放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater6~

2011年03月27日 01時10分47秒 | 東日本大震災
 雪はだんだん本降りになってきた。
 余震はまだまだおさまりそうにない。
 時刻は午後の3時20分頃。
 実に僕たちは、30分以上ものあいだ、今後の決断ができずにうろうろしていたことになる。
 
 もしも海沿いにいたならば、津波警報をうけてパニックになっていたに違いない。そして、おそらく波に呑まれていただろう。
 事実、このころすでに仙台空港付近には津波の第一波が到達している。

 この状況で、僕は何度もBELAちゃんにメールを送ろうとしていた。無駄かもしれないけど、自身の無事を伝え、BELAちゃんの安否を知りたかった。放菴の無事と子供たちの状況も知りたかったが、こちらは誰も教えてくれる人がいない。僕かBELAちゃんが放菴にたどり着き、確認するしかなった。
 何度目かの通信で、やっと送信が出来た。届け。頼むから届いてくれ。
 余震がまた来た。とっさに建物に戻ってしまった。いけね。
 駐車場には一面に雪が降り続け、その中にみんなが避難しているマイクロバスがあった。

 僕たちが決断できずにいたのは、自力で帰れない人たちも一緒にいたからだ。 
 おおよそ20名ほどの人々が、公共機関や送迎バスを利用してこの高台にある職場へ来ていた。 
 だが交通機関は完全にマヒしている。なかには塩竈など、遠方かつ津波の被害を受けているかもしれない地域から来ている人もいる。
 連絡しようにも、通話は一切閉ざされている。

 雪はほとんど吹雪に近かった。路面状況の悪化も危惧される。
 とにかく送っていこう。
 ボスが指示を出す。
 
 各方面へ送ってゆく人数を確認し、それぞれの方面へあたる職員が割り振られた。
 僕は四名様お預かり。最終地点は名取市だった。なるべく西よりの道をいけ、と厳命された。
 津波を逃れてきた車と合流すれば、よけいに身動きが取れなくなるからだ。
 例の塩竈の人も、港の方へは行かず知り合いの家へ行ってもらうことにした。

 あとはクモの子を散らすがごとく、雪の中へ別れていった。
 最後にボスが残った。残留者が出るか、近隣の避難者が身を寄せてくるならば、ここで夜を明かす覚悟だったという。

 なんとか通りに出たものの、案の定クルマだらけで前に進めない。
 なにしろ信号がすっかりダメだった。しかも交差点からは絶え間なくクルマが流れ込んでくる。道が埋まらないはずがない。
 それでも不思議なのは、接触事故やクラクション、怒号などが一切なかったということだ。
 みんな静かに車幅を詰めあって、すこしずつ、すこしずつ進んでゆく。
 中には仕事が続けられらないからあきらめて帰路についたという人もいたかもしれない、けれども誰しもが「今頃ウチはどうなっているだろう」と思いながらハンドルを握っていたはずだ。それでもこの渋滞の中で、焦燥感のような感情が湧いてこないのは、東北人ならではの辛抱強さだったのかもしれない。
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