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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

高雄市 タカヌワ(達卡努瓦)祠

2020-01-02 15:11:26 | 高雄州

やっと願いが叶い、高雄市那瑪夏区達卡努瓦里に残る原住民部落神社に訪問できた。タクシーで高雄駅から2.5時間以上かかり、山奥の那瑪夏にたどり着いた。この地のタカヌワ内に造営された神社である。詳細については今後の調査となるが、恐らくこれだけの神社遺構は今後見つからないであろう。

灯籠が新たに作り替えられているのが多少残念であるが、ここまで補修・整備していただいた地元の関係者に感謝したい。

 

案内板や神社までの道が整備されている。また、鳥居も新たに造られ、神社の雰囲気を醸し出している

 

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日治時期高雄神社「社號碑」 消失8年重現已斷成兩截

2019-12-27 10:48:35 | 高雄州

現在的高雄忠烈祠,是日治時期高雄神社的所在地。內政部63年公布「清除台灣日據時期表現帝國主義優越感之殖民統治紀念遺跡要點」,台灣各地的神社被大規模拆除,高雄神社僅剩大鳥居、一對狛犬、及大東亞戰爭的紀念碑。2011年高雄神社社號碑被發現棄置在千光寺後面的羽毛球場裡面當座椅使用,羽毛球場整修後不知所終。時隔8年,文史工作者重新發現這塊日本昭和七年的「高雄神社社號碑」。

高雄市舊城文化協會總幹事郭吉清表示,8年前高雄神社社號碑消失不知去向,文史界流傳是被偷竊運走了。結果今年8月有網友將斷成兩截的高雄神社社號碑照片Po上網,說明沒有被偷竊,還安全的被保存在忠烈祠不遠處,燃起了文史界的希望與興趣。

但原Po網友考量古物安全,不願意公開留置地點。經文史工作者陳高川與郭吉清聯繫原Po照者,取得信任後,並與忠烈祠管理單位高雄市民政局兵役處聯絡,現勘後,確認目前擺放在忠烈祠倉庫外的石碑,就是消失8年的高雄神社社號碑,但已斷成兩截。

日籍台灣神社專家金子展也、文史工作者郭吉清、廖德宗與原Po者劉姓網友,日前一起到忠烈祠倉庫外初勘。金子展也指出,將斷裂的兩段花崗石組合後後,完整呈現「縣社 高雄神社」、「昭和七年五月二十八日建之 高雄市 和氣滿壽太」等完整字體。昭和七年4月22日是高雄神社升格為縣社的重要記載年代日期,5月28日由「和氣滿壽太」奉獻這塊社號碑。

根據廖德宗的一項調查,發現碑是高雄市山下町賣榻榻米、百貨商品的「和氣商店」老闆「和氣滿壽太」所捐贈。高雄神社於1928年、昭和三年搬遷到壽山的山坡上,11月8日將打狗神社更名為高雄神社,並舉行了鎮座祭祀。此時,以特別神社建設捐贈者吉名的名義列出了和氣滿壽太,他向高雄神社捐款300日元。社號碑紀念物可能在參道的途中,在鳥居門前的平台上。

郭吉清表示,碑上神社兩字被糊上水泥,打了三根鋼釘,還被塗上藍紅油漆。據4年前管理過忠烈祠的劉先生說,當年剛到任時社號碑就在倉庫目前的位置,且是斷成兩截的,判斷應是當年從羽球場移入倉庫時斷裂的。

高雄市文化局副局長林尚瑛表示,「高雄神社社號碑」應會以古物來處理,已請舊城文化協會提報,若收到提報表將啟動古物審議程序。

台灣神社專家金子展也、文史工作者郭吉清、廖德宗與劉先生(左至右),讓日治時期高雄神社的「社號碑」重現世人眼前。圖/高雄市舊城文化協會提供


日治時期高雄神社的「社號碑」消失8年後,重現世人眼前。圖/高雄市舊城文化協會提供


日治時期高雄神社的「社號碑」被發現時,已斷成兩截。圖/高雄市舊城文化協會提供


日治時期高雄神社的「社號碑」消失8年後,重現世人眼前。圖/高雄市舊城文化協會提供

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高雄神社 社号碑の発見

2019-12-20 20:39:43 | 高雄州

現在の忠烈祠が高雄神社の鎮座地である。敷地内には比較的多くの遺物が残っている。これまで知られているのは狛犬、大東亜戦争完遂記念塔、灯籠、宝珠などであったが、今回、高雄の神社跡地訪問ではいつもお世話になっている高雄市文史工作者の郭吉清さん、廖德宗さんに加えて高雄市政府兵役処の劉さんとともに新たに「社号碑」、「灯籠」や「鳥居」の一部分などを発見することができた。

 

1)      社号碑

最大の発見である社号碑は忠烈祠境内の倉庫敷地にあった。2つに割れた社号碑を繋ぎ合わせることに成功すると、見事に「縣社 高雄神社」 「昭和七年五月二八日建之 高雄市 和氣満壽太」が蘇った。まず「昭和7年」は高雄神社が県社として列格した年であるため、非常に価値のあるものである。列格日は昭和7年4月22日で、列格後すぐにこの社号碑が献納されたことになる。そして献納者は和氣満壽太であり、廖德宗さんの調査によると高雄市山下町1-16で畳業を営む和氣商店の店主であったことが判明した。高雄神社が昭和3年(1928)、寿山の山腹(現在の高雄市忠烈祠)に遷座し、同年11月8日に、これまでの打狗神社から高雄神社となり、鎮座祭が執り行なわれた。この時、和氣満壽太は神社造営特殊寄付者芳名の中に記載されており、高雄神社鎮座に向けて300円の大口寄付をしている。

恐らくこの社号碑は参道途中にある鳥居前の基壇にあったものと考えられる。

<再訂正>社号碑の献納者は和氣寿満夫ではなく和氣満壽太に訂正しました

最初の状態

繋ぎ合わせた社号碑の表

繋ぎ合わせた社号碑の裏

2)      灯籠

 高雄神社の大灯籠(常夜灯)は不完全ながら2基残っているが、一般の灯籠は全く見つかっていない中、廖德宗さんが最近寿山国家自然公園遊客中心(鼓山区萬壽路301号)の敷地内に見つけたものである。この場所は、もともと社務所があった場所であったようで、下記の灯籠の一部は道路そばの藪の中にあった。「奉獻 沖縄縣人同志會」 「昭和七年十月二八日建之」と刻まれている。この記述から灯籠は県社に列格した初めての例祭日に献納されたことを意味する。

3)      鳥居

忠烈祠に向かう途中に赤く塗られた楼門がある。これは高雄神社の鳥居が変形して使用されているものである。これとは別に「昭和四年四月□□日建之」を刻まれた鳥居の一部が脇の石階段そばに残っている。時期の表記から高雄神社が寿山に遷座して間もなく建立された鳥居となる。

4)      街灯

これまで気が付かなかったが、境内に3本の街灯がある。これとほぼ同じような街灯は台湾神宮跡地であった圓山大飯店の敷地にも見ることができる。

5)      その他

最近、新たに高雄神社の雰囲気をだすためか8基の灯籠が立てられていた。

 

 

 

 

 

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海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社

2017-11-23 17:00:14 | 高雄州

今回は神奈川大学非文字資料研究センター News Letter No.38に掲載された「台湾本島及び澎湖諸島の神社跡地等の調査」は I 調査概要、II 海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社、 III 澎湖西嶼の震洋格納庫跡と西嶼弾薬本庫跡で構成されています。この中で「海軍水上特攻隊 震洋隊 震洋八幡神社」に付いて寄稿しました。

 

鄭時代~清朝時代の台湾

鄭成功がオランダ人を台湾から追放し、1661年、首都を承天府(現在の台南市内に残る赤崁楼)とし、し、北に天興県、南に萬年県(現在の高雄市左営地区)を置く。同時に、前、後、左、右、中の5つの「衝鎮」を置いて衛兵を駐屯させる。「左」の衝鎮は左営と呼ばれた。その鄭成功は台湾を「反清復明(はんしんふくみん)(清に抵抗し明の復興を企てる)」の拠点とするが、間もなく病没する。その後、反清勢力の撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて、1683年、清朝の攻撃により鄭氏政権は崩壊する。翌年、清朝は台湾府を福建省に設置、その下部に諸羅県、台湾県、鳳山県を設置する。台湾県、鳳山県が鄭時代の旧萬年県の管轄地区に相当した。

現在、左営に残る旧城の基礎は、1722年に土の城を築いたもので、1825年に再建されたものである。

1787年、旧城が林爽文事件によって破壊されたため、埤頭街(現在の高雄県鳳山市)に鳳山県新城が新たに建築され、同時に県都が移転する。そして、この新しい県都を「新城」、それまでの左営旧県都を「旧城」と呼ぶようになった。

震洋特攻隊とは

太平洋戦争末期、沖縄失陥後、米軍の日本本土上陸は時間の問題と言われた。米軍の上陸に備え、九州南海岸と四国南海岸には大量の軍隊を投入して陣地を構築した。しかしながら、米軍に対抗するうえで戦力となる航空機や戦艦はもはや十分なく、日本帝国海軍は限られた物資の中、起死回生の特攻兵器の開発に着手する。その中の1つが「金物(かなもの)」という秘匿名称を持つ新兵器であった。   

この「金物」とは、船外機付衝撃艇として研究されたが、結局、自動車エンジンを使用した木合板(ベニア板)製の滑走艇とし、ガソリンまたはエタノール・アルコールとガソリンとの混合を燃料とし、艇首部に爆薬を装設、敵艦艇に衝突するようにしたもの。後に「震洋」と呼称される。「震洋」とは、太平「洋」を「震」撼させる、という意味が有った。

台湾の震洋部隊

 台湾には、淡水(第102震洋隊、第105震洋隊)、基隆(第25震洋隊)、高雄(20震洋隊、第21震洋隊、第29震洋隊、第31震洋隊)、海口(第28震洋隊、第30震洋隊)、そして、馬公(第24震洋隊)の10震洋隊が存在した。

 高雄左営には4部隊あり、その内、3部隊は左営埤子頭(清朝鳳山県旧城内)にあった。第20、21及び29震洋隊は、昭和19年(1944)11月~12月、佐世保を出港し、11月末~翌年1月初めにかけて左営港に到着する。それぞれの隊は183から191人で構成され、53~55艇の震洋艇(緑色のペンキで塗られていたため、通称「青蛙」と呼ばれていた)を保有していた。

左営港に到着した震洋隊は、清朝時代に築かれた左営旧城の城壁に沿って舎営所を築く。震洋艇が配置された格納壕のある海岸までは約2.5kmの地点であった。舎営所は現在の「左営区西自助新村」であり、西自助新村とは、1949年、国共内戦で敗れた国民党軍人やその家族(外省人と呼ばれ、共産党との内戦に敗れた国民党と共に大陸各地から台湾に移り、定住している人々)が移り住んだ居住地の1つで、一般に眷村(けんそん)と呼ばれる。2013年3月までは、この地が震洋隊の舎営所であったことが一般には知りえなかった。仮に、想定はされていても、その閉鎖的な地域性もあり、歴史調査は行われなかったのであろう。

政府の土地区割整理に伴い、西自助新村に居住する外省人の立退きが終わり、この左營旧城に於ける清朝時代の歴史遺蹟の調査が行われ、遺蹟の掘り起こしが始まる。その過程で防空壕跡が至る所に発見され、調査が進むにつれて、この地域一帯が旧日本海軍震洋隊の舎営基地であることが判明する。防空壕跡の場所には一定の法則があった。「必ずマンゴ(芒果)またはロンガン(龍眼)樹の下」である。従って、これらの樹木の下には防空壕があった。米軍の偵察機に発見されないためである。このお陰か、この地域は米軍の爆撃を受けていない。

 他に例のない瓢箪に似たドーム型の防空壕が17ケ所見つかっている。壕内の高さは約2.1㍍あり、壁の厚さは65cm、両側に入口がある。25名程度が入れる。  

 旧城城壁に沿って、士官舎、兵舎、炊事所、倉庫、便所、車庫、燃料庫や充電所が並んでいた。また、城壁の一カ所は通路となって城壁を通して、左右の往来ができた。

高雄からの問い合わせ

 2014年2月に入り、高雄でIT関係の会社を経営する傍ら左営旧城の歴史研究を行っている廖德宗さん及び一緒に調査研究を行っている郭吉清さん(高雄市旧城文化協会顧問)から連絡が入る。「左営旧城内に日本海軍第20震洋隊(薄(すすき)部隊)の基地に神社遺跡(基壇)があり、震洋隊が左営に建立したものではないか。また、その神社遺跡傍に手水鉢が土の中に埋まっている」との内容であった。その報告と一緒に、神社参道(15段の石段)が清朝時代の城壁と共に写されていた。早速、海外神社研究会のメンバーである坂井久能特任教授に連絡を取る。坂井さんは営内神社(軍隊の施設内に建立された神社)を一貫して研究しており、その道の専門家である。

 台湾と日本からの情報交換により、次々と台湾から質問が寄せられた。

①   旧城から発見された基壇、手水鉢および参道の石段は神社のものか?

②   海外に海軍が造営した神社があるか。写真はあるか?

③   仮に、震洋隊が造営した神社であるなら、その祭神は?

④   『回想 薄 部隊:海軍第二十震洋特攻撃隊』が奈良県立図書館にあり、この中に神社の記述があるか?

震洋神社の確証

 思いがけなく、この回想録の口絵に、「震洋神社とその製作者」とのタイトルが付いた小さな祠の前で写された隊員があった。この写真は、震洋神社の存在を証明する手掛かりとなる。また。回想録には、戦後の部隊処理の記述で、「先ず震洋神社を焼く(兵舎後の城壁の上に安置してあった)」とあった。この記述より、間違いなく口絵の写真は「震洋神社」であり、現存する基壇、手水鉢や石段は「震洋神社」のものであることが証明された。

 更に、薄部隊長のご子息との連絡も取れ、平成5年(1993)発行の『薄会(第20震洋特別攻撃隊)戦友だより』に、この神社の正式名は震洋八幡神社であり、ご祭神は佐世保市の亀山八幡宮の分霊であることが判明する。また、この小冊子に神社奉焼時の写真と本殿前の鳥居も掲載されていた。

震洋神社調査

2017年2月、改めて震洋部隊舎営基地及び神社跡地の調査を行う。神社位置は写真に示す通り、城壁の上にあり、写真の通り、石段を昇ったすぐにあった。実測から基壇底辺が120x130cm、基壇上部80x94㎝、高さ68㎝と判明する。石段を昇ってすぐに鳥居があり、左側に手水鉢が配置されていたと考えられる。第20震洋隊がこの地に入ったのが昭和20年1月であるため、神社造営は同年前半頃と想定される。

 終戦と共に神社本殿は奉焼される。奉焼にあたり、本殿は基壇から分離され、近くの山すそに運ばれて奉焼されたのではないか、坂井特任教授は分析している。確かに、写真から奉焼は城壁の上ではないことが分かる。城壁の上では火の粉が飛び散り、危険であるためである。更に社殿の周りに注連縄が張り繞らされ、紙垂(しで)が付けられているので、焼く前に神道儀式として「奉焼式」が行われたことが判明する。

震洋八幡神社(『回想薄部隊)』

城壁上の基壇

城壁の一部。写真左側に石段がある

第20震洋隊舎配置図(「薄部隊 戦友だより」)

※城壁に「震洋八幡神社」と鳥居の印がある

 



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海軍水上特攻隊 震洋八幡神社

2017-05-27 20:55:57 | 高雄州

2014年5月のブログ及び台湾協会会報で震洋神社の遺蹟について紹介した。その後の調査で、この神社名は「震洋八幡神社」であることが判明する。祭神は震洋特攻隊発祥の地である長崎県佐世保市の亀山八幡宮の分霊であり、亀山八幡宮は戦前まで軍港佐世保の鎮守神として海軍将兵の信仰を集めた。

詳細は神奈川大学の非文字資料研究ニューズレターNo.38号(7/末発行予定)に「台湾本島及び澎湖諸島の神社跡地等の調査」と題して記載しているので、参照願いたい。また、この中で、「澎湖西嶼の震洋格納庫跡と西嶼弾薬本庫跡」として、坂井久能さんが震洋隊の格納壕について記載している。初めて海外の取材が許された日本海軍の歴史遺蹟である。こちらも併せてご参照願いたい。 

今月の16日、高雄市左営に残る震洋神社跡地の調査研究を行っている高雄市旧城文化協会の郭吉清理事長と共に、第20震洋隊 薄隊長のご子息と面談する機会を得る。翌日は亀山八幡宮を訪問したが、残念ながら宮司さんにはお会いすることは出来なかった。

午後、佐世保市のセイルタワー及び相浦駐屯所の営内神社(大潟神社)訪問する。17日は川棚町の「特攻殉国の碑」と「魚雷発射試験場跡」のみを訪問し、小串郷駅から佐世保経由博多に向かい、一路東京に向かった。

 

1)亀山八幡宮

 

戦病戦死 忠魂碑

真ん中のプレートには「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大皇の辺にこそ死なめ かえりみはせし」と書かれている

招魂碑 

2)特攻殉国の碑

3)魚雷発射試験場跡

4)小串郷駅

案内板の説明

昭和19年、日々悪化する大東亜戦争を挽回すべく、日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀から小串に移し訓練を行われました。この時臨時に設けられたのが小串郷駅誕生の起源とされていますが、当時全国から志願した数万の若人が丸太組のホームに降り立ったといわれています。その中から特攻隊員の編成を行い、3500人有余の若い命が家郷に替えることなく無念の戦死を遂げられ、今日の特攻殉国の碑慰霊祭へと歴史は受け継がれています。

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