古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

稲佐の浜(エピローグ)

2017年04月06日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 車を神門通りの駐車場に移動させ、神門通りでお土産を買うことにした。夕方に近い時間になっていたので人通りはそれほどでもなく、お土産もゆっくり選んで買うことができた。と言っても買ったのは出雲そばくらいだけど。

神門通りから二の鳥居。

こうして見ると、一の鳥居から二の鳥居に向かう参道は登り坂になっているのがわかる。そして二の鳥居からは「下り参道」になっていた。ということは二の鳥居がこのあたりで一番高いところということになる。これは何か意味があるのだろうか。

 このあたりは勢溜(せいだまり)といって、江戸時代に林を切り開いて広場が作られ、芝居小屋が設けられたという。人の勢いが溜まるところということで勢溜と呼ばれる。やはり出雲大社の賑わいは江戸時代からなんだ。
 ここが一番高いところで本殿がそれより低いところにあるのは、たまたまであろう。まず本殿をどこに設けるかを先に決める。それは自ずと背後の山(八雲山)に最も近いところになる。参道はその本殿に向かって敷かれることになる。そして出雲大社の場合はもともとは西の浜(稲佐の浜)から本殿に向かって参道が敷かれていた。それが後にこの勢溜ができたことによって参詣者はまずここに立ち寄ってから本殿に向かうことなり、この参道がメインストリートとなった。だから結果的に高いところから低いところに向かう下り参道になった。あくまで私の推測であるが。

 お土産を買って車に戻り、稲佐の浜に移動。国譲り神話の舞台であり、古事記には「伊那佐の小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記される。現在では神が降り立つ神聖な浜として信仰され、11月には「神迎え神事」などの神事が行われるという。

もう少しで夕陽になりそうなんだけど。


 ここは神が降り立つ浜。この海の向こうは朝鮮半島。その昔、大国主神の祖先である素戔嗚尊は朝鮮半島から日本海を渡ってこの地にやってきた。素戔嗚尊をリーダーとする集団はまず妻木晩田を拠点にして東は伯耆(青谷上寺地)から因幡(白兎神社あたり)を従え、越にまで勢力を拡大、西はこの出雲を制圧し、この集団の代々のリーダーはこの出雲で王位を継いでいった。その彼らの墓制が四隅突出型墳丘墓であり、その墓域が西谷墳墓群である。彼らに支配されることになった先住集団は荒神谷に銅剣を埋納し、加茂岩倉に銅鐸を埋納したのだ。祭器である銅剣や銅鐸を破壊される前に自らの手でその霊力を封じ込めるために「×」を刻印し、そして整然と並べて土中に埋めた。しかし、先住集団を次々に制圧して出雲を中心に日本海沿岸域を支配した素戔嗚尊を祖とする集団もやがては別の集団に支配権を譲ることになる。それが国譲りであり、その結果として出雲大社が建てられた。出雲大社の祭神大国主神が西を向いているのは祖先の故郷の地である朝鮮半島に想いを馳せるためなのだ。

最後にお気に入りのショットで締め括り。


 Sさん、Oさん、お疲れ様でした。次は北九州へ。
コメント

古代出雲歴史博物館

2017年04月05日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 Sさんのトイレ帰りを待つこと10分、いよいよ入館。こういうところはたいがいJAFの優待割引が効くので確認すると案の定10%引いてくれた。博物館のロビーが全面ガラス張りで陽の光が降り注ぎ、たいへん心地よい気分で拝観をスタートした。実はここでもSさんの念の効果が発揮されるのだった。

大社境内を横から抜けて博物館へ向かう。


まずは出雲大社境内遺跡で出土したスギの大木。


発掘時の状況。(歴博のサイトから拝借しました)


 以下、歴博のサイトより引用です。

平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものです。境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめて出土しました。
直径が最大で約6mもある柱穴には、人の頭の大きさかそれ以上の大きな石がぎっしりと積み込まれ、世界に例のない掘立柱の地下構造も明らかになりました。柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる、いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものと類似していました。
その後、柱材の科学分析調査や、考古資料・絵画、文献記録などの調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなりました。


古事記・日本書紀・出雲国風土記の三点セット。


 このあと、出雲大社にまつわるビデオをみて大社本殿の復元模型を見ているとき、Sさんが女性の職員から何やら注意を受けている。どうやら館内飲食禁止であるにも関わらずのど飴を舐めていることを咎められたらしい。飴くらい問題ないだろうとSさんはおばちゃん職員に少々不快な気分にさせられたようだ。

荒神谷遺跡の銅剣358本。

圧倒的な迫力を感じる。剣の持つ威力か。

加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸。

こちらは「美」を感じる。

 銅剣を1本1本つぶさに見て「×」の刻印を確認。よく観察しないとわからないくらい小さな刻印だった。この刻印は358本のうち344本の茎(なかご)に刻まれており、同じ印が加茂岩倉の銅鐸にも見られる。このことから両遺跡の関連性、すなわちこれらの青銅器を埋納した集団の関連性が推測される。

 この銅鐸を見ているときに突然女性がすり寄ってきて私に話しかけてきた。「この横になっている銅鐸、修理された痕があるんです」と。「いきなり何やねん、失礼やな」と思ったものの、横になった銅鐸の修理痕を探す自分がいた。よーく見るとたしかにあった。手前の上の面のあたりに色が少し薄くなっている部分がある。その女性はさらに続ける。「普通なら紋様の線は少し盛り上がったようになるのに、その部分だけは何かで刻んだようにへこんだ線になっているでしょ」「たしかに」「鋳型に流し込むときにこの部分だけ銅がまわらずに穴が開いたようになってしまったので、あとで修復して線を刻んだのです」「はあー、なるほど!」
 この女性、ただ者ではないな。そのあとも我々の横について鏡や剣の説明もしてくれた。ここの職員だったのだ。しかし、よく見るとあなた、さっきSさんに飴を注意していた人ではないか。もしや、出雲大社のコーナーからずっと後をつけてきたのか? Sさんの念のすさまじさを感じずにはおれなかった。

銅剣と銅鐸、両方まとめて。
 

これが神原神社古墳から出た三角縁神獣鏡。

たしかに「景初三年」の文字が見える。

 これだけ本物を並べられるとぐうの音も出ない。しかも出土した出雲の地で見れることに意味を感じた。2日間で見て回った遺跡や神社とあわせて出雲には大きな勢力が実在したんだと実感できたからだ。東京上野にある東京国立博物館でも国宝の数々の実物を見ることができるが、なんだかアートを鑑賞しているような感覚になってしまうのが残念だ。もちろん、各地の貴重な遺物をまとめて見れることのメリットはあるのだが。

 さて、これで3日間にわたる丹後王国、出雲王国を巡る実地踏査ツアーは終了だ。このあとは神門通りでお土産を買って、最後に稲佐の浜で夕陽を拝んで帰ろう。
コメント

出雲大社

2017年04月04日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 いよいよツアー最後の訪問地である出雲大社へ。西谷墳墓群から30分ほどの予定であったが、快晴の日曜日ということもあってか出雲大社へ向かう道路が渋滞。結局、1時間近くかかっただろうか、時刻はすでに2時近くなっていたように思う。駐車場に車を停めてまず向かったのが近くの蕎麦屋。

「やしろや」というお店。昼時を過ぎていたので店内はすいていた。


天かす、とろろいも、大根おろし入りの三色割子そば。1100円也。

Sさん、Oさんは普通の割子そば一皿(250円)を追加注文。蕎麦っておいしいのだけど、なんでこんなに高いのだろうか。そう思うと追加する気になれなかった。

 さて、出雲大社は島根県出雲市大社町杵築東にある出雲国一之宮。祭神は言わずと知れた大国主大神。縁結びの神様として名高いからか、若いカップルが多く、また男だけのグループもいて普通の観光地と何ら変わりない雰囲気であった。ブラタモリでやっていたけど、出雲大社にこれだけ人が集まるようになったのは江戸時代からだとか。出雲信仰を布教させる御師と呼ばれる人たちが全国に出向いて参詣者を募り、道中や宿泊の手配をしたという。蕎麦預(そばあずかり)という蕎麦屋のクーポン券まで配られ、出雲大社は江戸時代からまさに観光地だったのだ。

鳥居(二の鳥居)もさることながら立派過ぎる石標に圧倒される。


振り返ると長くまっすぐに延びる参道が。その先にはでっかくそびえる一の鳥居。この参道を「神門通り」と呼ぶことをあとで知った。


二の鳥居をこえていよいよ境内へ。ずっと下り坂になっていて「下り参道」は全国でも珍しいらしい。


 これもブラタモリで見たのだけど、元々の参道は神社の西側にあったという。そういえば出雲の神様は本殿の中で西を向いていると聞く。神様を正面に拝むために参道は西から本殿に向かっていた、というのは理に適っている。西には稲佐の浜、その先には朝鮮半島。出雲の神様はどうして西を向いているのだろうか。

この鳥居は四の鳥居。いよいよだ。初めての私はワクワク感満載。


拝殿で参拝。もちろん二礼四拍手。お賽銭は奮発して100円。


そのあと拝殿の裏へ回ると何と本殿でも拝めるではないか。なんじゃそれ。

どうしてこのようになっているのかわからないけど、普通は神社でお参りするときは拝殿の前でお賽銭を入れて鈴を鳴らしてパンパン、で終わりでしょ。本殿で直接拝めるのであれば拝殿は意味ないんじゃない?ってつまらぬ感想を抱いたのは私くらいかな。

 出雲大社でぜひ見ておきたいものの1つがここに写っている。地面の赤い丸。拝殿から本殿にかけての区域は出雲大社境内遺跡と呼ばれ、平成12年から13年にかけての発掘でスギの大木3本を1組にした直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。この赤い丸はそれが出た場所を示していて、その丸の大きさや位置を見ておきたかった。発掘された柱の実物はこのあと隣の博物館で見ることになる。
 たしかに太い。現在の本殿の高さは24mであるが、その昔は倍の48mもあったという。この太さの柱なら48mの本殿を支えることは可能かもしれないが、本当にそんなものを作ったのだろうか。「雲太、和二、京三」、二番目の東大寺大仏殿が15丈(46.6m)なので、一番の出雲大社はそれより大きいことになるから48mあったのかもしれない。でも、下の復元模型のイメージが強烈で、こんな不安定なすぐに倒れそうなものをわざわざ建てたとは思えないのだ。それこそ大仏殿のようながっしりした建物ならありと思えるのだが。



 本殿の参拝を済ませたあと、ここでもう一つ見ておきたいところがあり、本殿の左手から裏手へと歩を進めた。

本殿西側の参拝所。ひっそりとたたずむ。

出雲の神様はこちらが正面なので、本来はここで拝むのが一番。でもそのことを知っている人はあまりいないようだ。ここで立ち止まって手を合わせる人はほとんどいなかった。

裏手へ回って本殿を見るとその大きさがよくわかる。


 それにしてもこれだけ由緒ある神社で本殿がこんなに衆人環視の状況に置かれている神社は珍しいと思う。多くの神社は拝殿の後ろに本殿があって、その裏手には山や森が迫ってきて、その神域には容易に足を踏み入れることはできないようになっている。


私が見たかった2つ目、それは本殿裏にある摂社「素鵞社(そがのやしろ)」。


 素鵞社の祭神は素戔嗚尊である。日本書紀では大国主神はその子であり、古事記においては6世孫となっている。素戔嗚尊は自らの子孫である大国主神を見守るように出雲大社の背後に祀られているのだ。ここは肩こりに効くらしく、社の裏にある岩に肩を寄せて拝んできた。

素鵞社の裏にある大きな岩。これも磐座か。


 この素鵞社については当ブログ第一部「蘇我氏の出自」でも触れておいたので、是非そちらもご覧いただきたい。

 出雲大社の最後は十九社。10月神無月は全国の神様がこの出雲に集まってくる。出雲大社本殿の東西それぞれに十九社があり、これは全国からやってきた神様が滞在する社で、いわばホテルのようなもの。祭神は八百萬神となっているが、19+19=38社で数が全然足りないぞ。

これは西十九社。


 以上で出雲大社は終了。次は隣の古代出雲歴史博物館。いよいよ銅剣、銅鐸、三角縁神獣鏡の本物が観れるんだ。
 ここでSさんがトイレへ行くという。博物館はすぐそこなので、そこで行けばいいのにと思ったけど、よほど我慢ができなかったのか近くのトイレを探すという。仕方なく歩くスピードを緩めて先に行くことにした。博物館の前で待つこと数分、いや10分は待ったか。この間に私はゆっくりトイレを済ませた。

 さあ、いよいよ次の歴博でツアーのフィナーレを飾ろう。
コメント

西谷墳墓群

2017年04月03日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 Oさん待望の西谷墳墓群へ到着。私も初めてなので少しワクワクしてきた。西谷墳墓群は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されており、このうち、1・2・3・4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。とくに3号墓は当時の葬送儀礼を知るうえで貴重な遺構、遺物が見つかった。

 ここはまず隣接する「出雲弥生の森博物館」で情報収集することに。この博物館の開館は平成22年(2010年)、したがって清潔感あふれる綺麗な建物で、しかも料金が無料というのがありがたい。2Fには西谷墳墓群ガイダンス施設がある。トイレのために出遅れた私が2Fへ上がると二人はすでに職員の女性から展示の説明を受けていた。この日はこれで3ヶ所目のガイド付き見学となった。私が追いついたタイミングでこの女性職員が発した言葉に驚いた。入館したのが12時少し前だったのだが「私の説明は12時までになります。12時からは別の者が対応します」とのこと。ここの職員はおそらく公務員なのだろう。「12時になったら昼休みに入るので私は休憩します」と宣言されたのだ。これはいただけないな。
 とはいえ、この女性職員、知識が豊富で説明も上手い。12時を回ったけどまだ説明してるぞ。このまま最後までこの人の説明を聞いていたい、と思ったがやはり甘かった。途中で交代の女性がやってきた。あ~残念。

マークがかわいい。赤い「よすみ」の真ん中に青い勾玉。


展示室内部。真ん中に西谷3号墓の模型が置かれ、入り口を入って左側から壁に沿って展示される出土物や説明パネルを見る。


3号墓からは男王と女王の棺が出た。これは男王の棺。



こちらが女王。


北陸や吉備の土器も出土。各地から弔問に訪れたと考えられる。


展示をじっくり見た後、いよいよ王墓へ。ついにきたぞ、西谷へ!


史跡公園の全体図。


4号墓。長く延びた突出部が確認できる。



3号墓。貼り石も綺麗に復元されている。



墳丘上には男王、女王の棺が出た場所を再現。男王の棺の周囲には4本の柱が立ち、屋根を設けて葬送の儀式を行ったと考えられている。 


3号墓の墳丘上から見た2号墓。

向こうに出雲商業高校のグランドが見える。野球部が練習していた。ときどきここまで打球が飛んでくるらしく、注意を促す看板が立っていた。

2号墓の復元は少しやり過ぎで興ざめ。

墳丘内にコンクリートの空間を設けて壁に棺の位置や地層の絵が描かれていた。何を伝えたいのか理解し難いものがあった。

 今回のツアーでいくつもの遺跡とそれに付随する展示施設(資料館や博物館)を見てきたが、遺跡をどのように保存して、それをどのように見せるか(伝えるか)をもっと考えてほしいと感じた。今回の私たちのように考古学や古代史に少しは興味を持って何かを知りたい、何かを学びたい、何かを感じたいと思って訪れる人に対して何をどのように見せるか、が最も重要であって、まったく興味のない人や逆にプロフェッショナルに対しての配慮は不要であると思う。そしてポイントは「リアリティ」である。現物を見るのが一番。現物から何を感じるかだ。現物が無理なら写真や映像がいい。レプリカはナンセンスだ。朽ちたり錆びたりした実物と元の姿を復元したレプリカを並べて置くなら意味あるかもしれないが。それと人形や剥製や安っぽい模型もNG。遺跡の復元においてもコンクリートは論外。古代から現代までの時間の経過を感じることも重要なのだ。遺跡の復元はどこまで行っても想像の世界が残る。だとしたら見る側にもその余地を残しておいてほしい。学者が出した答えをいかにも正解であるかのように見せるのはやめてほしい。

 さあ、次はいよいよツアー最後の目的地である出雲大社だ。実は私は出雲大社に行ったことがなく、密かに楽しみにしていた。加えて、古代出雲歴史博物館に展示されている荒神谷の358本の銅剣、加茂岩倉の39個の銅鐸、神原神社古墳の景初三年銘の三角縁神獣鏡、これらはすべて実物であり、それを見ることは私にとってはツアー最大のクライマックスであるのだ。いざ、出雲大社へ!

 
コメント

荒神谷遺跡

2017年04月02日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 加茂岩倉遺跡で39個もの銅鐸の埋納を見た後は荒神谷遺跡だ。遺跡発見のきっかけとなった出雲ロマン街道を走る。この道路は遺跡を保存することを優先して当初ルートを変更して建設が進められた。その変更されたルートを走っているのだ。荒神谷遺跡は島根県出雲市斐川町神庭にある遺跡で358本もの銅剣に加えて銅矛と銅鐸がまとめて発見された。前回訪問時の記憶をもとに書いた記事がこちら

 この日の朝から訪ねたところは、最初が原神社古墳、その次は加茂岩倉、そしてここの地名が庭である。出雲はとことん「神」の国である。遺跡を含めて周辺は史跡公園として整備されている。だから駐車場も広い。しかし最近は訪れる人も少なくなったのだろう、関係者のものと思われる車が2台ほど停まっているだけだった。入り口を入って右手に荒神谷博物館があるが、ここでもまず遺跡を見ることにした。反対側の建物にボランティアガイドの案内があり、中には2人のおじさんがすわっていた。お願いするとすぐに1人の方が対応してくれた。「時間はどれくらいあるか」と尋ねられたので「30分ほど」と答えると「30分で博物館も含めて全部説明するのは無理」と言われた。ここで1時間を費やす余裕はなかったので45分でお願いすることにした。ちなみにおじさんの名は品川さんだ。

ガイドのスタートはこの年表の説明から。


続いて遺跡の概要の説明。


そのあと遺跡まで少し歩く。途中で見つけた小さな案内。


 荒神谷遺跡は昭和58年に出雲ロマン街道の建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見された。ここはその土器片を拾った場所。調査員がここで土器片を見つけていなかったら世紀の大発見は無かったかもしれない。あるいは加茂岩倉遺跡のように、工事中にショベルカーが大量の銅剣をすくい上げることによって発見されたのかもしれない。
 遺跡分布調査とは、遺跡の有無を広域にわたって把握するために踏査を行なって遺物の表面採集を行なうことを言う。つまり、調査地域を歩き回って遺構や遺物と思しきものの有無を視認するだけの調査であり、これで何か見つかれば発掘調査へと進められるが、何も見つからなければそれでおしまいなのだ。土器片を見つけた調査員の功績は大きい。

待ちに待った銅剣の出土現場。

加茂岩倉ほどではないが同じように山あいの斜面に埋納されていた。加茂岩倉でこの雰囲気を覚えておいてと二人に伝えたけど、とっくにお忘れのようであった。黄色のジャンパーがガイドの品川さん。

左側に銅剣、右側に銅矛と銅鐸。

いずれもレプリカを使って発掘時の状況を再現している。試掘された箇所がよくわかるが、それ以外のところは掘られていないとのこと。掘ってみたい衝動に駆られる。





 品川さんの説明が非常にわかりやすく、また知識も豊富なようだったので「358本という銅剣の数は出雲国風土記に記される神社の数と近しい数字であることから、各神社から集められて埋納されたという説もあるんですよね」と投げてみると「そうきますか」と返ってきた。ご本人に確認すると、考古学の専門家でも何でもないとのことだ。加茂岩倉の館長代理の爺さんといい、ここの品川さんといい、ボランティアとして働き始めてから勉強されたという。考古学や古代史なんて興味のない人には全くつまらない学問のはずだ。それなのにこのお二人が門外漢でありながらこの仕事を選択されたのは「出雲人の血」ではないだろうか。素晴らしいし、うらやましい。

 天気も良く、品川さんとの会話もはずみ、思わず時間を費やした。最後に荒神谷博物館に入ると、今の時代に作られた銅剣の実物を持ち上げて重さを確認するコーナーがあった。銅剣は想像以上に重かった。料金200円を払えばさらに詳しい展示を見ることができたのだが、内容は銅剣などのレプリカの展示や発掘時の様子を映像で紹介されている程度ということだったのでパスすることにした。

品川さんのおかげでここでも有意義な見学ができた。ここ荒神谷と先の加茂岩倉ともに、Sさん、Oさんの強い念が館長代理の爺さんと品川さんを降臨させたのだ。

 さあ、次に目指すは巨大な四隅突出型墳丘墓が並ぶ西谷墳墓群。ここはOさんが2年ほど前から「行ってみたい、絶対に行きたい」と異常なまでに執着心を示していたところだ。そして私も同様に一度は行っておかねば、と思っていた場所だ。
 


コメント

加茂岩倉遺跡

2017年04月01日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 加茂岩倉遺跡に到着したのが9時半頃だっただろうか。駐車場に車を停め、山あいの細くゆるやかなのぼり坂を歩く。空はスカッと晴れ上がっているのに日陰に入ると肌寒い。次の荒神谷遺跡も山あいの似たような場所にあるので、それを感じてもらおうと「山あいのこの雰囲気を覚えておいて」と二人に伝えたのだけど、どうだったのだろう。
 加茂岩倉遺跡は島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の青銅器埋納遺跡で、1996年、農道工事中に39個もの銅鐸が出土した場所である。一度にまとまって出土した数としては全国最多で、出土した銅鐸は全て国宝に指定され、古代出雲歴史博物館に展示されている。なお、遺跡は銅鐸が出土したときの状況が再現される形で保存され、自由に見学ができる。
 歩き始めて5分ほどで現場に到着。「加茂岩倉遺跡ガイダンス」という名の展示施設が谷をまたいで設けられている。いつものパターンならまずここに入って情報収集してから遺跡の現場を見るのだけど、前回ここへきて遺跡を最初に見たときの印象が強烈だったので、直感的にまず現場を見てもらうのがいいと思い、右手に設けられた階段を登ることにした。前回訪問時の印象をもとに書いた記事がこちら

 私は下で写真を撮っていたので少し遅れて登っていったのだが、頂上に近づくと何やら会話が聞こえてくる。到着するとOさんと掃除の爺さんが会話している。どうやら掃除のついでに遺跡の説明をしてくれているようだ。

遺跡に登る階段の手前にあった説明板。


銅鐸が出たのはこの通り結構高いところ。


銅鐸の出土状況が再現された遺跡。




 ひとしきり現場を観察して写真を撮影したあと、ガイダンスへ行くことにした。爺さんはひと足先に現場を離れ、ガイダンスへの遊歩道を掃除しながら歩いている。


遺跡からガイダンスを見る。右側から遊歩道が延びる。


ガイダンス付近からの眺め。ちょうど向こう側に遺跡が見える


 遊歩道でまた爺さんと一緒になり、そのままガイダンスへ。そこで爺さん「どうぞどうぞ、まあ入ってください」てな感じで三人を迎え入れてくれた。中へ入って何をどう見たらいいのか戸惑っていると、ビデオのスイッチを入れて遺跡を紹介する映像を流してくれた。さらに椅子に座って映像を見ていると「まあどうぞ」と、何と三人にお茶を入れてくれたのだ。こんなに朝早くに見学者がやってくることは滅多にないから嬉しかったのだろうか。我々を客人としてもてなしてくれるのだ。それにしても気さくで親切な爺さんだ。
 ビデオを見終わってさあ見学、と思って立ち上がると今度は「説明しましょうか」ときた。こやつ、単なる掃除の爺さんではないな。もしやここの館長か? さすがにそれはなかったが、考古学の専門家でもなんでもない地元の爺さんがここの仕事をするようになってから勉強したそうだ。部屋に並ぶ銅鐸のレプリカをひとつひとつ、その特徴を説明してくれた。有難かった。

出土した銅鐸のレプリカ。



入れ子の状態まで再現されている。


遺跡発見当時の現地説明会のときの様子。長蛇の列だ。


 ここへ来たのが2回目。1回目は雨が降る中で時間も余りなかったのだが、今回はゆっくり見ることができた。それでも何故ここに銅鐸が埋められたのか、それもこれだけたくさん。ここはどういう場所だったのか、39個にはどういう意味があるのか。疑問は解決しなかったが、前回訪問時には気がつかなかったが、今回発見したことがひとつある。車を停めるときに遺跡に一番近い駐車場に停めずに案内表示のままに少し離れたところに停めてしまった。その駐車場のすぐ近くに「大岩」という、いわゆる磐座と思われるものがあるのを見つけた。

大岩。


大岩の説明。


 岩倉という地名から、このあたりに磐座があるのは想像がつくのだが、遺跡から目と鼻の先にこんなに大きな磐座があったとは。この記事を書くにあたって調べてみると、その昔、この大岩の裏から通じる小道の先に矢櫃神社(やびつじんじゃ)というのがあったという。今は廃社となり近くの屋裏八幡宮に合祀されているが、跡地にはご神体であったと思われる磐座がある。このあたりは神が舞い降りる神聖な土地なのだ。銅鐸を埋納した集団は何らかの理由で自らの祭祀方式を放棄せざるを得ない状況に陥った。おそらく別の集団に制圧されたことによるものだろう。祭器であった銅鐸をこの神聖な地で神に奉げるように埋納したのではないか。

 館長代理(?)の爺さんのお蔭で有意義な訪問となった。この爺さんの登場は、SさんとOさんによる加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡に対する強い執念によるものだ。それは次の荒神谷遺跡で証明されることになる。





コメント

神原神社古墳

2017年03月31日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 ツアー最終日は気温も上がってポカポカ陽気の中、絶好の実地踏査日和となった。お宿を8時に出発し、まず向かったのが神原神社古墳。途中、右折すれば加茂岩倉遺跡という交差点を通り過ぎ、まっすぐに第一の目的地へ。この神原神社あるいは神原神社古墳は、ちょうど6年前に出雲へ出張した際に訪れたことがある。そのときの印象を元に書いた記事がこちら

 神原神社は島根県雲南市加茂町にある神社で、もともとこの神社は古墳の上に建てられていたが、昭和47年(1972年)、斐伊川水系の赤川の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査を行ったところ、その竪穴式石室から魏の「景初三年」(239年)の銘が入った三角縁神獣鏡が見つかったという。この鏡はあとで訪問する島根県立古代出雲歴史博物館にて現物を見ることになる。

 神社は現在の地に移されたが、古墳は残念ながら破壊されてしまい、現在は神社横の敷地に石室が復元されるのみである。これも開発と保存の狭間での妥協の結果ということだ。古墳を避けて堤防を築くことができなかったのかなあ、と少し残念に思う。この古墳は29m×25m、高さは5m程度の方墳と推定され、島根県では最古に属する前期古墳であるという。

堤防上から見た復元施設。


神社側から。


施設前の説明板。


復元された石室。


出土した三角縁神獣鏡の写真。大阪の和泉黄金塚古墳からも景初三年銘の鏡が出ている。


古墳発掘の様子。神社が壊されるのと同時に石室が明らかになってくる様子がわかって面白かった。





神原神社。

小さな神社のわりに注連縄が立派。さすが出雲。祭神は大国主神、磐筒男命、磐筒女命の三柱である。ということはこの神社が建てられていた古墳の主は大国主神ということになりはしないか。



 隣を流れるのが赤川。赤川という川の名前からの連想もあり、また前回ここを訪れたときのタクシーの運転手の話もあって、記紀に記される八岐大蛇の説話を思い出す。八岐大蛇、古事記では「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾、亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也(大蛇の目は赤加賀智(アカカガチ=ホオズキ)のように赤く、体はひとつで、頭が八つ、尻尾が八つ、日陰かずらや檜や杉が生えていて、八つの谷と八つの峰に及び、その腹をみると常に血が滲んでいる)」と大蛇の姿を実に写実的に描いている。腹に滲む血とは、この地で砂鉄による製鉄が行なわれいたことから、その砂鉄(酸化鉄)が山や川を赤く染めた状況を表しているのではないか、とする説がある。錆びた鉄は赤い、という印象によるものだ。
 前日に訪れた菅谷たたら山内。ここで砂鉄による製鉄の様子をつぶさに知ることができた。この地の砂鉄は赤くない。かんな流しで採取する山砂鉄も、川底に沈む川砂鉄もその色は「黒」だ。出雲の砂鉄は黒色だ。したがって、八岐大蛇の腹の血は砂鉄ではない。この腹に滲む血は山のあちこちで行なわれるたたら製鉄の「炎」を表している、と考える方が妥当だ。ここでも、百聞は一見に如かず。

 2回目の訪問であったが前回よりも知識が増えている分だけ感じることも多かったかな。このあとは来た道を引き返して加茂岩倉遺跡へ。この加茂岩倉遺跡とその次の荒神谷遺跡はSさんもOさんも絶対に行きたい場所と強く主張されていた遺跡。その念が何かを寄せ付けることになったのだろうか。その何かは次回のお楽しみに。

 


コメント

熊野大社

2017年03月30日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 鉄の歴史博物館を後ろ髪ひかれる思いで出発。何とか熊野大社を参拝しようと、吉田掛合インターから松江自動車道(無料区間)に乗って次のインターの三刀屋木次で降り、県道24号線から53号線に入って山道を走る。この日は丹後半島からのロングドライブのため、ドライバーOさんはかなり疲れていたと思うが、日暮れの山道も慎重に運転していただいた。山道は暮れるのが早いというのはその通りで熊野大社に到着したときには太陽は沈んで空の色がどんどん濃い灰色に変わっていった。それでも神社は参拝が可能であったので、お賽銭を入れていつも通りに「健康で長生き」をお願いした。

 さて、ここ熊野大社は出雲大社とともに出雲国一之宮であり、主祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」という長ったらしい名前の神様であるが、要するに素戔嗚尊のことである。創建は不明であるが、歴史上の初見は日本書紀の斉明天皇5年(659年)の「出雲國造を厳神の宮をつくらしむ」の記載である。出雲大社との関係が深く、出雲大社宮司の襲職は熊野大社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。以下、Wikipediaより引用する。

 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。

一の鳥居。


二の鳥居。


随神門。大きなしめ縄。


拝殿。ここにも特大のしめ縄。


舞殿。


 ここ熊野大社でも大失敗をやらかしてしまった。実は私がここに来たかった一番の理由が、火継式が行われる鑽火殿を見ることであった。出雲国造家にとっての神聖な場所をこの目で見て出雲大社とのつながりを感じたかったのだ。それが何としたことか、日が暮れてしまう前に到着でき、一度はあきらめた熊野大社参拝が実現できることの喜びの気持ちが勝ってしまい、鑽火殿を拝むことをすっかり失念してしまっていた。またしてもあとの祭り。それに加えて、拝殿右側の舞殿がたいへん立派だったのでこちらの撮影に神経が行ってしまったのも後悔だ。実は拝殿の左側に鑽火殿があったのだ。失念していたとしても、もしもこれが目に留まって入れば思い出したであろうに。かえすがえすも残念だ。悔しい。

 そんなことで熊野大社の参拝を終え、ツアー2日目の予定が終了した。あとは安全運転で玉造温泉にたどり着くのみ。2日目のお宿は長楽園


 源泉かけ流し混浴大露天風呂は日本一という。湯あみ着を着用して入るので混浴でも全く問題はなかった。広々とした露天風呂はいつまでも浸かっていたいと思うほどに気持ちがよかった。

料理も半身の松葉ガニと陶板焼きのステーキがセットになった豪華な夕食。



何から何まで充実のツアー2日目でした。
コメント

菅谷たたら山内

2017年03月29日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 妻木晩田遺跡の見学を終えた時点で予定時刻を大幅にオーバーしていたため、次の熊野大社をあきらめ、ルート変更して高速道路を利用して菅谷たたら山内を目指すことにした。タイムリミットは入館締め切りの16時。カーナビでルート探索すると到着予定時刻は16時を過ぎることになっている。ドライバーのOさんには安全運転を心がけながらも急いでもらう必要があった。高速を降りてからの山道、男3人を乗せたヴィッツはウィーンと唸りながらドライバーとともに頑張ってくれた。その甲斐あって閉館時刻の5分前に到着。
 しかし、受付に行っても誰もいない。何度叫んでも誰も出てこない。しかたなく、そのまま見学施設である「高殿」に入ることにした。おっちゃんが大きな声でお客さんに説明していた。1人でやっているからどうしようもないとのことで、料金を後回しにしてとにかく説明を聞くことした。たたら製鉄のことは以前から少し勉強していたので、実際の設備を見ながら説明を聞くとよくわかった。

高殿の外観。

ここ菅谷高殿は全国で唯一現存する建物で、嘉永3年(1850年)の火災後に修繕され、大正10年(1921年)まで操業していたという。

部屋の真ん中にある炉。

土炉の両側にふいごがある。昔は天秤ふいごを踏んで炉内に空気を送り込んでいた。もののけ姫の世界だ。現存のふいごは水車による送風に変わっている。

ふいごに空気をおくる水車。高殿に隣接しており、送風管が高殿の下を伝ってふいごにつながっている。


ふいごの裏側に地中からの送風管が繋がっているのがわかる。


炉の上部。

この屋根は開閉ができるようになっている。そして万が一のために水を湛えた大きな樽が屋根の上に備え付けられていたという。

村下座。村下(むらげ)の控えの間である。

村下とはたたら製鉄における技師長のことで、世襲で一子相伝、その技術が外に漏れることなく代々伝えられてきた。

 静かな山の中、ただ鉄を作り出すというだけの同じ目的を共有する人々によって営まれる村。高殿に炉が構築され、いざ火が入ると三日三晩、炎の状況や炉内の状況を見ながら同じ作業を繰り返す。そして出来上がる鉄の塊。それは鉧(けら)と呼ばれる。炉の構築から鉧を取り出すまでの手順はまるで神聖な儀式のようである。

高殿から車で3分ほどのところにある「鉄の歴史博物館」。


その入り口に置かれた鉧。

これを大銅場という作業場で割って玉鋼などの部位に選別した。

大銅場。高殿の横にある建物。

真ん中に見える先の尖った大きな分銅で鉧を割るという。

 この博物館で見た映像は迫力があった。炉の地下設備の構築から鉧出しまで一連の作業が映し出され、緊張しながら深く見入ってしまった。かんな流しによる砂鉄採集、ふいごの構造、炉から取り出した鉧を池に入れて冷やす様、玉鋼の取り出しなど、事前学習で今ひとつ解りにくかったことがすべて理解できた。やはり百聞は一見に如かず、だ。

 それにしても、この博物館のある街並みは雰囲気があった。お土産屋さん、飲食店、宿泊施設などを誘致して、たたら製鉄とセットにして上手に売り出せば集客力は十分にあると思うのだが。


 青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡、そして念願のたたら製鉄、たいへん満足度の高い1日であった。前日の鮮やかな虹のおかげかも。日暮れが迫っている。この日のお宿は玉造温泉。山道を走れば途中で熊野大社に寄ることができる。日が暮れて参拝できないかもしれないが、とにかく行ってみることにした。



●古代の製鉄技術を知りたい方にお勧めです。

古代日本の超技術 改訂新版 (ブルーバックス)
クリエーター情報なし
講談社

コメント

妻木晩田遺跡

2017年03月28日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 青谷上寺地遺跡をあとにして車は9号線バイパスに入る。途中、道の駅でランチを済ませたあと、山陰道の無料区間に入ってさらに快適なドライブが続く。大山連峰が見えてきた。このあたりは日本海からの風が強いのだろう、風力発電の風車が立ち並ぶ。




1時間近く走ってついに妻木晩田遺跡に到着。遺跡の概要はこちら。まずは資料館「弥生の館むきばんだ」で情報収集。

この資料館の展示はいただけない。遺跡の価値を台無しにするような安っぽい展示だった。青谷上寺地遺跡の資料館を見習ってもらいたい。

 そしていよいよ遺跡見学。広大な遺跡だが事前の学習でどこを見るかは決めていた。遺跡西側の洞ノ原地区の墳墓群と環壕集落、自分だけでなくSさん、Oさんにも是非とも見てもらいたいと思っていた。

遺跡全体のマップ。洞ノ原地区はマップの左下あたり。


復元された土屋根と草屋根の竪穴式住居。


内部は意外に広く、7~8人が暮らせそうだ。壁際の一段高いところがベッドスペースだ。


 洞ノ原地区は東側の丘陵上に四隅突出型墳丘墓11基を含む25基の墳墓が見つかった。弥生時代後期初頭から後期中葉にかけてのものである。妻木晩田王国前半期の王族の墓域と考えられる。

小さな四隅突出型墳丘墓群。貼り石でそれとわかる。


白く延びる遊歩道の先に環壕集落。その向こうには美保湾が広がる。美しい。


環壕集落内に復元された高床式の建物。建物越しに広がる美保湾。この光景を見たかった。


 遺跡全体が丘陵上に作られているのがよくわかる。この遺跡はいわゆる高地性集落である。先に見た青谷上寺地遺跡との関係で捉えるとこうなる。さらに四隅突出型墳丘墓の分布や変遷を合わせるとこのように考えられる。

 素晴らしい遺跡と景色を堪能して次の目的地へ向かおうと車に戻ったところで、遺跡の反対側(東側)に遺構展示館があることに気がついて、時間が厳しい中であったが少しだけ見に行くことにした。

竪穴式住居跡の発掘時の状況をそのまま保存している。



展示館のバルコニーからの眺め。遠くに日本海が見え、海岸に沿って風車が並ぶ。


 さあ、時間がない。30分の予定のところ、1時間を費やしてしまった。それだけ価値ある遺跡だったのでそれはそれでいいのだが、たたらに間に合うかが問題だ。予定では次は熊野大社であったが、いったんあきらめて菅谷たたら山内に向かうことにした。




コメント