世代論を封印しよう
わが国では、これこれの世代はこういう傾向と世代別の特徴を論じる世代論が昔からよく行われる。たとえば、次の文章などはその典型と言っていい。
「日本の若者は社会がこれ以上経済的に豊かになることにあまり意味を感じていない。この豊かさがいつまで続くのかということも考えていない。彼らは生まれたときからすでに社会が豊かだった。生活の中に物が溢れていた。だから彼らにとって豊かさは、将来の目標でも、未来の理想でもない。今までも、これからも、ずっとつづくはずの日常なのである。
団塊世代までの日本人の生活ポリシーはいわばグッド・ライフ志向だった。グッド・ライフとは、1950年代のアメリカの豊かな生活のイメージを表す言葉である。高度成長期前夜、日本人は皆、アメリカのように物質的に豊かになりたいと思った。その願望が、高度成長を推進する原動力であった。
グッド・ライフがほぼ実現された70年代に少年だった新人類世代が、80年代以降若者になり大人になると、ベターライフ志向が強まった。つまり、ワンランク上を目指すということである。(中略)
ところが、新人類世代よりもさらに15歳から20歳くらい若い今の若者になると、アメリカ的生活とかヨーロパのブランドのようなわかりやすい豊かさの基準では自分の幸福を計れなくなり、自分にとって最適なものを求めるという価値観が強まった。それを私は“マイ・ベスト・ライフ志向”あるいは“自己最適化志向”と名づけている」(三浦展著『仕事をしなければ自分は見つからない』2005年晶文社刊)。
著者は○○世代はこういう特徴、△△世代はこういう特徴と、同じ年代に生まれた人は、思考や行動も同じであると考えているようである。この本が出てから10年近くたって、ワーキング・プアが問題になっているから、今ならもう一つ何とか世代が追加されるかもしれない。 もちろん、著者は世代が同じなら思考や行動が100%同じと考えているわけではないだろう。だが、一つの傾向にあてはまらない人々は無視できるほど少数だと考えているようだ。
このような世代論は、昔から画一化志向の強い世の中に受け入れられ、いっこうに衰えないけれども、私はそういう論にくみしない。世代論の問題点は二つある。
第一は、年齢によって社会が輪切りにされることである。われわれは年齢が同じなら考えることも行動もほぼ同じと考えがちである。学校の先生が今年の新1年生はこういう傾向だとか、企業の人事担当者が今年の新入社員はこうだとか考えるのもその表れといえる。
しかし、年齢が同じなら考えることも行動も同じといえないことは、実際にその人たちに接してみればすぐわかる。それにもかかわらず、われわれが人々の行動傾向を年齢別にとらえようとするのは、長幼の序が体の中にしみ込んでいるためだろう。
幼いときから家庭で、お兄ちゃんだからあるいはお姉ちゃんだから下の子に譲りなさいとか、いい子にしていなさいとしつけられる。学校へ行くようになれば、学年別の区分けの中で教育される。運動部では先輩後輩の序列が厳しい。
昔結婚適齢期という言葉がよく使われていた。特に女性に対して、何歳くらいなったら結婚しなさいと無言の圧力がかかったが、これも年齢別行動基準である。
この言葉が死語になったのは結構なことだが、年齢別行動基準の発想は衰えをみせない。こ
のくらいの年齢の人ならこういう行動をするのが普通だとか、いい年をしてまだそんな幼稚なことを言っているのかとか、人々の行動が年齢対比で評価されている。
だから、われわれは他人の年齢が気になる。誰かがTVや新聞で紹介されるとき、氏名のあとに年齢が入るのはそのためだろう。
年齢別行動基準は、厳密にいえば世代論というよりも年代論だが、両者は同根である。世代別、年代別に輪切りにされた価値基準で窮屈な思いをする必要は毛頭ないはずだ。
第二の問題点は個性が尊重されないことである。世代論ばかりはやらしていたら、世代特徴に合わない少数者は変わり者と見られ、その個性は尊重されない。時代風潮に違和感を覚え、多数意見に背を向ける少数意見の中に、実は社会を革新する見解が見つかるものである。
企業集団やスポーツ集団では、全員一丸となることが奨励され、一丸となった集団は異質の存在を認めず、異論を唱える者を袋叩きにする。だが、どこを切っても同じ発想が出る金太郎飴集団は社会情勢や経営環境の変化に弱く、環境が変わったとき、それに適応できず全員討ち死になる。こういうときに、異質の人を少数かかえていると、新しい環境への対応策が出やすい。
多数意見になじまない個性ある人材を、集団行動を乱すやからと白眼視せず、いつか役に立つ人物と考えて温存する組織が長続きするのである。世代論で世の中を見ていると、世代特徴に合わない人は、大勢に順応しない半端ものに見え、個性ある貴重な人材には見えないだろう。
少数意見を尊重する風潮を育てるために、世代論は封印したほうがいい。
わが国では、これこれの世代はこういう傾向と世代別の特徴を論じる世代論が昔からよく行われる。たとえば、次の文章などはその典型と言っていい。
「日本の若者は社会がこれ以上経済的に豊かになることにあまり意味を感じていない。この豊かさがいつまで続くのかということも考えていない。彼らは生まれたときからすでに社会が豊かだった。生活の中に物が溢れていた。だから彼らにとって豊かさは、将来の目標でも、未来の理想でもない。今までも、これからも、ずっとつづくはずの日常なのである。
団塊世代までの日本人の生活ポリシーはいわばグッド・ライフ志向だった。グッド・ライフとは、1950年代のアメリカの豊かな生活のイメージを表す言葉である。高度成長期前夜、日本人は皆、アメリカのように物質的に豊かになりたいと思った。その願望が、高度成長を推進する原動力であった。
グッド・ライフがほぼ実現された70年代に少年だった新人類世代が、80年代以降若者になり大人になると、ベターライフ志向が強まった。つまり、ワンランク上を目指すということである。(中略)
ところが、新人類世代よりもさらに15歳から20歳くらい若い今の若者になると、アメリカ的生活とかヨーロパのブランドのようなわかりやすい豊かさの基準では自分の幸福を計れなくなり、自分にとって最適なものを求めるという価値観が強まった。それを私は“マイ・ベスト・ライフ志向”あるいは“自己最適化志向”と名づけている」(三浦展著『仕事をしなければ自分は見つからない』2005年晶文社刊)。
著者は○○世代はこういう特徴、△△世代はこういう特徴と、同じ年代に生まれた人は、思考や行動も同じであると考えているようである。この本が出てから10年近くたって、ワーキング・プアが問題になっているから、今ならもう一つ何とか世代が追加されるかもしれない。 もちろん、著者は世代が同じなら思考や行動が100%同じと考えているわけではないだろう。だが、一つの傾向にあてはまらない人々は無視できるほど少数だと考えているようだ。
このような世代論は、昔から画一化志向の強い世の中に受け入れられ、いっこうに衰えないけれども、私はそういう論にくみしない。世代論の問題点は二つある。
第一は、年齢によって社会が輪切りにされることである。われわれは年齢が同じなら考えることも行動もほぼ同じと考えがちである。学校の先生が今年の新1年生はこういう傾向だとか、企業の人事担当者が今年の新入社員はこうだとか考えるのもその表れといえる。
しかし、年齢が同じなら考えることも行動も同じといえないことは、実際にその人たちに接してみればすぐわかる。それにもかかわらず、われわれが人々の行動傾向を年齢別にとらえようとするのは、長幼の序が体の中にしみ込んでいるためだろう。
幼いときから家庭で、お兄ちゃんだからあるいはお姉ちゃんだから下の子に譲りなさいとか、いい子にしていなさいとしつけられる。学校へ行くようになれば、学年別の区分けの中で教育される。運動部では先輩後輩の序列が厳しい。
昔結婚適齢期という言葉がよく使われていた。特に女性に対して、何歳くらいなったら結婚しなさいと無言の圧力がかかったが、これも年齢別行動基準である。
この言葉が死語になったのは結構なことだが、年齢別行動基準の発想は衰えをみせない。こ
のくらいの年齢の人ならこういう行動をするのが普通だとか、いい年をしてまだそんな幼稚なことを言っているのかとか、人々の行動が年齢対比で評価されている。
だから、われわれは他人の年齢が気になる。誰かがTVや新聞で紹介されるとき、氏名のあとに年齢が入るのはそのためだろう。
年齢別行動基準は、厳密にいえば世代論というよりも年代論だが、両者は同根である。世代別、年代別に輪切りにされた価値基準で窮屈な思いをする必要は毛頭ないはずだ。
第二の問題点は個性が尊重されないことである。世代論ばかりはやらしていたら、世代特徴に合わない少数者は変わり者と見られ、その個性は尊重されない。時代風潮に違和感を覚え、多数意見に背を向ける少数意見の中に、実は社会を革新する見解が見つかるものである。
企業集団やスポーツ集団では、全員一丸となることが奨励され、一丸となった集団は異質の存在を認めず、異論を唱える者を袋叩きにする。だが、どこを切っても同じ発想が出る金太郎飴集団は社会情勢や経営環境の変化に弱く、環境が変わったとき、それに適応できず全員討ち死になる。こういうときに、異質の人を少数かかえていると、新しい環境への対応策が出やすい。
多数意見になじまない個性ある人材を、集団行動を乱すやからと白眼視せず、いつか役に立つ人物と考えて温存する組織が長続きするのである。世代論で世の中を見ていると、世代特徴に合わない人は、大勢に順応しない半端ものに見え、個性ある貴重な人材には見えないだろう。
少数意見を尊重する風潮を育てるために、世代論は封印したほうがいい。