ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

世代論を封印しよう

2014年06月21日 | エッセイ
世代論を封印しよう
 わが国では、これこれの世代はこういう傾向と世代別の特徴を論じる世代論が昔からよく行われる。たとえば、次の文章などはその典型と言っていい。
 「日本の若者は社会がこれ以上経済的に豊かになることにあまり意味を感じていない。この豊かさがいつまで続くのかということも考えていない。彼らは生まれたときからすでに社会が豊かだった。生活の中に物が溢れていた。だから彼らにとって豊かさは、将来の目標でも、未来の理想でもない。今までも、これからも、ずっとつづくはずの日常なのである。
 団塊世代までの日本人の生活ポリシーはいわばグッド・ライフ志向だった。グッド・ライフとは、1950年代のアメリカの豊かな生活のイメージを表す言葉である。高度成長期前夜、日本人は皆、アメリカのように物質的に豊かになりたいと思った。その願望が、高度成長を推進する原動力であった。
 グッド・ライフがほぼ実現された70年代に少年だった新人類世代が、80年代以降若者になり大人になると、ベターライフ志向が強まった。つまり、ワンランク上を目指すということである。(中略)
 ところが、新人類世代よりもさらに15歳から20歳くらい若い今の若者になると、アメリカ的生活とかヨーロパのブランドのようなわかりやすい豊かさの基準では自分の幸福を計れなくなり、自分にとって最適なものを求めるという価値観が強まった。それを私は“マイ・ベスト・ライフ志向”あるいは“自己最適化志向”と名づけている」(三浦展著『仕事をしなければ自分は見つからない』2005年晶文社刊)。
 著者は○○世代はこういう特徴、△△世代はこういう特徴と、同じ年代に生まれた人は、思考や行動も同じであると考えているようである。この本が出てから10年近くたって、ワーキング・プアが問題になっているから、今ならもう一つ何とか世代が追加されるかもしれない。 もちろん、著者は世代が同じなら思考や行動が100%同じと考えているわけではないだろう。だが、一つの傾向にあてはまらない人々は無視できるほど少数だと考えているようだ。
このような世代論は、昔から画一化志向の強い世の中に受け入れられ、いっこうに衰えないけれども、私はそういう論にくみしない。世代論の問題点は二つある。
 第一は、年齢によって社会が輪切りにされることである。われわれは年齢が同じなら考えることも行動もほぼ同じと考えがちである。学校の先生が今年の新1年生はこういう傾向だとか、企業の人事担当者が今年の新入社員はこうだとか考えるのもその表れといえる。
 しかし、年齢が同じなら考えることも行動も同じといえないことは、実際にその人たちに接してみればすぐわかる。それにもかかわらず、われわれが人々の行動傾向を年齢別にとらえようとするのは、長幼の序が体の中にしみ込んでいるためだろう。
 幼いときから家庭で、お兄ちゃんだからあるいはお姉ちゃんだから下の子に譲りなさいとか、いい子にしていなさいとしつけられる。学校へ行くようになれば、学年別の区分けの中で教育される。運動部では先輩後輩の序列が厳しい。
 昔結婚適齢期という言葉がよく使われていた。特に女性に対して、何歳くらいなったら結婚しなさいと無言の圧力がかかったが、これも年齢別行動基準である。
 この言葉が死語になったのは結構なことだが、年齢別行動基準の発想は衰えをみせない。こ
のくらいの年齢の人ならこういう行動をするのが普通だとか、いい年をしてまだそんな幼稚なことを言っているのかとか、人々の行動が年齢対比で評価されている。
 だから、われわれは他人の年齢が気になる。誰かがTVや新聞で紹介されるとき、氏名のあとに年齢が入るのはそのためだろう。
 年齢別行動基準は、厳密にいえば世代論というよりも年代論だが、両者は同根である。世代別、年代別に輪切りにされた価値基準で窮屈な思いをする必要は毛頭ないはずだ。
 第二の問題点は個性が尊重されないことである。世代論ばかりはやらしていたら、世代特徴に合わない少数者は変わり者と見られ、その個性は尊重されない。時代風潮に違和感を覚え、多数意見に背を向ける少数意見の中に、実は社会を革新する見解が見つかるものである。
 企業集団やスポーツ集団では、全員一丸となることが奨励され、一丸となった集団は異質の存在を認めず、異論を唱える者を袋叩きにする。だが、どこを切っても同じ発想が出る金太郎飴集団は社会情勢や経営環境の変化に弱く、環境が変わったとき、それに適応できず全員討ち死になる。こういうときに、異質の人を少数かかえていると、新しい環境への対応策が出やすい。
 多数意見になじまない個性ある人材を、集団行動を乱すやからと白眼視せず、いつか役に立つ人物と考えて温存する組織が長続きするのである。世代論で世の中を見ていると、世代特徴に合わない人は、大勢に順応しない半端ものに見え、個性ある貴重な人材には見えないだろう。
 少数意見を尊重する風潮を育てるために、世代論は封印したほうがいい。

小説・外務省-尖閣問題の正体

2014年06月11日 | 読書日記
小説・外務省-尖閣問題の正体 孫崎享 現代書館
 外務省主流派がアメリカの威を借りて政治家や他省庁の官僚を手玉にとっている実態をなまなましく描く孫崎の最新作。外務官僚の主流にいる人々はアメリカの言いなりである、とはよく聞く言葉だが、これほど忠犬ポチになっているとは、知らなかった。
 小説と銘打っているが、ほとんどの人は実名で登場している。槍玉にあげられた人たちがどういう反応を示すか見物だ。もちろん表に出るような形の反論はないだろうが、陰にこもった仕返しが怖い。
 この作品は、大手の出版社すべてから出版を断られ、勇気ある現代書館から出してもらったようだ。だが、「戦後史の正体」同様に、大手新聞社から広告を出すのを断られても、ベストセラーの仲間入りをするだろう。
 この本の最初の章は鳩山元首相に対する「人物破壊」にあてられ、アメリカ政府、日本政府、外務省、マスコミが鳩山のイラン訪問を妨害し、「変わり者」「国賊」として、人格攻撃キャンペーンを行った経過を明らかにしている。
 著者は「鳩山氏のイラン訪問を冷静に分析すれば、プラスの面が多々あった」と述べているが、アメリカ政府をはじめ鳩山の動きをおそれていた人々は、鳩山非難の大合唱をした。安倍首相も鳩山の人物破壊に参加した。
 この章では、鳩山のアジア共同体構想など、あまりマスコミが紹介しない信念と行動も紹介している。マスコミの影響で、鳩山は民主党政権時代の首相としては最も劣ると考えている人が多いと思うが、実際は平和と日本の独立と民主主義の立場を貫こうとした、三人のなかでは最も評価できる首相であったことがわかる。
 この本の中心は尖閣問題である。これについては、田中角栄時代に「日中双方が棚上げにする」との合意があったにもかかわらず、現在の政府は「そういう合意はない」としている。
 尖閣問題は、日中が離反するようにとアメリカが仕込んだ罠で、その意向に添うように政府が動いているだけなのだということがこの本でよく分かる。残念ながら、日本は米国の属国、植民地の状態に置かれ続けている。この国で、自己の利益の最大化を図るために最良の方策は、魂を売ってアメリカの忠実な僕となることなのだ。
 しかし、すべての日本人が魂を売っているわけではない。この小説の主人公西京寺は外務省のエリート官僚だが、人事競争に勝って高い地位を得ようとはせず、己の正しいと信ずる道を歩こうとする。他のエリート官僚のように「上司がどんな人物であろうと、その意見に従う。上司の考え方を自分が感じ取って主張する。それが外務省の生き方だ」とは考えない。多分これが著者の信条でもあろう。
 西京寺は尖閣問題を「棚上げ」にするのが日本にとって最もよいと考え、その信念に従って動き、ついには首相に直訴する。
 尖閣問題について正しい態度をとった人が他にもいる。丹羽宇一郎元中国大使、栗山元外務次官、山口壯元外務副大臣などである。だがこれらの人々の意見は、無視されたり、マスコミに攻撃されたりして、国民に届いていない。
 著者は「尖閣問題の正体」を一気に体得できる恰好のノンフィクション小説に仕上げ、それを通じて米国がどのように日本を支配しているか、をリアルにそして核心に迫って再現している。
 なお、著者の読者サービスで、主人公と同僚の女性官僚との恋愛と結婚も盛り込まれているが、恋愛小説ではないので、この部分はあまりうまくなく、まあご愛嬌といったところか。

やさしさの功罪 その3

2014年06月01日 | エッセイ
やさしさの功罪 その3
 先日新聞のコラムにおとぎ話のカチカチ山の変容について書いた人がいた。コラムの筆者が幼い頃に読んだカチカチ山は次のような話である。
「爺さんが畑でいたずらタヌキを捕まえ、たぬき汁を作るよう婆さんに頼んで出かけたが、タヌキは婆さんをだまして縄を解かせ、杵で殺し、婆汁を作って爺さんに食わせた。
 真実を知った爺さんが深く悲しむのを見て、裏山のウサギがタヌキを懲らしめた。背負わせたカヤに火をつけて大やけどをさせ、治療と称して味噌や唐辛子を塗り込み、ついには命乞いするタヌキを泥舟に乗せて溺死させる」。
 ところが筆者によれば、最近の子どもたちが読んでいるカチカチ山では、「婆さんは怪我をさせられただけ。したがって不気味な婆汁は出てこない。最後は改心したタヌキをウサギが許す」とい話になっているという。(東京新聞2014年5月14日夕刊)。
 このコラムを読んで思い出したのが、イソップ物語にある「アリとセミ(またはキリギリス)」の話である。古代ギリシャのアイソポスが作ったとされる寓話にある元の話はこうである。
「夏の間せっせと働いて食糧を貯めたアリに、冬になってから飢えたセミが食糧を恵んで欲しいと頼む。なぜ食糧を集めなかったのかと問うアリに、調子よく歌っていたので暇がなかったとセミが言うと、アリは夏に笛を吹いていたのなら、冬は踊りなさいとつきはなす」。
 この話も日本ではしばしば書き換えられてきた。「さんざんあざけりの言葉を浴びせた後、少しの食糧を与えた」とか「さあ、えんりょなく食べてください。今年の夏も楽しい歌を聞かせてもらいたいね、と元気づけた」とか、いくつかの版があるようだ。
 私はロンドン滞在中に、イソップ寓話原典に似たような話を、イギリス人と結婚してロンドン郊外に住んでいる日本人女性から聞いたことがある。イギリスの家庭では日常食べるパンは自宅で焼くのが普通のようだが、ある晩彼女は小麦粉が全くなくなっていてパンを作れないことに気づいた。夜も遅いので商店はもう閉まっている。仕方がないので隣の家に借りに行ったら、黙ってドアをぴしゃりと閉められてしまった、というのだ。
 昔日本では米、味噌、醤油などを気軽に貸し借りしていたから、彼女もそんなつもりで借りに行ったのだろうが、イソップ寓話の現代イギリス版をまともに体験させられたわけである。
 書きかえ日本版の「アリとセミ(キリギリス)」が、たとえ本人の責任によることでも、困っている人は助けるという日本的な倫理観ないし「やさしさ」に基づいているのに対し、欧米的な倫理観では「冬の準備を怠ったのは自分のせいで、飢え死にもやむなし」と自己責任が厳しく問われる。
 そのどちらがいいかといっても、自分が生まれ育った社会の文化であるから、スーパーで商品を選ぶようなわけにはいかない。しかしながら、自分の落ち度で不幸を招きそうになっても、周囲が助けてくれるという日本的なやさしさにいつまでも頼っていたのでは、自立心が育たない。
 私は子どもが小学生の頃、妻とも相談して、学校に持っていくべきものを前日そろえるようにとか、宿題を忘れないようにとか注意しないようにしていた。本人が忘れれば先生に叱られるだろうが、それは自業自得で、そういうことを積み重ねていくうちに、前もって用意する習慣がつくだろうと考えていたのだ。
 日本では、周りが面倒見てくれるから自立しなくても生きていける。日本の社会制度や法律なども「そこまで面倒見るの」と思うほど自立しない個人を助けるように作られている。
 最近の例でいうと、「過労死防止法案」が国会で審議されており、成立すると国は防止対策を講じる責務を負うという(2014・5・24東京新聞)。過労死するほど心身の健康を損なう前に、労働者は自分で防止策を考えるべきだ。
 最も手っ取り早いのは、仮病を使って会社を休むことである。転職もあり得る。私は生涯に3度仕事を変えた。一度目は仕事が自分に合わないと思ったから、二度目は同族経営会社の将来性に見切りをつけたから、三度目は順調に出世したのはいいが、上に行くほど心労が増え仕事がつらくなったからで、そのまま続けていたら過労死もあったかもしれない。労働者が団結して組合を作り、経営者と交渉するという方法もある。
 とにかく黙々と働くのでなく、何か行動を起こすことが必要だ。黙っている人は、自分では意識していないかもしれないが、結果として、いずれどこかから救いの手がさしのべられる、と淡い期待を抱いているのと同じではないか。
 やさしさのない殺伐とした社会も息苦しいけれども、やさしい、行動を起こさない人ばかりで構成された社会も為政者の言いなりになって危うい。もう少し人々が自立し、強くなる方向に舵を切ることが必要ではないか。