いのちのかけら-少年少女の自立支援に生きる その3
自己を育てられない子どもたち
事例4 F子
登校拒否、母親への暴力という理由で、中学2年の3学期末に入園したF子は、ポッチャリ太ったなんにもものを言わない子どもだった。名前を呼ばれても、「はい」の返事が声にならず口だけ動かしていた。
F子は一人っ子で5年生のときに父が急病死し、小さな寿司店は焼き肉店に変えられて、母が続けた。父が亡くなったあとの母親は、以前にも増してF子を可愛がり、小学上級生になっているのに、洗髪から衣服の着脱までかかわった。
中学に入ると学校を嫌い、先生がいやといえば、母は転居までしたけれども結局学校へは行けなかった。
そのうち、F子の暴力が始まった。終日家に蟄居して、何か気に入らないことがあると、部屋中にマヨネーズ塗りたくりトマトケチャップをぶち撒いて、自分のうっぷんを晴らした。そのとき母は独りでせっせと片づけ拭いた。やがてF子の暴力はそれくらいでは済まなくなり、しまいにはアイロンで母を殴るなどして、青黒く腫れあがった顔で外出もはばかられるようになった。
さすがの母も我慢しきれなくなって、児童相談所に相談し、学園に入ることになった。
母はもちろん被害者の一人に違いないが、それ以上の被害者はF子自身である。F子は全く自己自身を育ててもらえず、自分の命を生きるのは自分であることを見失ってしまった。
事例5 K子
K子は、実の両親があるけれども、小学5年生頃から家出、盗み、セックスなどを経験し、中学1年夏からは本格的に家出、不純異性交遊へ発展し、性病まで持つに至った。年に似合わず大柄な子どもだった。
学園に入所したが、すぐ逃げだした。K子は母に電話し「私を施設に入れるのなら、家には帰らない」と言い、母はその要求を呑んだ。
辻は、こうした事態を予想し「家に帰った時は、すぐ引き取りに行く。親の心情もわかるけれど、子どもの言い分に負けず、学園への連れ戻しに協力して欲しい」と頼んでおいたのだが、母は「学園へ帰してもまた飛び出すでしょう。もしそのとき、途中でヤクザにでもつかまったら、責任を持ってくれますか」と取り合わなかった。
K子は家に戻っても10日もしないうちにまた家出し、シンナー吸引の現場で警察に補導された、と連絡があった。
事例6 A子
A子の出生時、実父は服役中で、実母はこの子が6歳のとき家出した。慢性腎炎であったため、虚弱児童施設に預けられた。そこで仲間を誘って無断外出を繰りかえし、手に負えなくなって別の施設に移されたが、やはり問題行動を続けてまた別のところに移されるという具合に施設を転々としていた。
そのうち中学3年の義務教育を終わり、押し出されるように美容院に就職した。しかし、翌年1月、職場での不和から無断外出、2月に化粧品店に再就職したものの、6月には不適応状態になり、自殺未遂事故を起こして病院に運ばれた。一応回復したが、施設に送られることを嫌って、一時保護された児童相談所で食事を拒否したり無断外出したりした。
A子は、再就労までのオリエンテーションをするということで阿武山学園にやってきた。大人に対しては、ひがみとふてくされに終始し、何を尋ねても顔をそむけてものを言わず、何とも手のつけようのない不信感の固まりのような少女だった。
辻夫妻は、もともと手に負えない子どもを育てることを業務にしているわけだが、あまりに無茶な言動が続くと「この子さえいなかったら」との思いがふとよぎったりすることもあった。しかし、辻夫妻は「A子がどんなに自己破壊的な言動を続けようと、自分たちにできる精一杯のことをしよう」と腹を据えた。
A子の扱いに困惑し切っていたころ、退園生のM男が訪ねてきたので、A子の就職先の話をしたところ、M男が勤務している会社の社長の親類に食堂などのチェーン店を経営している人がいるとのことで、そこはどうかということになった。A子はこの話に乗り気で、学園を去るとき「施設の先生とは二度と会いたくない。もうここへは来ることもないでしょう」と言い、お粗末な別離をした。
ところが、それから1ヶ月もたたないのに、人が違ったように生き生きした顔で訪ねてきて、辻夫妻をびっくりさせる。ひそかにM男に恋心を抱いていたようだ。A子はそれからM男と連れだって、しばしば来訪するようになった。
抵抗の限りを尽くしたA子の面影はもうみじんもなく、翌年の秋には結婚もして、かわいい女の子にも恵まれた。結婚後心身共に安定した生活をいとなんでいるというのではないが、ただ人間不信をつのらせ自己喪失の極限にあった状態を抜け出したA子を見ると、人の生きる縁の不思議さを感ぜずにはいられない。
自己喪失とは何だろうか
自己というのは、人が主観的に把握した自分自身である。幼児期には自己を意識することはないが、成長とともに自分の存在を意識し、やがて自尊心の獲得や自己開示(自己を他者に示す)などを経て自己を段階的に発展させる。自己を認知するということは、他者を認知することであり、そこから他者とよい人間関係を結ぶことができるようになっていく。自己は、まず幼少期に主に母親という他者との関係で形成されるといわれる。良い母子環境があれば自己イメージは現実と呼応したものになる。
辻は次のように言う。「何らかの理由で、このような自己を自身のうちに育てられなかった子どもは、つらあて、あてこすり、居直り、自暴自棄、非行などに走りやすい。これらはすべて自己を持てぬ行為であり、言い方をかえれば甘えの変形である。どんなに表面的には家出、浮浪、迷惑行為を繰りかえしても、こどもたち一人一人は、その奥底に人生の悲哀をたたえている。
子どもの問題は根が一つで、自己が自己を失わざるを得なくなったことといえる。なにびとも代替しえないこの自己にいつどのようにして目覚めさせるかが重要である」。
(以下次号)
自己を育てられない子どもたち
事例4 F子
登校拒否、母親への暴力という理由で、中学2年の3学期末に入園したF子は、ポッチャリ太ったなんにもものを言わない子どもだった。名前を呼ばれても、「はい」の返事が声にならず口だけ動かしていた。
F子は一人っ子で5年生のときに父が急病死し、小さな寿司店は焼き肉店に変えられて、母が続けた。父が亡くなったあとの母親は、以前にも増してF子を可愛がり、小学上級生になっているのに、洗髪から衣服の着脱までかかわった。
中学に入ると学校を嫌い、先生がいやといえば、母は転居までしたけれども結局学校へは行けなかった。
そのうち、F子の暴力が始まった。終日家に蟄居して、何か気に入らないことがあると、部屋中にマヨネーズ塗りたくりトマトケチャップをぶち撒いて、自分のうっぷんを晴らした。そのとき母は独りでせっせと片づけ拭いた。やがてF子の暴力はそれくらいでは済まなくなり、しまいにはアイロンで母を殴るなどして、青黒く腫れあがった顔で外出もはばかられるようになった。
さすがの母も我慢しきれなくなって、児童相談所に相談し、学園に入ることになった。
母はもちろん被害者の一人に違いないが、それ以上の被害者はF子自身である。F子は全く自己自身を育ててもらえず、自分の命を生きるのは自分であることを見失ってしまった。
事例5 K子
K子は、実の両親があるけれども、小学5年生頃から家出、盗み、セックスなどを経験し、中学1年夏からは本格的に家出、不純異性交遊へ発展し、性病まで持つに至った。年に似合わず大柄な子どもだった。
学園に入所したが、すぐ逃げだした。K子は母に電話し「私を施設に入れるのなら、家には帰らない」と言い、母はその要求を呑んだ。
辻は、こうした事態を予想し「家に帰った時は、すぐ引き取りに行く。親の心情もわかるけれど、子どもの言い分に負けず、学園への連れ戻しに協力して欲しい」と頼んでおいたのだが、母は「学園へ帰してもまた飛び出すでしょう。もしそのとき、途中でヤクザにでもつかまったら、責任を持ってくれますか」と取り合わなかった。
K子は家に戻っても10日もしないうちにまた家出し、シンナー吸引の現場で警察に補導された、と連絡があった。
事例6 A子
A子の出生時、実父は服役中で、実母はこの子が6歳のとき家出した。慢性腎炎であったため、虚弱児童施設に預けられた。そこで仲間を誘って無断外出を繰りかえし、手に負えなくなって別の施設に移されたが、やはり問題行動を続けてまた別のところに移されるという具合に施設を転々としていた。
そのうち中学3年の義務教育を終わり、押し出されるように美容院に就職した。しかし、翌年1月、職場での不和から無断外出、2月に化粧品店に再就職したものの、6月には不適応状態になり、自殺未遂事故を起こして病院に運ばれた。一応回復したが、施設に送られることを嫌って、一時保護された児童相談所で食事を拒否したり無断外出したりした。
A子は、再就労までのオリエンテーションをするということで阿武山学園にやってきた。大人に対しては、ひがみとふてくされに終始し、何を尋ねても顔をそむけてものを言わず、何とも手のつけようのない不信感の固まりのような少女だった。
辻夫妻は、もともと手に負えない子どもを育てることを業務にしているわけだが、あまりに無茶な言動が続くと「この子さえいなかったら」との思いがふとよぎったりすることもあった。しかし、辻夫妻は「A子がどんなに自己破壊的な言動を続けようと、自分たちにできる精一杯のことをしよう」と腹を据えた。
A子の扱いに困惑し切っていたころ、退園生のM男が訪ねてきたので、A子の就職先の話をしたところ、M男が勤務している会社の社長の親類に食堂などのチェーン店を経営している人がいるとのことで、そこはどうかということになった。A子はこの話に乗り気で、学園を去るとき「施設の先生とは二度と会いたくない。もうここへは来ることもないでしょう」と言い、お粗末な別離をした。
ところが、それから1ヶ月もたたないのに、人が違ったように生き生きした顔で訪ねてきて、辻夫妻をびっくりさせる。ひそかにM男に恋心を抱いていたようだ。A子はそれからM男と連れだって、しばしば来訪するようになった。
抵抗の限りを尽くしたA子の面影はもうみじんもなく、翌年の秋には結婚もして、かわいい女の子にも恵まれた。結婚後心身共に安定した生活をいとなんでいるというのではないが、ただ人間不信をつのらせ自己喪失の極限にあった状態を抜け出したA子を見ると、人の生きる縁の不思議さを感ぜずにはいられない。
自己喪失とは何だろうか
自己というのは、人が主観的に把握した自分自身である。幼児期には自己を意識することはないが、成長とともに自分の存在を意識し、やがて自尊心の獲得や自己開示(自己を他者に示す)などを経て自己を段階的に発展させる。自己を認知するということは、他者を認知することであり、そこから他者とよい人間関係を結ぶことができるようになっていく。自己は、まず幼少期に主に母親という他者との関係で形成されるといわれる。良い母子環境があれば自己イメージは現実と呼応したものになる。
辻は次のように言う。「何らかの理由で、このような自己を自身のうちに育てられなかった子どもは、つらあて、あてこすり、居直り、自暴自棄、非行などに走りやすい。これらはすべて自己を持てぬ行為であり、言い方をかえれば甘えの変形である。どんなに表面的には家出、浮浪、迷惑行為を繰りかえしても、こどもたち一人一人は、その奥底に人生の悲哀をたたえている。
子どもの問題は根が一つで、自己が自己を失わざるを得なくなったことといえる。なにびとも代替しえないこの自己にいつどのようにして目覚めさせるかが重要である」。
(以下次号)