ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

全寮制の学校をふやす

2018年02月01日 | エッセイー個人
全寮制の学校をふやす
「健全な中流をどう育てるか」について私見を書いてみたい。中流を育てるといっても、即効薬があるわけではなく、20年、30年かけて効果を期待するという話になる。
人を育てるとき、最も重要なのは教育であろう。教育には、学校教育だけでなく家庭教育や同化的教育(所属している社会の規範や風潮などの文化から受ける影響)が含まれるが、今回は紙幅の関係で学校教育だけを考えてみる。
 青少年は今あまりに怠惰で、精神的にひ弱で、行動が衝動的である。それは青少年が幼少のころから、欲しいものが何でも手に入って欲求を抑制しなくてもすむ、あるいはイヤなことから逃げられる生活を送ってきたせいだろう。親は子供の欲しがるものを何もかも与え、年齢相応の苦労をさせず、大して勉強する気もないのに高等教育機関へ行くことを許し、結果として子供は苦労知らずのまま幼児期から青年期までを過ごす。
豊かな社会というものは、一般的に子育てがうまくいかない。昔は子供が何かを欲しても、貧乏で与えることができない親が多く、子供は我慢するしかなかった。今は経済的に余裕があるから与えることができる。与えることができるのに与えないというのは、よほど忍耐力のある親でなければできない。特に、日本のような横並び志向が強い社会で、世間の親が子の欲しがるものを与えているのに、我が家だけ与えないということは、ほとんど不可能に近い。
子供には我慢(欲求の抑制)と迂回(すぐ目標を達成できないとき、長時間かけてそれを手に入れること)を教えなければいけないが、これを今家庭だけで実行するのは無理である。昔の大名は自分の子を母親から離し、めのと(乳母)に育てさせた。同じように、日本にめのとシステムを学校教育の制度として作ったらいい、というのが私の意見である。要するに、全寮制の学校をもっともっと増やし、そこで擬似的に貧しい生活を送らせ、学業だけでなく、感性を豊かにすることや規律を守ることを教えるのである。
寮運営で大切なことは、寮生に粗食に耐えさせ、しかも腹いっぱい食べさせないことである。子供の成長に必要な栄養は与えなければいけないが、それ以上はいっさい与えない。当然空腹になるだろうが、我慢の基本は空腹に耐えることである。また、スポーツ、奉仕労働、農作業などを全員に課し、苦労とそれを乗り越えたときの喜びも味わわせる。
こういう寮を作るとしたら、何歳から入れるのがいいか。最近日本でも全寮制の学校がぼちぼち出来るようになったが、たいてい中学、高校の6年制である。私は中学1年では、少し遅いように思う。情操教育は早いに越したことはないし、12歳では家庭での好ましくない生活習慣も身についてしまっている。といって幼稚園や小学校低学年では、まだ親の後を追う年齢だから、無理に親から引き離すのは、かえってよくない。そこで、小学校高学年つまり4年生から9年間というのは、どうだろうか。
こういう学校は、誰にでも門戸を開くというわけにはいかない。学業優秀で、厳しい訓練に耐える素質がありそうな子供を選抜する必要がある。全寮制だから費用も余計かかる。その経済負担に耐えられる家庭の子供に限定されるのはやむをえない。ただし、将来性のある優秀な生徒には奨学金を支給するという制度は組み込んでおく。
こんな全寮制学校がつぎつぎと生まれて、日本の中流層を形成するようになれば、日本も相当変わるのではないか。全員一律の悪平等教育をしていたのでは、いつまでたっても健全な中流は育たない。
ところで、現代の青少年が起こす犯罪を見ていると、感情の抑制がきかず、感情のおもむくままに刹那的に行動した結果と思われるものが多い。青少年の犯罪には、青少年一般の行動傾向が鏡のように映し出されている。犯罪は極端な場合だが、そこまで至らなくても、我慢できない衝動的な青少年は、一方では暴力沙汰やいじめに走り、他方ではニートや引きこもりになったりしている。
日本が経済成長すれば、こうなることは、ヨーロッパの実態を深く観察すれば分かったと思うのだが、高度経済成長期の日本で、このことに気づく人は、政治家であれ、日本を動かしていると自負する官僚であれ、誰もいなかったのだろうか。


どうして年齢をきにする

2018年01月01日 | エッセイー個人
どうして年齢を気にする
 世の中に知られていない無名の人が新聞やテレビに登場すると、その人の氏名のあとに必ずカッコして年齢が入る。アメリカやイギリスで短期間暮らしたことがあるけれども、新聞、テレビで氏名に加えて年齢まで知らすことはほとんどなかった。
 どうしてわが国では、記事や番組の内容に関係がなくても、年齢まで知らせるのだろうか。それは人々が「この人いくつなのか」を知りたがるからだ。われわれは暗黙のうちに年齢別の行動基準を持っていて、その年ならそういう行動をしても許されるとか、年齢にふさわしくない行動だとか判断している。その年でそんな災難にあったら、人生やり直しがきかないから大変だと同情の度合いが増したりもする。
 われわれの生活には年齢ないし年代がつきまとっている。いくつか例をあげてみよう。

*子どもは子どもらしく
 子どもが不活発であったり、わけ知り顔で悟ったようなことを言ったりすると「あの子は子どもらしくない」と大人の評判が悪くなる。
*間違えるのは若者の特権
 学校の先生や会社の管理職が若い人に対して「自分の意見を正々堂々と言いなさい。間違っているも知れないと臆してはいけない。間違った時は訂正すればいい。間違うのは若者の特権だ」などとけしかける。
*いい年をして
 年をとってから、若い人と同じように行動していると、「年寄りの冷や水」とからかわれる。先日電車の中で50代とおぼしき酔漢三人組のうちの二人がなにやら口論を始めた。三人目が「二人ともいい年をして、おやめなさい」と忠告したら、口げんかが治まった。議論の内容よりも年配者らしく振る舞うことが大事である。そうしないと、周囲から陰に陽に規制を受ける。

 しかしながら、年齢相応の行動基準というのはいかにも没個性ではなかろうか。
論語に「四十にして迷わず、五十にして天命を知る・・」とあるように、人は年齢と共に成熟しておだやかになり判断力もついて、つまらないことで人と争ったりしてはいけないという暗黙の倫理規範がわれわれの心の中に忍び込んでいる。服装、遊ぶスタイル、見るテレビ番組や映画、聞く音楽といった文化も年齢別に輪切りにされていて、年齢が大きく開くと話題が合わない。
 10年ほど前、新聞の読者相談欄に次のような相談がのった。「パートで働き始めましたが、職場の人が責任者も含めて自分より10歳以上若い人ばかりで、自分が浮いてしまいます。若いスタッフといえども仕事上は先輩なので敬語を使っていますが、自分が情けなく思えてしまう。今後どういう気持ちでパートを続けたらいいでしょうか」(2005・12・24朝日新聞)というのである。
 回答者の女性作家は、「年齢を忘れて接することです。関心ごとも話題も違うかもしれませんが、今の若い人が何を考えているか理解できる、いいチャンスです。仕事では教えてもらうことがあるけれど、仕事を離れたら教えてあげられることもある。まずはそんな頼り方をされるポジションを目指すというのはどうでしょう」と答えていた。実際に相談者がそのとおり振舞えるかどうかは別として、回答はまっとうといえる。
 しかし、相談者は「自分が情けなく」なるほど、「年長者は周囲から一目置かれてしかるべきだ」と考えているらしい。そうだとすれば、こういう規範ないし価値観は、早めに退治しないといけない。年齢が上というだけで、その人の価値が決まるわけではないのだから。
 考えて見ると、「年齢相応」という規範は幼時のときから始まっている。孫娘が3歳くらいの時、地域の幼時健診を受けたら、何歳なら体重はこのくらい、身長はこのくらいと年齢別成長基準で判定された。そこまではいいとしても、精神的な発達の度合いまで調べてくれたのには驚いた。何歳ならこのくらいのことはできなければ、このくらいの言葉は知らなければというのだろうが、精神的な発達は個人差が大きい。母親は子供の精神的発達が少し遅れていると言われて気に病んでいた(小学6年になったころにはごく普通の子になった)。
 長幼の序というのはこの頃に始まって、やがて中学、高校に進むと運動部の先輩、後輩の序列に組み敷かれ、企業や官庁に入れば、いまだに残滓を留める年功序列の影響を受ける。
 わが国に強い年齢別ないし年代別行動規範を改めるために、まずは新聞テレビで必要もないのに年齢を表示するのをやめることを提案したい。

健康志向

2017年12月11日 | エッセイー個人
世間と個人 Ⅱ章個人の構造
 2節 日本の個人

11健康志向
 われわれは健康についても、マスメディアの流す情報を信じて、各自の体質や体力を考慮せず、かなり画一的な理解や対処をしているように思われる。
 たとえば高血圧の害が喧伝され医学常識になると、病院へ行けば必ず血圧測定があり、高ければ下げる方法を医師から指導される。自分の健康に関心のある人は、それを忠実に守る。
 そもそも高血圧の害ないし血圧を下げる利点というのは、今から50年ほど前にアメリカの大病院での降圧剤の効果が顕著であるというデータが公表されて、それ以来多くの医師(日本の医師を含む)が高血圧治療の有効性を疑わなくなったことによるらしい。
 しかしながら、これは肉食で心筋梗塞の多いアメリカ人に関する研究で、心筋梗塞がはるかに少ない日本人にそのまま適用できるかどうかを、日本の医学界は考えなかったようだ。高血圧が目の敵にされ、年齢別の血圧適正値が設定されたりする。
 医師の中には「高齢者の血圧を厳重に管理することに意味があるのか?降圧剤には副作用もある」と疑問を抱く人もいるが、大きな声にかき消されてしまって、多数派にならない。
 そして「定年過ぎたら話題は年金と血圧」と揶揄されるように、猫も杓子も血圧を気にし、「上はいくつ、下はいくつ」と自分の血圧を覚えている人も少なからずいるようになった。
何事によらず、標準値とか世間並みから逸脱しないように考え行動するというのがわが国の人々の傾向であることは、これまでにも縷々のべたけれども、健康管理というような個人差がはっきりしている側面にもこれがあてはまるようである。
 私が世話になっている病院でも、内科などの入口には血圧計が置いてあり、患者は診察の前に血圧を測定して、そのデータを医師に見せることになっている。この血圧計の上には、正常な血圧は収縮期(高い方)いくつ以下、拡張期(低い方)いくつ以下と上限の数値が示されているのだが、下限はゼロでもいいかの如く何も示していない。これでは血圧は低いほどいいと誤解する人が出るかも知れない。
 だが、低血圧も気をつけるべき指標らしい。血圧が低くなりすぎると全身に十分な血液が供給されなくなり、結果的に細胞は十分な酸素や栄養素を受け取れず、老廃物も除去できなくなる。血圧が下がりすぎた場合、最初に機能不全になるのは、体の最も高い位置にある脳である。ところが低血圧については、高血圧ほど騒がれない。
 さて、血圧管理についての素人談義はこのくらいにして、ここでちょっと趣を変え、数学者の森毅氏(1928―2010)の「不健康のままで生きさせてよ」というエッセイを要約して紹介しよう。

 森さんは子供のころ大変体が弱く、朝礼のときには目がくらんでぶっ倒れたし、遠足のときは弁当をほとんど残し、翌日は熱を出して寝ていた。「子供は元気で乗り物のなかでは立っている」と言われても実行できなかった。夜は寝つきがひどく悪かった。
 しかし、その頃は自分の家だけでなく、近所にも体の弱い人のいる家が何軒かあった。薄暗い部屋に腰の弱ったおばあさんが寝ていたり、別の家には胸を病んで青白い顔をしたお姉さんがいたりした。誰もが健康であるより、病人であっても人々の中であまり苦にされずに生きられるという方が人間らしい風景ではないかと思うのである。
 近年は「健康」を求めることがほとんどビョーキのようにはびこってきている。ほんとのところ、森さんには「健康」という概念があまり理解できない。やせすぎず太りすぎずとか、血圧は高からず低からずとか、からだ中のあらゆる機能がすべてにわたって「正常」というのは、ひどく奇妙な気がする。どちらの方向に逸脱するにせよ、その形で生きていてなぜ悪いのか。
 それに「正常」というものが「異常」を持たぬ事でしか、定義できないような気がする。これが、自分には何かの「異常」があるのではないかと、つねに気にかけずにはいられない健康強迫症の構造ではないか。
 この構造はみごとに「いじめの構造」と相同的である。集団のなかで、みんなが正常であろうとすれば、それは「異常」を探して、「異常」を排除することで、達成される。みんなが「正常なよい仲間」になろうとしたって、いじめは解決されない。仲間のなかで「異常」であることが許される状態だけがいじめの問題を解決する。(「はみ出し数学のすすめ」青土社)

学校教育と個性

2017年12月01日 | エッセイー個人
世間と個人Ⅱ章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節日本の個人

10学校教育と個性
 コロラド州のフォート・コリンズに滞在していたときに、幼稚園を見学したことは前にも書いたが、ここではもう一つ気づいたことについて。それは、一つのクラスの子供たちがいつも同一行動をしているわけではない、ということである。
 自由選択の時間があって、いくつかのグループに分かれて、それぞれ絵を描いたり、粘土細工をしたり、積み木遊びをしたり、とさまざまなことをする。そうなると担任の先生だけでは手が回らないから、助手や手伝いにきた父母が各グループについて指導する。日本なら、「さあ、お絵描きしましょう。歌をうたいましょう」と常にいっせいに行動させるところだ。
 アメリカの、画一的でない、個人に合わせた教育は、小中学校から大学に至るまでずっと続く。小学校でも科目によりクラスを能力別に二つか三つのグループに分け、別々の指導をすることは当たり前のように行われている。算数は自分のクラスから抜けて上の学年の授業を受けられるし、高学年になると中学の数学の授業に出ることも可能だ。算数に限らず、勉強のできる子にも、できない子にもクラスから抜けて受ける、特別プログラムがいくつも用意されている。一般的に中学、高校になると、選択科目が多くなり、各人が自由に科目を選ぶので、クラスの全員がいっせいに授業を受けることはほとんどない。
 こういうアメリカの学校教育を目の当たりにすると、日本の文部科学省が標榜する個性尊重とは、一体何を意味しているのか疑問に思えてくる。というのは、学校教育の現場では生徒の個性を無視するような学校運営がけっこう行われているからである。
 いくつか例をあげよう。まず服装や持ち物について見ると、幼稚園から高校まで制服着用が当たり前になっているし、体操着、帽子、靴、靴下、カバンまで同じものを揃えさせる。茶髪はいけないとか髪型はこうしろとか、身なりについても実にうるさい。
 もっとも、学校の指導がなくとも、周囲から無言の圧力がかかることもある。小学校に入学する息子に何色のランドセルを買ってやるかで悩んだ母親の投書が新聞にのっていた(2004・2・17 朝日新聞)。母親は黒いランドセルを買うものと決めていたのに、息子は「青がいい」という。「みなと違う色ではいじめられるかも」と心配した彼女は、「お友だちはみんな黒よ」などと説得したが、息子は譲らず、ついに青を買ってやったというのだ。
 こういう場合、親のほうが人並みが無難だと考え、幼い子はそれに組み敷かれてしまうことが多い。日本の社会で自分の個性を貫こうとすれば、まず人並み志向、画一化志向と戦わなければならない。
 また、学校というところは、行過ぎた連帯責任がまかり通る場である。昔私の長男の中学では、クラスの誰かが校則違反をすると、悪い行為を止めなかった周りの者も良くない、とクラスの全員が教師から叱られたそうだ。運動部員が暴力沙汰など不祥事を起こすと、やったのは一人でも全部員が謹慎して、全国大会などへの出場を辞退する。事件を起こした本人だけ謹慎させれば済むことではないのか。せっかく全国大会出場を夢見て練習に励んできたのに、その夢を断ち切ることはあるまい。
 小学校のなかには班別の学級運営をするところがある。一つのクラスを数人ずつの班に分け、同じ班の中に勉強が分からない子がいれば、互いに教え合ったり、忘れ物をしないよう注意しあったりさせるのである。誰か一人宿題を忘れたりすると、班の連帯責任になって、全員に罰が与えられることもある。これでは、全体の水準を上げるために、個人の能力を伸ばす機会が摘み取られるのではないか。
 少し前のことだが、野球監督の星野仙一氏が自分の出身小学校で6年生のあるクラスを指導するという番組が放映された(2005・3・13 NHK総合テレビ「課外授業」)。指導内容は野球のバットでボールを打つというものだが、同氏はクラスを三つのグループに分け、グループ全員の飛距離の合計を競わせていた。こうしたほうが、個人個人単独で競うより、チームで頑張るという雰囲気になって、各人の飛距離も伸びるようだ。
 日本人は、個人よりも、集団で活動するほうが力を発揮すると言われているが、そういう行動傾向の原型が、小学生にしてすでに出来上がっている。学校教育が没個性を助長するのは、実は父母(有権者)の大多数がわが子に「出る杭になって打たれるより、目立たなくても人並みの子でいてほしい」と望んでいるからである。
 学校の規制は深夜外出禁止、パチンコ店への入場禁止、バイク使用禁止など校外の生活にまで及んで、父母のしつけの領域を侵している場合がある。これも父母が「校外の行動を規制して欲しい」と考えるから、学校がそうするのだ。学校は父母を含めた世の中の人々の意向に反する教育は、できないのである。
 教育行政は、社会の風潮を反映する。父母が人並み志向で、個性を生かすことを取りたてて望んでいなければ、学校教育はなかなか変わらない。しかしながら、自己責任や自助努力が一層の重みをもって強調される現代にあって、日本人はしょせん変わりようがない、と手をこまぬいているわけにもいくまい。
 では、欧米の個性尊重に飛びつくか。欧米の個性重視は強い自己主張ないし自己の存在表明と表裏一体の関係にあるので、片方だけはがして日本の文化風土に貼り付けようとしてもうまくいかない。
 ここでも、どちらにも偏らない第三の道が求められる。日本人の個性はどうあるべきか、どう育てるべきか、これから議論を始めよう。

世代論と個性

2017年06月01日 | エッセイー個人
第2章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節日本の個人

8世代論と個性
 昔ある会食の席で、隣の人が次々に出る料理を残らずたいらげるので「よく食べますね」と言ったら、「たしかに食べすぎなんだよ。でも、われわれの世代は、子供のとき米を一粒残さず食べなさいとしつけられたので、つい全部食べてしまうんだね」という答えが返ってきた。
 こんな場合に限らず、私たちは「団塊の世代は」とか「若い世代は」とか言って、世代が同じなら考え方も行動傾向も同じであるかのように思い込んでいる。たしかに、そういう傾向がないわけではない。
 人は若いときほど周囲からの影響を受けやすく、青少年時代に、ひとつの社会風潮の洗礼を受けると、それを老年になるまで引きずっていく。社会風潮は時代とともに変わるので、世代が違えば、ものの考え方、感じ方が違うことになる。しかも、日本人は中位化傾向(集団のなかで、人々の好みや意向が中くらいのところに集中し、そこから大きくずれる人が少ない傾向-筆者の造語)が強いから、同じ世代では行動傾向が似かよい、他の世代とは異なることになりがちだ。
 しかしながら、例えば「われわれの世代は、日本が豊かになってから生まれたので、節約がにがてだ」というような、世代別特徴をいつまでも是認していると、世代が同じなら発想も行動傾向も同じということになって、世代の中に個性が埋没してしまう。「個性を大切に」といわれるようになって久しいが、これでは社会が個性の芽をつんでしまうことになる。意外にも、個性尊重論者が世代論をやって、その矛盾に気づかないこともある。
 それに、この状態を放置すれば、輪切りにされたそれぞれの世代に属する人々が、同じ世代の人には同質性を、他の世代に対しては異質なものを感じるようになって、世代間の断絶が生まれやすい。われわれは「いろいろな人がいておもしろい」と異質なものとの共存を楽しむより、異質なものを排除する傾向が強いから、ますます同じ世代のなかでは差異を認めない金太郎飴現象が起きる。
 同じ世代の中にも、少数であれ違う意見や感覚の持ち主が必ずいる。それを異端視して
数の暴力で葬り去るのではなく、それを尊重し、多様性を認めるようにしたいものだ。自分の行動の根拠を「私たちの世代はこうだから」と世代特徴に求めるのでなく、「私の考えはこうだから」と、個人が責任をもつようにしよう。
 もうひとつ、世代論によく似た考え方に年代論がある。年をとってから、若い人と同じように行動していると、「年寄りの冷や水」とからかわれ、はては「いい年をして、おやめなさい」と忠告されたりする。わが国には、年齢層別の行動基準があって、子供は子供らしく、若者は若者らしく、年配者は年配者らしくしないと、周囲から陰に陽に規制を受ける。年齢相応の行動基準というのも、やはり没個性である。
 だいぶ前のことだが、新聞の読者相談欄に次のような相談がのった。「パートで働き始めたが、職場の人が責任者も含めて自分より10歳以上若い人ばかりで、自分が浮いてしまう。若いスタッフといえども仕事上は先輩なので敬語を使っているが、自分が情けなく思えてしまう。今後どういう気持ちでパートを続けたらいいか」というのである。
 女性作家の回答者は、「年齢を忘れて接することです。関心ごとも話題も違うかもしれませんが、今の若い人が何を考えているか理解できる、いいチャンスです。仕事では教えてもらうことがあるけれど、仕事を離れたら教えてあげられることもある。まずはそんな頼り方をされるポジションを目指すというのはどうでしょう」(2005・12・24朝日新聞)。
 実際に相談者がそのとおり振舞えるかどうかは別として、回答はまっとうといえる。世代も年代もあまり気にしないで、生活するようにしたい。