半世紀以上生きていると
残りの人生時間がもうあまり残されてないのではないかと
気になってきたりする
これから出会える人の数も
経験できることを選択する機会も
少なくなってくるのではと思うと焦る気持ちが起こったりする
今死んだとしても 心残りひとつないのだけれど
生かされているのだとしたら なにかまだ出来るのではないかと
もし私にできることがあるのなら やりたいと思うのだ
何もせずにいて いいのだろうか
なんとなく 不安になる
見過ごしていることが あるのではと
半世紀以上生きていると
残りの人生時間がもうあまり残されてないのではないかと
気になってきたりする
これから出会える人の数も
経験できることを選択する機会も
少なくなってくるのではと思うと焦る気持ちが起こったりする
今死んだとしても 心残りひとつないのだけれど
生かされているのだとしたら なにかまだ出来るのではないかと
もし私にできることがあるのなら やりたいと思うのだ
何もせずにいて いいのだろうか
なんとなく 不安になる
見過ごしていることが あるのではと
新しい人と話をすることは、学ぶことや気付くことが多く、とてもだいじな時間
本を読んで学ぶだけでは得られない、聞いてるだけでは得られない、自分を知ることができる
昔は、考える時間を取り、答を決めてから口を開いていたけれど
今は、瞬間的に判断をして、答える
あとから、なぜ私がその判断を下したのか、考える
昔は、相手が自分をどう思うかが重要だったのだと思う
今は、自分を分析すること、自分をより理解することに重きを置いているのだと思う
できる限り、自分を解き放ち、自由に話すようにしている
考えて出した答では、本当の自分が見えないから
自分が何者なのか、それは他人という鏡に映さなければ見ることはできないのだと思う
自分の意見を口にした瞬間に、そこに正しい間違っているは、無くなるのだということ
その判断は、受け取った側にゆだねられる
相手の性格、経験、感情、価値観によって、どう受け取るかは決定される
私の正しいは、私の中の正しいで、他人にとって正しいかは、別物であるということ
多くの人は、そのことに気が付いていない
絶対的に正しいものが存在すると思っているのだ
だから、戦争は起こり、互いが正しさを主張する
(戦争のときは、偽りとわかっていても、事実とは異なる嘘の正しさを主張し続けるのだ、人々が絶対的正義を信じていることを利用しているのだ)
最近気が付いたのは、
人の正しさがそれぞれであるから、ルールが必要になり、法律を作ったのだろう
法は、正しいものではなく、これを正しいとするという決め事なのだと思う
社会的秩序を作るための道具ということ
自分の中にしか絶対的正しさは、存在しない そしてその正しささえも覆ることがある
だから本来、絶対的正しさは この瞬間における自分の中にしか存在しないものなのだと思う
平穏な日々
特に悩みもなく
心静かに時が過ぎていく
私は何をしてきたのだと、吹き来る風が私に言う
昔読んだ詩の一片が、こだまする
悩み悶えながら
生きていないと生きている実感がしない
ただ、穏やかに時間が過ぎていくことが、無意味に感じてしまう
何かやることがあるはず、そのために生かされているはず
私は、自分のために生きる意味が、分からないのだ