ひろじいのエッセイ(葦のずいから世の中を覗く)

社会と個人の関係という視点から、自分流に世の中を見ると、どう見えるか。それをエッセイ風にまとめ、ときには提案します。

小出しにされる情報

2017年05月11日 | エッセイー個人
第2章個人の構造(個人は自立すべきか)
2節 日本の個人

7小出しにされる情報-日本型の意思疎通
 私は会社を退職した後日本語教師の資格(日本語教育能力検定)を取り、外国人に日本語を教えていた。日本語を外国人に教えてみると、中級以上の日本語学習者にはもっと日本の文化(生活習慣、価値観、ものの考え方、感じ方など)に対する理解を深めさせる必要があると感じる。われわれがふだん何気なく使っている言い回しの裏に、日本文化が隠れているからである。
 日本語と日本文化が分かちがたく結びついている一つの例として、われわれが日ごろかなり省略した言語表現を用いていることについて考えてみよう。
 「電車が遅れているようだけれども、そろそろ来るでしょう」という文を提示すると、多くの学習者は、来るのは電車だと思い、彼(または彼女)が来るとは考えない。「動作の主体は省略されているけれども、それで分かるのだ」と説明しても、英語話者などは、どうして「誰が来るでしょう」と言わないのかと感じるようだ。
 日本語教師の間で「うなぎ文」と呼ばれている文がある。「ぼくはうなぎだ」と言われたら、日本人なら「ぼくの注文はうなぎだ」と理解する。外国人は、おとぎ話のなかで擬人化されたうなぎが自己紹介でもしているのかと受け取るらしい。
 「こんな嬉しいことはない」という言い方も外国人にはまぎらわしい。喜びを否定しているのではなく、「こんな嬉しいことは、ほかにない」の省略形だと知ると、ずいぶん大事なことを省くんだな、と考える。
 私は日本人同士で比較すれば勘がよくないほうなので、人と話しているとき、相手が誰のことまたは何について話しているのか分からなくなって、聞き返すことがある。こんなとき相手が妻であると、遠慮がないから「勘が悪いわね。○○のことに決まっているでしょ」とやられてしまう。
 欧米社会に比べると、日本は黙っていても分かってもらえる以心伝心社会である。たとえば、われわれは夫婦や親子の間で、お互いに愛していることを毎日のように確かめ合ったりしない。親しい者同士が言葉を交わさずに一緒にいることを苦にしない。話さないことは、何も意見がないことだと見なしたりしない。
 会話の中で「こんなこと言ったら、なんですけれど」と前置きして話し始めることがある。「なんですけど」は、「失礼なようですけど、生意気なようですけど、出しゃばっているようですけど」など、そのときの文脈に応じてさまざまに解釈できる。この言葉には「はっきり言うことに、ちょっとためらいを感じるけれども、やはり言いたい」という気分が表れている。聞いている方もその気分を感じるから、「それどういう意味?」と尋ねたりしない。
 人々は会話の中でかなりの部分を省略して意思疎通している。われわれは情報に欠けたところがあっても、相手が理解してくれると期待して、飛び石のようなつながらない論理で話している。
 「日本語は論理的でない」とよく言われるが、これは、日本語そのものが非論理的なのではなくて、日本語を使う日本人が論理を踏まない話し方をするためである。日本の社会では、言語の価値が相対的に低く、おしゃべり型より不言実行型が好まれ、討論の能力より全体の雰囲気から状況を読み取る察しの能力が要求される。
 先に欧米型の意思疎通のところで述べたことの繰り返しになるが、日本の文化はエドワード・ホールの言う高コンテクスト(文脈)文化の典型なのである。人々は生活習慣や価値観を共有し、言語の使用が控え目でもお互いに分かり合える。メッセージには単純な最小限の情報しか盛り込まれない。
 そして、日本人はいっぺんにたくさんの情報を出すのではなく、お互いに少しずつ情報を出しながら、長いつきあいをへて本格的な意思疎通をする関係を作っていく。相手に関する情報の蓄積がない初対面の人には、人見知りして多くを語らない。早く親しくなりたいと思って何から何までしゃべると、「それほど親しい間柄でもないのに、どうしてそんなことまで言うのか」とかえって不審をいだかれる。日本の社会は、相手と情報を蓄積しあう間柄になれるか探りを入れつつ徐々に情報を出す、情報小出し型社会といえよう。
 われわれは、あいさつするとき、何の気なしに「この間はどうもありがとうございました」という。礼は、世話になったときと、その次に顔を合わせたときと二度言うのが習慣になっている。これは、人々のつきあいは長く続くことが多く、一回限りの出会いは少ないという社会だから生まれた習慣ではないだろうか。また、初対面の人には「今後ともよろしくお願いします」と言う。これも、つきあいがその場限りでなく、長く続くことを前提にした言葉だ。
 一回一回の機会に交換する情報は断片的で限りがあるため、情報を蓄積して相手の気心が分かるまでには時間がかかるが、いったん気心が知れれば、本音で言い合える仲となり、仕事も「あうんの呼吸」でできるようになる。
 日本では、たとえば中小企業が新しい部品を開発したり、在来品をより安価で製造することに成功して、大企業に売り込んでも、なかなか取引を開始してもらえない。売り込まれたほうは、その部品自体はよいものであっても、不良品の発生など何か問題が起こったときに相手がどう対処してくれるのか、あるいは急に増産する必要に迫られたようなとき、それに対応してすばやく部品供給を増やしてもらえるのか、今まで取引がないから分からない。
 その点長いつきあいをしている会社の方が安心できると考えて、よほどのことがない限り、危ない橋は渡らないのである。よく日本型資本主義の特徴の一つに、企業の系列化があげられる。ほとんどの大企業は、子会社、孫会社、協力会社などのファミリー企業群を持ち、そことの取引が圧倒的に多い。長年のつきあいに基づいた信頼関係が系列を生むのである。
 こういう慣行は、外国の企業が日本の市場に参入しようとするときの非関税障壁になっていて、フェアーでないと外国から非難される。それに呼応して、国際的に通用しない慣行だから改めようとする動きもあるけれども、必要に応じて生まれたものが簡単に直るとも思えない。例外は、経営状況が悪化した企業が過去の取引関係を一切断ちきるときだけだろう。
 系列の是非はともかく、日本人の意思疎通は、一度に多くの情報を出す一発勝負型ではなく、時間をかけてゆっくりと、よく分かりあった人間関係を作りあげてから、省略した情報のやりとりをして行われるのである。
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