ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

どうして年齢をきにする

2018年01月01日 | エッセイー個人
どうして年齢を気にする
 世の中に知られていない無名の人が新聞やテレビに登場すると、その人の氏名のあとに必ずカッコして年齢が入る。アメリカやイギリスで短期間暮らしたことがあるけれども、新聞、テレビで氏名に加えて年齢まで知らすことはほとんどなかった。
 どうしてわが国では、記事や番組の内容に関係がなくても、年齢まで知らせるのだろうか。それは人々が「この人いくつなのか」を知りたがるからだ。われわれは暗黙のうちに年齢別の行動基準を持っていて、その年ならそういう行動をしても許されるとか、年齢にふさわしくない行動だとか判断している。その年でそんな災難にあったら、人生やり直しがきかないから大変だと同情の度合いが増したりもする。
 われわれの生活には年齢ないし年代がつきまとっている。いくつか例をあげてみよう。

*子どもは子どもらしく
 子どもが不活発であったり、わけ知り顔で悟ったようなことを言ったりすると「あの子は子どもらしくない」と大人の評判が悪くなる。
*間違えるのは若者の特権
 学校の先生や会社の管理職が若い人に対して「自分の意見を正々堂々と言いなさい。間違っているも知れないと臆してはいけない。間違った時は訂正すればいい。間違うのは若者の特権だ」などとけしかける。
*いい年をして
 年をとってから、若い人と同じように行動していると、「年寄りの冷や水」とからかわれる。先日電車の中で50代とおぼしき酔漢三人組のうちの二人がなにやら口論を始めた。三人目が「二人ともいい年をして、おやめなさい」と忠告したら、口げんかが治まった。議論の内容よりも年配者らしく振る舞うことが大事である。そうしないと、周囲から陰に陽に規制を受ける。

 しかしながら、年齢相応の行動基準というのはいかにも没個性ではなかろうか。
論語に「四十にして迷わず、五十にして天命を知る・・」とあるように、人は年齢と共に成熟しておだやかになり判断力もついて、つまらないことで人と争ったりしてはいけないという暗黙の倫理規範がわれわれの心の中に忍び込んでいる。服装、遊ぶスタイル、見るテレビ番組や映画、聞く音楽といった文化も年齢別に輪切りにされていて、年齢が大きく開くと話題が合わない。
 10年ほど前、新聞の読者相談欄に次のような相談がのった。「パートで働き始めましたが、職場の人が責任者も含めて自分より10歳以上若い人ばかりで、自分が浮いてしまいます。若いスタッフといえども仕事上は先輩なので敬語を使っていますが、自分が情けなく思えてしまう。今後どういう気持ちでパートを続けたらいいでしょうか」(2005・12・24朝日新聞)というのである。
 回答者の女性作家は、「年齢を忘れて接することです。関心ごとも話題も違うかもしれませんが、今の若い人が何を考えているか理解できる、いいチャンスです。仕事では教えてもらうことがあるけれど、仕事を離れたら教えてあげられることもある。まずはそんな頼り方をされるポジションを目指すというのはどうでしょう」と答えていた。実際に相談者がそのとおり振舞えるかどうかは別として、回答はまっとうといえる。
 しかし、相談者は「自分が情けなく」なるほど、「年長者は周囲から一目置かれてしかるべきだ」と考えているらしい。そうだとすれば、こういう規範ないし価値観は、早めに退治しないといけない。年齢が上というだけで、その人の価値が決まるわけではないのだから。
 考えて見ると、「年齢相応」という規範は幼時のときから始まっている。孫娘が3歳くらいの時、地域の幼時健診を受けたら、何歳なら体重はこのくらい、身長はこのくらいと年齢別成長基準で判定された。そこまではいいとしても、精神的な発達の度合いまで調べてくれたのには驚いた。何歳ならこのくらいのことはできなければ、このくらいの言葉は知らなければというのだろうが、精神的な発達は個人差が大きい。母親は子供の精神的発達が少し遅れていると言われて気に病んでいた(小学6年になったころにはごく普通の子になった)。
 長幼の序というのはこの頃に始まって、やがて中学、高校に進むと運動部の先輩、後輩の序列に組み敷かれ、企業や官庁に入れば、いまだに残滓を留める年功序列の影響を受ける。
 わが国に強い年齢別ないし年代別行動規範を改めるために、まずは新聞テレビで必要もないのに年齢を表示するのをやめることを提案したい。

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