台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

児玉源太郎顕彰会「藤園」

2020-05-31 10:55:41 | 児玉源太郎

児玉源太郎の没後110年を機として、2016年6月9日に児玉源太郎のふるさと山口県周南市で有志により「児玉源太郎顕彰会」が設立されました。これを機に本顕彰会は、児玉源太郎の業績を明らかにして後世に伝えるとともに、これからの人づくり、郷土づくりに生かすために百年先を見据えた地道な活動を全国展開しております。

今回は「児玉源太郎顕彰会」の会報である『藤園』会報第5号に、先月ブログに掲載しました小冊子「鎮南山臨済護国禅寺故事」の内容の一部を掲載していただきました。また、同会では新たな会員を募集中でありますので、是非下記ウェブサイトから申し込んでください。

児玉源太郎顕彰会:

https://www.kodama-gentaro.com/

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林本源園邸

2020-05-23 14:22:11 | なし

林本源園邸は台湾新北市板橋区にあり、1893年に台湾5大豪族の1つであった林本源一家によって建てられた庭園と邸宅の総称である。

ー拙書『台湾に渡った日本の神々』より抜粋ー

 そもそも、林本源は個人名称ではなく、祖先の名前を襲名した「家号」であり、三房(血族関係に結ばれた家族)より構成された。当時の第一房は林熊徴が主人。第二房は林維源の一家であり、林爾嘉、林景仁、林祖壽、林松壽、林柏壽、第三房は林維源の義弟である林維濂の一家で林彭壽、林鶴壽、林嵩壽であった。そして、最年長であった林維源が林本源一族を統率していた。日本による領台が開始されるや否や、林本源一家は枋橋(現在の新北市板橋区西門街9号)の邸宅に雇人のみを残して厦門に逃れた。明治30年(1897)5月に総督府が台湾及び澎湖の住民に対して最終的な国籍の選択(清国または日本)を行った際、林維源は、まず第三房の林鶴壽と林嵩壽を渡台させる。
 林維源は清国に於ける名門であり、李鴻章(当時の欽差大臣)とも親しかった。下関条約の際、伊藤博文内角総理大臣に対して、林家の保護を懇託したともある。また、後藤民政長官が明治33年(1900)5月に厦門地方を巡視した際、林維源は自宅で宴を設け、「我林家一族の子弟は皆不肖にして殊に幼年者なるを以て我が百年の後は誠に憂慮に堪えす閣下願くは寛仁なる庇護と教訓とを垂れ玉へ」と懇願し、後藤長官も快諾して林家のために力を致されたるとした。
 領台以降も厦門に留まった林維源が明治38年(1905)に死去するや、残された財産を巡ってお家騒動の状態に陥る。この相談役として柳生台湾銀行頭取、佐藤台北庁長や生沼弁護士が推薦される。後藤民政長官の内地への転任にあたり、林家改革を元三角湧(現在の三峡区)弁務署長里見義正に任命する。
林本源の所有する田園の時価は約600~700万円とも言われ、一説には多く見積もると1500万円とされた。これだけの財産を三房及び財産分配方式である六記号に分かれ、更に細分化された。複雑さを加えた財産処理は祝辰巳民政長官から引継いだ大島久満長官と林本源を代表する林爾嘉との間で新合約字がなされる。林維源死去の当時、合約字に基づき、上海の香上銀行から台湾銀行に鞍替えさせられた林鶴壽名義の預金額は224万元あった。この資金で、本島人による唯一の製糖会社を興すことを勧められ、経営者の人選を託したのが新渡戸稲造であり、当時の民政局殖產課技手の小花和太郎(明治22年札幌農学校予科中退)がその候補となった。
 一方、林家大改革の基礎となるべき総弁(全体管理者)は第一房の林熊徴となり、逓信大臣となった後藤新平を訪問している。この時、林家家政整理の顛末を報告し、後藤長官在任中の指導訓示に感謝の意を表示、更に製糖会社設立の由来、動機、事業現状及び将来の事業計画について詳しく説明している。


 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台北公園内の布政使司文物館

2020-05-12 15:50:41 | なし

清国は1887年、台湾に政使司衙門(せいししがもん)を建築し、台湾における行政の中心地とした。台湾地方行政制度における内政の最高官であり、台湾省設置以前の台湾知府に相当する業務を担当した。 
明治28年(1895)5月、下関条約により台湾が日本に割譲されるが、これに反対する勢力が台湾民主国を建国した際、この府政使司衙門が総統府として使用された。しかしながら僅か2週間で政権は崩壊し、同年6月に日本軍が進駐し布政使司衙門を接収した。その後大正8年(1919)に現在の総統府が完成するまでの間、布使司衙門は台湾総督府の庁舎として使用された。 

昭和6年(1931)、昭和天皇の即位(御大典)を記念し、布政使司衙門を取り壊し、この場所に台北公会堂が建設されることになった。解体された布政使司衙門の一部は当時の円山動物園と植物園に移され保存された。現在、完全な形で保存されているのは台北植物園内の籌防局、布政使司大堂と廂房の一部のみで、これらは台湾全土にわずかに現存する清代の衙門の一である。

 

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治時代の「廖家古厝」

2020-05-04 17:12:30 | 日本統治時代の遺構と遺物

高雄在住の廖德宗さんは高雄市文史工作者で、いつも高雄地区での神社跡地調査でご協力していただいている。昨年末に高雄神社の社号碑の確認や第六燃料廠洞窟調査でもお世話になった。
さて、この廖さんの祖先の家があるとのことでお邪魔した。高雄市左営区左営下路45号にあり、なんと、109年の歴史を持つ旧家で、清朝時代の左営下路は北門を通り、旧集落を通って府城に至る旧市街であり、当時は最もにぎやかな地区であった。集落は一甲から七甲まであり、五甲巷北の「郭家古厝(古厝は邸宅のこと)」と五甲巷南の「廖家古厝」がいまだに当時の面影を見ることができる。
廖家古厝は郭家古厝に4年遅れた1911年に建設されており、10年前に瓦の修理から初めて、7年の歳月をかけて修復工事が終わり、資材を探すのに150万元かかったようである。

廖家の祖先は同治年間(1861年 - 1875年)に雲林西螺から左営に移り、古厝は二代目の長男廖奎和により建てられた。正門扉の上には古代中国から伝わる易における8つの基本図像の一つである「乾三連」の額が飾られ、子孫がみんな規則や律儀を守るよう願いを込めた。


ちなみに廖德宗さんはこの廖家の4代目となる。壁には4種類のマジョリカタイルが貼り付けられている。このマジョリカタイルとはマジョルカ島を中心に取引された錫釉陶器の総称であり、日本では四国淡路島の淡陶社(現在のダントー株式会社)が1901年(明治34年)に製造を開始した。この種のタイルは台湾でも大いに気に入られ、数多くの裕福な家の壁に装飾品として用いられた。


現在、この廖家古厝は一般公開されており、左側の棟は「杏福巷子」というデーザートを頂けるお店となっている。ここで頂いた杏仁豆腐冰はさっぱりしておいしかった。

廖家古厝

入口に掲げられている「乾三連」

マジョリカタイル

この辺りは五甲巷

清朝時代の古地図に廖家古厝が載っている

当時の水道ポンプ。壁にマジョリカタイルが見える

廖德宗さん(右)と郭吉清さん(左)

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする