ぜんとりょ~えん♪

JR宝塚線脱線転覆事故にあった人の日記

生きてます

2008年10月02日 | JR宝塚線脱線事故について
(自業自得ながら、)あることがきっかけで、ここのところ調子が悪く、相当切羽詰まっていました。
ある方にお約束したにもかかわらず、アルコールとお薬を飲み、ドアノブを用いて首をくくろうと数日にかけて何度も試してみました。
遺書も2枚ほど書いていました。
勘違いされている方もいらっしゃるかもしれませんが、首つりは最も苦しいと云われる酸欠によって起こる死ではなく、首にかけた紐によって頸部大動脈が締まり、脳に酸素が行き届かなくなって、意識が薄れ、無意識のうちに死に至るらしいのですが、これがなかなか難しく、わたしがやってみると、すぐにまず呼吸を詰まらせてしまい、意識が遠のくどころではありません。
いろいろ、紐の素材から巻き方まで、タオルを緩衝剤に使ってみるなどもやってみましたが、巧く行きません。
何かコツでもあるのでしょうか。
そんなこんなの試行錯誤をしていた訳ですが、何だかこのように失敗ばかり繰り返してきたからか急に、あっけらかんとさっぱりしてしまいました。
人間とは不思議なものです。
死ねたら、死ねたで良いかなぁという不純な動機だったこともあるのかもしれません。
しかし、意識からさえ落ちてくれれば・・・という思いも無きにしはあらずでした。
誠に自分勝手ですが、なにせ、分からないうちに死んでしまうのですから。
また逆説を用いて、レトリックじみてくるのですが、死は手段であり、目的では無いとは云っても怖い。
生理的なものなのか、怖いものを感じずにはいられない。
だからこそ、このように、知らないうちに死んでいたいということを望むのです。
しかし、これを書いている時点で、まごうこと無く、わたしは生きています。
生きてしまっています。
今のわたしには生きていることと、死んでいることの違いがよくわかりません。
あくまでそれは、他者が決めることのようにさえ思ってしまいます。
結局、わたしは、どこへ行きたいのでしょうか。

生きるとは、死ぬとは何なのでしょう。
死んでみるのも一興かもしれないと思う自分がいるのも確かです。
生きるのに疲れました。
だからこそ、手段としての死が上記のように複雑に生理と理性が絡み合い見え隠れするのです。

数日後には、少し落ち着き、結論が出ました。
だけれども、わたしは死なない。
死ねない。
これで、いいんだよね・・・
自分のためとは思えないけれど、母のために、そして犬のために。
これからのことに付いては、流れに身を任せます。


少しずつ、持ち直してきました。
何が何やら、訳が分からない文章ですが、とりあえず、生きています。




しかし、中二病っぽいなぁorz
これ・・・