言葉が怖い 新潮CD (新潮CD 講演) | |
向田邦子 | |
新潮社 |
生まれてから死ぬまで、
五百の言葉しか持ってない人よりも、
二万も三万も言葉を持ってる人のほうが、
人生としては豊かなんじゃないかと思うんです。
その言葉の数のなかには、
いい言葉も悪い言葉もあったほうがおもしろいんじゃないかと思うんです。
みんながNHKのアナウンサーみたいに、
気取った声でしゃれたよそゆきの言葉だけ使ってたら、
たしかに言葉の先生はお喜びになるかもしれませんけど、
あたしたち台詞を書いたり小説を書いたりする人間は手も足も出ません。
やっぱり訛りがあったり、地方の特色があったり、性格があったり、
下品な人は下品な言葉、短気な人は短気な言葉、
バカヤローもチクショーも、みんなあったほうがいいと思うんです。
ただ、汚い言葉、下品な言葉と同じぐらい、
上も下もあるように、上の方にも洒落たおもしろい言い方、人とちがう言い方・・・
今日あんな言葉を覚えたとか、子どもが言葉を覚えるように新しい言葉を使いこなして、
下品な言葉と同じくらい言葉の数があって、言葉の数が多くて・・・・
つまり、
人はみんな一冊の辞書をもっていると仮定したときに、
薄い上品な辞書よりも下品でもいいから分厚い辞書を持って、
それを毎日おもしろく豊かに使いこなしていたら、
格別おもしろい話はなくても、
その人の言葉の生活というのは、きっと豊かになると思います。
(向田邦子講演録『言葉が怖い』より)
今さらながらではあるが、このごろ、自分自身の語彙の少なさ、表現力の乏しさに、ほとほとあきれかえってしまう。悲しくなることもある。
たとえばこのブログで駄文を書いているとき、同じ言葉、同じ表現が繰り返し出てくるときに、努めて、ちがう言葉、ちがう表現を使おうとするのだが、いかんせん、わたしの頭のなかの「辞書」は薄い。
今という時代はよくしたもので、その薄さをインターネットという途方もなく「分厚い辞書」が補ってくれたりするが、それはあくまで補足にすぎず、使用者たるコチラに素養としての「分厚い辞書」がないかぎり同じことだ。「辞書の薄さ」はそこかしこに表出する。
生まれてから死ぬまで、
五百の言葉しか持ってない人よりも、
二万も三万も言葉を持ってる人のほうが、
人生としては豊かなんじゃないかと思うんです。
今さら、二万にも三万にも、とてもとてもなり得はしないが、せめて五百が六百に、いや五百を千にと夢想する。
「欲」である。
アレもほしい、コレもほしいという「欲」である。
齢(よわい)59になっても、おのれの分限と能力をわきまえず、「分厚い辞書」を持ちたい、たくさんの言葉がほしい、それを豊かに使いこなしたい、と足掻いている。
いやはやまったくまことにもって、「欲」である。
↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします
有限会社礒部組が現場情報を発信中です
発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。