静岡安倍川を越すこの道はここ安西橋以西、藁科街道とよばれ、正式には国道362号線となっている。
この安西橋右岸から左岸方面には静岡の街の中心部がうかがえる
この橋の左岸付け根を昔は建穂口(たきょうぐち)とよび、徳川家康が建穂寺の稚児舞を気に入り
静岡浅間神社殿に建穂の稚児舞を奉納するとき、安倍川を渡ってきた稚児と僧侶をお迎えした場所の呼び名となっていた。
安西5丁目(延命地蔵尊左)
現在の安西橋はおっさんが社会に出たその年の4月完成した。
その頃上流側には幅3mくらいのコンクリの橋が両側に少し残っていた。
左岸のたもとの角には交番があった。
古い道跡と交番跡(バイクの処)
当時、この橋の西、藁科方面には昔でいう電話局がなく加入電話を4~5年待つお宅が多かった。
安倍川の右岸にそそぐ藁科川上流の木枯しの森近くに架かる牧ヶ谷橋以南は銅線2本しか無かった。
(銅線2本で1軒の家が電話をすることが出来た)
木枯しの森(万葉集の時代の文献に登場)
話は建穂口に戻るが、稚児舞いを行っていた建穂寺は今は無くお堂がひっそりとたたずんでいる。
裏山には観音道が残され昔あった一町毎に寄進された地蔵が今はまとめられこのお堂の裏に置かれている。
(一町はほぼメートル法だと110m弱くらい)
徳川家康は静岡浅間神社に稚児舞を奉納できたお礼にこの左岸から建穂寺まで道路を普請した(稚児道)
その後この道に繋がる橋として造られた当時の名前は稚児橋と呼ばれた。
おっさんの青春はこの安西橋両側から始まりました。
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この安西橋右岸から左岸方面には静岡の街の中心部がうかがえる
この橋の左岸付け根を昔は建穂口(たきょうぐち)とよび、徳川家康が建穂寺の稚児舞を気に入り
静岡浅間神社殿に建穂の稚児舞を奉納するとき、安倍川を渡ってきた稚児と僧侶をお迎えした場所の呼び名となっていた。
安西5丁目(延命地蔵尊左)
現在の安西橋はおっさんが社会に出たその年の4月完成した。
その頃上流側には幅3mくらいのコンクリの橋が両側に少し残っていた。
左岸のたもとの角には交番があった。
古い道跡と交番跡(バイクの処)
当時、この橋の西、藁科方面には昔でいう電話局がなく加入電話を4~5年待つお宅が多かった。
安倍川の右岸にそそぐ藁科川上流の木枯しの森近くに架かる牧ヶ谷橋以南は銅線2本しか無かった。
(銅線2本で1軒の家が電話をすることが出来た)
木枯しの森(万葉集の時代の文献に登場)
話は建穂口に戻るが、稚児舞いを行っていた建穂寺は今は無くお堂がひっそりとたたずんでいる。
裏山には観音道が残され昔あった一町毎に寄進された地蔵が今はまとめられこのお堂の裏に置かれている。
(一町はほぼメートル法だと110m弱くらい)
徳川家康は静岡浅間神社に稚児舞を奉納できたお礼にこの左岸から建穂寺まで道路を普請した(稚児道)
その後この道に繋がる橋として造られた当時の名前は稚児橋と呼ばれた。
おっさんの青春はこの安西橋両側から始まりました。
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安西橋のあたりから深く
読み込んでしまいました~(^。^)
こうして拝見させていただくと
全く違う街を探索しているようですね♪
感謝です~^^。
若い頃~(笑)
安西自動車学校へ通っていたので
安西橋もそのころ毎日・・ナツカシイです。
あの学校の門の前を1,000軒分の電話線を埋めたんですよ。アフリカのナイジェリアの話みたいでしょ。
もう、あの学校も無いんだよね。