ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

対立の回避と和

2017年04月11日 | エッセイー個人
第2章 個人の構造(個人は自立すべきか)
2節 日本の個人

5対立の回避と和
 われわれはいつも周囲の人と意見対立しないように日常の言動に気をつけ、万一他人と対立した場合は、いかにそれを解消するかに腐心する。個人と個人が反目するようなことは避け、できることなら一心同体の関係になることを望んでいる。
 このような性向があるため、われわれは会社、団体などの内部で何かを決めるために会議をするときでも、できることなら全会一致で物事が決まることを望み、賛成、反対の両派が対立して、口角泡を飛ばすような議論をすることをなるべく避けようとする。
 意見が対立して、かんかんがくがく言い合うと、議論に負けたほうは悔しくてたまらず、たとえ相手の論理が正しくても、「あの言い方はなんだ。人をバカにしている」などと根にもって、両者の関係にひびが入り、あとあとまで影響して簡単に修復できなくなる。
 そこで、公式の場で激しい議論にならないように、事務方が両派に前もって折衝して、落としどころを決めておくというような根回しがよく行われることになる。
 同じように、構成員が毎日のように顔を合わせ、共通の目標に向けて行動している集団、たとえば職場では、「みんな一緒に」とか、「心を一つにして」とかが暗黙の合言葉になっていて、構成員の和を大切に考え、集団内に対立が生じないような配慮がなされている。
 比較的小さな集団内で意見の対立が生じた場合には、それぞれの理非曲直をただすよりは、対立点をとりあえず棚上げし、両者が自己主張を進んで引っ込め、仲直りするような措置がとられる。
 わが国では、和を尊んで対立を避けることがよいこととされているのである。
 一方、欧米の文化圏では対立を回避しない。欧米には、個人はそれぞれ利害と意見が異なり、潜在的に対立しているという人間観がある。彼らにとって意見の対立は自然なことで、むしろ対立のない方が不自然な状態であり、対立の中からよい意見が創造されると考える。
 欧米人は意見が違えば、お互いに譲らず延々と議論を続け、しばしばけんか腰で激しくやりあう。われわれが見ていると、あれでしこりを残さないのだろうか、と心配になるほどだが、当人同士は終わればケロリとしている。そして、議論に勝った方も負けた方も、議論を続けたおかげで議論が深まり、よりよい結論に到達できたと考えることも多い。
 わが国の人々の対立を避ける傾向は、自己主張を抑え、お互いにやさしく接するという長所を生み、住み心地のいい社会を作るけれども、反面では大きな問題を生み出す。問題点は二つある。
 まず第一は、言葉を正確に使ってどこまでも議論を積み上げるという習慣ができないことである。子供のときから、事実や意見を相手にわかるように、論理的に順序だてて説明したり、対立することをおそれず自己の主張を述べたりするような訓練は、学校でも家庭でも行われない。むしろ、相手の身になって考え、言葉にならない相手の気持ちを察する能力を高めるように訓練される。
 これでは、民主主義という、議論することで成り立つ政治制度は発達しない。われわれは、議論の能力を高めるとともに、欧米の丸写しでないわが国に適合した民主主義のあり方を模索する必要がある。
 もう一つの問題点は交渉が不得意になってしまうことである。交渉は虚虚実実の駆け引きであるから、少々相手がけんか腰になっても、そんなことはものともせず、脅したりすかしたりしながらこちらの言い分を通さなければならない。しかし、日ごろ対立を回避する弱気な生活をしていると、いざというとき、つい相手に譲ってしまうことになる。
 個人同士の交渉なら、どちらかがしくじっても、個人が損失をこうむるだけだが、国を代表して政治家や外交官が交渉の場に出て失敗すれば、国益を損ねる。近年わが国は、外交下手のおかげで、ずいぶんと損をしているように思われる。戦前は、列強諸国に比肩する武力を持っていたから、砲艦外交によって諸外国に太刀打ちできた。高度成長期の経済力豊かな時代は、札束外交によって外交能力の弱さを補うことができた。しかし、今そういう武器は持ち合わせていない。交渉力の向上は急務である。

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