かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】絓秀実『反原発の思想史――冷戦からフクシマへ』(筑摩書房、2012年)

2012年12月19日 | 読書

         

 

 

 詳細を究める歴史記述本の書評というのは難しい。よくある書評のようにごく大雑把にけなすか褒めるかすることなら可能だろうが、読書後の自分の思考の整理を兼ねようとすると途端に難しくなる。
 いつものように重要と思われる部分の抜き書きをするのだが、この本ではこの抜き書きそのものが多くなってその作業に手を焼いた。抜き書きが大量になってしまうのは、結局、要約そのものが私には難しいということである。歴史記述は往々にしてそうなる。ある一点を押せば、歴史関連を持つ事象が次々に反応してしまう。私にはフィルタリングの才能がないのである。

 

 言い訳から始めるしかないほど困っているのだが、強引に進めることにしよう。誤解、誤読なんてしょっちゅうなのだから、何をいまさら、ということである。過不足なく史的内容をなぞったり、まとめたりすることなど不可能なのだから、興味深かった二つ、三つについて記すことにする。

 佐藤卓己(『八月十五日の神話』)を引用し、著者は「唯一の被曝国・日本」という認識は、「主にメディアによって、「起源」として捏造された」ものだという。反原発の運動は、けっして広島、長崎の原爆投下によって始まったわけではないのである。反原発運動のA1954年のビキニ環礁における第5福竜丸の被爆と乗組員の死を受けて始まったとして、著者はAZAからZ、ではない)に触れてこう書いている。

杉並区の公民館長・安井郁(国際法学者、法政大学教授•当時)を囲むミドル・クラスの主婦グループを中心に開始された原水爆禁止を求める署名運動を発端として、運動は全に広まっていく。八月二三日には原水爆禁止国民大会が東京で開催され、九月には「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が、社会党・共産党という当時の左派勢力をバックにして結成されていくのである。二〇一一年三月一一日の福島第一原発事故の後、四月一〇日の、ツイッターその他電子メディアをつうじて、一万五〇〇〇人(主催者側発表)が自然発生的に集まった高円寺デモを皮切りに、五月一一日、六月一一日、九月一一日と反原発の大衆的なデモンストレーションを組織したのが、やはり杉並区高円寺を拠点とする「素人の乱」であるのは、何か因縁めいたものを感じさせる。 (p. 15)

 これが「まとめ」というわけにはいかないが、ごくごく乱暴に言えば、高木仁三郎や津村喬の動きを加えれば、「AからZ」を尽くすのではないか。つまり、現在の反原発運動Zを支える思想の問題として考える限り、「「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が、社会党・共産党という当時の左派勢力をバックにして結成されていく」流れを中抜きにすると、歴史的見通しはずっとすっきりする。もちろん、それはあくまで後知恵としての現在からのまなざしということであって、私たちを絡め取っていた時代のイデオロギーを見ておくことは重要であろう。

 「68年」以前、既成左翼に担われる反核運動は、「大きな物語」としてのマルクス・レーニン主義の枠組み、というよりレーニン的な生産力理論の枠組みを超えることはできなかった。その点では、第5福竜丸事件以前の「反核」の科学的支柱であった理論物理学者の武谷三男も例外ではない。理系の学生(実際に原子力工学を専攻していた)であった私にしてみれば、後に『原子力発電』(岩波新書、1976年)の編著者であった武谷は、あこがれの物理学者であった。その対極にあったのが、伏見康治だった(あくまで、私にとって、である)。

 マルクス主義者で著名な理論物理学者の武谷三男の影響下にあった若手学者たちは、政府主導で原子力研究が進められた場合、それが軍事転用される可能性が高いことを指摘して反対した。学会総体も、それに同調するものであった。一九五〇年には朝鮮戦争が勃発しており、日米安保のもと、核戦争に日本が巻き込まれるのではないかという危惧が、広く社会をおおっていたのである。

ただ、武谷らの主張も、原子力の平和利用自体は否定しないという枠組みの議論であったことに注意しなければならない。武谷理論は、茅誠司(後に東大総長)や伏見康治(物理学者、後に公明党参議院議員)が主導して日本学術会議が示した原子力の平和利用三原則(「原子力の研究と利用に関して公開、民主、自主の原則を要求する声明」一九五二年)に反映された。 (p. 22)

 原子力の平和利用としての原発を容認するというのは、当時の反核平和運動に宿痾のようについてまわる。日本共産党が311東電福島第1原発事故のあとでようやく反原発に党是を変更したのだし、社民党は誇らしげにずっと反原発だったと言いつのっているが、社会党・総評が「ソ連邦や中国のイデオロギーを踏襲してい」たために、福竜丸事件当時は反原発には至っていなかった。それは、「時代的・歴史的な制約」であった。
 当時の支配的イデオロギーとしての科学的唯物論、レーニンの「生産力理論」が、現在の資本主義国家もまた援用していると、次のように述べている。

 ロシア革命の指導者レーニンは、「共産主義はソヴェト権力+全国の電化である」という高名な言葉を残した。悪名高い「生産力理論」である。もちろん、レーニンは核兵器も原発も知らなかったのだが――。
 
生産力理論は、「福島」以降も――中国やヴェトナムなど旧社会主義国を含めた――資本主義のなかに健在である。なおも原発を推進しようとする勢力は、原発がなければエネルギーが不足する、GDPが落ちると、繰り返し資本主義の危機を煽ることで、それを正当化しているからである。それは、安価な労働力を保有する旧第三世界諸国への原発輸出として実現されていくだろう。もちろん、旧第三世界諸国も、原発の建設を積極的に推進しょうとしている。
 
レーニン以後の社会主義国の指導者たちは、戦争において核兵器を使用したアメリ力合州国を非難しえたとしても、原子力の平和利用については、それに反対する論拠を持たないどころか、むしろ積極的にコミットして行くほかなかった。マルクス主義は「科学」であると標榜する当時のコミュニストにとって、原子力エネルギーの開発にまで進埗した科学は、客観的に正しいものだからである。 (p. 29)

 既成左翼陣営では、「ソ連や中国の原爆は「きれいな原爆」だ」だとか「ソ連邦を中心とする社会主義ブロックが平和勢力である」と信じられていて、反核=反米としてのみ語られ、社会主義圏の核兵器すら容認される中で、反原発は夢のまた夢であった。
 したがって、武谷の主張に譲歩する形でまとめられた「民主•自主•公開の三原則」をベースにした原子力三法による原発の開発が「国民的コンセンサス」になったのである。

 日本において反原発という方向が芽生えるのは、後にやや詳述するように、一九六〇年代になってからであり、原発建設に反対する地域住民闘争を通じて、それに「科学批判」という新たる学問的認識が交差することによってであった。
 
しかも、そのためには「一九六八年」の世界的な学生反乱という巨大な切断がなければならなかったのである。 (p. 30-1)

 著者には『1968年』(ちくま新書、2006年)、『革命的な、あまりにも革命的な――「1968年の革命」史論』(作品社、2003年)の著作のほか、編著である『思想読本11 1968(作品社、2005年)があって、〈68年〉の持つ意味、その後の運動や思想地図については詳細を究める。とくに「68年」前後に勢いを増していた新左翼諸党派の「自民族中心主義への、華青闘」(華僑青年闘争委員会)による告発として知られる……一九七〇年の七・七集会(於:日比谷野外音楽堂)が、日本の「六八年」の質を決定的に転換するターニングポイント」(「一九六八/一九七〇」『思想読本11 1968p. 3だとする主張は著者がつとに述べてきたことだ

 「68年」は政治闘争であり、文化闘争であった。大学を中心とする闘いは、科学の権威に挑戦する形で「反科学主義」の一面を露わにする。この流れは、全人的救済を求めるようなエコロジー思想としての反原発の流れの一つとなる。
 「反科学」はまた、中ソ論争、文化大革命を通じて第3世界論影響を受けてもいたのである。しかし、それは次のように語られる相においてであった。

 毛沢東中国の第三世界論を積極的に「誤読」し、科学批判へと接続するためには、文化大革命についての、心情的な「誤解」が必要だった。それは、科学を含む「文化」に対する革命であると宣言されていたからである。 (p. 44)

 反科学的な運動のなかで、高木仁三郎を中心とする科学者グループはあくまで科学的な立場から反原発運動を展開する。私の個人的な立場から言えば、高木の反原発の立ち位置を最も注目し、評価している。著者は、高木の思想が現在まで持ち込んでいる意味と意義を次のように的確に記述したうえで、その後の高木の思想に批判も加えている。

 「福島」以降、高木に対する賞賛は高まる一方だが、高木を「市民科学者」とした「六八年」という問題系は振り返られることがない。それは、高木は記憶されても、彼に「影響の不安」(ハ口ルド・ブルーム)をもたらした菅谷規矩雄が、詩壇の一部を除いては全く想起されないことにもあらわれている。もちろん、詩壇における話題は菅谷の詩や詩論に限られている。しかし、高木が菅谷から受け取った問題は、一言で言えば「産学協同」への批判と言い換えうる。それは、「原子力ムラ」を作り上げたものでもある。
 
現在、「原子力ムラ」に住む学者への場当たり的な批判は聞かれても、彼らを存在せしめた産学協同への批判は皆無である。世論は、相変わらず大学・研究所や資本に産学協同の拡大を求めるばかりである。広重徹らの科学批判が提起した問題など、今や一顧だにされない。もとより、産学協同と無緣な、「純粋な」学問など存在しえない。それは、自然科学系に限らない、全ての「学問」について言える。しかし、それは不断に問い直されなければならないのである。  (p. 83-4)

 一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起こった時、その「チェルノブイリ」という言葉がウクライナ語で「ニガヨモギ」の類種を意味するところから、それを「ヨハネの黙示録」と結びつけた言説が横行した。黙示録には、巨大な「ニガヨモギ」という名の星が川の水源に落ち、川の水の三分の一がニガヨモギのように苦くなって、多くの人が死んだという記述がある。
 
武田徹も指摘しているように、科学者高木仁三郎さえ、このレトリックを採用した。つまり高木にとつても、チェルノブイリ事故はエコロジカルな宮澤賢治的宇宙を破壊する終末論的な危機と捉えられたのである。
 
それは、それ自体でニューエイジ的な発想であり、同じ時期に、ユダヤ陰謀史観と終末論で扇動する『危険な話』を上梓し、一九八八年から八九年の反原発「ニューウェーブ」の巨大なうねりを現出させることに寄与した、広瀬隆と選ぶところがない。もちろん、高木も反原発「ニューウェーブ」の先頭に立った。その運動の正負の評価は後の第6章に譲るが、終末論も一種の脅迫であり、「安全」という「統治テクノロジー」に奉仕する。終末論は、必ず「安全システム」に回収されるからである。  (p. 193-4)

 著者が語るように、現在の大学を中心とする自然科学の領野では「産学協同」は議論の対象にすらならない当然の基底のようになっている。国立大学法人における大学の充実とは、工学系分野の充実と等価のようにすら見える。にもかかわらず、著者は「それは不断に問い直されなければならない」というのである。
 これはおそらく反原発運動のZというべき現在の運動への極めて重要な示唆、批判となっている。たとえば、「シングル・イシュー」によって運動をまとめあげようとすることに対して強い異論が出されていることも、その一つであろう。


 原発推進というのは自民党、正力、読売、原子力村などの枠組みを大きく超えている。アメリカの原子力の平和利用という世界戦略から、IAEA(International Atomic Energy Agency、国際原子力機関)ICRP(International Commission on Radiological Protection国際放射線防護委員会)が設立されたが、これらの国際機関は原発推進ための組織であることを忘れてはならない。原発は《帝国》(ネグリ&ハート)とも呼ぶべき国際体制のもとで推進されている。つまり、原発政策は選択可能な一政策としてあるわけではない。したがって、反原発運動は、グローバル化している世界資本主義への対抗的視点を獲得しなければならない、という理路が成り立つだろう。そうであれば、「シングル・イシュウ」は運動のスタイルとしては力不足になってしまう。

 一方で、ドイツが原発ゼロを目指すという決定をしたことは、一国主義的に世界資本主義の弱い環を立ちきるという運動の方向がありうる、とも言える。既成左翼がこの問題に関してまったく無力なのは歴史が明らかにしている。著者が「ニューエイジ」、「ニューウェーブ」、左派的「ドブネズミ」の運動と思想に大部を費やしていることは、そのままでは無理だが、深く検討することを通じて、そこから世界システムに対置しうる運動思想が生まれる可能性を予感しているからではないか、と私は勝手に想像している。
 とくに、津村喬の思想を詳細に検討しているが、それは彼が正しく反原発の思想を立ち上げていたと信ずるゆえであろう。そこには、冷静に史的事象を記述していながら、著者の津村喬への愛惜のようなものを感じるのは、私の思い過ごしだろうか。

 

資本主義批判としての反原発。この視点こそ、今日もっとも必要なものにほかならない。そうでないとすれば、反原発の論調は、せいぜい「安全な」クリーン•エネルギーというベンチャー・ビジネスに回収されていくだけだろう。そして、ベンチャーこそ、本質的に新自由主義的なものであることは、リーマンショックに帰結したこの一〇年の経験で、誰もがウンザリするほど知っていることではないだろうか。

津村の反原発論のアクチュアルな政治的核心は、ここにある。それは、ロッキード事件という契機に触れて、「安全」という統治テクノロジーの批判にいたったところにあるのだ。先進資本主義国の「安全」は、第三世界の「犠牲」によって担保されているというのが、津村の前提である。このことは、何度も強調しておくが、日本や旧先進資本主義国の脱原発化のプロセスが、同時に、旧第三世界における原発の爆発的な増発として帰結するだろうことを、すでに予想している。

しかし、津村の先駆的な提言は、ほとんど浸透しなかった。 (p. 129-30)

 

 しかし、「提言」として「浸透」するような現在の時点での「資本主義批判としての反原発」が如何なるものであるのか、私には想像が付かない。運動の先に生まれることを期待しているが、思想の準備なく進める反原発運動を強固に維持できるのかも私にはわからない。もっと重要なことは、「日本の原発(だけ)がなくなればよいというのは、端的にナショナリズムでしかない」と著者が指摘するように、そのよう形の運動が「ナショナリズム」に回収される危険性も大きいのだ。
 「シングル・イシュウ」問題に関して言えば、次のような指摘も重要であろう。

 

たとえば、今日の反原発運動において、右派の相当部分も、「山河を守れ」、「生命を守れ」という立場から行動をおこなっており、それ自体では左派の大方と変わらない。ドブネズミたるネットウヨクのかなりの部分にとっても、エリートが支配している大ジャーナリズムは、それ自体で欺瞞的であり、ウソを言っていると見なされる。それゆえ、大ジャーナリズムが、相対的に原発推進派であることは許しがたいのである。ネットウヨクの相当部分は反原発派である。小林よしのりは「脱原発論」の連載を開始した(SAPIO」二〇一一年一二月七日号)

しかしまた、別の右派は、原発を撤廃すれば、国民の生活が守れない、国民の生活を守れ(生命を守れ!)として、それに反対している。左派の原発「安全」批判は、反原発右派と立場を共有する。それは同時に、国民の生活を守れ、ということでもあるからだ。右派も左派もネットウヨクも、すべてホンネからの運動のわけだ。しかし、ホンネは本当に「正しい」のか。本書が歴史的な検証をとおして、繰り返し指摘してきたのも、そのことである。 (p. 327-8)


〈ホンネは本当に「正しい」のか〉。これは、深い考慮を要する。ホンネを組織する、それは大事だ。問題はそこから先だ。運動である以上、多数性は重要だ。しかし、「反原発」という一点からは、どのような社会を目指すのかという多数の合意は取り出せない。「原発のない社会」と表明したとき、シングル・イシュウでは社会そのもののイメージが描けないのだ。

著者はまた次のよう指摘して、福島以降の思想状況、思想家たちの危うさをも指摘している。

 

右派の「生命を守れ」というスローガンとリベラル左派の「生命を守れ」というスローガンは、日本の原発だけを問題にしている限り、何の差異もない。この時、ニューエイジ的・ロハス的なエコロジー主義が回帰してくる。日本的「自然」こそ、守るべき「生命」であり、原発を生み出した西欧的近代科学主義をこえる代替知――天皇制――を内包していたとさえ見なされかねないからだ。かつて、大東亜戦闘戦時に詩人の高村光太郎が「天皇あやふし」と叫んで天皇制に目覚めたように、「福島」に際しても多くのポストモダニストたちが「天皇を中心とした神の国」に目覚めたと言っている。 (p. 338-9)

 

現在、きわめて多数の人間が反原発デモに参加している。そして、現在のデモの態様を著者は危惧しているのだ。

 

かつて日本の左派の伝統芸であったスクラムデモは、一緒にデモをしている人間を警官による逮捕から相互に守るという意味があつた。ところが、「ニューウェーブ」以降のデモスタイル(パレード!)は、そのスクラムをほどいたのである。それは「過激な」スクラムデモをやめて官憲による逮捕を避けるという即時的な意図であつたが、全く逆の効果をももたらすものでもあった。どんな穏健なデモでも、官憲は逮捕したければ逮捕する。ところが、官憲との対応は端的に「自己責任」となったのである (p. 331-2)

 

救援組織が必要だということだろう。実際に、2011年の新宿「911反原発デモ」や大阪の反原発・反瓦礫処理運動では20121210日に逮捕者が出ている。それを「自己責任」化することはけっして許されないだろう。反原発運動が長丁場になるに違いないことを考えれば、準備することはたくさんあるのである、思想においても、方法論においても。


原発を詠む(4)――朝日歌壇・俳壇から(11月5日~12月9日)

2012年12月14日 | 鑑賞

 朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした.
                    (宮城版「みちのく歌壇、俳壇」を含む)

 

前向きに生きると人に言いつつも前がわからぬと避難者の言う
                                             (東京都)半杭螢子 (11/5 馬場あき子、高野公彦選)


みごとなる海夕焼なり福島の預かり犬と並んで眺める
                                             (東京都)大村森美 (11/5 高野公彦選)


水音がスキデスココガイイノデスちいさき声で溝蕎麦の花
                                             (福島市)美原凍子 (11/5 高野公彦選)


汚染などひととき忘れ爽やかな風に身をおく菊咲く庭で
                                             (福島・本宮市)広川秋男 (11/7 桜井千恵子選)


わが町のウラン工場再稼働 孫の学び舎汚染土埋めしまま
                                             (横須賀市)梅田悦子 (11/11 馬場あき子選)


信じてた「線路は続くよどこまでも」線路は流れ放射能降る
                                             (宮城・岩沼市)長内理子 (11/14 桜井千恵子選)


山野草好みし父の三回忌原発事故を父は知らない
                                             (福島・会津若松市)安江令子 (11/14 桜井千恵子選)


新聞の拡散予測地図の上音なく注ぐものを見ており
                                             (橿原市)福田示知恵 (11/19 佐佐木幸綱選)


猪の肉がセシウム基準越え雑食のわが身にも及ばむ
                                             (宇都宮市)渡辺玲子 (11/26 高野公彦選)


除染の「除」、減染の「減」、しかれども消染の「消」あらずして冬
                                             (福島市)美原凍子 (12/3 高野公彦選)

 


対岸の白き原発十三夜              (札幌市)仁和亮 (11/5 金子兜太選)


友嘆く核より逃げて又の冬           (横浜市)下島章寿 (11/11 金子兜太選)


桔梗咲く汚れちまつたこの地球     (甲府市)中村彰 (11/19 金子兜太選)

 
フクシマの骨突き刺る海鼠かな      (鴻巣市)佐久間正城 (11/19 金子兜太選)


放射能汚染の山河穴惑               (養父市)足立威宏 (11/26 金子兜太選)


原発の見学順路冷(すさ)まじき         (塩尻市)古厩林生 (11/26 金子兜太選)


水鳥を見ぬ寂しさも被爆川             (鹿児島市)青野迦葉 (11/26 金子兜太選)


原発や住み人なしに秋の暮            (東京都)青柳森 (12/9 長谷川櫂選)


蛇穴に活断層は亀裂増す              (奈良市)大年厨 (12/9 金子兜太選)


『A RIVER RUNS THROUGH IT』(Robert Redford監督、Norman Maclean原作、Allied Filmmaker、1992)

2012年12月02日 | 鑑賞

 

 クリークは小さくて、つたうるしの多い藪だらけの、勾配の急な峡谷から流れ出していたのだが、わたしはこのクリークの感じと水の動きが気に入って、流れに沿って少しのぼってみることにした。
 それに名前もいいじゃないか。
 トム・マーティン・クリーク。
 人の名に因んでクリークに命名することはいいことだ。そういう川の流れに沿って行ってみるのは楽しいじゃないか。特徴は? クリークは何を知っているか? 如何なる自己形成を行ったか? そういうことを見るのだ。
                       リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』 [1]

 

 「ストーリーの如何というより、ただ、あのモンタナの川の色彩情景の鮮烈さと、いまは既にこの日本でも大衆化してしまっている(らしい)フライフィッシングの「キャスティング」の見事さには、かつて息子たちとともに目を見張ったものでした。」という言葉を添えて、古い友人がDVDを送ってきた。
 モンタナとフライフィッシングという言葉から、「モンタナの風に吹かれて」という小説があったような気がして納戸の中の本棚を探したが見つからない。リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』と『東京モンタナ急行』 [2] という2冊の本のタイトルと、やはりレッドフォードが監督した『モンタナの風に抱かれて』という映画のタイトルがごっちゃになっていたらしい。

 【あらすじ】
 モンタナ州ミズーラ。老いてなおブラッドフット川でフライ・ロッドを振るうノーマン・マクリーン(Arnold Richardson)の青年時代(1920年頃)の回顧として物語は描かれる。
 長老派教会の牧師(Tom Skerritt)と敬虔な妻(Brenda Blethyn)の長男として生まれたノーマン(Craig Sheffer)にはポールという弟(Brad Pitt)がいる。厳格な家庭で、父は兄弟に教育を授けるだけでなくフライフィッシングも熱心に教える。「信仰と釣りは同じ」という環境で二人は成長する。
 長じて、ノーマンは東部のダートマス大学で学業に専念するが、新聞記者としてモンタナに残ったポールは釣りの腕を磨いていく。
  6年後、学業を終え、帰郷したノーマンはポールと釣りをするが、腕の差は歴然としていた。喧嘩で警察に留置されたポールを引き取りに行って、彼が留置場の常連であることや賭博場にも出入りする生活を送っていることを知る。
 ダンスパーティーでジェシー・バーンズ(Emily Lloid)と知り合う。ジェシーの兄ニール(Stephen Shellen)とのトラブルなどがあるが、シカゴ大学から教授採用の通知が届いた日、ジェシーに求愛する。職も恋愛も順調なノーランはポールと一緒に祝杯をあげるが、ポールに誘われた賭博場「ロロ」で説得を試みるがポールは翌朝の釣りの約束だけしてロロに残る。 
 翌日の釣りで父とノーマンの見ている前でポールは巨大な鱒をヒットし、激流に流されながら取りこむ。二人はポールの姿に「完成された釣り」を認める。そして、これがポールの釣りの最後となって、ある日、彼は賭博の諍いから殴り殺され、路上に棄てられているのだった。
 後年、最後の教会での説教で、父は手から逃げて行ってしまう者への愛を語る。それはポールへの尽きない愛の証だったのだとノーマンは回顧する。

 この映画は釣りを通じて語られた家族の人生の話かもしれないが、釣りなしには成立しえない家族もあるのだという主張のようでもある。いや、美しい故郷の川の景色と静かな家族愛で綴られた一人の老人の回顧をレッドフォードが愛おしんでいるのか。

 何よりもフィッシングである。それは幼い兄弟にメトロノームを使って父が教えるキャスティングの練習から始まる。1拍目:ラインを振り上げる(後方へ飛ばす)、2拍目:休止(ラインが後方に伸びきるのを待つ)、3拍目:ラインを前方に降り出す、4拍目:ラインが前方に伸びて着水する。4拍子のリズムがキャスティングの基本で、4拍目で着水させずに1拍目に戻って繰り返すシャドウ・キャスティングを繰り返しながらラインの長さ、方向を調整する。1拍の長さはラインの長さに依存する。画面では、子どもたちのシャドウ・キャスティングにはメトロノームのリズムはわずかに早すぎるようだった(そのような些細なことが気になるのは、それ以外の釣りのシーンが完璧だったからなのだけれども)。

 父の厳しい作文指導から解放されたノーマンがロッドと魚籠をもって飛び出すとポール(7,8才くらい)もロッドを握って後を追いかける。1番目の釣りのシーンである。ポールの1投目、背後の木の枝にフライが引っ掛かる。たぶん外す役であろうノーマンが微妙に嫌な表情を見せる。そう、人の釣りというのはこんなふうに始まるのだ。広い野原のシャドウ・キャスティングと豊かな自然を流れる谷の違いをきつく印象づけられるのだ。釣りは、自然が見せる最初の拒否を乗り越えることから始まる。自然がいつも人間を歓迎してくれるなどというロマンチシズムは、おそらく都会人の幻想の中でしか育たない。

 朝食のパンにサーディンを挟むかどうかで二人は人生でたった1度だけの兄弟喧嘩をする。そんな少年期を脱する頃、父と三人で行ったのが2度目の釣りのシーンである。ポールがシャドウ・キャスティングをしながら川を渡る後姿の美しさに彼の釣りの才能が暗示される。サイド・キャスティングするラインは川面すれすれに往復する。そのラインの流れのあまりの美しさに、これは釣り名人のスタントマンがブラッド・ピットの代わりをつとめているのではないかと疑ったほどのものである。もう1点、釣りに秀でる人間の特徴が描かれる。このシーンばかりではなく、ポールはいつもポイントを求めて離れていってしまう。ポイントの選定に厳しいのだ。この1シーンだけで、この映画が釣りに関しては超1級たりえているのだ。
 ポールはすでに兄を越える腕になっているのだが、同サイズのレインボー・トラウトが1尾ずつ。二人のところに戻った父が魚籠から取り出したのは黒点が消えかかって赤褐色に輝くレインボーで、スティールヘッド(海から遠いモンタナではたぶんそんなことはないだろうが)と呼びたくなるような大物だった。三人のキャリアと腕を一瞬にして語るために、この3尾のトラウトが写るシーンがある。これは「腕とその釣果」についての常識的な想像力を示しているにすぎないが、じつはこの映画の主題である釣りを語るための繊細な仕掛けなのだ。 

 ダートマスでの6年の学業を終えてモンタナに帰ったノーマンは、ふたたびポールと川に行く。ノーマンが仕掛けを準備している間に、ポールは2尾立て続けにヒットし、二人の腕の差は歴然とし、あげくの果てにポールはノーマンにポイントのアドバイスを始める。ノーマンも石裏でヒットするが、自分の釣りよりも、大石のうえでシャドウ・キャスティングをするポールの姿に見入ってしまう。ノーマンは、キャリアはあるが普通の凡庸なフィッシャーマンで、ポールは釣りについては天才に近いことが、このあたりで明らかになってくる。どうあがいても、もう敵わないのだ。これが3回目の釣りのシーン。

 4回目の釣りのシーン。ダンス・パーティーで知り合ったジェシー・バーンズの家族にジェシーの兄ニールと釣りの約束をさせられたノーマンはポールを誘う。朝からへべれけのニールは酒場の女連れで釣り場にやって来る。そんな二人を河原に残して兄弟は釣りをする。小さなレインボーを1尾キャッチして河原で寝そべっているノーマンに近寄って来たポールを見て「20匹も釣ったか」と声をかけると、ポールはニヤッと笑って魚籠を開けてみせる。魚籠はからっぽ。このシーンもまた、この映画の釣りのリアリティを保証している。そういうものなのだ、釣りは。名人に釣れなくて素人同然の釣り人にかかる、ということが起きることを自覚的な釣り人ならよく知っている。
 「ニールはどうした」と聞くポールに、ノーマンは答える。

「奴は、釣りもモンタナも僕も嫌いなのさ」

 ここには原初的な人間の観察と峻別がある。その人間の「人生の中でなすこと」と「生きる場所としての自然への態度」と「人間関係」。この3点でその人間のほとんどを描くことができるのではないか。ニールはモンタナを出てハリウッドで暮らし、モンタナの自然には関心がなく、故郷でも酒場の女を口説くことに夢中になっている。

 最後の釣りは喜びとともにやってくる。

 シカゴ大学から教授(instructor of English literature、正しくは専任講師)採用の手紙を受けとったノーマンはジェシーに求愛する。恋愛の成就をポールに打ち明け、二人で飲み明かそうとするがポールはノーマンを賭博場に誘う。ポールを咎めて家に帰るノーマンにポールは翌日の釣りを約束させる。

 翌朝、家族揃った朝食の席で、ノーマンは教授採用のことを告げると、ポールは “real professor !”と叫び、家族は皆それを祝福する。そして父子3人は母親に見送られてブラックフット川へ出かける。
 これが5回目で、そして最後の釣りのシーンとなる。クライマックスである。

 川に着くと、父は「上流へ行く」と言い、ポールは対岸に渡っていく。ノーマンは降り立った河原の付近に位置取る。川と魚をどのように知っているか、キャリアと技量がそれぞれの釣り場選定に反映しているというのが、釣りという視点から見た受け取り方である。
 しかし、父もポールもノーマンに場所を譲ったというのがもう一つの主題「家族への愛」に沿った解釈である。とくに、ポールが敢えて流れを横切ってノーマンの対岸に入るというのは、ポイント選定のためというよりはノーマンに場所を譲って、なおノーマンの近くで釣りをしたいという気持ちの現われと見るのが正しいだろう。
 幼かった頃、兄の後を追っていた時分の「兄を慕う気持ち」が川面を漂っているようなシーンである。そう、私は受けとった。

 ノーマンが河原を歩いて行くと首筋に虫が止まる。それはハッチ(羽化)したばかりのカワゲラの成虫である。その日その時刻にトラウトがどんなエサを補食しているのかを知ることは、フライフィッシングにとって決定的な要素である。たいていの場合、初めにキャッチしたトラウトの胃から捕食物を採取して調べるのが欠かせない手順の一つになっている。ノーマンは偶然に最適のフライ選択の情報を手にし、次々にヒットさせる。
 対岸のポールのフライには何の反応もなく、苛立つポールは水を蹴るしぐさを見せる。兄を祝福し、譲る気づかいを見せていたポールも一人の釣り人に還元していくのだ。そして、我慢できずにどんなフライを使っているのか、兄に尋ね、「バンヤン」という名のフライを譲ってもらう。このあたりも釣り人の心の機微を捉えている。
 東部から帰ったばかりの時、ポールのアドバイスにむっとするノーマンだが、ここではポールが意地を棄ててフライを譲ってもらう。釣り人の心はいつも「何としても釣りたい」という気持ちと「技量を持つ身のプライド」を両立させるべく激しく揺動しているのである。 

 ノーマンが場所換えで河岸の林を移動すると、木の下で読書をしている父が誇らしげに自慢の息子を見つめる。まったく釣れていないもう一人の息子ポールは、意を決して激流の対岸の大石脇の深みを狙おうとし、胸のポケットから煙草をとりだして帽子に入れる。
 釣り人は、ヒットする魚のサイズとファイト、キャッチするまでのプロセスを想像する。その想像の正しさの程度こそが、キャリアに裏打ちされた技量の程度なのである。煙草を帽子に入れるのは、流れの激しい渓流でのヤマメ釣りやアユ釣りで、日本の釣り人もしばしば行なう動作である。その些細な動作の描写こそ、釣りを知悉する人々によって制作された良質な映画であることの証左である、と釣り好きの私は信ずるのである。
 ついでに言えば、何度かフライを投入するポイントが写されるが、すべてが明らかにヒットを予感させるポイントなのもさすがと思わせる。餌の流れと集餌点、マス類の定位する川底の様子、そこから出てきて就餌するポイントを見きわめてフライを投入し、流すのである。その条件によって、ただ一点を狙い打ち
するときも、フライを流して集餌ラインを狙う場合もある。

 ポールの狙い通りに、対岸の深みから超大物が飛び出す。急流に流されながらのファイトは激しく、せっかくの煙草も帽子ごと流されてしまう。このシーン、一緒に見ていた妻は「ここで死ぬのね」と言い、私は「この程度の流れで死ぬようでは釣りの物語は完成しない」と、これは胸中で。

 駆けつけた父と兄の前に、70cmを超えると思われるトラウトをぶら下げてポールが川から上がってくる。そのシーンの会話とノーマンの独白…… 

父「すごい魚だ」
ノーマン「信じられない」

その瞬間、僕ははっきりと感じた
完成されたものの美しさを

父「お前はすばらしい釣り人だ」
ポール「あと3年で魚の考え方が読める」
ノーマン「写真を」

そこはブラッドフット川の川辺ではなく――
弟は芸術品のように――
この世を超えた空間に立っていた

 そして、川辺での3人の語らい。美しい夕焼けに輝くブラッドフット川の岸辺での愛し合う家族のひとときだが、ノーマンの独白はこう続く。   

だが同時に僕は感じていた
人の世は芸術ではなく――
永遠の命をもたぬことを

 ノーマンの予感したように、ポールは賭博の諍いで殺され、路地に棄てられる。常々、父が「ポールのフライフィッシングは美しい」と讃えていたそのキャスティングを生みだしていた右手を砕かれて。
 それから何年か後、老いた父の牧師としての最後の説教を聞く妻、ノーマンとジェシー夫妻、そして二人の孫。説教に仮託してポールへの愛を語るシーンが回顧の物語の終わりである。 

 モンタナの自然の中で生きる家族にとって釣りは「趣味」ではない。しかし、人生そのものでもない。幼い兄弟が川べりで将来のことを語り合うシーンで、ポールがフライフィッシャーマンになると言い、ノーマンはそんな職業はないと答える。
 モンタナで人生に向き合うための真摯な手段、人生に不可欠な手段としてフライフィッシングがある。それがなければ人生は完成しない。しかし、それがあれば人生が完成するとは保証されてはいない。いわば、人生に潜む不可能性を、ポールのフライフィッシングとその死は表象している。

 多くの釣り人は、釣りを人生だ、と思いなすことはある。そしてまた、多くは思いなすだけで人生にすることはしない。いや、そういう不可能性を誰も引き受けようとはしない。「趣味」と規定して、ある地点から引き返すのである。それも「釣り」である。 〈クリークは何を知っているか? 如何なる自己形成を行ったか? そういうことを見るのだ。〉

 

青年よ汝よりさきに死をえらび婚姻色の一ぴきの鮎
                                                               塚本邦雄 [3]

渓谷はかなしかりけりこれからを流れるようなひとりとなろう
                                                                福島泰樹 [4]  

 死というものは、水だとか樹木だとかの、さりげない
姿勢のどこかに、ごく美しく仕舞われているものだとぼ
くはおもった。 

 ぼくはこのことを知りはじめてから、水や樹木と親し
むために、ひとりで魚を釣りにでかけた。ぼくはぼくの
影を終日水に写した。
                                 伊藤桂一「一章」部分 [5] 

 

 さて、映画のクレジット・タイトルは、次の文で終わる。 

No fish were killed or injured during the making of A RIVER RUNS THROUGH IT. The producers would like to point out that, although the Macleans kept their catch as was common earlier in this century, enlightened fishermen today endorse a “catch and release” policy to assume that this priceless resource swims free to fight another day. Good fishing  

 

[1] リチャード・ブローティガン(藤木和子訳)『アメリカの鱒釣り』(晶文社、1975年) p. 37。
[2] リチャード・ブローティガン(藤木和子訳)『東京モンタナ急行』(晶文社、19年)。
[3] 現代詩文庫501 塚本邦雄歌集』(思潮社 2007年)p.60。
[4] 福島泰樹「歌集 エチカ・一九六九年以降」『福島泰樹全歌集 第1巻』(河出書房新社 1999年)p. 98。
[5] 『日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集』(土曜美術社出版販売 1999年)p. 13。