ホーム柵は必要か
新聞によると、駅での転落防止の切り札として期待されている可動式ホーム柵(ドア)の新型タイプが8月末から首都圏で試験的に導入され、実用性の検証が始まった。従来のホーム柵は、開閉部分が固定されているため、編成数やドア位置の異なる電車には対応できないので、それらにも対応できるようにするという。鉄道各社は、ラッシュ時にホームが混乱しないかなど、運行への影響を半年から1年かけて調べて、本格導入を検討するとのこと。国交省調べでは、乗客がホームから線路に落ちたり、電車に接触したりした事故(自殺を除く)は2012年度に223件起きている(2013年9月2日東京新聞)。
たしかに、電車のホームにこういう安全策がほどこされれば、老人、子ども、酔っ払いなどが誤って線路に転落することは防げるけれども、ここまで安全網を張りめぐらせる必要があるのか、やりすぎではないか、と思う。
そもそも身の安全を図るのは、基本的に自己責任である。子どものときから何が危険か、親や学校が教えなくてはいけない。たとえば、鉛筆を削ったり工作したりするとき、危険だからといって小刀を持たせないというのは本末転倒で、怪我をしないような小刀の使い方を教える必要がある。
動物は身を守る本能があるけれども、人間はそれが抜け落ちているから、幼いときから身を守ることを教え込なければいけない。あまり安全のシステムを精緻に作りあげて、まわりが世話を焼きすぎると、自分の身を守る能力が育たない。
だが、この手の安全網はいたるところに張られている。ホームでは「電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってください」とその都度放送している。乗客は耳にたこでろくに聞いていない。これは、万一事故が起こっても駅側は「注意を喚起している」と責任を逃れるために、効果がないと知りつつ放送しているのではないか、と私は勘ぐっている。
車に乗るときはシートベルトを着用することが法的に義務づけられ、違反すると罰金まで科されるようになった。これは、シートベルトをしないで怪我をしても、困るのは本人と同乗者だけなのだから、着用する、しないは自由にしたらいい。ただし、車のメーカーにはシートベルト着装を義務づけておく。
埼玉県の杉戸町が自転車通学で事故を起こしたときの保険加入者が少ないので、町が保険料を負担して一括加入させることにした。これで5000万円まで保険金が支払われ、町の負担は年200万円という(2013年4月2日NHKおはよう日本)。これも、自分の危険は自分で守るという立場からすれば、余計なことだ。町の広報などで保険加入を呼びかける程度でいい。
交通量がそれほど多くない道路の交通信号も考えものだ。年寄りや子供には危ないからと、自治会の人々が運動したりして信号がつくと、人々は車に注意しなくなり、身の安全は自分で守るという行動の基本を身につける機会がそれだけ減る。
むしろ、子供は危険がないことを確認してから渡るようにしつけ、それができない幼児は大人がつきそうようにべきだ。それに信号が多くなると、車の停車回数が増えて空気もよごす。
こういう風に書くと「おまえは、身体に障がいのある人や老人を切り捨てろと言うのか」と反論されそうだ。私はそういうことを言っているのではない。社会的な弱者を保護する必要があるのは言うまでもないことである。
電車の乗り降りなら、駅員が介助するというような方法をもっと充実させるべきで、安易にホーム柵のような機械装置に頼るべきではないと主張している。そうしないと、エスカレーターと同じで、本来そういうものを必要としない者までそれに頼ってしまい、ひいては国民の安全意識の低下をもたらすことを恐れる。
先日、東京の地下鉄方南町駅に、「おろすんジャー」と称する青年が現れた。エレベーター、エスカレーターがない同駅で、ベビーカーや大きな荷物を持った子ども連れのお母さんやお年寄りが来ると、おろすんジャーは声をかけ、荷物を地下ホーム階まで降ろすボランティア活動をしているという(2013年8月19日朝日新聞デジタル)。
私が子どものころ、学校で「荷車を引く人が坂道をあえいで登っているときは、後ろから押してあげなさい」と教えられ、その通りにしたものだが、これはその現代版といえる。
こういう助け合いがもっともっと増えることを切に願っている。
新聞によると、駅での転落防止の切り札として期待されている可動式ホーム柵(ドア)の新型タイプが8月末から首都圏で試験的に導入され、実用性の検証が始まった。従来のホーム柵は、開閉部分が固定されているため、編成数やドア位置の異なる電車には対応できないので、それらにも対応できるようにするという。鉄道各社は、ラッシュ時にホームが混乱しないかなど、運行への影響を半年から1年かけて調べて、本格導入を検討するとのこと。国交省調べでは、乗客がホームから線路に落ちたり、電車に接触したりした事故(自殺を除く)は2012年度に223件起きている(2013年9月2日東京新聞)。
たしかに、電車のホームにこういう安全策がほどこされれば、老人、子ども、酔っ払いなどが誤って線路に転落することは防げるけれども、ここまで安全網を張りめぐらせる必要があるのか、やりすぎではないか、と思う。
そもそも身の安全を図るのは、基本的に自己責任である。子どものときから何が危険か、親や学校が教えなくてはいけない。たとえば、鉛筆を削ったり工作したりするとき、危険だからといって小刀を持たせないというのは本末転倒で、怪我をしないような小刀の使い方を教える必要がある。
動物は身を守る本能があるけれども、人間はそれが抜け落ちているから、幼いときから身を守ることを教え込なければいけない。あまり安全のシステムを精緻に作りあげて、まわりが世話を焼きすぎると、自分の身を守る能力が育たない。
だが、この手の安全網はいたるところに張られている。ホームでは「電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってください」とその都度放送している。乗客は耳にたこでろくに聞いていない。これは、万一事故が起こっても駅側は「注意を喚起している」と責任を逃れるために、効果がないと知りつつ放送しているのではないか、と私は勘ぐっている。
車に乗るときはシートベルトを着用することが法的に義務づけられ、違反すると罰金まで科されるようになった。これは、シートベルトをしないで怪我をしても、困るのは本人と同乗者だけなのだから、着用する、しないは自由にしたらいい。ただし、車のメーカーにはシートベルト着装を義務づけておく。
埼玉県の杉戸町が自転車通学で事故を起こしたときの保険加入者が少ないので、町が保険料を負担して一括加入させることにした。これで5000万円まで保険金が支払われ、町の負担は年200万円という(2013年4月2日NHKおはよう日本)。これも、自分の危険は自分で守るという立場からすれば、余計なことだ。町の広報などで保険加入を呼びかける程度でいい。
交通量がそれほど多くない道路の交通信号も考えものだ。年寄りや子供には危ないからと、自治会の人々が運動したりして信号がつくと、人々は車に注意しなくなり、身の安全は自分で守るという行動の基本を身につける機会がそれだけ減る。
むしろ、子供は危険がないことを確認してから渡るようにしつけ、それができない幼児は大人がつきそうようにべきだ。それに信号が多くなると、車の停車回数が増えて空気もよごす。
こういう風に書くと「おまえは、身体に障がいのある人や老人を切り捨てろと言うのか」と反論されそうだ。私はそういうことを言っているのではない。社会的な弱者を保護する必要があるのは言うまでもないことである。
電車の乗り降りなら、駅員が介助するというような方法をもっと充実させるべきで、安易にホーム柵のような機械装置に頼るべきではないと主張している。そうしないと、エスカレーターと同じで、本来そういうものを必要としない者までそれに頼ってしまい、ひいては国民の安全意識の低下をもたらすことを恐れる。
先日、東京の地下鉄方南町駅に、「おろすんジャー」と称する青年が現れた。エレベーター、エスカレーターがない同駅で、ベビーカーや大きな荷物を持った子ども連れのお母さんやお年寄りが来ると、おろすんジャーは声をかけ、荷物を地下ホーム階まで降ろすボランティア活動をしているという(2013年8月19日朝日新聞デジタル)。
私が子どものころ、学校で「荷車を引く人が坂道をあえいで登っているときは、後ろから押してあげなさい」と教えられ、その通りにしたものだが、これはその現代版といえる。
こういう助け合いがもっともっと増えることを切に願っている。