ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

ホーム柵は必要か

2013年09月21日 | エッセイ
ホーム柵は必要か
 新聞によると、駅での転落防止の切り札として期待されている可動式ホーム柵(ドア)の新型タイプが8月末から首都圏で試験的に導入され、実用性の検証が始まった。従来のホーム柵は、開閉部分が固定されているため、編成数やドア位置の異なる電車には対応できないので、それらにも対応できるようにするという。鉄道各社は、ラッシュ時にホームが混乱しないかなど、運行への影響を半年から1年かけて調べて、本格導入を検討するとのこと。国交省調べでは、乗客がホームから線路に落ちたり、電車に接触したりした事故(自殺を除く)は2012年度に223件起きている(2013年9月2日東京新聞)。
 たしかに、電車のホームにこういう安全策がほどこされれば、老人、子ども、酔っ払いなどが誤って線路に転落することは防げるけれども、ここまで安全網を張りめぐらせる必要があるのか、やりすぎではないか、と思う。
 そもそも身の安全を図るのは、基本的に自己責任である。子どものときから何が危険か、親や学校が教えなくてはいけない。たとえば、鉛筆を削ったり工作したりするとき、危険だからといって小刀を持たせないというのは本末転倒で、怪我をしないような小刀の使い方を教える必要がある。
 動物は身を守る本能があるけれども、人間はそれが抜け落ちているから、幼いときから身を守ることを教え込なければいけない。あまり安全のシステムを精緻に作りあげて、まわりが世話を焼きすぎると、自分の身を守る能力が育たない。
 だが、この手の安全網はいたるところに張られている。ホームでは「電車が参ります。黄色い線の内側まで下がってください」とその都度放送している。乗客は耳にたこでろくに聞いていない。これは、万一事故が起こっても駅側は「注意を喚起している」と責任を逃れるために、効果がないと知りつつ放送しているのではないか、と私は勘ぐっている。
 車に乗るときはシートベルトを着用することが法的に義務づけられ、違反すると罰金まで科されるようになった。これは、シートベルトをしないで怪我をしても、困るのは本人と同乗者だけなのだから、着用する、しないは自由にしたらいい。ただし、車のメーカーにはシートベルト着装を義務づけておく。
 埼玉県の杉戸町が自転車通学で事故を起こしたときの保険加入者が少ないので、町が保険料を負担して一括加入させることにした。これで5000万円まで保険金が支払われ、町の負担は年200万円という(2013年4月2日NHKおはよう日本)。これも、自分の危険は自分で守るという立場からすれば、余計なことだ。町の広報などで保険加入を呼びかける程度でいい。
 交通量がそれほど多くない道路の交通信号も考えものだ。年寄りや子供には危ないからと、自治会の人々が運動したりして信号がつくと、人々は車に注意しなくなり、身の安全は自分で守るという行動の基本を身につける機会がそれだけ減る。
 むしろ、子供は危険がないことを確認してから渡るようにしつけ、それができない幼児は大人がつきそうようにべきだ。それに信号が多くなると、車の停車回数が増えて空気もよごす。
 こういう風に書くと「おまえは、身体に障がいのある人や老人を切り捨てろと言うのか」と反論されそうだ。私はそういうことを言っているのではない。社会的な弱者を保護する必要があるのは言うまでもないことである。
 電車の乗り降りなら、駅員が介助するというような方法をもっと充実させるべきで、安易にホーム柵のような機械装置に頼るべきではないと主張している。そうしないと、エスカレーターと同じで、本来そういうものを必要としない者までそれに頼ってしまい、ひいては国民の安全意識の低下をもたらすことを恐れる。
 先日、東京の地下鉄方南町駅に、「おろすんジャー」と称する青年が現れた。エレベーター、エスカレーターがない同駅で、ベビーカーや大きな荷物を持った子ども連れのお母さんやお年寄りが来ると、おろすんジャーは声をかけ、荷物を地下ホーム階まで降ろすボランティア活動をしているという(2013年8月19日朝日新聞デジタル)。
 私が子どものころ、学校で「荷車を引く人が坂道をあえいで登っているときは、後ろから押してあげなさい」と教えられ、その通りにしたものだが、これはその現代版といえる。
 こういう助け合いがもっともっと増えることを切に願っている。


キャラ化する子どもたち

2013年09月11日 | 読書日記
キャラ化する / される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 土井隆義 岩波ブックレット
 表題の「キャラ」の意味がよく分からなかったので、インターネットで調べてみた。これは英語のキャラクター(性格、特性、劇中の登場人物)という意味から少しずれて、若者の集団の中で生まれる、一時的なメンバーの役割ないし位置づけを意味しているようだ。「まじめキャラ」「バカキャラ」「へたれキャラ」「癒しキャラ」といった、その場限りの振る舞い方で、本来の性格とは必ずしも一致していない。キャラを演じるとは、その場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことである。
 近年学校では、同じクラスのなかに、スクール・カーストといって同質の子どもが集まっていくつかの小グループができ、質ないし格が違う他のグループは、関心の圏外になって交友関係を避ける傾向が生まれているようだ。
 この細分化された各々の小集団内部で、さらに個人に対して「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことを、著者はキャラ化する/されるといっている。
 各自のキャラは、ふだん行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者から与えられ、あるいは自然発生的に生まれるが、場の空気による圧力として本人の意思とは無関係に強要されることもある。
 グループ内では、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見ネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉え、ツッコミをいれて笑いに昇華することができれば、互いが傷つかずに親密な関係を保てる。
 ただし、人間関係の流動性が低い学校空間では、特定のキャラを強要する同調圧力が暴走して、いじられキャラがいじめられキャラになるといった弊害も起こりうる。また、衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は、希薄で脆弱なものになりがちである。
 さて、『個性を煽られる子どもたち』『友だち地獄』などで、子どもや若者の心性を分析した著者は、この本でキャラ化した子供たちの現状をどう分析し、どんな処方箋を書いただろうか。
 著者は、ケータイという小道具が子供たちや若者たちの生活あるいは心情をどのように変えつつあるかに着目し、要所々々でこのテーマを通奏低音のように繰りかえしている。
 最近の若者の多くは、ケータイが「圏外」表示になると、何ともいえない不安を覚えるという。ケータイで親しい友人とつねにつながっているはずの自分が、そこから排除されたように感じるからである。
 秋葉原事件を起こした犯人の青年Kも、ネット掲示板にケータイから書き込んだ自分のメッセージに、誰からも反応がないことに絶望したといわれる。ケータイは誰とでもつながることができる中立的な装置のはずだが、実際には自分に心地よい相手とのみ人間関係を築く道具になっている。そこで成立する親密圏は、異分子を排除しようとする働きと一体のものであり、排除される者の孤独や絶望を生み出し続ける。
 こういう親密圏のコミュニケーションを円滑に行うには、気配りと細心の注意が必要であり、他者を傷つけない「優しい人間関係」を演じる、深入りし過ぎない言動が求められる。そうした自我状況に対応するのが「キャラ」というわけだ。
 著者は、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての内キャラと、周囲の状況(場の空気)に適応する形で演技的に振舞う外キャラの二つに分けている。内キャラとは、決して相対化されることのない準拠点のようなもので、アイデンティティの不安を解消するために必要であり、一方、状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応するためには、一貫性のあるアイデンティティを棚上げして、外キャラを用意することも必要となるという。
 しかしながら、著者の言う内キャラとは、確固とした一貫性のある自己のことであり、キャラの定義である「本来の性格や考え方から外れることがあっても、場の空気に合わせるために演ずる行動傾向」とは矛盾する。キャラを内と外に分けて分析を進めれば、いずれ破綻をきたすように思う。
 それはともかく、子どもたちの交友関係において、コミュニケーション能力が最重要となり、ケータイなどのネット環境が、この身近で同質なつながりをさらに強めている。著者は、こういう排除型の人間関係が育つのを放置せず、異質な他者と触れあう機会の多い包摂型社会の構築を説いているけれども、その方法論は示していない。

不毛な自分探し

2013年09月01日 | エッセイー個人
不毛な自分探し
 ひところ「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉がはやった。学校の先生が「ナンバーワンをめざさなくてもいい。それより自分の個性を発揮してオンリーワンになれ」などとけしかけたふしもある。
 この言葉は、それぞれ人には個性がある、自分の個性を見つけ、学業でも仕事でもそれを生かして、他人にはできない何かを築き上げなさい、というほどの意味だろう。
 しかし、そもそも個性とは何かがよくわかっていない若者に、そんなことを言っても、自分の生きる道が見つけられるはずがない。
 服の好みで皆が着ない色や形を選ぶとか、皆が食べないようなものを食べるとか、その程度の微差を個性だと思ってはいけない。絵が好きで描くのもうまいとか、文章を書かせたら右に出る者がないとか、それなら個性といえるだろう。だが、その個性を人から才能があるといわれるまで高めて画家になるとか、文筆家になるとかが容易でないのは周知のとおり。
 このごろ若者の中には「自分にはどんな仕事が向いているのか」と自問し、適職が見つかるまで非正規雇用で働く、あるいは正規雇用のチャンスがあっても、それが適職かどうかわからないのでその機会を見送り、相変わらずフリーターなどをして気楽にその日暮らしを続ける者が多いようだ。
 これを格好よくいえば、「自分探し」ということになるのだろうが、仕事の苦労から逃れるための口実に過ぎないのではないか。そもそも自分は何が得意なのか、何に向いているのか、自分の個性はどういうところにあるのか、と自問しても、その答は簡単には得られない。仕事をした経験のない者が自分探しをしても、適職は見つからないのだ。まずは、できるだけ正規雇用で働いてみることだ。自分に何が向いているかをみつけるには、働いてみるよりほかにない。
 正規雇用でと言ったのは、非正規の仕事は、範囲が限定されている単純作業が多く、仕事に必要な知識、技術を身につけて専門家になる機会がほとんど閉ざされているからである。
 正規雇用は、仕事を覚える苦労だけでなく、わずらわしい職場の人間関係をうまくさばく苦労もある。職場は好きな者同士集まっているわけではない。会社で自分一人単独で仕事ができることはほとんどないから、いやな奴、虫の好かない奴とも協力して仕事を進めなければならない。
 そうしたことに耐え、乗り越えながら人はだんだん社会人として一人前になっていくのだ。鉄は熱いうちに打て。若いときの苦労は実になるが、年取ってからの苦労はストレスになるだけである。
 もちろん、仕事をしてみてやはり自分には向いていないと思うことはあるだろう。このごろは、企業によってだが自分の適職と思われる仕事に手あげることができるようになった。そういう道がないときは、転職を考えてもいい。
 私は、大学を卒業してから4年間高校の教師をしたが、この仕事は自分に向かないと思ったので、転職して会社員になった。
 会社ではずっと人事を仕事にしてきたが、人事をするようになったきっかけは、入社が決まってから、どんな仕事をしたいかときかれて、経理、マーケティング、資財など専門知識のいる仕事は無理なので、消去法で人事と答えたにすぎない。
 この仕事をしてみて、自分に向いているとは思えなかったけれども、あれこれ仕事を変えて専門能力が身につかないのもよくないと思って、ずっと同じ仕事を通した。おかげでサラリーマン生活を終えころには、なんとか人事の専門家として通用するようになれた。
 昔(20年以上前)高校の就職担当の先生方が集まる会合で、企業の人事担当の話を聞きたいというので「学歴は無用だが、学力は有用」という話をしたことがある。そのときある先生が「このごろの生徒は卒業後の進路について真剣に考えない。大学へも行かず、ちゃんとした就職もせず、とりあえずフリーターでもしようという子が多い。画家になりたいのだけれども、絵で収入を得られるようになるまで、フリーターをしながら絵を勉強している卒業生がいる。それならまだいいのだが、そういう目的も将来計画もなしに、単にフリーターというのだから困る」といっていた。
 しかし、画家になりたいというような目標が達成できるのは、才能ある人に限られている。あまり夢を追わず、正業に就いた方がいい。自分に何が向いているかわからない、というなかれ。どんな仕事でも、辛抱して取り組んでいるうちに、専門知識も仕事のコツも身についてくるものである。
 わたしの友人に写真家になりたくて会社員をやめ、いまでいうフリーターと同じで、トラックの運転手をしたり、どぶさらいの掃除人をしたりして、金と暇ができると撮影旅行に出かけるという生活をしていた男がいる。彼は才能にも恵まれ人一倍の努力家でもあったから、なんとか50代になって写真で生活できるようになったからいいけれども、写真家志望の大多数は食えるようにはならない。年をとったら肉体労働はできず年金もなく、生活保護の世話にならざるを得ないだろう。
 それにしても現代の若者は、かつて(1980年前後)新人類と呼ばれた人々に輪をかけて、自らの人生にまじめに向き合わず、社会を構成する一員という自覚もなく、無気力、無責任である。
 こういう若者が年をとったら、日本はどういうことになるのか。自分の生活を維持するだけの収入がなく、生活保護を受給する者が更に増えることは間違いない。政府も地方自治体も財政難で、その給付すらおぼつかなくなる。年金や医療給付も減らさざるをえず、国民全体が貧しくなる。豊かな社会というのは弊害もあるが、貧しすぎるのもいけない。