死ぬ気まんまん 佐野洋子 光文社文庫
著者は絵本「100万回生きた猫」や数々のエッセイで知られる。72歳のとき乳がんで亡くなった。「死ぬ気まんまん」というタイトルは息子の言葉「かあさん、なんだか死ぬ気まんまんだね」からとられたという。この時、佐野さんは68歳。余命2年の告知を受け、自宅療養していた。死と向き合う心境を綴ったエッセイだが、気張ったり淡々としたりせず、自分の流儀は少しも変えずに今まで生きて来たように暮らしている様子がよくわかる。
何しろ病院で再発を告知された後、その足で中古車のジャガーを「それください」と買ったという読み手の度肝を抜く痛快さ。「もう長くないなら老後のための貯金をとっておく必要もない」という生活信条を地で行っている。もともと著者は、ものに執着がない人で、他人が欲しがれば、どんどん自分の物をくれてしまう。
死を前にした著者の言葉は、なかなか読ませる。「私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ」。「死ぬのを待つのもあきた」。「私はあの世があるとは思っていない。あの世は、この世の想像物だと思う。だから、あの世はこの世にあるのだ」と書く。
著者は、生きている限りは続いていく毎日を、痛いものは痛いとあがきながら、美しいものは美しいといとおしみながら、生きている。死と向き合う怖さはないのだろうか。本当は怖いかも知れない。だが、それをおくびにも出さないで「生きるって、どうあがいたって、かっこ悪いもんよ」とありのままを描く。
著者にとって、死は子供の頃から身近にあるものだった。戦後、家族で大連から引き揚げてきた時、たくさんの死を目の当たりにしたし、帰国してすぐ、生まれて間もない弟を亡くした。一心同体のように仲のよかった兄も11歳で死んだ(このとき著者は大雨の夜更け医者を迎えに真っ暗な山道を走った。以後どんなに暗いところも怖いと思わなくなった)。長く生きることは、そのぶん、たくさんの死を見送ることでもある。そして自分の番が来た。
この作品は雑誌連載中に、著者の死によって未完となったのだが、もう完結したような、言い残したこともないような雰囲気である。
表題作のほか、築地神経科クリニックの平井辰夫理事長との対談記録と「知らなかった」と題するエッセイが収録されている。
精神科医との対談では「余命2年と言われたそうですが、佐野さん、そんなに簡単に死なないですよ」と言われて、「そうなの?困る、私。2年だと言うんで、そのつもりでお金全部使っちゃったんだもん」と冗談めかしたたり、「死ぬのは怖くないんですけれども、死に至るまでの苦痛を想像すると、それが怖いんです」と本音を吐いたり、「本当に元気で死にたいんですよ」と矛盾したことを言ったりしている。医師にとっても、死とはどういうものかよく分からないらしい。
「知らなかった」というエッセイには「黄金の谷のホスピスで考えたこと」という副題がつけられていたようだが、どういうわけか文庫本では削られている。副題のほうが内容をよく表している。それはともかく、この作品も死を深く見つめていて「死ぬ気まんまん」に勝るとも劣らず、読み応えがある。
体中の痛みに耐えられなくなった著者は、友人に教えてもらったホスピスに末期がんでもないのに入院した。それはレンガ作りのホテルのような建物で、秋は多摩丘陵が黄金色と透き通る赤に輝く素晴らしい眺望に恵まれていた。
著者は、そこで出会った人間模様を描く。透き通るようにやせた若い女性を乗せた車椅子を若い男性が押して通る。堀辰雄の「風立ちぬ」みたいな二人は、紅葉した丘陵の風景をじっと眺め、やがてまた著者の前を通り過ぎて部屋に帰っていく。何日か後、車椅子が通らなくなって、猛烈な淋しさが身体を突き抜け喪失感にさいなまれる。
広島から検査のためにやってきた女性との交流は深い。彼女は肺がんで余命1年といわれたが、外見は病気に見えない。抗がん剤を拒否してワクチンだけを打っている。
「何か宗教を持っている?」と質問すると、「小さい頃からおばあちゃんに連れられてお寺に念仏を唱えに行っていた。今でも念仏を唱えると胸がすーっとする」と言う。すっかり仲良しになったが、数日後彼女が静かな表情で伝えた検査結果は「あと4ヶ月」というものだった。
著者は言う。「わかった、あなたもう救われていたんだよ。仏様が救ったのは、体じゃなかったんだ。魂が救われていたんだよ。だから、あなたは苦しんだり不安じゃかったんだよ。普通にしていられたんだよ」
「あーそうか。・・やー今、すごく嬉しかった。そーだね、そーだったんだ。ありがとう。言ってくれなかったら私わかんなかった」
著者にはもう一つのことがわかった。「神も仏も私のところにはやって来ない。しかし、私は神だか仏だかの法悦を受けた人を見た」。
ベランダから夕陽を眺めると、遠くの椎の木の葉っぱの一枚一枚がくっきりと細い金色にふちどられていて、ゴッホの絵に似ていた。「ゴッホはあの輝くタッチを生み出したのではなく、あの通りに見えたのではないか。狂死したゴッホは、死と隣り合わせで、世界はあのように燃えて見えていたのではないか・・。死ぬ間際の人に、きっとこの世の自然は、異様に美しく侵入してくるのではないか」。
でも著者は「こんな美しい自然に吸い込まれたたくない」と思って、14日目にホスピスを出る。わずか2週間の体験で、これだけ内容の濃い作品を書いた著者の観察眼と筆力に感嘆。
これはエッセイというよりも、短篇小説といった趣があり、「死ぬ気まんまん」より著者の心境が深く表出されているように感じた。
著者は絵本「100万回生きた猫」や数々のエッセイで知られる。72歳のとき乳がんで亡くなった。「死ぬ気まんまん」というタイトルは息子の言葉「かあさん、なんだか死ぬ気まんまんだね」からとられたという。この時、佐野さんは68歳。余命2年の告知を受け、自宅療養していた。死と向き合う心境を綴ったエッセイだが、気張ったり淡々としたりせず、自分の流儀は少しも変えずに今まで生きて来たように暮らしている様子がよくわかる。
何しろ病院で再発を告知された後、その足で中古車のジャガーを「それください」と買ったという読み手の度肝を抜く痛快さ。「もう長くないなら老後のための貯金をとっておく必要もない」という生活信条を地で行っている。もともと著者は、ものに執着がない人で、他人が欲しがれば、どんどん自分の物をくれてしまう。
死を前にした著者の言葉は、なかなか読ませる。「私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ」。「死ぬのを待つのもあきた」。「私はあの世があるとは思っていない。あの世は、この世の想像物だと思う。だから、あの世はこの世にあるのだ」と書く。
著者は、生きている限りは続いていく毎日を、痛いものは痛いとあがきながら、美しいものは美しいといとおしみながら、生きている。死と向き合う怖さはないのだろうか。本当は怖いかも知れない。だが、それをおくびにも出さないで「生きるって、どうあがいたって、かっこ悪いもんよ」とありのままを描く。
著者にとって、死は子供の頃から身近にあるものだった。戦後、家族で大連から引き揚げてきた時、たくさんの死を目の当たりにしたし、帰国してすぐ、生まれて間もない弟を亡くした。一心同体のように仲のよかった兄も11歳で死んだ(このとき著者は大雨の夜更け医者を迎えに真っ暗な山道を走った。以後どんなに暗いところも怖いと思わなくなった)。長く生きることは、そのぶん、たくさんの死を見送ることでもある。そして自分の番が来た。
この作品は雑誌連載中に、著者の死によって未完となったのだが、もう完結したような、言い残したこともないような雰囲気である。
表題作のほか、築地神経科クリニックの平井辰夫理事長との対談記録と「知らなかった」と題するエッセイが収録されている。
精神科医との対談では「余命2年と言われたそうですが、佐野さん、そんなに簡単に死なないですよ」と言われて、「そうなの?困る、私。2年だと言うんで、そのつもりでお金全部使っちゃったんだもん」と冗談めかしたたり、「死ぬのは怖くないんですけれども、死に至るまでの苦痛を想像すると、それが怖いんです」と本音を吐いたり、「本当に元気で死にたいんですよ」と矛盾したことを言ったりしている。医師にとっても、死とはどういうものかよく分からないらしい。
「知らなかった」というエッセイには「黄金の谷のホスピスで考えたこと」という副題がつけられていたようだが、どういうわけか文庫本では削られている。副題のほうが内容をよく表している。それはともかく、この作品も死を深く見つめていて「死ぬ気まんまん」に勝るとも劣らず、読み応えがある。
体中の痛みに耐えられなくなった著者は、友人に教えてもらったホスピスに末期がんでもないのに入院した。それはレンガ作りのホテルのような建物で、秋は多摩丘陵が黄金色と透き通る赤に輝く素晴らしい眺望に恵まれていた。
著者は、そこで出会った人間模様を描く。透き通るようにやせた若い女性を乗せた車椅子を若い男性が押して通る。堀辰雄の「風立ちぬ」みたいな二人は、紅葉した丘陵の風景をじっと眺め、やがてまた著者の前を通り過ぎて部屋に帰っていく。何日か後、車椅子が通らなくなって、猛烈な淋しさが身体を突き抜け喪失感にさいなまれる。
広島から検査のためにやってきた女性との交流は深い。彼女は肺がんで余命1年といわれたが、外見は病気に見えない。抗がん剤を拒否してワクチンだけを打っている。
「何か宗教を持っている?」と質問すると、「小さい頃からおばあちゃんに連れられてお寺に念仏を唱えに行っていた。今でも念仏を唱えると胸がすーっとする」と言う。すっかり仲良しになったが、数日後彼女が静かな表情で伝えた検査結果は「あと4ヶ月」というものだった。
著者は言う。「わかった、あなたもう救われていたんだよ。仏様が救ったのは、体じゃなかったんだ。魂が救われていたんだよ。だから、あなたは苦しんだり不安じゃかったんだよ。普通にしていられたんだよ」
「あーそうか。・・やー今、すごく嬉しかった。そーだね、そーだったんだ。ありがとう。言ってくれなかったら私わかんなかった」
著者にはもう一つのことがわかった。「神も仏も私のところにはやって来ない。しかし、私は神だか仏だかの法悦を受けた人を見た」。
ベランダから夕陽を眺めると、遠くの椎の木の葉っぱの一枚一枚がくっきりと細い金色にふちどられていて、ゴッホの絵に似ていた。「ゴッホはあの輝くタッチを生み出したのではなく、あの通りに見えたのではないか。狂死したゴッホは、死と隣り合わせで、世界はあのように燃えて見えていたのではないか・・。死ぬ間際の人に、きっとこの世の自然は、異様に美しく侵入してくるのではないか」。
でも著者は「こんな美しい自然に吸い込まれたたくない」と思って、14日目にホスピスを出る。わずか2週間の体験で、これだけ内容の濃い作品を書いた著者の観察眼と筆力に感嘆。
これはエッセイというよりも、短篇小説といった趣があり、「死ぬ気まんまん」より著者の心境が深く表出されているように感じた。