台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

海軍水上特攻隊~震洋(しんよう)部隊 (上)

2014-08-19 22:18:35 | 台湾協会

今月号の台湾協会会報から「海軍水上特攻隊~震洋部隊」のタイトルで3回に分けて連載されます。今月号は震洋部隊についてです。来月号は震洋神社の遺跡についてです。

往年の人には懐かしい、マヒナスターズのボーカルの三島敏夫が先週末に亡くなられたことが報道されていました。たまたま、ネットによると、「台湾に生まれ、三島さんは、1926年11月10日にサイパン島で生まれ、その後都内に転居。そのころにウクレレを始めた。第二次世界大戦中の43年には、母の勧めで甲種飛行予科練へ志願入隊。震洋特攻隊員として台湾で待機していたが、出撃を待たずに敗戦を迎えた」とありました。

震洋部隊とは

太平洋戦争末期において、沖縄失陥後、米軍の日本本土上陸は時間の問題と言われた。米軍に対抗する上で戦力となる航空機や戦艦はもはや十分なく、日本帝国海軍は限られた物資の中、起死回生の特攻兵器の開発に着手する。その中の1つが「金物(かなもの)」という秘匿名称を持つ新兵器であった。新兵器の中で、本格的に兵器として建造配備されたのが、「海龍(特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器)」、「震洋」と「回天(人間魚雷)」であった。

「震洋」とは、中古自動車エンジン使用の木合板(ベニア板)製の滑走艇で、エタノールを燃料に使用、艇首に爆薬を搭載して敵艦艇に体当り攻撃するようにしたもので、太平「洋」を「震」撼させるという意味が有ったという。

「震洋」は、フィリピン、沖縄諸島、台湾、日本本土太平洋岸の百四個の部隊に配備された。その数は三千三百余隻に上った。

しかしながら、船艇の構造上、太平洋の荒波の中、米軍の攻撃から避けるため、夜間にのみ攻撃を可能とする全長五㍍程度のモータボートが目標物に向かって突撃できるかは甚だ疑問であった。

 

台湾の震洋部隊

 米軍との本土決戦に備えるべく、九州の佐世保近く、川棚の臨時魚雷艇訓練所で短期間の訓練を終えた十個の特攻部隊は、昭和十九(一九四四)年十月、高雄警備府附きとして編成され、同年十一月、佐世保を出港し、十二月末から翌年一月初めにかけて左営港に到着している。

米軍からの攻撃に備え、台湾海峡を挟み、台湾の北から南の西海岸に沿って、淡水(第一〇二部隊、第一〇五部隊)、基隆(第二五部隊)、高雄(二〇部隊、第二一部隊、第二九部隊、第三一部隊)、海口(第二八部隊、第三〇部隊)、そして、馬公(第二四部隊)に配備された。

 高雄左営には四個の部隊があり、第二〇(薄部隊)、第二一(竹內部隊)および第三一(栗原部隊)部隊は、左営埤子頭(左営旧城内)にあった。もう一部隊の第二九(永井部隊)部隊は桃子園(旧城外、左営要港)を宿営地とした。それぞれの部隊は百九十名前後で構成されていた。

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8月号の「な~るほど・ザ・台湾」 花蓮・豊田神社~東部開拓にかけた賀田金三郎

2014-08-04 16:37:10 | な~るほど・ザ・台湾

今月号の「な~るほど・ザ・台湾」は「花蓮・豊田神社~東部開拓にかけた賀田金三郎」です。

賀田金三郎は、日本統治時代の台湾を調べてゆくと、多くの分野で同氏の名前が出てくる。それほど、数多くの事業を手掛けた実業家であった。今回は、台湾の花蓮県寿豊郷で見つけた「開拓記念碑」から、賀田が起こした賀田組の東部での開拓事業を追ってみることにした。また、事業を通じて、当時の民政長官であった後藤新平との繋がりは、商売の損得を越えたところにあったようである。文書の中では、このことを代表する2つのエピソードを紹介している。

紙面の関係で書ききれなかった、賀田金三郎と後藤新平との最後の「訣別」をブログを通じて紹介することにします。

大正10(1921)年春、そんな賀田に体の異変が起こり、遂に入院することになる。この時、既に自分の死期を悟り、賀田組を株式会社に組織し、家族の将来に備えたようである。亡くなる2日前、旧知の友である後藤新平が見舞いに訪れる。賀田は家紋の付いた羽織を夜具の上に掛けて迎えた。「目と目は見合せられた。手と手は握られた。しばしは互いに言葉も無く、無言の雄弁は、この一室の空気を領して、天地を尺寸の中に縮めたとも云はうか、いかなる文章家も、斯一場の偉大なる対立を形容する文字をたやすくは見出し得ないであろう」と賀田金三郎翁小傳は綴っている。賀田金三郎、享年66歳であった。

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