かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【私事・些事】 〈その人〉

2020年05月19日 | 私事・些事

【2011/9/3】

 〈その人〉について思い出せることは極端に少ない。私が4,5才の頃の静止画のような断片的なイメージが少しあるだけだ。

〔エピソード 1〕

 私は4才くらい。膝のうえで〈その人〉に抱かれている私は、カンカラ(缶詰の空き缶)を手にしている。目の前では、5,6人の男たちが花札に興じながら、金のやりとりをしている。私を膝に乗せていた〈その人〉は花札には加わっていなかったと思う。
 どのようなタイミングなのか理解できなかったけれど、ときどき〈その人〉のところに金が差し出される。〈その人〉は紙幣は自分でしまい、硬貨を私の持っているカンカラに入れてくれる。
 私はカンカラの中にしだいに増えていく硬貨を楽しみに、長いこと〈その人〉の膝の上で抱かれていたような気がする。それでも、夜が更け、眠くなって部屋を出ると、待ち構えていた母がカンカラごと金を没収する。

 その頃、〈その人〉は近隣の男たちを集めて、小規模な博打場を開いていたということであった。戦後5,6年の東北の農村の多くは貧しく、出稼ぎに行く人も多かった。夜汽車で東京に出て行く前に、この小さな賭博場に引っかかり、なけなしの汽車賃や一張羅まではぎ取られる人もいたというのだ。そんな人に、はぎ取られた服と汽車賃をこっそり手渡すのが母の必須の仕事だったという。ほとんどの場合、そんな人の妻や子供を母はよく知っており、どんな暮らしをしているのかもよく知っていて、見ていられなかったのだ、と後に母が言っていた。

〔エピソード 2〕

 季節はよくわからない。母も兄たちも姉たちも留守で、私一人が(たぶん、母を待ちわびて)居間でぼんやりしているとき、〈その人〉は帰ってきたのである。
 「ほれ、おみやげ。」
といって、新聞紙で無造作に包まれたものを手渡された。開くと、刃渡り30cmほどの短刀であった。柄の部分を入れれば、40cmをこえる短刀は、4才か、5才の私には大きすぎる重いおもちゃで、言葉もなく困惑していた記憶がある。
 どこかの駅でチンピラと揉め、そいつから取り上げた、という意味のことを〈その人〉は幼い私に言った。

 母が帰宅すると、その短刀はすぐに取り上げられた。だが、短刀は捨てられることなく、台所の隅の半坪ほどの炭置き場のなかで炭割り道具として長いこと我が家で使われていた。

〔エピソード 3〕

 ある朝、出勤時間をとっくに過ぎているのに、次兄がまだ家にいて荷物をまとめている。荷物には、下着のようなものもあったけれども、菓子類のようなものもいくつかあって、私は次兄から離れられないのであった。
 めずらしく背広にネクタイの次兄は、「これから北海道の叔父さんに飛行機で送るのだから、お前にはやれない」と言う。お昼過ぎにはその飛行機が家の上を北のほうに飛んでいくから、と言い置いて家を出て行った。憲兵だったという叔父(母の弟)が少し前に我が家に訪れ、背の高い叔父に初めて会った私は、北海道に住んでいる叔父についての話をしきりに聞きたがっていたということだ。
 昼過ぎ、しばらくは空を眺めていたが、飛行機は見つけられず、日は暮れ、暗くなって次兄が帰宅した。そして朝の話のつづきは家族の誰も口にしないのであった。

 その頃、〈その人〉は、炭鉱か工事現場かの「たこ部屋」に人を世話する仕事をして警察に捕まり、留置場に入っていたというのだ。その日、次兄は〈その人〉に面会と差し入れに行ったのだということがわかったのは、小学5,6年になった私がその時の話をしたとき、三兄がこっそり教えてくれたことによる。

〔エピソード 4〕

 私は〈その人〉に叱られた記憶がない。
 その頃、長兄は中学教師に、次兄は町役場に勤めるようになっていた。兄や姉たちと〈その人〉の関係がどんな風だったか、私にはまったくわからない。

 我が家の囲炉裏には、足をおろせるように15cm幅の板が炉の四辺、灰の上に置かれていた。ある日、〈その人〉はその板を取り上げて、次兄を何度も叩くのだった。家に入れる金が少ないというのが、打擲の理由だったようだ。
 その後、次兄は町役場の宿直室に泊まり込み、家に帰ってこなくなった。中学2年か3年だった次姉が、中学校へ行くとき、毎朝遠回りをして食事を次兄に届けるのが日課になった。その姉についていき、役場の玄関で次兄と会って、一人で家に帰ってきたということもあった。町役場と我が家のあいだは1本道で、幼い私にも何でもない道だったのである。

 その後まもなくして、〈その人〉は家を出て行った。もともと留守がちの人だったので、家を出て行ったという事件の印象は全くない。

〔エピソード 5〕

 これは私の記憶による話ではない。母が幼い私に繰り返し聞かせてくれたことである。

 母は私を連れて、隣町のある家を訪ねた。そこには、家を出た〈その人〉が女の人と暮らしていた。母が何をしようとしてその家に行ったかは、話さない。母がいつも話そうとしたのは、その家に入ったとき、私が
  「どうして玄関に敷居がないの。」
と母に尋ねた、ということだけである。

 戦後間もない東北の農村には、玄関に敷居のない家がまだあったのである。農村の中でもとりわけ貧しい場合である。ある同級生の家の玄関には敷居がなく、莚が戸の代わりにぶらさがっていた。私の記憶のなかにあるのは、この一軒だけだ。

 母はなぜこの話を幼い私に聞かせたがったのだろう。家を捨てた〈その人〉が、我が家より貧しそうな見栄えの家で暮らすことをはからずも私が指摘したことで溜飲を下げていたのであろうか。あるいはまた、その家に住む女の人に対してであったろうか。

 母と私がその家を尋ねてまもなく、〈その人〉はその家の女の人といっしょに東北の農村からも出て行ってしまった。母に連れられていったその日が、〈その人〉を見た最後ということになる。
  
〔その後〕

 〈その人〉が私たちの周囲から消えてしまったあと、私たちは平穏に暮らした。少なくとも私の生活は、母、そして年の離れた三人の兄と二人の姉のなかで、ただ一人の子供として、甘え、甘やかされて過ごす日々だったのである。母や兄姉たちがどんな思いでいたのか、知る由もなかった幼い私にとって、貧しかったが、不幸なんかではなかった。
 兄や姉たちには叱られた記憶がない。せいぜいからかわれたくらいで、その典型は「お前は川流れだ」というものである。私一人だけ年が離れているのは川を流れてきたのを拾ったからだ、という。兄や姉たちが口をそろえて言いつのり、私もそうなのだと納得したりもしたが、まったく平気だった。不幸でもなんでもない「川流れ」、それを嫌だとは思わなかったのである。可愛がられている、という実感のほうがはるかに強かったのだと思う。

 〈その人〉はとうに私の中から消えていた。記憶にないあの日が最後の完全無欠の別れであった。そのはずだった。

〔その後のエピソード 1〕

 19才、大学二年として仙台で暮らしていた私が、夏休みで帰省すると、少し前に、〈その人〉が田舎に突然現れたということであった。〈その人〉がいた頃に住んでいた家はすでに取り壊されて跡形もなかったはずである。兄姉たちはすべて結婚し、独立していて、母は次兄夫婦と暮らしていた。
 次兄の家を探し当てて現れた〈その人〉と、母や兄たちがどんな話をしたのかはわからない。誰も話そうとしないのである。いま暮らしている住所を書き残して〈その人〉はふたたび消えてしまったというのである。母は、帰省した私にその住所をこっそりと教えてくれた。

 その年の12月、暮れも押し詰まったころ、その住所(東京都昭島市)に出かけてみた。工事現場の飯場のような大きな家だった。40代、50代の男の人たちが大勢いた。
 〈その人〉が私の顔を知らないのは当然であったが、自己紹介をしたはずの私への反応も、ぼんやりしたものだったような気がする。心当たりがなかったのではないか、と思う。初めて会った大柄な男の人が相手をしてくれ、小さな部屋でいっしょに酒を飲んだが、〈その人〉は一度も顔を出さなかった。
 そのおじさんが私のマフラーを気に入ったらしいので、次の朝、別れしなにそのマフラーをプレゼントしてその家を出た。そのとき、〈その人〉と顔を合わせて挨拶をしたのかどうか、まったく覚えていない。

 私のなかには〈その人〉がいないように、〈その人〉のなかにも私はいないのだ、ということだけを確認して仙台に帰ってきた。仙台に帰って、年が明けた頃、私はひどく精神が弱ってしまい、下宿のおばさんに強く説得され、数ヶ月大学を離れることになった。「精神の弱り」は、〈その人〉とはまったく関係のないことを理由としていた。

 〈その人〉を訪ねていったことを家族に話すこともなく、ふたたび私の家族とその人とは没交渉となった。遠く離れて暮らす兄と姉を訪ね歩いて、その時期を過ごした。  

〔その後のエピソード 2〕

 25才であったか、26才になっていたか、このエピソードの最初のシーンの時期の記憶はじつに曖昧なのだ。大学院の修士2年か、大学の附置研究所の助手か、私の人生の区切りの明確などちらの時期に属するのか、まったく思い出せないのである。

 次兄から連絡があって、できるだけ早く一度家に帰ってくるように、というのであった。
 帰省すると、〈その人〉が病気で倒れたという連絡があったという。脳溢血で倒れ、寝たきりだという〈その人〉を、次兄は引き取ることにした、というのだ。次兄が話しているあいだ、母はしきりに「ほっとけ、かまうな」と口をはさむのだが、次兄は耳をかさない。
 迎えに行くのだが、私にいっしょに行ってほしいという。シャイで口べたな次兄は、私を交渉役にしようというのである。

 次兄夫婦と私は、昭島を訪ね、〈その人〉の病状を確認し、世話をしてくれていた家族になにがしかの謝礼をして、〈その人〉を引き取った。
 昭島から東京駅まではタクシー、東京-仙台は夜行寝台車、仙台からはまたタクシーで、ある市の比較的大きな病院に〈その人〉を入院させた。病院には母が待っていて、〈その人〉は母の付き添いで入院生活を送ることになる。

 私が26才の2月、〈その人〉はその病院で65才で亡くなった。始まりの記憶がないので、どれくらいの入院の後で死んだのか、はっきりしない。入院中に2度ほど、〈その人〉の髭を剃ってやった記憶がある。

 〈その人〉が亡くなった日からちょうど1ヶ月後に私の結婚が予定されていた。葬式を出した後で、結婚式をどうしたものか相談すると、母も兄姉たちも口を揃えて「予定通り」というのである。我が一族は、〈その人〉の喪に服すことはなかったのである。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 森林麟太郎のいくつかの短編小説 [1] に刺激されて、〈その人〉について思い出せることを書き出してみた。私と同世代の森林麟太郎は、幼年時代、青年時代、そして父親となって向きあった子供のことを、いわば緊密に重なり合う想世界として小説に描いた。
 私にも父母がいて、妻がいて、子もいて、そして長いこと生きてきたが、父のことを思い出すことは皆無に近かった。夢に見ることもまったくない。成人してから、ふたたび父と会うことになった。その大人としての父との交渉を、イヴェントとして記述することはそこそこできるのだが、その時の父のイメージ、その時の父に対する私の感情のようなものは何ひとつ私のなかに残っていないのだ。
 私の父に対する無感情、無感覚は、思いがけないところで役に立った。ふたたび家族の前に姿を現した父との交渉は、もっぱら私の仕事になった。おそらく母や兄姉たちは自分たちの抑えきれない感情がどのように表出するのか、怖れを抱いていたいにちがいない。私には表出されるべき感情がないようなのであった。
 父にしても、留守の間に生まれ、たまに戻ったときに数度目にした程度の幼児を息子だとする認識を育てられなかったのではないか、と思う。

 私の意識のなかの、私と父の関係について何か変だと感じたのは、森林麟太郎の小説「奥の堂物語」の次の1節を読んだときである

だがそのような、天からはほど遠く地にだけはまるで近い存在である人間として見ればごくありふれたあたりまえの事実でさえ、時が経てばひとは忘れる。わたしも忘れる。あなたも忘れる。でも、たとえ忘れ去ったとしても、記憶は残る。記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる。これが私らの歴史というものなのだ。だれかがおおやけに書き残したから歴史になったのではない。忘れ去ることができても記憶として追いかけてくる打ち消しがたい事実があるからこそ、歴史は歴史として存在し続けるのだ。(森林麟太郎「奥の堂物語」

 意識してそうしようと思えば、父のことをエピソードとして思い出し、数え上げることはできる。だが、そこにはエピソードだけがあって生きた父は存在しないようなのだ。日々の暮らしの中で思い出すなどということは皆無だし、テレビドラマや映画、小説などでさまざまなタイプの父親が描かれていても、私の父を思いうかべもしない。夢になんか1度だって登場しない。
 「記憶は忘れ去った日々の中からときに夢の中の事実として、ときに亡霊の形してひとびとの心の中によみがえる」というわけではないのだ。父をめぐって私の過去で「起きたこと」を忘れてはいない。しかし、夢としても亡霊としても現れるような記憶としては存在していない。もしかして、「父」は私の潜在意識、無意識の領野から(つまり、森林麟太郎のいう「記憶」から)とうの昔に追放されていたのはないか、と思ってしまったのだ。
  意識にありながら無意識の領野にはない、などという矛盾に満ちた心というものがあろうか。

無意識は、諸問題と諸差異を糧として生きているのである。歴史というものは、否定を経由せず、また否定の否定をも経由せず、反対に、諸問題の決定と諸差異の肯定を経由するのである。 (ジル・ドゥルーズ [2])

 ドゥルーズ流にいえば、「父祖」は喪失されたものとして諸《理念》-諸問題の要素に含まれていないのではないか。諸《理念》-諸問題に存在しないものは生まれようがないのである。父から子へ、さらにまた子へと紡がれるような物語、歴史を私は語ることができない。父と自分、自分と子の2重写しの感情が幻想的に描かれる「お暗き夜半を」を読みながら、そう思ったのであった。

 ひとつの影が言った。
  「あなたは幼くして父を見殺しにした。それがたとえあなたの母のためだったとしても、あなたは光から許されることはない。あなたは身を賭して償いをするのです。すべて与えられなかったものとして、あの暗闇に戻って行きなさい」
  ひとつの影が答えた。
  「お母さん、ぼくお父さんを捜しに行って来る」
  それはあの五歳の時のままの息子の声だった。(森林麟太郎「お暗き夜半を」)

 私は、〈その人〉の写真を一枚も持っていない。

 

[1] 森林麟太郎の作品は、『青空文庫』というWEBサイトに掲載されていたが、現在は読むことができない。
[2] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)「差異と反復 下」(河出書房新社、2007年) p. 261。

 

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【私事・些事】 参照系二つ

2020年05月11日 | 私事・些事

2010/12/1

 私には、座右の銘とか人生訓とか呼ばれるようなものの持ち合わせがない。誰か、偉い人の言葉を信じて生きるというような素直さがないのである。小学生の頃、読書感想文でいくら宿題として期待されても、伝記物、いわゆる偉人伝などを読んだ記憶がない。いや、実際には少しは読んだのである。そして、その語り口に含まれるある種のいやらしさに嫌気がさしたのだ。功なり名遂げた人を、後付けでほめまくる話なんて反吐が出る、と本気で思っていた。いや、この年になっても変わらない。

 


病気の原因? (安西水丸「天誅蜘蛛」より[1])

 

偉人あれば偉人にかならず逸話あり近代少年に読ましむる為
                                                    小池光 [2]

 座右の銘や人生訓でよく引き合いに出されるひとつに「論語」がある。もともと儒教として宗教であったものが倫理化して、日本では儒学などと呼ばれていた。「論語」は受験対策として一応は目を通した記憶がある。私の高校時代には、「漢文」という科目が独立していたのである。しかし、ただそれだけで終わってしまった。やはり、倫理臭が強いと、身を遠ざけるのは私の習性のようである。
 それでも子供の時分には、いつか処世訓や人生訓のようなものが身について、そうして大人になっていくのだろうと漠然と思っていた。一人前の大人というのはそういうものなのだろうと、想像していたのである。けれどもそんなことはいっこうになくて、私はじゅうぶんに年老いてしまった。幼年期のイメージから言えば、大人になり損ねたのだろう。

 進むべき道、行動を指示するような処世訓も人生訓も座右の銘もないが、いろんな場面で思い浮かべる言葉はある。何も指示するわけではないが、場面場面での思考の参照系にはなっていると思う。一つは、

蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤だ

という金子光晴の詩の中の1行である。出典はもう分からない。20才前後に読んだはずなのだが、手持ちの金子光晴のいくつかの詩集には見あたらない。「現代詩手帳」とか「詩学」のような若い頃に呼んでいた雑誌に掲載されたものかも知れない。したがって、金子光晴らしく旧仮名遣いにしたが、この通りであったかは保証できない。音はこの通りだという確信はある。
 この句はまず、文字どおり文化、文明系への参照として思い出すのである。人はどうしても、新しいものへ、事物、事象の改変、改訂へと向かうことが価値あることとして生きることが普通だと思っている。ハイデッガー流に言えば、私はいつだって「頽落」にどっぷりと浸かって生きている。自分に役立つ、自分の得になる、利益となるという方向へ落ち込んでいく。そうして失うものを自覚的に認識できているのか、という場所でこの句は作用する。
 また、この詩句は、自然、環境への態度決定における参照系でもある。最近は、生物多様性について喧しく議論されている。2010年には「生物多様性条約第10回締結国会議」が名古屋で開かれた(現実には有用生物資源をめぐる先行資本と後進資本の戦いにしか見えないのだが)。金子光晴の詩句は、ラジカルな生物多様性の宣言である。蠅は有用生物資源か。たとえ有用生物資源ではなくとも、「蠅のゐない文明なんて嗤ふべき錯誤」なのだ。「有用生物資源」という語彙に含まれる本質的な反自然性こそ問題なのだ、とこの詩句は語ってはいないか。

 やはり、20歳前後に読んで記憶に定着したもう一つの参照系がある。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

という寺山修司の短歌である。これも、何で読んだか記憶がないので、新しい本から引用した [3]
 これを私は「愛するに足る祖国であるか」という設問として思い浮かべるのである。祖国もそうだが、この社会で生きていくうえで、私たちは多くの組織、集団に帰属することになる。それは故郷であったり、母校であったり、職場であったり、労働組合であったり、時には政治党派であったりするだろう。そうして生きるプロセスの中で、私が帰属する、それゆえに愛する、などという思考方法はとらないということである。
 たとえば、生を受けたこの日本、この生は避けがたくこの国にある。その事実から、全く無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性が、いかに歴史を誤ったかは自明である。みずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのは苦しい行いである。無条件に身を委ねたら、どんなに気楽な人生かとは思う。そのとき、「身捨つるほどの祖国はありや」と思うのだ。

 この二つの参照系は、決してその場その場でどう生きるか教えてはくれない。考えるベースだけを気付かせてくれるだけである。私は、これだけで十分だと思いたい。あらかじめこう生きろと指し示すような人生訓や座右の銘では、多分私は生き方を間違う。いや、世間的には正しい生き方かも知れないが、多分悔やむことになる、という方が正しいようだ。その場面で、悩み考えずに生きる方向が定まってしまったら、生きる実感が少ないのではないかと思ってしまうのである。

[1] 安西水丸『東京エレジー』(ちくま文庫 1989年) p. 88。
[2] 『現代短歌文庫65 続々 小池光歌集』(砂子屋書房 2008年) p. 112。
[3] 寺山修司短歌集『万華鏡』鵜沢梢選(北星堂書店 2008年) p. 72。

 

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【私事・些事】 三つの書斎

2020年05月03日 | 私事・些事

【2010/11/24】

 じつのところ、我が家には書斎と呼べる部屋はないのである。20年ほど以前のことだが、家の建て替えに際して、無い知恵を絞りつつ間取りを考えているとき、大学の研究者という私の職業を慮ってか、妻が「書斎はどうするの?」と聞いてくれたのだが、即座に「いらない」と答えた。書斎を造るほど余裕のある建坪ではなかったし、書斎に坐って何かを行っている自分が全く想像できなかったのである。書斎の使い方の実感がなかった。

 小学2年くらいから、母と二人暮らしになったが、私は本を読んだり、宿題をしたりということをいつも居間 [1] で、母の側でやっていた。それは家を出るまでの高校2年まで続いた。当時、テレビは当然ながら無かったので、ラジオを聴きながら、そして母ととりとめのないことを話しながら、本を読むのが習いとなっていた。
 じつのところ、六人兄弟の末っ子で、甘えん坊の私には、母とそうしている時間がいちばん楽しかったのである。だから、宿題が終わっても、その時間を長く続けるために、本を読み続け、時にはなにがしかの勉強を続けることも多かった。それでいつも早く寝ろと叱られてばかりいたのである。
  
 職を得て、結婚しても、書斎のある家に住めるわけでもなく、調べ物をし、論文を書くのも居間である。話し相手は妻に代わり、ラジオはテレビに変わったが、やっていることは幼年時と同じなのである。子供をあやす、という新しいことも加わってはいたが。
 だから、私の第一の書斎は居間である。これは今でもずっと続いている。何となく安心で、居心地が良く、いわゆる書斎が欲しいと思ったことは1度もない。

 大学では原子力工学を専攻した。当時は、原子力が未来のエネルギー産業の中核になるだろうと期待されて、主だった大学に原子力関連の専攻ができつつあったのである。しかし、得た職は物理学が専門であった。同じ理工系といえども、物理学の研究者で生きるには、物理学として学んでいない基礎が多く残されていた。
 そこで、第二の書斎として寝室が選ばれた。といっても枕元ということである。眠りに入る前、目覚めた後、僅かな時間でも利用しようと、枕元には小さな本棚をそろえ、大学の講義では学ばなかった物理の本を読み始めたのだ。ただ、そのような本は、じつに有効な催眠導入剤として働くのであった。どちらかと言えば神経質で、なにかの拍子に眠れなくなる私は、その当時はよく眠れたのである。
 それでも、長い間(18年くらい)続けていると、枕元書斎といえどもかなりの量の教科書が読めるのである。この書斎は、凡庸とはいえ平均的なレベルの物理学者になれたのではないかと自覚しはじめた頃、いつとはなしに閉じられた。家にもパソコンを据えたために、論文書きやデータ解析など、自宅への持ち帰り仕事が増えたことも一因ではある。

 家を建て替えた後に、二階にもトイレができた。やや広めだったため、本棚として小さな箱を置き、新しい第二の書斎とした。ここはあまり長居をしないので、ある一定量のまとまりを読まないといけないような本は不適である。雑誌とか、詩集、歌集などがふさわしい。ここでは、万葉集から始まる古典詩歌のほとんどを読んだし、若い頃夢中になっていた現代詩集の再読、再々読もできた。

 トイレを読書の場所にするというのは、ささやかなちょっとしたアイデアのようだが、本読みには普通のことらしい。

  寒き日を書もてはひる厠かな   正岡子規 [2]  

 本好きの娘が、小学校の高学年になった頃、異常に長風呂になったことがある。私と一緒に風呂に入ることを拒否し始めた頃の話である。それなりの年齢になって、体を磨くことに執着し始めたのではないかと疑っていたのだが、長風呂の原因は読書だった。風呂に本を持ち込んで、読んでいたのである。
 第三の書斎は、娘に教えられて、風呂の中ということになった。娘がそんなことをするまでは、風呂で本を読むことなど、思いもしなかったのである。風呂の中というのは、意外に集中して本が読めることに気付くことになった。したがって、ここではどちらかと言えば七面倒くさいたぐいの本が主として対象となる。
 ただし、この第三書斎は欠点が多い。ここを読書の場にし始めた頃、ときどき妻が「だいじょうぶ?」といって覗きに来る。酒好きの私には入浴時が危険な時間帯である、と妻は信じて疑わないのである。私が風呂で倒れることをいつも心配しているらしい。これが第一の欠点。
 第二の欠点は、借用本は読めないことである。風呂というのは、どちらかと言えばリラックスできて快適な場所であって、居眠りにもふさわしい場所でもある。入浴時の読書と居眠りは両立しない。本がズボッと風呂に入ってしまうのである。たいていの場合は、ガクッとなった瞬間に目覚めるので、本の下部、数センチが濡れることになる。
 第三の欠点は、寒い時期に起きる。体を洗って石けんを洗い流すときにはシャワーを使用する。そのときに、本を浴室の中のどこにおいても、シャワーの飛沫がかかってしまう。そこで、体を洗う前に本を脱衣場に出すのであるが、冬場にはそのときに体が冷えてしまうし、浴室の温度も下がってしまう。そこで浴槽に沈んで体を温め直すのだが、体を温める時間こそ本を読む時間なので、何かしら損をした気分になるのである。

 ちなみに、2010年11月24日現在、3つの書斎で読んでいる本は次のようなものである。第1書斎(居間):吉本隆明「超戦争論」下巻、第2書斎(トイレ):「寺山修司俳句全集 全一巻」、第3書斎(浴室):ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「アンチ・オイデプス 資本主義と分裂症」下巻。

 

[1] 居間と言っても当時は囲炉裏端のことである。私は横座(主座)に坐り、母は嬶(かか)座に坐ってなりわいの和裁をしている。客座には小学時代は「ニコ」という二毛猫が寝ていて、中学~高校の時は「クロ」という文字どおりの黒犬が寝ていた。
[2] 『子規句集』高浜虚子編(岩波文庫 2001年、ebookjapan電子書籍版) p. 178。

 

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【私事・些事】 坊主頭、その後

2020年04月12日 | 私事・些事

【2010/11/30】

 初めて坊主頭にして理髪店から帰ると、105才の義母が「あらーっ」と言いながら戸惑ったような顔でじっと私の頭を見つめているのである。
 「なにか改心することでもあったのかしら。」
耳の遠い義母は、大きな声で妻に尋ねている。妻は笑ってしまって答えられない。そのあと、年相応に呆けている義母は、1週間ほどのあいだ顔を合わせるたびに同じ質問をするのである。「退職記念だ」と答えても納得しないのである。しょうがない。坊主頭は囚人頭でもある。
 時あたかも、当時の仙台市長は、家族の公費不正使用があったため、禊ぎのためか坊主頭になって再選に備えていた時期でもある(結局、周囲の支持が得られず、出馬を断念したが)。
 私にも改心しなければならないことはいっぱいある。ありすぎて、坊主頭くらいでどうにかなるような話ではないのである。ネオナチのスキンヘッドと一緒にされないだけましというものか。

 5月になると、教え子たちが温泉1泊の退職記念会を開いてくれた。7月には小さな研究会で仕事のまとめのような講演をした。そこで分かったのは、それぞれの参加者たちの間に、私の坊主頭は「彼の頭はエラいことになっている」というふうに伝わっていたのだ。
 火の元ははっきりしている。4月に坊主頭にした直後、その年から非常勤講師を勤めるある大学で講義の打ち合わせがあったのである。専門が近い教授が私の頭をみて、ついに残りの毛髪も失われたのだ、と思ったらしいのだ。
 半分は事実なので、「いやー、遊ぶのに都合がいいので。」と言い訳をしても、当の相手はにこにこしながらも気の毒そうな表情を微妙に現わすのである。「いやいや、どっちみち髪が少ないので坊主にした。」というと、これにはみな納得するのだ。

  禿げつつもなお禿げきらず青葉騒   金子兜太 [1]

 坊主頭にしたいと願っていた頃、私がイメージしていたのは、こんなことだ。退職して自由になった私は、帽子(キャップ)を被り、山々を歩き回り、あるいはアユやヤマメ釣りに出かける。汗をかいてはタオルでさっと頭を拭い、帰宅しては軽くシャワーで汗を流し、軽くタオルで拭くだけで済んでしまう、そのような便利で軽快な感じの生活なのである。イメージの中では、この坊主頭はいつも帽子を被っていたのだ。

 しかし、退職したといえども、なにがしか公式な場所に出なくてはならないことは起きる。背広を着て、ネクタイを締める時がある。ネクタイを締めながら鏡を見ると、少したじろぐのである。背広、ネクタイに坊主頭、というイメージはなかったからである。鏡に映った見慣れない姿に戸惑っているのである。どうも落ち着きが悪いのだ。
 そこで街に出かけ、ハット型の帽子を買ってきた。すこしは格好が付いた気がするのだが、妻は「年寄りくさい」と断じるのである。年寄りが年寄りくさくて何が問題なのかと思うが、少し腹が立つ。

 キャップとハット、2種類の帽子が揃うと、外出時にはいつも帽子を被るようになる。しかし、体はいつも帽子を被るのに慣れていないらしく、額のあたりの皮膚が荒れてかさかさする感じになってしまった。
 加えて、妻が「帽子はもう完全にハゲかくしということね」と身も蓋もないことを言うのである。そんなつもりは本人にはないのだが、実質的にそうなっている。
 帽子を被らなければ、額の荒れも治るだろうし、妻に言いがかりもつけられない。実に簡単なのだが、ここまで来てやっと気付いたことがある。坊主頭というのは、やはり基本的にマイナーなのである。マイナーな状態で世間をうろうろしたくないという気分が、どうも私にあるようなのだ。もともと、あまり目立ちたくない、できれば人の後ろに立っていたい、という引っ込み思案のたちではある。それが、いつも帽子を被る方に傾く理由らしいのである。

 どうというほどのことはなくて、最近は帽子なしが増えてきた。8月の炎天下には、アユ釣りなのでこのときはキャップが欠かせないけれども、山歩きでは、帽子よりもタオル鉢巻きが汗の流下防止に役立つので、もっぱらタオル愛用である。
 こうして、私の坊主頭は、1年半ほどを経て、私の体と生活において安定な位置に落ち着き始めたということらしい。


[1] 『金子兜太集 第一巻』(筑摩書房 平成14年) p. 402。

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【私事・些事】 墓石

2020年03月08日 | 私事・些事

【2011/9/13】


このようにしてオイディプスは、住まいを、おのれの最後の住まい(=墓所)を選ぼうとします。彼はそれを選ぶ唯一の者、それを決定すべき唯一のものになろうと願い、墓所のための唯一の者、命令に署名する者としての唯一のものになろうとします。ある選択を布告し、おのれの死と埋葬の場所に一人で赴くことに固執するがゆえに唯一の者に。彼はおのれ自身の葬儀を秘密裡に遂行します。

             ジャック・デリダ [1]

 また、ブレヒトは、「墓標を残すな/(……)/あとをくらませ!」 [2] と宣告するのである。
 神話ならぬ世界に住み、政治的な死を死ぬ予感のない私は、隠れなき平凡な墓を作った。もちろん、私は、私の娘をアンティゴネーにすることはない。そんな物語の不可能性を幸いだと思っている。

〔経過〕

 墓を建てた。正確には、墓石を新しくしたということである。

 妻は3姉妹の一番下で、3人とも結婚して姓が変わってしまい、義母一人がその姓を名乗るだけになってしまった。6人兄弟の末弟である私と、3人姉妹の末妹の結婚で、義母とは同居することになった。結婚に際して、私が姓を変えるという選択肢もあったのだが、養子という形式は私の母に遠慮だったのだ。

 私が生まれてまもなく、父は家族を捨て、戦争直後という時代も相俟って、貧しい時期が続いた。長兄、次兄、長姉、三兄の4人は、父のいる時期だったのでそれぞれ高校(旧制中学)に進んだものの、9才離れたすぐ上の姉は、中学(新制)だけ終えて就職せざるをえず、横浜に行った。
 年の離れた6番目の子として生まれた私には、養子の話がいつもつきまとっていた。母はそれに抗して、私を育ててきたのである。とくに高校進学の時期にあった話は、いくぶん深刻であった。大学進学を夢見ながら果たせなかった兄たちは、幼い私には「勉強さえすれば、大学までやる」と言っていたのである。そんなときに、夫婦で中学校の教師をしている人から申し出があった。私の学校の成績もよく承知していて、将来の教育の保証付きの養子話に兄たちは少しは心を動かしたらしいが、実現しなかった。

 そんなことがあって、母は私が婿養子になることを嫌がるだろう、と思っていた。いろんなシーケンスで逆らってきたのに今さら、ということだ。二人の姉が他家に嫁いでいる妻との結婚は、妻の母との同居は認めるが婿養子にはならない、ということで落ち着いたのである。イソノ家のマスオさんということである。そして、当然ながら妻の父祖の墓守という役割も、私たち夫婦のものとなったのである。

 私が死んだら、その後の処理は妻や子どもたちの裁量にまかせられる。私には、私という死者の扱いがどんなものであってもかまわない。自由にやってくれていいのである。しかし、彼らが〈人並みに〉墓をつくって埋葬しようと考えたら、私の死は彼らに負担を強いることになる。かといって、処分の仕方を指示したり、強要したりする権利など、私にはない。

ほれぼれと陽の差し込む日
ぼくのなまえをみがいているのは
だれのものともはんどくできない
ぼくのなまえをあらっているのは
あれはひまごかやしゃごだろうか

おはかのいしはあたたまり
おはかのうらにきざまれた
おおぜいのなもあたたまり
吐息みたいな草いきれの中
ほれぼれと陽が差している
       池井昌樹「ぼくのいないあかるさ」部分 [3]

 私は、この詩のように死んだ未来を想像したりはしない。ただ、こんなふうに想像し、あるいは強く願っていた(妻の)父祖たちがいたのではないか、とは思う。信仰を持たない私が私の死後にどんな思いも願いも持たないとしても、かつて強く願われたであろう父祖たちの思いを拒否したり、無視できるわけではない。どちらかといえば、大事にできるものなら大事にしたい、と考えている。

 義母の姓と私の姓がともに刻まれた墓として、異なった姓に引きつがれる墓として、作り直せばよい、ということになった。妻の父祖たちの思いをそっくりと残し、かつ私の墓として残された者に負担をかけることがない方法として、妻の父祖たちの墓を建て直すことにしたのである。
 墓地を歩くと、二つの姓が併記された墓石はいくつもある。墓が「個人」に属さず、「家」に属するという日本的な事情から言えば、我が家のようなケースはめずらしいことではないだろう。

 妻はクリスチャンホームで育ったが、妻の祖父の代までは仏教徒であった。区画整理で墓は市が造営した墓地に移されたが、その一画はもともとの寺の管理化にある。墓の建て替えについては、住職の了解が必要だったが、残された者はクリスチャンで、それを引きつぐ私は無信仰という事情を意外によく理解してもらえた。まわりは仏教徒の墓であることに配慮して欲しい、ということだけであった。
 「墓石屋さん」(と呼んでいいのかよくわからないが)へ行って、いくつかの墓石の写真やカタログをもらってじっくりと検討する、という段取りであったが、一枚のカタログを見て「これっ!」と叫んだ妻のひと声で墓の形が決まった。即決なのであった。実に簡単で、助かった。


墓石ができあがった。墓なのに、狛犬がいる。(2010/12/20)

〔メルクマール〕

 墓石を立てるということにまつわる諸々をしていた時期に、「メルクマール」という言葉を思い出した。最近は滅多に使わないけれども、若いときには口癖のように使ったドイツ語で、たんに目印とかマークという意味にすぎないのだが、「革命のメルクマール」のように時代を画するような目印というふうに意味を大きく膨らませて使用していたのである。
 死は人生最大のメルクマールかなぁ、などと思ったのである。「《自我》と《私》というまさに普遍的な二つの限界においてはけっして再認されることのなかった個体による抗議」 [4] が実現するというのに、その一瞬先は何もないのである。時代や時間を画するというよりは、終端である死をメルクマールと呼んでいいものか、定義上矛盾があるように思えるが、そんなふうに思ったのである。

 それでは「死」以外のメルクマール、私の人生にとってのメルクマールは何だろう、何だったろう、と思い直してみても、やはり判然としない。妻は怒るかもしれないが、結婚も、子供の誕生もそうとは思えない。というより、過ぎ去ってしまったことで、そうであったと思えるものはないのだ。
 かといって、予期していたことがメルクマールであったというのもあるわけではない。15,6才くらいの時、「27才になると大人になれる」と根拠もなく思っていた。どうしてそんなことを信じていたのかまったく思い出せないが、それが確固とした27才のイメージではあったのだ。もちろん、じっさいにはそんな兆しは何もなかった。また、体が弱かった私は、40才くらいで死ぬのだ、と幼い頃からずっと信じていた。じっさいに40才での胃がん検診で引っかかり、胃を切除することになったとき、「やっぱり、これで終わりか」と予感の正しさに打たれたのだったが、何のことはない、生きのびてから25年にもなる。

 いちばん、メルクマールらしき出来事といえば、定年退職のような気がする。小学校あたりから勉強というものを始め、高校受験、大学受験、大学院進学と来て、職業として大学の研究者として生きてきた人生は、勉強とか学問とかで括ると、いわば「生のセリー」(フランス・ポストモダン思想ふうに気取れば)として「一繋がりの人生」と見えなくもない。
 「生涯一物理学者」と定めて、その一生を学問に捧げるという敬愛する先輩同僚がたくさんいるけれども、私はまったく逆に、そのセリーを定年をもって断ち切ろう、と定年が近づいてきたときに決意したのだ。特別な何ものかになりたいと思っていたわけではないが、そうすることで新しく開けること、新しい感受力が生成してくるのではないかと、期待していた。肉体的にも、精神的にも、少しずつ準備を進めて、定年を迎えようとしたのである。
 具体的にイメージしていたのは、山歩き、魚釣り、街歩きだったりするが、食事を作ったり、散歩したりという日常の些細なことすらが新しい感覚でできるような気がしていたのだ。つまりは、問題となっているのは私の気分なのだ。だから、退職の翌々日、坊主頭になったりしたのである。
 実際に定年退職となっても外形的に変化があるわけではないが、気持はまったく違うのである。ある種の拘束感がないのである。好きな時間に本屋に行ったり、図書館に行ったりできるのだ。そうだ、読みたい本が好きなだけ読めるようになったのだ。そのときになってやっと気づいたのである。物理学者として生きようと思い為したとき、気づかないままに捨てたもの、諦めたものがあったのだ。
 つまり、定年退職は若いときに断ち切られたセリー(これまでとは異なったセリー)の新しい始点だったのである。待ち構え、準備し、迎えたメルクマールとしての定年。

〔最後のメルクマール〕

 待ち構え準備していたのがメルクマールだったということになれば、死は決定的なメルクマールだろう。待ち構えたいわけではないが、待ち構えてしまう。墓石などを建てて、準備をしてしまう。フロイトの言う「死の欲動」というものに実感的賛意を私は持ち合わせていないが、死は断固とした出来事として私を待ち構えている。

  強秋(こわあき)や我に残んの一死在り     永田耕衣 [5]

 つまり、死は残されたただひとつのメルクマールかもしれないのだ。

死ぬことを自由に考える。死ぬ時も自由だ。もしも肯定する時間がなくなっていたら、神のように否定する。こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている。
                     フリードリッヒ・ニーチェ [6]

 死は、哲学や宗教そして芸術の主要なテーマではあるが、どうもニーチェのようなわけにはいかないようだ(近代思想のビッグ3は、マルクス、フロイト、ニーチェだ、という向きもあるが、私はフロイトとニーチェとは相性が悪い。キェルケゴール、フッサール、マルクスと誰か言ってくれないだろうか)。「死ぬときも自由だ」というのは〈力への意志〉ならぬ〈意志の力)に依存する。力なき者の死を死ぬ、という予感しかない私はどう受け取ればよいのだろう。
 力なき私には、死は漠然とした恐怖としてつきまとっているもの、でしかない。存在しなくなることの恐怖というのではない。死んで存在しなくなってしまった〈自己〉を認識する〈私〉が存在しない、という奇妙さが恐怖なのである。

 小学4年の、もう少しで夏休みというころ、私は学校へ行けなくなった。本人としては、頭が痛かったり、体がだるかったりしたのだが、いわば登校拒否である。隣町で教師をしていた長兄が、心配する母に呼ばれてやって来て、「よくあること」と言って帰り、医者に診てもらうこともなかった。
 学校に行けない理由を、私自身は自覚していた。死の恐怖に打ちのめされていたのだ。私が死ぬことの恐怖ではない。人は死ぬのだという厳然たる事実に気づいた私は、母も必ず死ぬのだということにも気づいてしまったのである。「母が死んでしまう。いなくなってしまう」という恐怖で、心身に異変が出たのだ。
 体の調子が悪いということで学校に行かない私は、昼も布団に入って寝ていた。暑い昼過ぎ、浅い眠りから覚めると、家には私一人だけであった。母がいない、というだけでパニックになった私が慌てて玄関を飛び出すと、向かいの雑貨屋で、そこの女主人と笑いながら話しているのが店のガラス戸の向こうに見えた。暑い夏の真昼、白々と輝く路の向こうで笑っている母の顔はきわめて大写しで鮮明なのだが、すごく遠くにいるようにも感じた。それは静止画であって、安心したその瞬間のあとは覚えていない。8才の時のことである。まだ「死」は私のものではなかった。

   算術の少年しのび泣けり夏     西東三鬼 [7]

 それから52年、母は102才で亡くなった。そのとき、私は60才。準備していたわけでも構えていたわけでもないが、想像以上に心静かに送ることができた。「こんなふうにして大人は死と生のことを心得ている」と言えるように私も年を経たということだったのだろうか。まさか……。

 とまれかくまれ、入るべき墓はできあがり、あとは私の死を待って〈なにか〉が完結する。

いつの日も生まれるに良き日であり、
いつの日も死に逝くに良き日である。
   アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカーリ(ローマ教皇ヨハネス二三世) [8]

 

[1] ジャック・デリダ(廣瀬浩司訳) 『歓待について――パリのゼミナールの記録』(産業図書 1999年) p. 110。
[2] ベルトルト・ブレヒト(野村修訳)『世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集』(土曜美術社出版販売 2000年) p. 31。
[3] 『池井昌樹詩集』(思潮社 2001年) p. 75。
[4] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 下』(河出書房新社 2007年) p. 240。
[5] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年) p. 213。
[6] フリードリッヒ・ニーチェ(丘沢静也訳)『ツァラトゥストラ 上巻』(光文社古典新訳文庫 2010年) p. 149。
[7] 『西東三鬼句集』(芸林書房2003年) p. 9。
[8] ハンナ・アレントによる引用。ハンナ・アレント(阿部齊訳)『「暗い時代の人々』(筑摩書房 2005年) p. 113 (原典:Jean XXIII, “Discorsi, Messagi, Colloqui, vol. V, (Rome, 1964) p. 310)。

 

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【私事・些事】 坊主頭

2020年03月01日 | 私事・些事

【2009/10/16】

 2009年3月31日、無事に定年退職となった。翌4月1日に、さっそく近所の理髪店に出かけたが、予約が必要と言うことで、果たせなかった。勤めている間は、職場の理髪店で整髪していて、予約が必要なシステムになっているとは知らなかったのである。若い頃通っていた床屋さんというのは、予約なんて必要なかった。4月2日に何とか坊主頭にしてもらった。

頭を、ボーズにしてやらう
囚人刈りにしてやらう
     中原中也「(頭を、ボーズにしてやらう)」部分 [1]

 ずいぶん前から、坊主頭にしようと思っていたのである。山歩きが好きで、魚釣りが好きな私はいつも大汗をかいている。坊主頭にしたらすっきりとして遊べると、想像していたのだ。それに、「僕、自慢じゃないが禿頭である。そこに風が吹くと、さっと通り抜けるのである。その快、いわく言い難し。これは顱頂部に一髪も無い者ぞ知る快感であり特権である。」 [2]  もう少し下世話にいってしまえば、普通の人の半分程度の頭髪に、同じ整髪料金を支払うことに幾分損をしている気持になってもいた。床屋さんにしてみれば、無い頭髪を整髪するという矛盾に満ちた労働に対する技術料としてもっと支払ってもらいたいのかも知れないが。
 決定的な決断は、ある夏の日のアユ釣りから戻ったときに起きた。6年ほど前のことである。仕事が忙しくてろくにアユ釣りのできない時期であったが、盆休みに山形県の小国川に出かけた。小国川には、下山久伍さん [3] がオトリ屋を開いていて、年に1度くらいはお世話になって釣りをするのが、当時の私の習いのようになっていた。ビジネスホテルに一泊した二日目の釣りも終わり、下山さんの家で着替えをして帰宅の準備をしていたとき、何気なく鏡を見て、心は決まったのである。汗で濡れた頭髪が頭皮に張り付いている。少ない頭髪の張り付く様は、しんじつ美しくないのである。
 それでも、退職するまで坊主にしなかったのは、職場で会う人ごとに坊主頭のことを話さなければならないような状況が面倒だっただけである。人は、こんな風に年とともに変化にともなう煩わしさを避けるようになる。老人性保守派というわけだ。だいたい保守というのは頭無精の謂いではないか、と思っていたりする。

 さて、坊主頭と言ってもどの程度の長さにすればよいのか。見当がつかない。私が子供の頃には、5分刈りとか1厘刈りとか呼んでいたと思う。「それでは6mm でカットしてみて、それを見てから決めましょう」と若い理容師さんが言ってくれた。鏡を見ると、6mm くらいがちょうど良いように思ったのだが、「絶対、3mm の方がいいですよ」と言うので、それに従った。もともと、坊主であれば良いという雑把なイメージしか私は持っていなかったのであるが、理容師さんには十分な根拠があったのである。
 3mm坊主頭は、1週間もすれば簡単に6mm くらいに成長してしまう。そこで、あらためて理容師さんの判断の正しさに感心してしまったのである。3mmくらいの時は、単純に坊主頭という印象であるが、6mm 程度に伸びてくると頭頂部の頭髪の薄い部分が際立ってくるのである。つまり、ハゲ頭の坊主頭ということになっている。3mm程度だと、地が透けて全体に一様に見えるということなのだ。当たり前のことだが、坊主頭にしたからといって、ハゲ頭は克服できないのである。

 こうして、初めての坊主頭は理髪店でプロの手でやってもらった。次からは、自分の手でやろうと電気バリカンも購入した。電気バリカンは、3mm~60mmの段階的に長さを調整してカットできるアタッチメントが揃っていて、実に容易に坊主頭にできるのである。
 自分でカットするとなると、襟足なども自分で剃る必要がある。そこで、プロが剃ってくれた襟足の状態を妻に観察してもらった。今後は妻に剃ってもらうためである。それから1年半たったが、妻はいつも「だいじょうぶ、まだぜんぜんだいじょうぶ」といって1度も剃ってはくれない。日ごろから「私は不器用よ」と平然と開き直っている妻は、たぶんカミソリを持ちたくないのである。首筋にカミソリを当てる人間が不器用だと知っていては、私も強く頼めないのである。

 しかし、坊主頭は忙しい。3mm長の坊主頭は、1週間もすれば5~6mmに伸びてしまう。つまり、ほぼ倍の長さになるのだ。おそらく誰でも、髪がふだんの倍くらいに伸びたら否応なく整髪に行くだろう。それが1週間でやってくるのである。理髪店のプロがぜひ避けたいと思った状態が1週間程度で実現するのである。
 坊主頭にしたら洗髪が簡単になると期待していたのだが、これも微妙な問題にぶつかった。シャンプーが泡立たないのである。髪が長かったときにはちょっとこすればブワーっと泡立っていたのが、どうも心許ないのである。ちょうどその頃、テレビで漫才コンビが「坊主っつーのは、坊主っつーのは、シャンプーしても泡が出ない」とか歌っていたので、妻が大笑いしたのだった。最近は、泡がたくさん立たなくても洗えているのだと、自分に言い聞かせてはいるのだが。

 これは、私の坊主頭と直接関係ないのだが、電気バリカンは大いに役に立っているのである。ずいぶんと以前から、同居している妻の母(明治37年生まれの106才)の整髪は私の仕事であった。鋏、透き鋏、櫛、剃刀などを揃えてカットしていたが、電気バリカンを使うとあっという間に終るのである。しかも、鋏を使うより、上々の出来で仕上がるのである。今では、長い時間整髪のために椅子に坐ったままじっとしているのが苦痛になってきている義母には、これは大変助かった。
 妻には、これも私の坊主効果だと主張してみたりするが、なに、もっと早くに電気バリカンに気付いて購入していれば良かっただけのことである。

                           (2010/11/24)

[1] 「中原中也全集 2」(角川書店 1967年) p. 135。
[2] 山口瞳「荒川土堤の落日」『新東京百景』(新潮文庫 平成5年) p. 251。
[3] 私がアユ釣りのトーナメントを志した頃、下山さんは関東を代表する名手として東西対抗戦など全国レベルの大会で活躍されていた。現在は、会社を退職されて山形県小国川(舟形町)で、アユおとり屋さん、釣りガイドをしながら、小国川漁協の仕事にも熱心に取り組んでおられる。

【ホームページを閉じるにあたり、2010年11月24日にHPに掲載したものを転載した

 

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