古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆妻木晩田遺跡

2016年10月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 出雲にある荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に続いて、鳥取県(伯耆および因幡)にある2つの遺跡を見てみる。まずは伯耆の妻木晩田(むきばんだ)遺跡について鳥取県教育委員会のサイトなどを参考に確認したい。

 妻木晩田遺跡は中国地方最高峰である大山のふもと、鳥取県西伯郡大山町から米子市淀江町にかけて広がる約170haにもおよぶ国内最大級の弥生集落遺跡で、京阪グループ主導によるゴルフ場建設を初めとする大規模リゾート開発計画に伴う発掘調査が行われた際に発見された。島根半島東側にある美保湾を一望できる標高90m~150mの尾根上に設けられた高地性集落で、竪穴式住居跡が420棟以上、掘立柱建物跡が500棟以上と他に例を見ない数の建物跡が検出された。さらに四隅突出型墳丘墓13基を含む34基の墳墓が確認されている。
 集落は弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)から形成され始め、居住域が次第に広がり、後期後葉(2世紀後半)に最盛期を迎え、古墳時代前期初頭(3世紀前半)までの約300年間続いた。集落は概ね東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成になっている。居住区の発展状況をみると、弥生後期初頭には洞ノ原地区の西側丘陵に環壕が設けられるとともに、遺跡の最盛期である弥生後期後葉には鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められる。更に最高所に位置する松尾頭地区では祭殿と推定される両側に庇のついた大型建物跡が確認されるとともに、同地区の大型竪穴住居跡からは中国製銅鏡の破片が検出されたことから首長の住居ではないかと考えられている。しかし、古墳時代初頭に入ると住居跡がほとんど見られず、遺跡が終焉を迎えることとなる。
 一方で、墓域の変遷状況をみると、1世紀後半に洞ノ原地区に四隅突出方墳丘墓11基を含む25基の墳墓が築かれ、2世紀に入ると仙谷地区に墓域が移り、さらに3世紀前半には松尾頭地区に移っている。そして仙谷地区に唯一の石棺を持った遺跡最大規模の墳丘墓が築かれた後、集落は突如として終焉を迎えることになった。この石棺からは人骨の一部が見つかっている。
また、この遺跡では400点を越える小型工具などの鉄器が出土しているが、集落全体に偏りなく鉄製品が行き渡っていたと考えられている。
 
 
 (筆者撮影)
 

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