ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

集団と個人

2017年05月01日 | エッセイー個人
第2章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節日本の個人

6集団と個人の関係は変わるか
 日本経済が最盛期のころ、欧米の個人主義と日本の集団主義を対比させて、経済行動における集団主義の優位を主張する言説がはやった。今はその逆で、何かにつけ集団主義は歩が悪く、個人主義への移行を説く文化人、経済人が多くなっている。例えば、次のような意見である。
 「日本人は政治、経済、外交などの領域で、欧米の人と話し合うときに、自分の考えや意見を明確に表現することが下手であり、そのために誤解されたり、不利益を蒙ったりすることが多い。この理由を掘り下げていくと、欧米の個人と日本の個人の違いに突き当たる。日本の個人は、交渉や意見交換の場で、相手の思惑ばかり気にして、自分を強く押し出すことができない。
 このあまりに弱い態度を改めるには、欧米の自立した強い個人、個人主義社会における個人のあり方を学ばなければならない。現在、企業の終身雇用が崩れ、労働市場が流動化、多様化するなかで、若い世代を中心に企業が依存すべき集団でなくなりつつある。集団主義に依拠できなくなれば、人々は自然に個人主義に向かうのではないか。」
 この意見は、前段は正しく、後段は間違っている。集団主義が容易に崩れるはずもないが、仮に崩れたとしても、それに代わって個人主義が簡単に立ち現れるわけではない。それは、それぞれがどのような歴史を背負っているかを見れば、明らかなことである。私は、日本を個人主義社会にすることは、日本人をすべてネイティブ並みの英語使いにするのと同じくらい難しいことだと考えている。
 その理由を説明するには、優に本1冊分の紙数が必要で、当ブログの「世間と個人」シリーズを最後まで読んでいただければ、なんとか理解していただけると思う。しかし、1回分の情報量には限りがあるので、今後少しずつ個人に関する話題(一見個人と関係がなさそうで、実はあるというような話題も含めて)を掲載して、読者諸賢の理解を得たい。
 ところで、これからも頻出するであろう個人主義と集団主義という言葉をおおまかに定義しておきたい。
 まず個人主義だが、言うまでもなくこれは自分の利害を最優先し、他人のことには関知しないという利己主義ではない。個人の自由、独立を重んじ、社会や集団の根源は個人にあるとする立場である。個人主義社会では、集団が個人に優先することは少なく、個人は所属集団や他人の干渉を受けずに自由に考え、自分で判断して行動できる。個人は自由でいい反面、集団や他人に依存することはできず、自立して自らを支え、何事も自己責任で行動するという緊張を強いられる。
 集団主義とは、個人の自由、独立よりも集団の利害や目標を優先させる立場である。集団主義は、全体主義ほど個人を強く拘束することはなく、集団への出入りも自由であるが、いったん集団に所属すると、その集団の持つ不文の規範が個人の行動や価値判断を縛る。集団内では、構成員が一致協力して目標達成に向けて行動することを求められる。個人は不自由な反面、あまり自立していなくても所属集団の人々が自分を支えてくれるし、集団の価値観に合わせていれば判断に迷うこともないから楽でいい。

 さて、そのどちらがいいかと言っても、これは個人が生まれ育った社会の文化だから、個人単位で選択するのは難しい。実は、明治以来の近代化の過程で多くの知識人たちは、一部の識者(例えば漱石)を除いて、欧米的な個人のあり方を理想とし、日本にも同じ個人が確立されるべきだと考えてきた。
 だが、知識人たちは、日本人と欧米人とでは自我の構造が違うことを見逃していた。自我構造の違いとは、詳しくは後に譲るが、端的に言えば、個人が一人ひとり他から切り離されて独立しているか否かである。日本の個人は単独では自立せず、所属集団の構成員と自我を共有して生きている。
 欧米人の社会行動が、ほとんど個人の自立という根本理念から導き出されているのに対し、日本人の社会行動は、周囲の人々との融和を基礎に成り立っている。個の確立よりも集団の融和を優先するという価値観は、明治以来の日本の西欧化、近代化によってもついに変わることはなかった。
 ただ、それは欧米の個人のありように比べて、劣っているということではない。文化相対主義の立場に立てば、文化に優劣はないのである。

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