ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

学校教育と個性

2017年12月01日 | エッセイー個人
世間と個人Ⅱ章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節日本の個人

10学校教育と個性
 コロラド州のフォート・コリンズに滞在していたときに、幼稚園を見学したことは前にも書いたが、ここではもう一つ気づいたことについて。それは、一つのクラスの子供たちがいつも同一行動をしているわけではない、ということである。
 自由選択の時間があって、いくつかのグループに分かれて、それぞれ絵を描いたり、粘土細工をしたり、積み木遊びをしたり、とさまざまなことをする。そうなると担任の先生だけでは手が回らないから、助手や手伝いにきた父母が各グループについて指導する。日本なら、「さあ、お絵描きしましょう。歌をうたいましょう」と常にいっせいに行動させるところだ。
 アメリカの、画一的でない、個人に合わせた教育は、小中学校から大学に至るまでずっと続く。小学校でも科目によりクラスを能力別に二つか三つのグループに分け、別々の指導をすることは当たり前のように行われている。算数は自分のクラスから抜けて上の学年の授業を受けられるし、高学年になると中学の数学の授業に出ることも可能だ。算数に限らず、勉強のできる子にも、できない子にもクラスから抜けて受ける、特別プログラムがいくつも用意されている。一般的に中学、高校になると、選択科目が多くなり、各人が自由に科目を選ぶので、クラスの全員がいっせいに授業を受けることはほとんどない。
 こういうアメリカの学校教育を目の当たりにすると、日本の文部科学省が標榜する個性尊重とは、一体何を意味しているのか疑問に思えてくる。というのは、学校教育の現場では生徒の個性を無視するような学校運営がけっこう行われているからである。
 いくつか例をあげよう。まず服装や持ち物について見ると、幼稚園から高校まで制服着用が当たり前になっているし、体操着、帽子、靴、靴下、カバンまで同じものを揃えさせる。茶髪はいけないとか髪型はこうしろとか、身なりについても実にうるさい。
 もっとも、学校の指導がなくとも、周囲から無言の圧力がかかることもある。小学校に入学する息子に何色のランドセルを買ってやるかで悩んだ母親の投書が新聞にのっていた(2004・2・17 朝日新聞)。母親は黒いランドセルを買うものと決めていたのに、息子は「青がいい」という。「みなと違う色ではいじめられるかも」と心配した彼女は、「お友だちはみんな黒よ」などと説得したが、息子は譲らず、ついに青を買ってやったというのだ。
 こういう場合、親のほうが人並みが無難だと考え、幼い子はそれに組み敷かれてしまうことが多い。日本の社会で自分の個性を貫こうとすれば、まず人並み志向、画一化志向と戦わなければならない。
 また、学校というところは、行過ぎた連帯責任がまかり通る場である。昔私の長男の中学では、クラスの誰かが校則違反をすると、悪い行為を止めなかった周りの者も良くない、とクラスの全員が教師から叱られたそうだ。運動部員が暴力沙汰など不祥事を起こすと、やったのは一人でも全部員が謹慎して、全国大会などへの出場を辞退する。事件を起こした本人だけ謹慎させれば済むことではないのか。せっかく全国大会出場を夢見て練習に励んできたのに、その夢を断ち切ることはあるまい。
 小学校のなかには班別の学級運営をするところがある。一つのクラスを数人ずつの班に分け、同じ班の中に勉強が分からない子がいれば、互いに教え合ったり、忘れ物をしないよう注意しあったりさせるのである。誰か一人宿題を忘れたりすると、班の連帯責任になって、全員に罰が与えられることもある。これでは、全体の水準を上げるために、個人の能力を伸ばす機会が摘み取られるのではないか。
 少し前のことだが、野球監督の星野仙一氏が自分の出身小学校で6年生のあるクラスを指導するという番組が放映された(2005・3・13 NHK総合テレビ「課外授業」)。指導内容は野球のバットでボールを打つというものだが、同氏はクラスを三つのグループに分け、グループ全員の飛距離の合計を競わせていた。こうしたほうが、個人個人単独で競うより、チームで頑張るという雰囲気になって、各人の飛距離も伸びるようだ。
 日本人は、個人よりも、集団で活動するほうが力を発揮すると言われているが、そういう行動傾向の原型が、小学生にしてすでに出来上がっている。学校教育が没個性を助長するのは、実は父母(有権者)の大多数がわが子に「出る杭になって打たれるより、目立たなくても人並みの子でいてほしい」と望んでいるからである。
 学校の規制は深夜外出禁止、パチンコ店への入場禁止、バイク使用禁止など校外の生活にまで及んで、父母のしつけの領域を侵している場合がある。これも父母が「校外の行動を規制して欲しい」と考えるから、学校がそうするのだ。学校は父母を含めた世の中の人々の意向に反する教育は、できないのである。
 教育行政は、社会の風潮を反映する。父母が人並み志向で、個性を生かすことを取りたてて望んでいなければ、学校教育はなかなか変わらない。しかしながら、自己責任や自助努力が一層の重みをもって強調される現代にあって、日本人はしょせん変わりようがない、と手をこまぬいているわけにもいくまい。
 では、欧米の個性尊重に飛びつくか。欧米の個性重視は強い自己主張ないし自己の存在表明と表裏一体の関係にあるので、片方だけはがして日本の文化風土に貼り付けようとしてもうまくいかない。
 ここでも、どちらにも偏らない第三の道が求められる。日本人の個性はどうあるべきか、どう育てるべきか、これから議論を始めよう。

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