台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台東廳 (新港郡新港街) 恵美須祠

2010-08-27 22:35:42 | 台東廳

神社が造営された場所

この神社の存在は余り知られていない。この神社の存在は成功鎮開封街の王河盛さんより教えてもらったものである。場所は五権路の水産試験所台東分所の前にあり、昭和8年(1933年)11月に新港漁業移民が発起し、一般住民の寄付を募って建立されたものである。

台東廳における漁業移民5カ年計画は昭和8年から開始された。移民計画4年目の昭和11年には和歌山県7戸、熊本県1戸そして沖縄県1戸が新港漁業移民としてこの地に渡ったようである。


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台北州 (台北州文山郡) 亀山発電所構内神社

2010-08-19 21:44:24 | 台北州
     
第二代目亀山発電所                         日立製作所の発電タービン 
  
当時の宿舎                              ここに神社が建立されたのではないかと考えている
  
第一代亀山水力発電所                       台湾電力のロゴ

台南大学台湾文化研究所卒業の徐正武さん(現在は高雄県阿蓮郷復安国民小学の教師)によると、この亀山水力発電所にも構内神社が建立されたという。「台湾電力株式会社」の著者である林炳炎さんの案内で訪問した。残念ながら、ここに神社が建立されたという確信は得ることは出来なかった。

台湾でダムと言えば、八田與一が作つた烏山頭ダムが有名だが、台北深坑にある亀山ダムは台湾で最初の水力発電ダムである。台湾における電気事業は明治35年(1902年)に内地および台湾の企業によって台北の新店渓の落差を利用して台北に灯用水力発電を供給することであったが、明治33年(1900年)代に入り各種産業の勃興に際して電気動力の必要性を認め、これを官営とし、灯用と動力を併せた供給を目指した。総督府自ら明治36年(1903年)に新店渓上流の亀山に発電工事を起し、明治38年(1905年)に660馬力(その後、1,000馬力まで拡張されている)の発電所を完成させている。その後、更なる電力需要に対応すべく、明治40年(1907年)には同じ新店渓下流の小租坑に3,000馬力の発電所を起工している。

現在は二代目の亀山発電所(現在は桂山発電所となっている)で、昭和14年完成、が発電を行つている。発電装置は昭和14年に製造された日立製作所製であり、タービンは一秒間に300回転して16トンの水を排出する。
どうして日立のものかと尋ねると、「当たり前」との回答がすかさず返ってきた。うれしい限りである。

台湾での工業化を推進するために整備が進められた台湾での本格的な発電事業は、明治36年(1903年)2月12日に土倉龍次郎により台北電気株式会社の設立に始まる。深坑を流れる淡水河の支流である南勢溪を利用した水力発電所を建設し、台北市への電力供給を開始した。その後台湾の近代化を推進する総督府は官営の発電所として台北電気作業所及び亀山水力発電所を明治38年(1905年)には台北に、翌年には基隆への電力供給を開始している。その後明治42年(1909年)に新店渓の溪發電的小粗坑発電所、高雄の竹子門発電所、明治44年(1911年)には台湾中部の后里発電所などが次々と建設された。



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台北州 (台北市大安字十二甲一番地) 大安稲荷社

2010-08-13 21:28:24 | 台北州

現在は忠考東路によって別れているが、当時はこの辺一帯が大安紡績工場の敷地であった


大安稲荷社は当時の日華紡績株式会社内に建立された企業神社であった。現在の住所で、ちょうど忠孝東路三段辺りとなる。具体的な場所は特定できないが安東街に大安公園と誠安公園がある。不確かであるが、このいずれかの場所に神社があったものではないかと推定している。
この日華紡績株式会社では、いわゆる「大安工場ストライキ事件」が発生している。郭弘斌の「台灣人的台灣史」によるとこの事件のあらましは次の通りである。

日華紡績会社は昭和3年(1928年)4月21日に工場の作業時間を20分延長した。この問題が工員との論争を誘発することになった。台湾文化協会*の連温卿が高雄の台湾鉄道工場で発生したストライキを利用して4月21日に台湾人工員にストライキを呼びかけた。しかしながらストライキに入る準備が不十分であったため、従業員の意識は高くなく、わずか4日間でストライキが終わることになった。その後、5月9日に工場側は些細なことで工員の一名を解雇した。このことが全工員の不満を招くことになり、5月19日には再度二回目のストライキに突入することになった。工場の操業は停止せざるを得なくなり、200人余りがデモ行進を行い、22人が警察によって逮捕された。そして、その日に工員100名が台北市太平町の「工友協助會辦事處」に集結し、抗議団を組織して会社側に抗議し、会社側に対して団体交渉権およびストライキに参加した全ての工員の復職など6項目を要求した。しかしながら工員の要求は会社側に拒絶され、警察は争議団の幹部を拘留し、ストライキは集結を迎えた。

その後、日華紡績会社はどのような企業経営を辿ったかは不明である。一説によると光復後、日華紡績株式会社は放火によって全焼したようである。いずれにしても、工場内に建立された稲荷神社はこの事件の一部始終を見ていたことであろう。


どなたか、大安稲荷神社がこの工場のどの辺に造営されたたか御存じであれば教えて頂きたく思います。
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台北州 (基隆市入船町) 鼻子頭社

2010-08-07 09:27:05 | Weblog
 
神社のあった場所                          三沙湾を中心にした当時の地図(三沙湾の右にエビス神社と書かれている)

当時の神社の鳥居

基隆市入船町にある漁業の神様である鼻子頭社は正式社名であるが一般には夷社と呼ばれた。つまり、夷はエビス様として知られる出雲神話の国譲り(天孫降臨)の段で中心をなすに出てくる事代主命であり、漁業の神様である。前述の真砂町の恵美須社の外に、この入船町にもエビス様が祀られた。この鼻子頭社は最も漁業者の崇拝する神社であり、毎年6月13日には関係社が多数お参りして、大漁を祈願した。大祭には相撲や大漁音頭が行われ、豊漁を祈った。

この神社の所在地を確定するのも難しかった。基隆中学校同窓会会長である廣繁喜代彦さんにお会いする機会があり、やっと鼻子頭社を探し当てることができた。小さい頃はよく当時の日新小学校(現在の中正国民小学)の三沙湾付近で遊び、近くの小高い丘の上に神社があったとのことであった。現在はこの三沙湾は埋めたてられたため、昔の面影はないが、当時の入船二丁目辺りは三沙湾が陸地に入り込んでおり、入船一町目の三沙湾側に神社は位置していた。神社の位置は中舟路6~8辺りであり、祭典では恒例となった相撲場は中舟路4辺りにあった。
廣繁喜代彦さんに紹介していただいた蔡英清さん(基隆中学19回入学)によると神社奥はお祭りになると縁日で賑わったとのことである。平成20年の関東基隆会に出席した際に原巍さん(基隆中学16回入学)から光復(終戦)後神社の鳥居が工場の入口の看板として使用されている写真を頂いた。
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