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かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発をめぐるいくぶん私的なこと(28)

2025年04月22日 | 脱原発

2018511

 忙しくても本は読みたいのだが、大部の本に挑戦する気分はまったくない。かつて読んだ本を引っ張り出してきて、パラパラと拾い読みをする日が続いている。そんな本の中に、現在の日本の情況を描いているのではないかと切実に思う文章が見つかることがある。
 例えばこれは、50年近く前の1970年頃にハンナ・アーレントが書いた文章である。

嘘をつく人は、一つひとつの虚偽をつくりだすことはいくらでもできるであろうが、主義としてずっと嘘をついてなお無事であるというのはできない相談であることには気がつくだろう。このことは、全体主義の実験や全体主義支配者が嘘の力――たとえば、現在の「政治路線」に過去を合わせるために繰り返し歴史を書きかえる能力や自分のイデオロギーに一致しないデータを抹殺する能力――に寄せるぞっとするような信頼から学ぶことのできる教訓である。〔………
 そのような実験が暴力手段をもつ人びとによって行われるときわめて恐ろしい結果を招くが、欺瞞がいつまでもつづくということはない。そこから先では嘘が逆効果になるような点が必ずやつてくるのである。この点に到達するのは、噓を聞かされる聴衆が、生き残れるためには真理と虚偽を区別する線をまったく無視せざるをえなくなったときである。あたかも信じているかのように行動することに生命がかかっているとなれば、真理も虚偽ももはやどうでもいいことになる。信じることのできる真理が公的生活からまったく姿を消してしまい、それとともに、変転してやまない人間の事柄における主要な安定化要因も消滅してしまう。[1]

 まるで安倍自公政権がやっている欺瞞政治について述べられているような印象を受ける。そして、その欺瞞政治はいずれ破綻するというのだが、政治体制だけが破綻するのではない。
 アーレントが述べているのは、全体主義国家としてナチス・ドイツであり、スターリンに象徴される全体主義的社会主義国家のことである。その暴力的な欺瞞の破綻は政治体制の終焉をもたらすが、社会全体の悲劇的な破綻を伴っていた。社会の「主要な安定化要因も消滅」してしまうのである。
 それは困る。安倍晋三や自民党の道連れは断固として拒否したい。私たちが願っているのは、安倍自公政権の破綻、壊滅だけである。そんなことを考えていると、スラヴォイ・ジジェクの次のような言葉が気になってくる(これが載っている本の原著は2002年、16年前に出版されていて、これも必ずしも新しい本とは言えない)。

旧き良きドイツ民主主義共和国では、以下の三つの特徴を兼ね合わせることは同一の人間にとって不可能だった。その三つとは、確信(公式的イデオロギーへの信心)、知性、そして正直さである。もし確信しかつ知性的であれば、正直ではないし、もし知性的であると同時に正直だとすれば、信ずる者ではないし、もし信ずる者でありかつ正直だとすれば、知性的とは言えない。こうしたことはリベラルな民主主義イデオロギーにも当て嵌まらないだろうか? もし覇権をもっているリベラルなイデオロギーをマジに信じている(振りをしている)のであれば、知性的であると同時に正直であることはできず、愚かであるかあるいは腐敗堕落したシニカルな人物である他ない。[2]

 日本はリベラルな民主主義の国か? 旧民進党の解体プロセスは今も続いているが、そこで離合集散を繰り返している政治家たちのかなりの部分はつまらない保守なのだが、彼ら自身は「リベラルな民主主義イデオロギー」を語っているつもりらしいのだ。「愚かであるかあるいは腐敗堕落したシニカルな人物」ということか。
 安倍自公政権解体後のストーリーもかなり困難な想像力を必要とするようだ。とはいえ、安倍政権以降がどんなであれ、安倍政権よりはましだろう。そんな乱雑な想像が真っ先に思い浮かぶのは、なによりも安倍政権の絶望的なほどの惨めな欺瞞性の故である。


[1]
ハンナ・アーレント(山田正行訳)『暴力について――共和国の危機』(みすず書房、2000年)p. 6
[2]
スラヴォイ・ジジェク(永原豊訳)『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』(青土社、2003年)p. 101




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