幻の詩集 『あまたのおろち』 by 紫源二

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2018年2月18日(日)の瞑想録

2018-02-19 02:12:53 | Weblog

2018年2月18日(日)

今日、誰もいない実家で一人、風呂に入っていたら、西に沈みかけた太陽が少し開けた窓から眩しく差し込んできた。太陽の光は風呂場の入り口のガラスに反射していた。よく見ると、小さな点がそれぞれ単色に輝いていた。黄色、黄緑色、オレンジ色、紫色。輝く光の点を見つめながら瞑想した。
月は太陽の光を反射して輝いているように、太陽は、銀河の中心太陽の光を反射して輝いている。
創造の神はいったい何を創造したのだろうか。この私だろうか。
私はこの地球で何を経験しているのだろうか。
私はただ単に、この狭い日本で、死ぬまで働く堅苦しい社会生活を送っているだけの存在ではない。宇宙の創造の光を反射する存在だ。私は今、その光の微妙なニュアンスを感じている。
それはあらゆるところに偏在している。
エマニュエル・スエーデンボルグが霊界には常に霊的太陽が輝いていると言った、その霊的太陽の光。
もう2月の半ばで春の兆しが感じられるとはいえ、風呂場の窓を開けていると冷たい風が吹き込んで、頭が冷えてくる。ヒヨドリとカラスが強い風に吹かれて鳴いている。太陽の光は風に揺らぐことなく、煌煌と輝いている。
そのとき、ふと、かつてYさん(私より40才歳上の女性)が私に語ってくれた言葉を思い出した。
「神、未だに語られしことなし。」
この言葉は二通りに解釈できると言う。
ひとつは、「神自身は、未だに語ったことがない。」という意味と「神について、未だに語られたことはない。」という意味だ。
でも聖書の創世記には「神は光あれと言った。」と書いてある。聖書の記述と矛盾する。
「神は未だに、神自らのことを、自ら語ったことはない。」という意味なのではないか。それなら、上記の二通りの意味が一つになり、聖書の記述とも矛盾しない。でも、Yさんの語った神は、天地創造の神とは違っていたように思う。人間が存在するようになってから、人間によって造られた神だ。
人間には様々な悩みや苦しみがある。それを救って欲しくて神に祈る。その祈りによって神が創造された。だとしたら、神と繋がることは、銀河の中心太陽と繋がることにはならない。でも、エマニュエル・スエーデンボルグの言った霊的太陽の光を太陽系の太陽は反射しているのだとしたら、天地を創造した神は単に自然界を創造したのみに留まらず、霊的な光をも創造したはずだ。そして人間の霊は、様々な経験をして、最終的にはこの霊的太陽に吸収されるという。
人間の様々な悩み苦しみを聞いている神は、この霊的太陽の超自然的な力をも合わせ持っているのではないか。
明日をも知れない人間は、様々な悩み苦しみを体験するために生まれてきた。そして、それから救われることこそが神的体験であり、超自然的な奇跡なのではないか。そして、苦しみの中から霊的な光を見いだす。それは霊的太陽に他ならない。
しかし仏陀は、人間の様々な悩み苦しみを解決するまったく別の方法を教えた。つまり、物事には実体はない。総ては縁起によって生成しているだけだという思想だ。人間の様々な悩み苦しみにも実体はない。それを感じる人間の五感にも実体ははない。ただ総ては、縁起によって生成流転しているだけだと。
苦しみには実体はないと知ると、「なんだそうか」と思う。総ては幻想のようなもの。苦しみを感じているこの自分にも実体はない。ただ、今、一時だけ、たまたま縁起によってこのように存在していると感じているに過ぎない。
今あるがままの自分を見つめる。
過去にも未来にも囚われない。
そうすると、ただ意識だけが残る。
思考は雲のようなものだ。雲は湧き上がり、形を変え、流れ、やがては消えていく。それに囚われてはならない。むしろ空に意識を向けるべきだ。空は文字通りの空っぽだ。無だ。しかし、それは何もないのとは違う。無性が存在する。闇がなければ光は存在し得ないように、無性が存在するから縁起が生成流転する。生成流転は時間の持続の中で、変化しない“意識”があってはじめて流転していることに気づき得る。この意識こそ無性に輝く光なのではないか。霊的太陽は目覚めた意識だ。そしてそれはただの光なのではない。あらゆるニュアンスを含んでいる。白色光が、プリズムを通すと、あらゆる色彩を含んでいることが明らかになるように。意識はあらゆる経験の記憶を含んでいる。この“記憶”こそ“叡智”なのではないか。だとするなら、無性と神は相矛盾しない。神には実体はないかもしれない。しかし、生成流転する中で、持続する光が意識として自らを意識したとき、輝くような光明を獲る。それこそ正に叡智に他ならないのではないか。
あらゆる問題は、時が経てば必ず解決する。そこに問題を解決させる叡智が働く。この叡智こそ因果を超えた愛だ。あるいは、愛こそ因果を生み出す叡智そのものなのかもしれない。さもなければ、我々人間が宇宙に存在する理由もなくなるだろう。ありとあらゆる生命も、何故存在するようになったのか。あらゆる違ったニュアンスがそこには含まれるからなのではないか。ちょうど今見ている太陽の光に照らされたガラスに、様々な色の光の点が輝き、その一つ一つの色に、それぞれ違ったニュアンスを感じるように。私の意識にも、光の独特の雰囲気が感じられる。
私はできるだけ崇高な光明を意識したい。それは霊的なインスピレーションだ。何故私は今ここに存在しているのかという問いの実感的答えだ。