古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

垂仁天皇(その4 埴輪の起源)

2017年06月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 當麻蹶速に勝利した野見宿禰は蹶速の土地を貰い受け、そのまま大和に住んでいた。垂仁28年に天皇の同母弟である倭彦命が亡くなったときに近習の者を殉葬したが、その状況に心を痛め、今後は殉葬をやめるように指示をした。そして垂仁32年、皇后の日葉酢媛が亡くなった。殉葬をやめることにしたが后の葬(もがり)をどうするかを臣下に問うたところ、野見宿禰が自分に考えさせてくれと申し出た。野見宿禰は出雲から百人の土部(はじべ)を呼び寄せて、埴土(粘土)で人や馬など、いろいろな物の形を造って、これからは生きた人間に替えてこれらを墓に立てることにしてはどうかと天皇に奏上した。埴輪の起源である。天皇はおおいに喜んで、これらの埴輪を日葉酢媛の墓に立てることにした。そして、今後は陵墓には人ではなく埴輪を立てるように言った。それで野見宿禰を土師職(はじのつかさ)に任じ、土部臣(はじのおみ)の姓を与えた。

 まず、古代に殉葬が本当に行われたのかどうかについては、魏志倭人伝に卑弥呼が死去した際に「百余人の奴婢を殉葬した」との記載があること、書紀における大化2年の薄葬令の記事においても「人が死んだ時に殉死したり、殉死させたりしてはいけない」とあることから、殉葬はあったと考えることができるだろう。
 しかし、過去の発掘において殉死あるいは殉葬が確認された例はないとされている。それは同じ墓に複数の埋葬跡が検出されたとしてもそれが殉死や殉葬であるかどうかわからないだけのことである。弥生時代の集団墓、あるいは墳丘墓に複数の埋葬主体があるような場合は殉葬の可能性は十分にありそうだ。古墳においても複数の埋葬主体がでたり、玄室に複数の棺が見つかる場合があるが、それが殉死あるいは殉葬か否か判別できないだけだ。陪塚に葬られている場合も同様だ。倭彦命の殉葬の記述は「悉生而埋立於陵域」となっており古墳の周囲に埋められたと考えられるので、その場合は古墳の周囲で人骨が出土すれば殉葬の可能性がかなり高いと言えるだろうが、残念ながら今までのところその例は見られない。

 倭彦命の墓、身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)は宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある桝山古墳(ますやまこふん)に比定されている。5世紀前半の古墳で墳丘に埴輪が確認されている。築造が5世紀前半というのは垂仁天皇の時代を1世紀以上くだると思われることと、墳丘に埴輪が出たことは殉葬の記事と矛盾することから、この墓の被葬者は倭彦命かどうか疑わしい。
 ちなみに私は第11代垂仁天皇の治世を3世紀後半と考えている。第10代の崇神天皇が卑弥呼の後の男王であるとして、古事記にある崇神の没年である戊寅を258年と考えると、垂仁は3世紀後半の天皇となる。
 日葉酢媛命の墓、狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は同様に宮内庁により奈良県奈良市山陵町にあるに全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山古墳に比定されており、この古墳の築造は4世紀末頃とされている。書紀によるとこの日葉酢媛の墓が初めて殉葬に代えて埴輪を並べたことになる。竪穴式石室の上から複数の衣笠形埴輪と盾形埴輪が出ているのであるが、この古墳の築造も垂仁の治世を大きく外れていると考えられる。

 いずれにしても、野見宿禰はこの時に土部職に任じられ、土部臣すなわち土師氏の祖になったとある。世界大百科事典第二版によると、土師氏は「埴輪の製作や陵墓の造営に従事し、また、大王の喪葬儀礼に関与した古代の豪族」とある。埴輪は材料となる埴土(はにつち)を用いて製作するので、ハニを使う人→ハニ師→土師氏、となったのはわかりやすいが、陵墓の造営や喪葬儀礼にまで関わっていたという。しかし、喪葬儀礼への関与は埴輪の製作や埋納作業の延長と考えると理解できるとしても、陵墓の造営とは少し驚きだ。埴輪製作で土を扱うから土師氏と呼ばれたのではなく、陵墓造営のために大量の土を取り扱うことが由来となっているのではないだろうか。古代における最大の構造物は古墳であり、土師氏はその最大構造物を建造する現代で言うゼネコンであったわけだ。とすると土師氏は古代屈指の技術者集団であり、土木者集団であったとも言える。造営地の選定、労働力の確保、土の採取と運搬、古墳の設計と造営などを担うわけだから、天皇家のみならず古墳を設けた各地の豪族とのつながりも強力であっただろう。
 土師氏は最初は古墳が造営されるところを転々としていたのだろうが、古墳が大規模化し、あるいは同じところにいくつもの古墳が造営されて古墳群が形成されるようになると、その土地に定住するようになった。そのため大和、河内、吉備などが土師氏の本貫地とされている。とくに河内には「土師の里」と呼ばれる地域があり、土師氏の氏寺である道明寺がある。土師氏一族はこの土師の里に居を構えて、応神天皇陵のある古市古墳群、仁徳天皇陵のある百舌古墳群の造営を担ったのだ。
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垂仁天皇(その3 當麻蹶速)

2017年06月22日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 當麻邑に住む當麻蹶速という力持ちがいた。垂仁7年、當麻蹶速が、自分に並ぶほどの強い者に出会って生死を気にせずに力比べをしたい、と言ったのを天皇が耳にした。天皇は臣下たちに當麻蹶速に勝てるほどの力持ちがいるかと問うたところ、出雲に野見宿禰という勇士がいると答えた者がいた。天皇は出雲から野見宿禰を呼び寄せて當麻蹶速と埆力(相撲)を取らせた。結果は野見宿禰の圧勝におわり、當麻蹶速は残念ながらこの一戦で命を落とすこととなった。これが日本の相撲の発祥と言われると同時に當麻蹶速は相撲の開祖と言われている。また、この一戦が初の天覧相撲であるとも言われる。
 當麻蹶速がいた當麻邑は現在の奈良県葛城市にあり、2004年までは北葛城郡當麻町として町の名に「當麻」が残っていた。その當麻邑のある葛城は神武王朝の拠点であった。片や、野見宿禰がいた出雲は邪馬台国である崇神王朝が制圧した国である。この「當麻蹶速vs野見宿禰」の勝負は「葛城vs出雲(邪馬台国)」であり「神武王朝vs崇神王朝」と言い換えることができるのではないか。そして葛城(神武王朝)が敗れた。これは当時の勢力状況を反映しているのかもしれない。

 葛城市には相撲館「けはや座」がある。相撲に関する資料が約12,000点もあり、本場所で使われるのと同じ土俵がつくられているらしい。すぐ近くには當麻蹶速の墓と伝えられる五輪塔がある。また、桜井市には相撲神社があり、先の勝負が行われた場所とされる。第12代景行天皇の纒向日代宮跡のすぐ近くである。
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垂仁天皇(その2 狭穂彦王の反乱)

2017年06月20日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 垂仁4年、后の狭穂姫の兄である狭穂彦王が謀反を企てた。書紀には記されていないが古事記によると狭穂彦・狭穂姫の兄妹は第9代開化天皇の子であり崇神天皇の異母兄弟である日子坐王(彦坐王)の子となっている。要するに開化天皇の孫ということだ。

 第9代開化天皇は神武王朝最後の天皇である。第10代崇神天皇はその子として記紀の系図上は皇統を継いでいるようになっているが、これまで何度も述べてきた通り、神武王朝と崇神王朝は別王朝として同じ時期に並立していたと考える私は、この開化と崇神の系図上のつながりは創作であると考える。そう考えたときにこの狭穂彦の謀反の意味がよく理解されるはずだ。前述の通り狭穂彦は開化天皇の孫であり、すなわち神武王朝側の人物である。以下に書紀をもとにした系図で確認してみる(赤線は古事記による)。
 


 狭穂彦は妹の狭穂姫が垂仁天皇の后になっていることを利用して敵対する崇神王朝に対して天皇殺害という大胆な挑戦を試みたのだ。明らかに神武王朝と崇神王朝の対立の構図を反映した話である。狭穂彦は狭穂姫に対して「夫と兄のどちらが大事か」と尋ねた上で「自分が皇位につけば共に天下を治めることができる」と言って天皇を殺害するようにそそのかして匕首(あいくち)を渡した。しかし、狭穂姫は事を成し遂げることができず、夫に対して企ての心を明かしてしまった。天皇は八綱田(やつなた)に狭穂彦の討伐を命じたが、狭穂彦は稲を積んだ城塞を築いて抵抗を続けた。狭穂姫は兄と運命を共にすることを決め、誉津別命を抱いて稲城に入った。天皇は后と子を助けようとする一方で軍勢を増やし、稲城に火をつけて執拗に攻撃を続ける。狭穂姫は子の誉津別命を差し出した後に自ら命を絶った。その直前に天皇に対して、自分の代わりに丹波道主命の娘である5人の女を後宮に入れるように要請し、天皇は受け入れた。そのうちの一人が第12代景行天皇を生んだ日葉酢媛(ひばすひめ)である。
 狭穂彦・狭穂姫による反乱は神武王朝が崇神王朝に対して起こした反撃の一戦であったが神武側が敗れる結果となった。

 さて、狭穂彦・狭穂姫という名前を聞いて思い出すのが、宮崎県の西都原古墳群にある「男狭穂塚」「女狭穂塚」である。日向の地は中国江南からやってきた天孫族である熊襲・隼人が開発した国であり、西都原古墳群は彼ら一族の墓域である。神武はその日向から大和に東征してきて王朝を開いたのだ。その末裔である狭穂彦・狭穂姫は敵対する崇神王朝に反攻を試みて失敗し、最期の運命を共にした。その二人が寄り添うように並んでいる「男狭穂塚」「女狭穂塚」に葬られている。そんな物語は成り立たないものだろうか。

 
 男狭穂塚は全長176メートルで日本最大の帆立貝型古墳である。瓊々杵尊の陵墓(可愛山陵)と考えられ、築造方法などから5世紀前半中頃の築造と推定されている。女狭穂塚は全長176メートルで九州最大の前方後円墳。男狭穂塚同様に5世紀前半中頃の築造とされ、木花開耶姫の陵墓と考えられている。2つの古墳の築造がともに5世紀前半中頃で同時期とされていることが興味深い。5世紀と言えば古墳時代中期であり、中国史書をもとに倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代と言われている。倭の五王を誰に比定するかについては諸説あるが、いずれにしても応神天皇以降である。そうであるなら瓊々杵尊や木花開耶姫の墓であるはずがない。とはいえ、狭穂彦・狭穂姫の墓とするのも無理があるだろうか。天皇の命によってこの反乱を鎮圧したのは八綱田であるが、天皇はその功を褒めて「倭日向武火向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の名を授けたという。ここに「日向」の文字が入っているのは偶然であろうか。

  
上が男狭穂塚、下が女狭穂塚(宮崎県立西都原考古博物館の公式サイトより)
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垂仁天皇(その1 誉津別命)

2017年06月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 第二部の前回更新から少し時間が経ってしまったが、今回より再開したい。崇神天皇の次は第11代垂仁天皇の事蹟を追ってみたい。垂仁天皇は崇神天皇の第三子で母親は御間城姫といって四道将軍の一人である大彦命の娘である。宮は邪馬台国である纒向の珠城宮である。

 后の狭穂姫との間に誉津別命(ほむつわけのみこと)を設けたが、この子は大人になっても口がきけなかったという。書紀では垂仁23年、誉津別命が30歳のときに大空を飛ぶ鵠(くぐい)をみて「あれは何物か」と初めて言葉を発したので、天皇はその鳥を捕えさせようとした。天湯河板挙(あめのゆかわたな)が出雲まで追いかけて捕まえて献上し、誉津別命はこの鳥と遊ぶようになって口がきけるようになった。
 古事記はさらに詳しく記されている。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛び回った末に捕えられ献上されたが、相変わらず子は口をきけなかった。天皇が占ったところ、子が物を言わないのは出雲大神の祟りによるものであることがわかったので曙立王(あけたつのみこ)と兎上王(うなかみのみこ)を付き添わせて出雲へ行かせた。出雲で大神を参拝し、帰りに出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が食事を差し上げようとしたときに初めて言葉を発した。
 少し内容が違っているが、いずれも出雲が関係している。国譲りのところで見た通り、邪馬台国は先代の崇神天皇のときに出雲を制圧し、出雲の支配者であった大国主神の霊をなだめるために出雲大社を建てるとともに、大国主神を三輪山に祀った。しかし、垂仁天皇の時代になっても大国主神の祟りを畏れていたのだろう。

 垂仁天皇紀には他にも出雲や丹波がたびたび登場する。大加羅国の王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は穴門(長門国)から出雲を経て越に着いたという話、新羅の王子である天日槍(あめのひぼこ)が持ってきた神宝は但馬国に収められているとう話、その天日槍は但馬国を居所と定めて出石の女を娶ったという話、狭穂彦の反乱によって后を失った垂仁天皇は丹波国の5人の女を後宮に入れたという話、出雲から野見宿禰を連れてきて當麻蹶速(たぎまのけはや)と相撲を取らせたという話、その野見宿禰は殉葬の習慣をやめて代わりに埴輪を並べるよう提案したところ採用され、出雲から土部(はじべ)百人を呼び寄せた話、物部十千根(とおちね)に出雲の神宝を検分させた話、石上神宮にある八尺瓊勾玉は丹波国の犬が食い殺した獣の腹にあったという話、などである。丹波は崇神王朝と並立する神武王朝側の国であり、四道将軍を派遣するなどして争った国である。垂仁紀が出雲と丹波に関連する話で溢れているのは、崇神王朝がこれらの国々との関係ができて往来が盛んになったからであろうか。あるいは、都怒我阿羅斯等や天日槍の話、野見宿禰の相撲の話などは両国の抵抗が続いていたことが反映されているのであろうか。話の内容から推察するに、出雲は支配下に収めた結果としてヒトやモノの交流が進んだことが反映され、逆に丹波・但馬は抵抗を続けていることが反映されているのだろうと思う。このあとに見ていくことにする。

 余談であるが、垂仁天皇は即位後の垂仁2年に狭穂姫を后として誉津別命が生まれたとなっている。しかし上記の口がきけるようになった話では、垂仁23年に誉津別命が30歳になったと書かれている。后として迎えた時点で誉津別命すでに9歳になっていたということになる。
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志段味古墳群

2017年06月10日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
2017年5月、愛知県名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群を訪ねた。現在は名古屋市教育委員会によって「歴史の里」として整備中であり、古墳の復元が進められている。以下は公式サイトからの転載です。

名古屋市内には、おおよそ200基の古墳が確認されていますが、市内で最も古墳が集中して残っているのが、名古屋市の北東端にある守山区上志段味です。上志段味は、岐阜県から愛知県へと流れる一級河川・庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。上志段味にある多くの古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ、国の史跡に指定されています。
志段味古墳群は尾張戸神社が鎮座する市内最高峰の東谷山の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘上に分布します。古墳群の範囲は東西1.7km・南北1kmです。
現在確認されている古墳の数は66基で、33基が現存しています。古墳の形(墳形)で分類すると前方後円墳が2基(現存は2基)、帆立貝式古墳が5基(現存は5基)、円墳が50基(現存は21基)、方墳が1基(現存は1基)、墳形不明のものが8基(現存は4基)です。大きさは長さが100mを超す前方後円墳から直径10m前後の円墳まで大小あります。
志段味古墳群では4世紀前半から7世紀にかけて、古墳が築かれない空白期間をはさみながらも長期にわたって古墳が造営されており、空白期間を境として、4世紀前半から中頃、5世紀中頃から6世紀前半、6世紀後半から7世紀の3つの時期に分けることができます。
志段味古墳群は、古墳時代の全時期を通して、規模・形の異なる様々な特色をもつ古墳が、狭い範囲の起伏の富んだ地形のうえに築かれており、「日本の古墳時代の縮図」と表現することができます。


公式サイトに掲載されたマップ。


今回はこの古墳群の西側を徒歩でめぐったので順に紹介します。

古墳群の西端から北側を眺めると河岸段丘上に築かれたことがよくわかる。



勝手塚古墳。6世紀初めの築造とされる全長55メートルの帆立貝式古墳。

墳丘上に「勝手社」という神社がある。この古墳に限らず、古墳の上に神社が建っている場合が結構あるが、普通に考えると古墳の被葬者、あるいは被葬者と関係する人物を祀るために建てられた、ということになるだろう。代表的なものが出雲の神原神社である。今回は時間の関係で行けなかった古墳群東側の東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社は尾張戸神社古墳の墳丘上にあり、祭神はいずれも尾張氏の系譜につながるとされる天火明命、天香語山命(別名を高倉下命)、建稲種命の三柱である。尾張戸神社古墳にはおそらく尾張氏の有力者が葬られているのだろう。



周濠および周堤がよくわかる。


大久手4号墳。形は不明となっている。

調査の結果、古墳時代の須恵器や埴輪が出たものの、盛り土の大部分が江戸時代以降に盛られたことが判明しており、江戸時代の塚の可能性もあるとされている。


大久手3号墳。5世紀後半の築造とされる一辺14メートルの方墳。




西大久手古墳。5世紀中頃の築造とされる全長37メートルの帆立貝式古墳。


墳丘は大きく削られていて現在の高さは50cmほどである。南側のくびれ部付近から巫女形埴輪・鶏形埴輪・須恵器が、前方部の前面からは馬形埴輪が出土した。巫女形埴輪は東日本で最も古い人物埴輪とされている。


東大久手古墳。5世紀末の築造。全長39メートルの帆立貝式古墳。


ここも削平が著しい。

大久手5号墳。5世紀後半の築造。全長38メートルの帆立貝式古墳。



戦後の大久手池の拡張工事により後円部の南側が削られて古墳の半分が失われた。(1枚目の写真の左側、3枚目の写真の右側)


志段味大塚古墳。5世紀後半の築造。全長51メートルの帆立貝式古墳。


発掘の結果、粘土槨と木棺直葬の2基の埋葬施設が見つかり、五鈴鏡・馬具・甲冑・帯金具・大刀・鉄鏃・革盾などが副葬品として出土した。墳丘からは円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪・水鳥形埴輪・須恵器・須恵器形土製品が見つかっている。歴史の里としての整備に伴い、葺石、埴輪列、埋葬施設などが復元されている。
しかし個人的にはこの復元方式は好きではない。神戸市垂水区にある五色塚古墳も同様の復元がなされているが、あまりにリアリティがなさすぎる。埴輪はこのように置いて並べられていたのだろうか。日本書紀では垂仁天皇の時に殉葬をやめて代わりに埴輪を立てたとあるが、殉葬の代わりであるなら置くのではなく埋めたのではないだろうか。立てて並べただけなら、風で倒れたり、割れたり、盗まれたり、ということが避けられないではないか。

墳丘頂上の埋葬施設。


造り出し部の埴輪列。



白鳥塚古墳。4世紀前半の築造。全長115メートルの前方後円墳。


後円部から前方部を臨む。

後円部頂上に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英がまかれ墳丘が飾られていたという。石英で白く輝いていた外観が白鳥塚の名称の由来となったと言われている。

くびれ部に復元された葺石。ところどころに石英がまかれている。

後円部頂上に復元された石英。



東谷山白鳥古墳。6世紀末~7世紀初めの築造。直径が17メートルの円墳。

古墳群の中で唯一、横穴式石室が完全な状態で残っていた。




今回は古墳群の西側半分の踏査であったが、それだけでもこの古墳群が尾張の有力者一族の墓域であることが確認できた。次は尾張戸神社古墳のある東側半分、東谷山一帯をぜひとも訪ねてみたい。
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見晴台遺跡

2017年06月08日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
4月下旬のゴールデンウィーク直前に名古屋出張の機会を得たので翌日に、名古屋市南区見晴町の笠寺公園内にある見晴台遺跡を訪ねた。

東西約120メートル、南北約200メートル、幅・深さとも約4メートルの環濠に囲まれた弥生時代後期の環濠集落遺跡である。旧石器時代の石器や縄文時代の土器片も出土しており、長期にわたって人々が暮らした様子が伺える。それもそのはずで、この遺跡は笠寺台地の上に立地しており、見晴台という名称がピッタリの場所で、水害や敵の襲来から守るには絶好の場所である。誰が考えてもここに居を構えたいと思うだろう。

現在までに200軒以上の竪穴住居跡が重なりあった形で検出されている。この遺跡を有名にしたのは、1940年に発掘された銅鐸を模した「銅鐸形土製品」と呼ばれる土器片である。1937年に名古屋市西区の西志賀貝塚に次ぐ日本で2例目の発見という。


台地上の遺跡の中に名古屋市見晴台考古資料館が建てられていて、遺跡を肌で感じながら学ぶことができる。





資料館に展示されている「銅鐸形土製品」。レプリカです。



資料館の裏に「住居跡観察舎」というのが建てられて、発掘時の状況の一部がそのまま保存されている。



竪穴住居も復元されている。最初の復元がまずかったのか数年前に倒壊したらしい。何というお粗末さ。今は再び復元されている。



周囲よりも標高が高くて見晴らしが効くことから、太平洋戦争時に高射砲6基が設置された。名古屋市内を空襲する為に伊勢湾方面から飛んできたB-29を撃墜する為のものだ。その内、2基分の土台が今も残されている。高射砲ごときで打ち落とせるのかと思うのだが、実際に打ち落としたB-29の垂直尾翼と見られる金属塊が見つかり、資料館に展示されていた。




この遺跡のすばらしいところは、毎年夏に公募による市民発掘が行われていることだ。身近なところに遺跡があって、子供でも自分で掘ることができるなんて、羨ましい限りだ。掘ってみたい。


その日の夜は贅沢して櫃まぶし。
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稲佐の浜(エピローグ)

2017年04月06日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 車を神門通りの駐車場に移動させ、神門通りでお土産を買うことにした。夕方に近い時間になっていたので人通りはそれほどでもなく、お土産もゆっくり選んで買うことができた。と言っても買ったのは出雲そばくらいだけど。

神門通りから二の鳥居。

こうして見ると、一の鳥居から二の鳥居に向かう参道は登り坂になっているのがわかる。そして二の鳥居からは「下り参道」になっていた。ということは二の鳥居がこのあたりで一番高いところということになる。これは何か意味があるのだろうか。

 このあたりは勢溜(せいだまり)といって、江戸時代に林を切り開いて広場が作られ、芝居小屋が設けられたという。人の勢いが溜まるところということで勢溜と呼ばれる。やはり出雲大社の賑わいは江戸時代からなんだ。
 ここが一番高いところで本殿がそれより低いところにあるのは、たまたまであろう。まず本殿をどこに設けるかを先に決める。それは自ずと背後の山(八雲山)に最も近いところになる。参道はその本殿に向かって敷かれることになる。そして出雲大社の場合はもともとは西の浜(稲佐の浜)から本殿に向かって参道が敷かれていた。それが後にこの勢溜ができたことによって参詣者はまずここに立ち寄ってから本殿に向かうことなり、この参道がメインストリートとなった。だから結果的に高いところから低いところに向かう下り参道になった。あくまで私の推測であるが。

 お土産を買って車に戻り、稲佐の浜に移動。国譲り神話の舞台であり、古事記には「伊那佐の小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記される。現在では神が降り立つ神聖な浜として信仰され、11月には「神迎え神事」などの神事が行われるという。

もう少しで夕陽になりそうなんだけど。


 ここは神が降り立つ浜。この海の向こうは朝鮮半島。その昔、大国主神の祖先である素戔嗚尊は朝鮮半島から日本海を渡ってこの地にやってきた。素戔嗚尊をリーダーとする集団はまず妻木晩田を拠点にして東は伯耆(青谷上寺地)から因幡(白兎神社あたり)を従え、越にまで勢力を拡大、西はこの出雲を制圧し、この集団の代々のリーダーはこの出雲で王位を継いでいった。その彼らの墓制が四隅突出型墳丘墓であり、その墓域が西谷墳墓群である。彼らに支配されることになった先住集団は荒神谷に銅剣を埋納し、加茂岩倉に銅鐸を埋納したのだ。祭器である銅剣や銅鐸を破壊される前に自らの手でその霊力を封じ込めるために「×」を刻印し、そして整然と並べて土中に埋めた。しかし、先住集団を次々に制圧して出雲を中心に日本海沿岸域を支配した素戔嗚尊を祖とする集団もやがては別の集団に支配権を譲ることになる。それが国譲りであり、その結果として出雲大社が建てられた。出雲大社の祭神大国主神が西を向いているのは祖先の故郷の地である朝鮮半島に想いを馳せるためなのだ。

最後にお気に入りのショットで締め括り。


 Sさん、Oさん、お疲れ様でした。次は北九州へ。
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古代出雲歴史博物館

2017年04月05日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 Sさんのトイレ帰りを待つこと10分、いよいよ入館。こういうところはたいがいJAFの優待割引が効くので確認すると案の定10%引いてくれた。博物館のロビーが全面ガラス張りで陽の光が降り注ぎ、たいへん心地よい気分で拝観をスタートした。実はここでもSさんの念の効果が発揮されるのだった。

大社境内を横から抜けて博物館へ向かう。


まずは出雲大社境内遺跡で出土したスギの大木。


発掘時の状況。(歴博のサイトから拝借しました)


 以下、歴博のサイトより引用です。

平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これは、そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものです。境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめて出土しました。
直径が最大で約6mもある柱穴には、人の頭の大きさかそれ以上の大きな石がぎっしりと積み込まれ、世界に例のない掘立柱の地下構造も明らかになりました。柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる、いにしえの巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものと類似していました。
その後、柱材の科学分析調査や、考古資料・絵画、文献記録などの調査などから、この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなりました。


古事記・日本書紀・出雲国風土記の三点セット。


 このあと、出雲大社にまつわるビデオをみて大社本殿の復元模型を見ているとき、Sさんが女性の職員から何やら注意を受けている。どうやら館内飲食禁止であるにも関わらずのど飴を舐めていることを咎められたらしい。飴くらい問題ないだろうとSさんはおばちゃん職員に少々不快な気分にさせられたようだ。

荒神谷遺跡の銅剣358本。

圧倒的な迫力を感じる。剣の持つ威力か。

加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸。

こちらは「美」を感じる。

 銅剣を1本1本つぶさに見て「×」の刻印を確認。よく観察しないとわからないくらい小さな刻印だった。この刻印は358本のうち344本の茎(なかご)に刻まれており、同じ印が加茂岩倉の銅鐸にも見られる。このことから両遺跡の関連性、すなわちこれらの青銅器を埋納した集団の関連性が推測される。

 この銅鐸を見ているときに突然女性がすり寄ってきて私に話しかけてきた。「この横になっている銅鐸、修理された痕があるんです」と。「いきなり何やねん、失礼やな」と思ったものの、横になった銅鐸の修理痕を探す自分がいた。よーく見るとたしかにあった。手前の上の面のあたりに色が少し薄くなっている部分がある。その女性はさらに続ける。「普通なら紋様の線は少し盛り上がったようになるのに、その部分だけは何かで刻んだようにへこんだ線になっているでしょ」「たしかに」「鋳型に流し込むときにこの部分だけ銅がまわらずに穴が開いたようになってしまったので、あとで修復して線を刻んだのです」「はあー、なるほど!」
 この女性、ただ者ではないな。そのあとも我々の横について鏡や剣の説明もしてくれた。ここの職員だったのだ。しかし、よく見るとあなた、さっきSさんに飴を注意していた人ではないか。もしや、出雲大社のコーナーからずっと後をつけてきたのか? Sさんの念のすさまじさを感じずにはおれなかった。

銅剣と銅鐸、両方まとめて。
 

これが神原神社古墳から出た三角縁神獣鏡。

たしかに「景初三年」の文字が見える。

 これだけ本物を並べられるとぐうの音も出ない。しかも出土した出雲の地で見れることに意味を感じた。2日間で見て回った遺跡や神社とあわせて出雲には大きな勢力が実在したんだと実感できたからだ。東京上野にある東京国立博物館でも国宝の数々の実物を見ることができるが、なんだかアートを鑑賞しているような感覚になってしまうのが残念だ。もちろん、各地の貴重な遺物をまとめて見れることのメリットはあるのだが。

 さて、これで3日間にわたる丹後王国、出雲王国を巡る実地踏査ツアーは終了だ。このあとは神門通りでお土産を買って、最後に稲佐の浜で夕陽を拝んで帰ろう。
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出雲大社

2017年04月04日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 いよいよツアー最後の訪問地である出雲大社へ。西谷墳墓群から30分ほどの予定であったが、快晴の日曜日ということもあってか出雲大社へ向かう道路が渋滞。結局、1時間近くかかっただろうか、時刻はすでに2時近くなっていたように思う。駐車場に車を停めてまず向かったのが近くの蕎麦屋。

「やしろや」というお店。昼時を過ぎていたので店内はすいていた。


天かす、とろろいも、大根おろし入りの三色割子そば。1100円也。

Sさん、Oさんは普通の割子そば一皿(250円)を追加注文。蕎麦っておいしいのだけど、なんでこんなに高いのだろうか。そう思うと追加する気になれなかった。

 さて、出雲大社は島根県出雲市大社町杵築東にある出雲国一之宮。祭神は言わずと知れた大国主大神。縁結びの神様として名高いからか、若いカップルが多く、また男だけのグループもいて普通の観光地と何ら変わりない雰囲気であった。ブラタモリでやっていたけど、出雲大社にこれだけ人が集まるようになったのは江戸時代からだとか。出雲信仰を布教させる御師と呼ばれる人たちが全国に出向いて参詣者を募り、道中や宿泊の手配をしたという。蕎麦預(そばあずかり)という蕎麦屋のクーポン券まで配られ、出雲大社は江戸時代からまさに観光地だったのだ。

鳥居(二の鳥居)もさることながら立派過ぎる石標に圧倒される。


振り返ると長くまっすぐに延びる参道が。その先にはでっかくそびえる一の鳥居。この参道を「神門通り」と呼ぶことをあとで知った。


二の鳥居をこえていよいよ境内へ。ずっと下り坂になっていて「下り参道」は全国でも珍しいらしい。


 これもブラタモリで見たのだけど、元々の参道は神社の西側にあったという。そういえば出雲の神様は本殿の中で西を向いていると聞く。神様を正面に拝むために参道は西から本殿に向かっていた、というのは理に適っている。西には稲佐の浜、その先には朝鮮半島。出雲の神様はどうして西を向いているのだろうか。

この鳥居は四の鳥居。いよいよだ。初めての私はワクワク感満載。


拝殿で参拝。もちろん二礼四拍手。お賽銭は奮発して100円。


そのあと拝殿の裏へ回ると何と本殿でも拝めるではないか。なんじゃそれ。

どうしてこのようになっているのかわからないけど、普通は神社でお参りするときは拝殿の前でお賽銭を入れて鈴を鳴らしてパンパン、で終わりでしょ。本殿で直接拝めるのであれば拝殿は意味ないんじゃない?ってつまらぬ感想を抱いたのは私くらいかな。

 出雲大社でぜひ見ておきたいものの1つがここに写っている。地面の赤い丸。拝殿から本殿にかけての区域は出雲大社境内遺跡と呼ばれ、平成12年から13年にかけての発掘でスギの大木3本を1組にした直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。この赤い丸はそれが出た場所を示していて、その丸の大きさや位置を見ておきたかった。発掘された柱の実物はこのあと隣の博物館で見ることになる。
 たしかに太い。現在の本殿の高さは24mであるが、その昔は倍の48mもあったという。この太さの柱なら48mの本殿を支えることは可能かもしれないが、本当にそんなものを作ったのだろうか。「雲太、和二、京三」、二番目の東大寺大仏殿が15丈(46.6m)なので、一番の出雲大社はそれより大きいことになるから48mあったのかもしれない。でも、下の復元模型のイメージが強烈で、こんな不安定なすぐに倒れそうなものをわざわざ建てたとは思えないのだ。それこそ大仏殿のようながっしりした建物ならありと思えるのだが。



 本殿の参拝を済ませたあと、ここでもう一つ見ておきたいところがあり、本殿の左手から裏手へと歩を進めた。

本殿西側の参拝所。ひっそりとたたずむ。

出雲の神様はこちらが正面なので、本来はここで拝むのが一番。でもそのことを知っている人はあまりいないようだ。ここで立ち止まって手を合わせる人はほとんどいなかった。

裏手へ回って本殿を見るとその大きさがよくわかる。


 それにしてもこれだけ由緒ある神社で本殿がこんなに衆人環視の状況に置かれている神社は珍しいと思う。多くの神社は拝殿の後ろに本殿があって、その裏手には山や森が迫ってきて、その神域には容易に足を踏み入れることはできないようになっている。


私が見たかった2つ目、それは本殿裏にある摂社「素鵞社(そがのやしろ)」。


 素鵞社の祭神は素戔嗚尊である。日本書紀では大国主神はその子であり、古事記においては6世孫となっている。素戔嗚尊は自らの子孫である大国主神を見守るように出雲大社の背後に祀られているのだ。ここは肩こりに効くらしく、社の裏にある岩に肩を寄せて拝んできた。

素鵞社の裏にある大きな岩。これも磐座か。


 この素鵞社については当ブログ第一部「蘇我氏の出自」でも触れておいたので、是非そちらもご覧いただきたい。

 出雲大社の最後は十九社。10月神無月は全国の神様がこの出雲に集まってくる。出雲大社本殿の東西それぞれに十九社があり、これは全国からやってきた神様が滞在する社で、いわばホテルのようなもの。祭神は八百萬神となっているが、19+19=38社で数が全然足りないぞ。

これは西十九社。


 以上で出雲大社は終了。次は隣の古代出雲歴史博物館。いよいよ銅剣、銅鐸、三角縁神獣鏡の本物が観れるんだ。
 ここでSさんがトイレへ行くという。博物館はすぐそこなので、そこで行けばいいのにと思ったけど、よほど我慢ができなかったのか近くのトイレを探すという。仕方なく歩くスピードを緩めて先に行くことにした。博物館の前で待つこと数分、いや10分は待ったか。この間に私はゆっくりトイレを済ませた。

 さあ、いよいよ次の歴博でツアーのフィナーレを飾ろう。
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西谷墳墓群

2017年04月03日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 Oさん待望の西谷墳墓群へ到着。私も初めてなので少しワクワクしてきた。西谷墳墓群は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されており、このうち、1・2・3・4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。とくに3号墓は当時の葬送儀礼を知るうえで貴重な遺構、遺物が見つかった。

 ここはまず隣接する「出雲弥生の森博物館」で情報収集することに。この博物館の開館は平成22年(2010年)、したがって清潔感あふれる綺麗な建物で、しかも料金が無料というのがありがたい。2Fには西谷墳墓群ガイダンス施設がある。トイレのために出遅れた私が2Fへ上がると二人はすでに職員の女性から展示の説明を受けていた。この日はこれで3ヶ所目のガイド付き見学となった。私が追いついたタイミングでこの女性職員が発した言葉に驚いた。入館したのが12時少し前だったのだが「私の説明は12時までになります。12時からは別の者が対応します」とのこと。ここの職員はおそらく公務員なのだろう。「12時になったら昼休みに入るので私は休憩します」と宣言されたのだ。これはいただけないな。
 とはいえ、この女性職員、知識が豊富で説明も上手い。12時を回ったけどまだ説明してるぞ。このまま最後までこの人の説明を聞いていたい、と思ったがやはり甘かった。途中で交代の女性がやってきた。あ~残念。

マークがかわいい。赤い「よすみ」の真ん中に青い勾玉。


展示室内部。真ん中に西谷3号墓の模型が置かれ、入り口を入って左側から壁に沿って展示される出土物や説明パネルを見る。


3号墓からは男王と女王の棺が出た。これは男王の棺。



こちらが女王。


北陸や吉備の土器も出土。各地から弔問に訪れたと考えられる。


展示をじっくり見た後、いよいよ王墓へ。ついにきたぞ、西谷へ!


史跡公園の全体図。


4号墓。長く延びた突出部が確認できる。



3号墓。貼り石も綺麗に復元されている。



墳丘上には男王、女王の棺が出た場所を再現。男王の棺の周囲には4本の柱が立ち、屋根を設けて葬送の儀式を行ったと考えられている。 


3号墓の墳丘上から見た2号墓。

向こうに出雲商業高校のグランドが見える。野球部が練習していた。ときどきここまで打球が飛んでくるらしく、注意を促す看板が立っていた。

2号墓の復元は少しやり過ぎで興ざめ。

墳丘内にコンクリートの空間を設けて壁に棺の位置や地層の絵が描かれていた。何を伝えたいのか理解し難いものがあった。

 今回のツアーでいくつもの遺跡とそれに付随する展示施設(資料館や博物館)を見てきたが、遺跡をどのように保存して、それをどのように見せるか(伝えるか)をもっと考えてほしいと感じた。今回の私たちのように考古学や古代史に少しは興味を持って何かを知りたい、何かを学びたい、何かを感じたいと思って訪れる人に対して何をどのように見せるか、が最も重要であって、まったく興味のない人や逆にプロフェッショナルに対しての配慮は不要であると思う。そしてポイントは「リアリティ」である。現物を見るのが一番。現物から何を感じるかだ。現物が無理なら写真や映像がいい。レプリカはナンセンスだ。朽ちたり錆びたりした実物と元の姿を復元したレプリカを並べて置くなら意味あるかもしれないが。それと人形や剥製や安っぽい模型もNG。遺跡の復元においてもコンクリートは論外。古代から現代までの時間の経過を感じることも重要なのだ。遺跡の復元はどこまで行っても想像の世界が残る。だとしたら見る側にもその余地を残しておいてほしい。学者が出した答えをいかにも正解であるかのように見せるのはやめてほしい。

 さあ、次はいよいよツアー最後の目的地である出雲大社だ。実は私は出雲大社に行ったことがなく、密かに楽しみにしていた。加えて、古代出雲歴史博物館に展示されている荒神谷の358本の銅剣、加茂岩倉の39個の銅鐸、神原神社古墳の景初三年銘の三角縁神獣鏡、これらはすべて実物であり、それを見ることは私にとってはツアー最大のクライマックスであるのだ。いざ、出雲大社へ!

 
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