ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

ガマの油売り口上の文言にある「常陸の国は筑波の郡」の由来

2013-12-24 | 筑波山地域ジオパーク


大和朝廷による官制の整

大和朝廷は、663年の朝鮮・白村江の敗戦後、中央及び地方官制の整備につとめ、地方官制については、京の周辺である大和、山城、摂津、河内、和泉5カ国を畿内(五畿)とし、畿内を中心に放射状に東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海及び西海の七道(大行政区)が設定された。 


 その中で最も基本的な行政単位は国で、それが、さらに郡(こおり)、さらに里(さと、り)に分けられた。
国司は中央から赴任し、一定任期(大宝令では6年、のち4年となる)で交代した。郡司は、在地豪族が任命され、多くは世襲であって、国司の監督のもとに里長を督促して郡政にあたった。  

 北陸は斉明天応の時代(651年~661年)に、阿倍比羅夫の征討(658年)の後、越後の開発経営が進められていたが、さらに北上して712(和銅5)年、出羽国をおき、東海・東山・北陸道の人民を移住させた。
 太平洋岸陸奥方面においても713(和銅6)年以降新たに郡をおいて移民を行い領域の拡大を図った。 

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廃藩置県以前は「東海道」の一国 
東海道は、古くは「海つ道」といった。伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、上総、下総、常陸の13カ国の地域をさし、その国府を連ねる道をさす。 

 また、行政区画としてはこれら諸国の総称である。 

 713(和銅6)年に上総から安房を分地し「東海道」に安房国を加えた。
さらに771(宝亀2)年には東山道から武蔵を編入したので、「東海道」は15カ国と成った。


 常陸国  
 「東海道」の東端に位置する“常陸”は、大化改新(646年)により11郡からなる国となった。国府・国分寺はともに茨城郡(現在の石岡市府中)におかれた。東は海、南は下総(しもうさ)、西は下野(しもつけ)、下総、北は磐城(いわき)で、現在の茨城県の北・東部で、その大部分を占める。  


 鎌倉時代には小田・宍戸氏が守護となった。南北朝、室町時代には、常陸は関東管領(かんれい)の管轄するところであり、佐竹氏が守護を世襲した。
 豊臣秀吉の死後、佐竹氏は豊臣方につくべきか、徳川方につくべきかで後背さだまらなかった。このため佐竹氏は徳川氏によって出羽秋田に転封させられた。


 徳川幕府が常総諸藩成立の上でとった具体策は、
第1に、中世以来の旧族を常総から一掃し、新領主による徳川的な地方統治の基盤を築いたことである。
 これによって、常総には中世以来の土豪的大名勢力は何一つ存在せず、領民と旧領主との関係は切断され、徳川幕府の権力の浸透を容易にしたことである。 


第2に、中世以来の旧勢力を一掃したあとへ、御三家である水戸家をはじめ、宗門あるいは譜代の大名を配置したことである。

第3に、水戸の地が、東北大名に対する防備上、江戸の外郭として重要視されたことである。 

 江戸時代には、下記の19の藩がおかれた。
    宍戸・・・・・・・・・・・   秋田・松平氏 
    水戸・・・・・・・・・・・   武田・徳川氏  
    笠間・・・・・・・・・・・   松平・井上・牧野氏  
    下館・・・・・・・・・・・   水谷・黒田・石川氏 
    下妻・・・・・・・・・・・   多賀谷・井上氏  
    手綱=松岡・・・・・・・・・戸沢・中山氏  
    土浦・・・・・・・・・・・   松平・土屋氏  
    府中=石岡・・・・・・・・・六郷・松平氏  
    志筑・・・・・・・・・・・   本堂氏  
    牛久・・・・・・・・・・・   由良・山口氏 
    麻生・・・・・・・・・・・   新庄氏  
    真壁・・・・・・・・・・・   浅野氏 
    小張・・・・・・・・・・・   松下氏  
    古渡・・・・・・・・・・・   丹羽氏  
    北条・・・・・・・・・・・   佐久間氏  
    高森・・・・・・・・・・・   内藤氏  
    鹿島・・・・・・・・・・・   新庄氏 
    岩間・・・・・・・・・・・   松平氏 
    谷田部・・・・・・・・・・・ 細川氏 

 茨城県の誕生
 1871(明治4)年の廃藩置県により、
   宍戸・水戸・笠間・下館・下妻・松岡6県は茨城県となり  
   土浦・石岡・志筑・牛久・麻生5県は、若森・竜崎・松川・多古・小見川・高岡の他県と合併して新治(にいばり)県をとなった。 

 1875(明治8)年、茨城県と新治県は、合併して今日の茨城県となった。

国名・常陸、地名・筑波の由来 
 国名の常陸、地名の筑波は「常陸風土記」によったとされ散る。風土記は713(和銅6)年の詔命によって成立した風土記の一つである。内容は、常陸国の名称や由来、国土の概要を記している。説話は約50あるが、そのうち最も多いのが地名伝説である。

常陸風土記は抄本であって、その成立年代や編者は不明である。

 「常陸風土記」によると国名・常陸、地名・筑波について次の記事がある。

常陸

 そう名付けた由縁は、往き来の道路が大河や海の渡し場を隔てることなく、郡郷の境界線が山河の峰や谷に続いているので、真っ直ぐな陸路の意味を取って、国の名としたのである。

 また、ある人はこう言っている、倭武天皇が、東の夷の国をご巡視になり、新治の県をご通過になった。(倭武天皇は)国の造である毘那良珠の命を遣わされて、新しく井を掘らせたところ、流れる泉が清らかに澄み、大層心惹かれた。その時に、お乗物を止めて、水を賞美して御手をお洗いになった。 

 御衣の袖が泉に垂れて濡れた。そこで袖をひたすという意味によって、この国の名としたのである。土地の言い習わしに、「筑波岳に黒雲がかかり、衣袖をひたす=ヒタチの国」というのは、このことをいうのである。 


〔筑波〕 

 筑波の郡。(東は茨城の郡、南は河内の郡、西は毛野河、北は筑波岳である)。

古老のいうことには、筑波の県は、昔は紀の国と言った。美万貴の天皇((崇神天皇)の御世に、釆女臣の同族、筑箪命を紀の国の国造としてお遣わしになった。その時に、筑箪命が言うことには、「私の名をこの国に着けて、後の代まで伝えさせたいと思う」といった。

 そこでもとの名を改めて、筑波と称したということだ。(土地の言いならわしに、「握飯が付く=筑波の国」という)。

 国名(常陸)、地名(筑波)の由来は、下記によった。
  「中村啓信、谷口雅博、飯泉健司 編  大島 敏史 写真
    『風土記を読む』発行所 株式会社 おうふう」  

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ガマの油売り口上



 


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