かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『ポンピドゥー・センター傑作展』 東京都美術館

2016年07月13日 | 展覧会

【2016年6月29日】

 「ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで」という副題があって、総花的で主題が見えない美術展の可能性もないではない、などと思いながら新幹線に乗って出かけた。「二十世紀芸術全体が主題」などと言われようものなら、私のような人間は困惑するだけである。
 しかし、臆病者の心配はどこへやら、とても面白い展示の美術展だった。1906年のラウル・デュフィの《旗で飾られた通り》から1977年のレンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースの《パリ、ポンピドゥー・センターのスタディ模型》まで、1年に1作品だけを当てて選んだ作品が展示されていた。図録 [1] の目次に相当する「年表/Chronology」には作品発表年の重要な歴史的事象が3~6項目ずつ書き添えられていて、おのずとこの展示手法が目論む主題を暗示する仕掛けになっている。

 展示はいきなり(私にはそう感じられた)デュフィ《旗で飾られた通り》から始まり、ブラック《レック湾》と続く。美術展を見て、印象深い作品をいくつか取り上げ、感想をブログに書き留めておく。そんな作業を行っている身には印象深い作品が多くなりすぎる予感がして、先行き不安になるような感じでこの美術展は始まったのである。
 例えば、デュフィは一昨年開催された『デュフィ展』(2014年2月、Bunkamuraザ・ミュージアム) [2] を見る機会があったので取り上げないことにする。このように「取り上げない作品」を選ぶというネガティヴな作業は美術展鑑賞としては本末転倒だが、それだけ興味深い作品が続くということで気分は十分に楽しいのである。


モーリス・ド・ヴラマンク《川岸》1909-1910年頃、油彩/カンヴァス、81×100cm (図録、p. 33)。

 ヴラマンクの《川岸》はフォーヴィスムらしい大胆な筆致で暗い川岸が描かれているが、なによりも私が惹かれたのは、川面の青白い輝きだった。夕暮れ時の風景を描いた作品らしいが、全体を暗い色彩で描いているせいか、暮れ残る空の一部の明るさや水面の輝きが際立って見える作品である。


マルク・シャガール《ワイングラスを掲げる二人の肖像》1817-1718年、
油彩/カンヴァス、235×137cm (図録、p. 51)。

 デュフィのように個人展を見た画家作品は取り上げないようにしようという決意をあっさりと反故にしたのは、シャガールの《ワイングラスを掲げる二人の肖像》である。三年前だが『シャガール展』(2013年9月、宮城県美術館)[3] を見ているのだ。もうこの後は選びたいものを選ぶといういつものスタイルに復帰するしかないのだった。
 男女二人に花や馬、家々のある背景という構図はシャガールには珍しくないのだが、自らの結婚を喜ぶ画家の有頂天のありようがまざまざと表現されていて顔がほころんでしまうような作品である。いかにうれしいとはいえ、花嫁の肩に男性である花婿が乗ってしまう(かつがれる)というのはやりすぎだろうと茶化して見たくなるような作品で、こんな作品の味わい方は珍しく、そして楽しい。


ヴィクトール・ブラウネル《無題》1938年、油彩/厚紙、
16×22.1cm (図録、p. 97)。

 小品だが、ブラウネルの《無題》に惹きつけられた。近眼で老眼の身には、まだ細部がよくわからないうちに思い浮かべたのは、ルオーの《エクソドゥス》[4] や《避難する人たち(エクソドゥス)》[5] という作品であった。
 大きく描かれた人物から受ける印象は「不安定」ないしは「不安」感である。背景には何がしかの建築物も描かれているが、全体は荒野のようにものさびれた雰囲気がする。小さくえがかれた背景の人物は歩いているのか走っているのか判然としないが、手を振りながら去ろうとしている。
 ルオーは現代のエクソドゥスを描こうとしたのだと私は思っているのだが、ブラウネルもまた、現代人の不安と異世界への逃亡、脱出への望みを描いているというのは、私の勝手な解釈にすぎないのだろうか……


アンリ・ヴァランシ《ピンクの交響曲》1946年、油彩/カンヴァス、97×130.5cm (図録、p.113)。

 1945年、ヨーロッパでもアジアでも大戦が終わった。この年の展示は「空白」である。1945年はどの年代に属しているのか、という問いかけかもしれない。なにも展示されていない空間にエディット・ピアフの「バラ色の人生」が耳の衰えた私には聞き取りにくいほどの静かな音で流れていた。
 何もない1945年展示から移動するとアンリ・ヴァランシの《ピンクの交響曲》が目の前に現れる。「バラ色の人生」から戦後平和の「バラ色の時代」への変化なのかと思ってしまうような色彩である。バラ色に光り輝く世界はリズムに満ち溢れ、躍動している。これを戦後平和に結びつけるのは強引だと思うが、1945年、1946年となにかとても象徴的な展示(あるいは非展示)である。


ジル・キャロン《サン=ジャック通りで舗石を投げる人、
1968年5月6日》1968年、ヴィンテージ・ゼラチン・シルバー・プリント、
30×20cm (図録、p. 163)。

 1968年はカルチェ・ラタンの一シーンの写真である。日本の1968年は日本の識者にはあまり評価されていないが、ヨーロッパの1968年はヨーロッパの多くの思想家たちが重要な政治的かつ思想的「事件」(ジジェク風に表現すれば)として取り上げている。
 あの時代、友人たちと生きた時代を思い出していくぶん感傷的になってしまうが、あれから会うこともなくなった友人たちへのオマージュ代わりに取り上げておく気になった写真作品である。
 あの空中を飛んでいる敷石の破片はいったいどこに落ちたのだろう。パリと東京では石の落ちる先ははっきりと異なってはいた。それは知っている。


オーレリ-・ヌムール《白い騎士》1972年、油彩/カンヴァス、
150×150cm (図録、p. 171)。

 三つの矩形と三色だけである。マーク・ロスコの「マルチフォーム」[6] を思わせて、さらにいっそうシンプルである。造形芸術は想世界ばかりではなく表象技術においても高度化しながら複雑な表現を獲得していくだろうが、それとまったく同じように高度化された表象思念が表現の単純化の方向にも働いていくことをロスコ作品やこの《白い騎士》などが明瞭に示している。
 いかにシンプルな表象世界といえども、発見され尽くし、拓かれ尽くすということはない。芸術の表現世界は無辺だということを、このような単純極まりない構図の作品によって思い知らされるのである。


【上】セラフィーヌ・ルイ《楽園の樹》1929年、油彩/カンヴァス、195×130cm (図録、p. 75)。
【中】フルリ=ジョセフ・クレパン《寺院》1941年、油彩/カンヴァス、54×71cm (図録、p. 103)。
【下】ジャン・デュビュッフェ《騒がしい風景》1973年、塗料/樹脂積層板、241×372×3.2cm 
(図録、p. 173)。

 芸術の世界が広大無辺だということを圧倒的な事実で私が知ることになったのはアール・ブリュットの作品群に出合った時であった。
 セラフィーヌ・ルイの《楽園の樹》をひとめ見たとき、これはアール・ブリュット作品だと思ったのはあながち間違いではなかった。セラフィーヌ・ルイは、羊飼い、修道院の住み込み、家政婦などとして働き、絵は完全に独学で、この作品を描いた三年後に精神に異常をきたし入院した(図録、p. 195)という。
 厳密に言えば、アール・ブリュットというよりアンリ・ルソーに連なる「素朴派」[7] と呼ぶべきかもしれない。しかし、極小な具象細部へのこだわり、その極小細部の気の遠くなるような繰り返しや緻密な配列で一度は脱構造化された全体を構成するという画法は、アール・ブリュットと共通する。
 《寺院》を描いたフルリ=ジョセフ・クレパンは、《無題》という作品が小出由紀子の『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』[8] に紹介されていた画家である。《寺院》とほとんど同じ構図で、華麗で荘厳な教会建築物が描かれ、その上空には複数の「浮遊する魂」(図録、 p.200)が並んでいる。先の《無題》という作品に接したとき、私は天空に描かれた顔を「浮遊する魂」としてではなく世界を見下ろしている神々として受け取り、アルビノ・ブラスの《無題》という作品と合わせて次のように書いたことがある。

 人間の原初的な感覚から始まる宗教感情というものがあるだろう、神話を生みだす感情と精神が。アルビノ・ブラスの絵も、フルリ=ジョセフ・クレパンの絵も、原初的な感覚をはるかに越えて、世界を包みこむ神話空間を構成しているようにさえ感じる。
 象徴化された世界と、花も蝶も鳥も生みだす女神としての女性、あるいは、人間たちの生活空間を高みから見下ろしている視線たち。世界はそんなふうに構成されているのだ、と言わんばかりである。

 最後に、「アール・ブリュット」の発見者、名付け親として多くの作品を世界に紹介したジャン・デュビュッフェの功績に多大な敬意を表しつつ、彼の《騒がしい風景》を挙げておく。デュビュッフェらしくアウトサイダーズをインサイダーズの世界に重ね合わせるかのような作品である。
 この三作品は、1929年、41年、73年と1945年をまたいで製作されている。人間は時代を越えて生きることはできないが、時代を越えて通底する原初的な想世界を精神の奥底に抱えていることを示していて考えさせられる。


[1] 『ポンピドゥー・センター傑作展 ―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―』図録(以下、『図録』)(朝日新聞社、2016年)。
[2] 『デュフィ展』(中日新聞社、2014年)
[3] 『シャガール展』(北海道新聞社、2013年)
[4] 『ジョルジュ・ルオー展――内なる光を求めて』(出光美術館、昭和27年)p. 21。
[5] 『モローとルオー――聖なるものの継承と変容』(淡交社、2013年) p. 175。
[6] 川村記念美術館監修『マーク・ロスコ』(みすず書房、2009年)
[7] 遠藤望、加藤絢編著『アンリ・ルソーから始まる ―素朴派とアウトサイダーズの世界』世田谷美術館、2013年)
[8] 小出由紀子(編著)『アール・ブリュット パッション・アンド・アクション』(求龍堂、2008年)



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