臨済寺の再建に取り組む決意を示した。明治41年、第3回忌法要も終わり、荒井泰治と賀田金三郎の寄進により、工費3600円で楼門が出来上がり、庫裡(寺務所)書院は工費1万円余りで着手され、明治42年には本堂が2万余円で着手された。これに伴い、逓信大臣後藤新平(前台湾総督府民政長官)から多額の寄付があり、児玉家からも遺品が寄贈された。そして明治44年、本堂(大雄宝殿)が落成し、翌年の6月20日に入仏式が執り行われた。 

 臨済護国禅寺の後方の高台に萬霊塔がある。その萬霊塔前の広場に3つの碑がある。萬霊塔に向かって左には、2代目住職以降7人の歴代和尚(融邦大和尚、大耕大和尚、策堂大和尚、亮郷大和尚、朴山大和尚、鈍外大和尚、乾嶺大和尚)の名前が書かれた聯芳塔がある。中央には、この臨済護国禅寺を開山した梅山玄秀「開山得菴秀大和尚」の碑がある。右側には、鎮南山臨済護国禅寺の開基である児玉源太郎の碑があり、表側には戒名「開基大觀院殿藤園玄機大居士」、裏側には「明治卅九□七月□四日薨去 前台灣總督陸軍大將 伯爵兒玉源太郎藤園髮塔」と刻まれている。藤園とは児玉源太郎の号である。これらの碑がいつ建立されたかは不明であるが、聯芳塔の台座に「昭和十□年□月□日 □□乾嶺 樹之」の文字を見ることが出来る。乾嶺大和尚(高林玄宝)の在職期間が昭和7(1932)年4月~14年9月までなので、その期間中に建立されたことは間違いないが、これらの碑の由来を示す資料は見つかっていない。ましてや遺髮を埋葬したと考えられる髮塔が建立されたことすら、当時の報道には見当たらない。

萬霊塔前に並ぶ碑。右端が児玉源太郎藤園髮塔

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嘉義農林「KANO」と花蓮港農業補習学校「NOKO」

2015-01-06 08:31:16 | 台湾協会

新年明けましておめでとう御座います。今年も宜しくお願いいたします。 

今年春には、「台湾 旧神社故地への旅案内」というタイトルで出版されます。是非ご期待下さい。

さて、今年の最初のブログは、1/24から公開される「KANO」です。この内容は、昨年の「な~るほど・ザ・台湾」に掲載された内容の一部を加筆したものです。「KANO」の原点は「NOKA」です。この辺の事情も知って映画を鑑賞すると面白いと思います。

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2008年8月、朝日新聞に「77年前、甲子園準優勝の台湾チーム 後輩ら監督を墓参」の見出しで掲載された。この時、77年前の夏、海を越えて甲子園に出場し、準優勝した台湾の嘉義農林(現嘉義大学)のOBら42名が、「KANO」と胸にあしらったユニフォームで監督の近藤兵太郎のお墓参りに松山市を訪問したとの内容である。この時、それまで行方が分からなかった記念盾の復刻盾が墓前に報告された。

 花蓮港に誕生した「能高団」

 タロコ討伐が終わり、花蓮港の治安が一段落した大正9(1920)年9月、台湾総督府警視から警務局理蕃課長を経て、花蓮港庁長になった江口良三郎がいる。理蕃政策、港湾建設の推進など花蓮港のインフラ整備に努める。今なお、同氏の功績を讃えて建立された頌徳碑が花蓮港の江口公園にある。

 武力で鎮圧した理蕃政策の結果、原住民のエネルギッシュな感情や鬱憤の捌け口として、野球を推奨したのが江口庁長であった。原住民の大部分を占めるアミ族の運動神経が天才的に優れていることを見抜き、大正12(1923)年9月、アミ族少年達で編成されていた原住民野球チーム全員を花蓮港農業補習学校に入学させ、「能高団」と称する野球チームを設立させた。「能高団」とは花蓮港市街に聳え立つ能高山(3262㍍)に由来する。選手の育成と訓練に当たったのは東台湾新報の梅野清太と門場経佑監督。実戦の感覚を養い、訓練の成果を試すために台湾の各地へ試合に出かける。全島遠征を好成績で終えた「能高団」に対して、江口庁長は内地遠征を門場監督に打診する。「これなら十分自信があります」との門場監督の発言に、江口庁長は早速内地遠征を決断する。

「NOKO」の4文字を胸にあしらったユニフォームを身に付けた「能高団」。大正14(1925)年7月11日~25日まで8試合を行う。初戦は名門早稲田中学で、引分に終わる。最終な成績は3勝4負1引分の大健闘をなす。確実に野球を通じて内地に「台湾、原住民」を知らしめた。

 嘉義農林との結びつき

 「能高団」の凱旋後、これまでの内地の野球センスを遥かに卓越した能力を持つ「能高団」に対して内地の平安中学からスカウトがかかってきた。4人の有望な選手を失うと共に、大正15(1926)年、「能高団」生みの親である江口庁長が亡くなり、「能高団」も自然消滅となった。

 一方、「能高団」で実力が認められたことにより、東台湾には「馬武窟団」、「加路蘭団」などの原住民による少年野球チームが出来ていた。残念ながら、東台湾には中学校がなかったので、ひと山越えた嘉義農林に集まり、そこで開花したのである。

 近藤兵太郎との出会い

大正8(1919)年、開校した嘉義農林学校。生徒に対して武道とスポーツを通して、強靭な身体と精神を鍛えることを求め、多くのスポーツ部が創部され、大正17(1928)年4月に野球部が出来る。創部されたメンバーはアミ族とピューマ族の原住民、漢民族そして日本人よりなる混成チームであった。台中商業との初戦では13対0で大敗するが、当時の校長樋口孝はこの混成チームに無限の可能性を見出していた。そして樋口校長は嘉義商工専修学校に勤務する近藤兵太郎を非常勤の野球部コーチとして招聘する。

コーチとして就任した近藤は東台湾から野球に憧れて入学した勇猛で俊敏な原住民を積極的にスカウトする。松山商業時代、第一高等学(旧制一高)野球部の名サード杉浦忠雄から「日本最高レベルだった一高式の『武士道精神野球』」をたたき込まれた近藤は、人種の差別なく、松商を野球有名校まで育て上げたと同じように精神面および技術面での徹底した訓練を行った。

日ごとに練習の成果が現れ、逞しくなった嘉農。昭和3~5年までの嘉義地方大会や全島中学校野球大会で好成績を残す。そして、そして甲子園出場の夢を賭けた昭和6(1931)年7月、第9回全島中学校野球大会で優勝する。そして、その年の大阪朝日新聞主催の全国中等学校野球大会に台湾代表とし出場。決勝戦で惜しくも0対4で敗れる。

「実際は熱と力のみで戦ったのだ。試合振りは全く私の目的通りでコーチ以上に戦ってくれた。私としては一点の批評を加える余地もない。私はただ大きく大きく育てる方針でやって来たのが全国的に驚異の目で見られた移植を帯びる原因となったのである」と試合を振り返り、コメントする。

その後も「KANO」は甲子園に4度出場し、甲子園の顔となるまで大きく成長する。その陰には「コンピョウさん」と慕われた近藤兵太郎がいた。「なせばなる、なさねばならぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり」と、上杉鷹山(ようざん)の歌を言い聞かせて「精神野球」を教え込んだと云う。(注4)

戦局の悪化により、野球部は解散し、近藤も嘉農を去る。戦後、松山に引き揚げ、私立女子高校の会計主任として勤務する一方、新田高校野球部のコーチ・監督を務める。昭和35(1960)年に愛媛大学を指導したのが最後である。昭和41(1966)年5月19日、77歳の人生に終止符を打つ。辞世の歌は「球を逐(お)ひつ 球に逐はれつ たまの世を 終りて永久(とわ)に 霊石(たまいし)の下」。戒名は自らしたためた「球道院兵明自覚居士」。人生全てを野球に生きた近藤兵太郎であった。

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海軍水上特攻隊~震洋(しんよう)部隊 (下)

2014-10-16 06:24:34 | 台湾協会

 最終回です。台湾協会の会報には掲載されていない写真も追加しますのでご覧ください。

台湾海峡にむけた格納壕

 高雄市南西の海岸線に位置する寿山がある。この寿山の南側から海岸線を走る柴山大路を北上する。途中、若者の集まる「海角珈琲」から台湾海峡の波打ち際を1㎞、約40分かけて進むと寿山の岸壁に掘られた第29部隊(永井部隊)の格納壕が2ヶ所ある。左営から直線距離で約3㎞であろう。これらの格納壕内部のトンネルは寿山に向かって250㍍ほど深く伸びていたようある。回想録によると、「震洋艇が泛水する際には、寿山の洞窟からも震洋艇をトロッコに載せ、海岸まで運んだ」や「標高80メートルくらいの山麓には、八方に隧道が掘りめぐらされており、震洋艇では四ケ部隊200隻が出陣待機していたのである」と言う。現在は、土石で埋まっており、壕内の35~50㍍の所で行き止まりである。壕入口には、艇を出し入れする古ぼけたレールが無造作に放り出されている。

 この先は、柴山軍治管理区となっており、一般人は立ち入り禁止である。第20、21、そして31隊の格納壕の場所がこの管理区にあり、未だに残って

いるのであろう。

 

忠軍士碑

 調査が進むにつれて、この地で亡くなった隊員を慰霊したと思われる場所があったことも判明してきた。これは、「西自助新村」の一角に以前「忠軍士碑」があり、そこに住む住人が深夜不思議な足音や揺れを感じ、悩まされていた。そこで、お寺の住職に供養をしてもらった。住職によると、9名の日本軍人および3名の台湾兵の遺骨が埋葬されているとのことで、供養後、ピタリと不思議な現象は消えたようである。その後、その住人は「忠軍士碑」を建て、弔ったとのことである。現在、この一角までも更地になっている。

回想録では、「台湾海峡での訓練は川棚訓練所で座学と実体体験とは異なり、要港から大海に出た瞬間の浪は荒く、鏡のような大村湾とはその比どころではなかった。時に波浪を浴びながら、うねりの高い時には、先方の艇を見失うくらいのことは廔々であった」とある。昭和20(1945)年6月10日、夜間訓練の際、震洋艇のエンジン故障で転覆撃沈事故が発生したとある。この時の戦死者は第二艇隊長含む7名であった。起きるべくして起きた悲劇かもしれない。

 「忠軍士碑」の存在は、この事故と符合するのかもしれない。

 

戦後

 最後まで、「出撃命令」が下らなかった震洋部隊。終戦と共に、震洋艇は解体焼却され、一部は海中に沈められた。そして、震洋部隊は高雄海兵団に集結され、中華民国の捕虜となる。昭和30(1955)年頃までは、日本に帰る船がないため、帰ることもできないと言われ、自活のため台湾中部の竹山や新港で竹材・木材の搬出業務や野菜の作り従事する隊員もいた。

 「マンゴの林の中で日本の再建と自分自身の再建を誓って、それぞれの故郷に別れ別れに散って行って以来、20数年の歳月が過ぎた」昭和42(1967)年5月27日、旧川棚訓練所跡に特攻殉国の碑が建立され、薄部隊からも7柱の英霊が合祠されたとのこと。

平成9(1997)年10月、半世紀ぶりに元薄部隊の隊員が高雄を訪問している。亡くなった戦友の供養と旧薄部隊の宿営地を訪問した写真が、回想録に掲載されている。

 

現在、旧城文化協会と高雄市と協議の結果、旧左営城の遺構取り壊しの一時中止が決まった。今後、廖徳宗さんおよび郭吉清さんは高雄市政府文化局に対して史跡保存の申請を行うとのことである。

格納庫が作られた海岸

第1格納庫

第2格納庫

 

 

 

 

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海軍水上特攻隊~震洋(しんよう)部隊 (中)

2014-09-27 07:18:00 | 台湾協会

第2回目です。台湾協会の会報には掲載されていない写真も追加しますのでご覧ください。なお、次回は「格納庫」を紹介します。

防空壕の発見

 台湾新幹線の南の最終駅「左営(さえい)」。この地は清朝時代の左営城であり、鳳山に県都が移転するまでの古都であった。それゆえ、左営旧城と呼ばれる。現在、この地で震洋部隊の舎営所の発掘調査が進行している。発掘対象となった場所は「西自助新村」と呼ばれる場所で、日本統治時代の左営埤子頭である。「西自助新村」とは、一九四九年、国共内戦で敗れた国民党軍人が移り住んだ居住地の一つであった。

昨年、政府の土地区割整理に伴い、「西自助新村(高雄市左営区)」の住宅の撤去作業中、まず清朝時代の遺跡が掘り起こされた。途中、防空壕が至る所に発見され、研究家の調査するところとなり、震洋部隊の宿営地であることが判明した。調査の段階で、防空壕の場所は一定の条件(必ずマンゴ(芒果)またはロンガン(龍眼)樹の下)に従ってあることが分った。また、宿営地の各施設も同じ条件を取ったようである。これは、米軍の偵察機から発見されないためである。この故か、この地域は米軍の爆撃を受けていない。

 この条件に沿った調査で、他には例のない瓢箪(ひょうたん)に似たドーム型の防空壕が十七個所見つかっている。壕の長さ八㍍、壕内の高さ約二・一㍍、壕の厚さ六十五㌢。両側に入口があり、二十五名程度がゆったり入れる。

 

営内神社

 今年の二月に入り、台湾の友人の紹介で一通のメールが廖徳宗さんから入った。

 廖さんは、高雄のIT関係の会社を経営する傍ら、郭吉清さん(高雄市旧城文化協会顧問)と一緒に左営旧城の歴史研究を行っている。メールの内容によると左営旧城内の日本海軍第二〇震洋部隊・薄(すすき)部隊の基地に神社遺跡らしい基壇があり、震洋部隊が左営旧城に造営したものではないかとの問い合わせであった。遺跡のそばに埋もれた手水鉢と石段が清朝時代の城壁と共に紹介されていた。同時に、「回想 薄 部隊:海軍第二十震洋特攻撃隊」が奈良県立図書情報館にあるとの連絡がもたらされた。 

 早速、海外神社研究会のメンバーであり、神奈川大学坂井久能特任教授に連絡を取った。坂井さんは営内神社(軍隊の施設内に建立された神社)を一貫して研究しており、その道の専門家である。また、情報のあった回想録を入手すべく、奈良県立図書情報館に複写依頼を行った。

 この回想録は薄会のメンバーによって書かれたもので、平成十三年三月発行された。唯一、一般の図書館では同図書館にのみ残る貴重な資料である。幸運と云うべきか、この回想録の口絵に「震洋神社とその製作者」とのタイトルが付いた小さな祠の前で写された隊員五名の写真があった。この写真は、震洋神社の存在を証明する大きな手掛かりとなった。また。回想録には、戦後の部隊処理で、「先ず震洋神社を焼く(兵舎跡の城壁の上に安置してあった)」との記述があった。このことにより、間違いなく口絵の写真は左営旧城に造営された「震洋神社」であり、現存する基壇、手水鉢や石段は「震洋神社」のものであることが証明された。

 こうして、震洋部隊の存在が少しずつ明らかになってきた。また、過去の調査資料により、旧城城壁に沿って、士官舎、兵舎、炊事所、倉庫、便所、車庫、燃料庫や充電所等が配置されたことも判明した。また、この地が更地になったことにより、城壁の一カ所は通路となって城壁を通して、左右の往来ができたことも分かってきた。

 

清朝時代の城壁                         震洋神社への石段

   

本殿の基壇                           手水鉢

 

防空壕                              今回、ご案内を頂いた廖徳宗さんおよび郭吉清さんらとともに

 

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