あいかわらず向田邦子講演録『言葉が怖い』を聴いている。
聴けば聴くほど味が出てくる。
「そうかこんなふうなことを言ってたんだ」
と再発見しつつ感心しきりな毎日だ。
言葉が怖い 新潮CD (新潮CD 講演) | |
向田邦子 | |
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講演の締めくくりに、「おどき」「めどき」という言葉が出てくる。世阿弥の言葉だという。検索してみた。漢字で書くと「男時」「女時」となるらしい。向田邦子はこの言葉が好きだったのだろう、本のタイトルになっていることも知った(ついでにポチった)。新潮文庫の『男どき女どき』だ。
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向田邦子 | |
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これについてはそのうち書く(たぶん)として、「男時」「女時」、こういうことらしい。
世阿弥の時代には、「立合」という形式で、能の競い合いが行われました。立合とは、何人かの役者が同じ日の同じ舞台で、能を上演し、その勝負を競うことです。この勝負に負ければ、評価は下がり、パトロンにも逃げられてしまいます。
立合いは、自身の芸の今後を賭けた大事な勝負の場でした。しかし、勝負の時には、勢いの波があります。世阿弥は、こっちに勢いがあると思える時を「男時」(おどき)、相手に勢いがついてしまっていると思える時を「女時」(めどき)と呼んでいます。
向田邦子の小説集の題名として有名なこのことばは、世阿弥の造語です。
(略)
世阿弥は、この「男時・女時」の時流は、避けることのできない宿命と捉えていました。「時の間にも、男時・女時とてあるべし。」、「いかにすれども、能によき時あれば、必ず、また、悪きことあり。これ力なき因果なり。」
そして、「信あらば徳あるべし」——信じていれば、必ずいいことがある。と説いています。
(『世阿弥のことば:ビジネスパーソンに捧ぐ世阿弥のことば』より)
「勢いの波」、「流れ」という表現をしてもいいだろう。
よいときが「男」で悪いときが「女」だという表現は、今という時代に公で堂々と発することをためらってしまうが、それは問題の本質とは離れるのでこの際置いておく。
何をやっても上手くいくときは上手くいく、たしかにそんなことがある。その一方で、やることなすこと上手くいかない、ドツボにはまってトッピンシャン、てなときもよくある。昔のわたしなら、そのどちらにもどっぷりとハマっていた。よき流れのときは意気軒昂と調子に乗ってブイブイいわせ、わるい流れのときは果てしなく陰々滅々と落ち込む。どちらにせよ、右往左往だ。
しかし近ごろでは、こんなような思考方法を採用するように努めている。
何をやっても上手くいくときは、好事魔多し、そんなにいいことはつづくものではない、そのうち悪い流れになるのだから調子に乗って一気呵成に攻め立てるような行動は慎むべきだ、と考える。反対にやることなすことが上手くいかない場合は、上手くいかない「やること」や「なすこと」は事実だけれど、それがつながっているのは偶然だ、その偶然を負の連鎖ととらえことさらに悪く思うのは自分自身の意識でしかない、そのうちよい流れが来るときもあるからむやみに陰々滅々とならない、と思うようにする。
あくまで「努めている」という範囲から脱け出ないかもしれないが、そう考えるようにしている。
「そうか、そう言えばよかったのだ」
と、ここであることを思い出した。
今月はじめ、ところは福島。職長さんとおぼしき同年代の人がわたしに対してした質問だ。
「現場で何をやっても上手くいかない流れのとき、どうやってそれに対処するようにしてますか?」
「う~ん・・・」
としばし腕組みし、言葉を探したわたしだが、
「しいて言えばあまりバタバタ動き回らないことでしょうか。これ、っていう対処法はないですよねえ。」
とギブアップ。
あのときは、「具体的な何か」を答えなければならんのかな、と思考がそちらの方ばかりに向いていたのだが、「対処法=向き合い方」と解釈すれば、この稿に書いたような回答も有りだったと今さらながらに気がついた。
「男時(おどき)」
「女時(めどき)」
いずれにしても、どのように向き合うかに「人となり」がはっきりと表れる。
「オマエはどうなんだ?」と問われると、黙って頭を掻くしかないが。
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