ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

人工知能と経済の未来

2017年04月21日 | 読書日記
人工知能と経済の未来 井上智洋 文春新書
 副題が2030年雇用大崩壊となっている。今後人工知能(AI)が急速に進化すると、社会はどう変わるかを経済学者が予想している。
 囲碁や将棋でAIがプロの棋士を負かすようにになった。車の自動運転も近未来に可能になりそうである。これらは、まだ単能AIだが、やがてマルチ・タスクをこなす汎用のAIが実用化され、平均的な能力の人間がなし得る仕事の大部分をこなすようになるという。
 そうなると、たとえば決算書とか、会社のホームページを作るとか、○○業界の動向を調査して報告書にまとめるといった作業は、2030年頃になれば、AIが簡単にやってのけるようになる。それだけではない。人間の介在なしに、機械同士あるいは機械と部品が情報交換して、工場の生産システムを動かすようになり、労働者が不要になる。
 学者や研究者の領域にも自動化はおよび、データを解析して結果を論文にまとめる仕事も、人間より速く正確にできるようになる。上司が部下に命じるような事務作業はもちろんのこと、農作業でも建設労働でも汎用AIはなんでもこなすようになる。
 実をいうと、私は今から20年くらい前、「自動化の発達によって、世の中から中間職がなくなりつつある。その対策を考えておかないと平均的な能力の人間が失業して、仕事は高度の知能を要することか機械化ないしコンピュータ化されない道路工事的なことかに2極分解する」と私のニュースレターなどで訴えてきたが、声が小さかったためか、注目されなかった。
 もちろん、AIに奪われにくい仕事も存在するだろう。著者がCMHと呼ぶクリエイティヴィティ系(創造性)、マネージメント系(経営・管理)、ホスピタリティ系(もてなし)の3分野である。ただし、これらの仕事に就ける人は、日本では人口の1割程度かもしれないと著者は言う。その時期を2045年頃と著者は見ている。
 労働者に代ってAIが労働の主力となれば、経営者や株主などの資本家は利益を得るが、労働者は雇用されなくなり、収入を得る手段を失う。そうなったら大半の労働者は飢えて死を待つしかないのか。
 なんの社会保障もなければそうなるであろう。ここで登場する政策がベーシック・インカム(BI)である。これは、すべての人に所得保障を行う施策で、最低限の生活費を、国民すべてに支給する制度である。
 現在すでに生活困窮者には生活保護という施策があるが、人口の9割に生活保護に該当するかを審査して給付を与えるよりも、BIによって一律に所得保障したほうが支給方法論的に見て容易である。
 財源はどうするか。基礎年金の政府負担や児童手当、生活保護などはBI導入に伴って廃止し、それで足りない財源は所得税の増税による。仮にBI給付額を国民1人あたり月7万円とすると、25%の所得増税で賄える計算である。
 これが経済学者である著者の描く未来像だが、私には日本という国が滅亡に向かって奈落の底に落ちて行く姿のように思える。
 有史以来人間は、王侯貴族は別として、労働によって衣食住を得てきた。そればかりでなく、群れる動物である人間は労働を通じて人格を磨き、人間関係を良好に維持するすべを身につけ、良き社会を維持してきたのである。
 労働の場というタガがなくなったら、人々は好き勝手に振る舞うようになり、喧嘩、口論や犯罪も増え殺伐とした社会になるだろう。いくら学校や家庭で道徳を教えても、職業の教育力にはかなわない。
 CMHの職業に就いている者は肩で風を切って街を歩き、BI受給者は日陰者になって劣等感にさいなまれる。CMHに就職するための激越な競争も展開されるだろうし、大多数の人々は始めからCMHを諦めて、一生をのんきに暮らすようにもなるだろう。100年以上かけてすこしずつ身分差のない社会を作りあげてきたのに、九仞の功を一簣(き)にかいて、身分社会に逆戻りである。
 このような恐ろしい社会の到来を少しでも遅らせるためには、現代のラッダイト運動(1810年代イギリスに起こった織物工場の打ち壊し)を起こすしか方法がないのだろうか。
 ここで私は、はからずも漱石の「行人」を思い出した。この小説は、主人公の一郎が「科学の発展から来る人間の不安」とか「禅は人を救えるか」とか簡単には答の出ない問いに悩まされる姿が描かれている。主人公は「死ぬか、気が違うか、宗教に入るか」しなければ解決しないと承知していながら、悩みから抜け出すことができない。
 明治末に書かれたこの小説では、科学の発展から来る不安は、まだ具体的な形になっていない。主人公の苦悩は解決の糸口すらつかめないまま、小説は終わっている。
 中国の故事に「杞の国に、天が落ちてくるのではないかと心配する者がいて、これを『杞憂』という」とある。執筆当時、漱石の悩みはそれ近いように見えたかもしれないが、今や人類の危機は現実味を帯びてきた。
 誰か想像力、予知能力の豊かな作家が、2045年頃の社会を描いて見せてくれないだろうか。
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