犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

曽野綾子著 『残照に立つ』

2010-01-30 00:08:05 | 読書感想文
p.296~ 外尾登志美氏の解説

 曽野文学には、「人間は卑小であり、人生は惨憺たるものである。それを知って絶望するところから出発して初めて人間にしか出来ない生き方をもまたなし得る」という思想があるが、文子(主人公)は、<私はこの世に夢などというものは無いのだということだけわかって、一日一日を積み重ねて生きて来たのです>などと言っており、世の中は無残なものであることを、そしてそういう状態の中で人間は生きていくしかないことを、身をもって知っている人間である。

 そして、皆やはり世間が怖く、他人の評判も気になり、内心はそうなのを隠してるんじゃなくて、本心から常識的で無難なことを望んでるということ、皆嘘でもいいから楽な方がよいのだということ、普通は裏ばっかりで表がないのだということ、つまらない生き方をした人ばかりなのだということを、恵まれた境遇に生きてきた幹子に教えている。人間を、人の世を、知り尽くしているような文子から見ると、幹子は、しかし<何より初心と曇りのない眼を持った人>なのである。

 人間は、人間として、生命を賭けて、向かうべきものに向かいたい。そして道の半ばに思いを残して死を迎えねばならなくなっても、闘い尽くし燃焼したという実感を持ててこそ、人生を濃厚に味わったことになるだろう。結果はどうでもいい。「人間がどれほどのことをしても、いつかはその存在は時の流れに自然に埋没し、後をもとどめず、ただけんらんたる山野だけが残る」のである。「後は野となれ、山となれ」は作者の好きな言葉であった。

 曽野文学を観念的だという人がいるが、この作品の中で、文子が「世の中のことは総て主観がものを言うのではありませんでしょうか」といっているように、私たちは主観で見、考え、生きているに他ならない。曽野文学において観念は極めて日常的レベルにおいてつきつめられ、その日常の分析も永遠なものにつき抜けている。この作品もまた、私たちの生の姿の本質を死というパラドックスによって映し出し、そこから永遠に向かって歩むべき方向をも暗示している。


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 ここのところ、「いつまでも悲しんでいては亡くなった人が浮かばれない」という言葉に妙に引っかかります。この言葉が立ち直りの契機となり、新たな人生の出発に向かう人もいるでしょうが、そのことと亡くなった人が浮かばれることとの連関はないと思います。
 それよりも、この言葉に直感的な違和感を覚え、内心を土足で踏みつけられたように感じられる人の言葉にならない言葉が、「浮かばれる」という言葉の意味に正面から切り込んでいるとの印象を受けます。人が極限の苦悩に直面したとき、そこで求めるものは富や名声(世間的には最も重視されている価値)ではなく、真実の言葉であるとすれば、真実とは感じられない言葉をできるだけ多く切り捨てることにより、残った言葉において真実が浮かび上がるのだと思います。
 また、ある言葉が腑に落ちるか落ちないか、心地よく感じるか感じないかは瞬間的な反応であり、理屈をつけて後から他人を説得すること自体が、人間存在のあり方において転倒しているのだとも感じます。これは、人が価値相対主義と価値絶対主義のパラドックスを抽象的に論じられる余裕があるのは、その人が極限の苦悩に直面していない場合であるという実態において象徴的だと思います。

 「死者が浮かばれる・浮かばれない」という表現は、それが生成された過程においては、非常に深い含蓄が込められていたものと想像します。「浮かぶ」という単語が、「慰められる」「報われる」という意味で使用される際には、必ず可能の助動詞を伴っており、「死者が浮かぶ・浮かばない」という表現は存在しないからです。
 ここには、死者を主語としていながら、実際に死者を浮かばせるのも浮かばせないのも生きている側の選択であり、しかもそのことを明言せずに個々人の理解に任せているような感覚があります。この点は、上の解説で外尾登志美氏が述べているように、生の姿の本質が死というパラドックスによって映し出される過程を経なければ、理解が困難なのだと思います。このパラドックスを経なければ、死者が最も浮かばれるためには、誰もその死を悲しむ人がいない孤独死が望ましいという結論が否定できなくなるからです。
 「浮かばれる」という表現とともに死者が主語である限り、悲しみとは残された人の悲しみではなく、死者の生きられなかった未来を意味するしかないのだとも感じます。そうだとすれば、やはり残された人が立ち直るか否かの問題と、死者が浮かばれるか否かの問題には関連がないと思います。

エリザベス・キューブラー・ロス著 『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』

2010-01-27 00:40:27 | 読書感想文
p.146~

 治療と入院が長引けば、経済的な重荷が加わる。近年では治療と入院に莫大な費用がかかるため、唯一の財産さえ手放すことを余儀なくされた患者も数多い。欠勤が多くなったり仕事ができなくなったりして職を失うこともある。これらがすべて抑鬱状態を招く原因となることは、患者を扱う人ならだれでもよく知っている。だが、忘れがちなのは、死期の近い患者には、この世との永遠の別れのために心の準備をしなければならないという深い苦悩があるということである。もしこれらの2つの種類の抑鬱状態を分類するなら、1番目を反応的な抑鬱、2番目を準備的な抑鬱と呼ぶことができよう。

 私たちは悲しんでいる人に対して、まずたいていは、物事をそう厳しい目で見ないほうがいいですよとか、そう悲観的な見方をしないほうがいいですよとか言って元気づけようとする。人生の明るい面を見てごらん、あなたのまわりの肯定的なものに目を向けてごらんと言う。こういった励ましの言葉の裏を返せば、私たちはあなたにそうしてほしいと思っている、ずっとあなたの浮かない顔を見るに忍びないよ、と訴えているのだ。終末期の患者が1番目のタイプの抑鬱状態の場合にはこのやり方が功を奏することもある。

 その抑鬱が、もうすぐ愛する者たちと別れなくてはならないことへの準備段階であって、その事実を受容するためのものだったならば、励ましたり元気づけたりしてもさほど意味がない。この場合、物事の良い面を見るようにと患者を励ましてはいけない。自分がもうすぐ死ぬことについて考えるなと言っているようなものだからである。悲しむことを許されれば、目の前に迫った自分の死をもっと楽に受け入れることができるだろうし、抑鬱段階にいるあいだ、「悲しむな」などと言わずにそばにいてくれた人にも感謝するだろう。準備的抑鬱では、まったくあるいはほとんど言葉を必要としない。むしろ、感覚でお互いを理解し合える。黙っていっしょにいるだけで十分なこともある。


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 言葉がこの世界を形成しており、言葉はそれ自体が価値であると知る者は、「人は話し合えば必ずわかり合える」とは言わないでしょうし、「黙っていては伝わらない」などとは口が裂けても言えないはずです。
 言葉が他人に伝わる過程において嘘をつき、その意味を変えてしまうことが避けられない限り、人間における最も正確な意味の伝達の方法は、以心伝心であると思います。それは、相手の言葉を聞かないことではなく、表情や言葉の調子も含めてよく聞き、じっくりと反芻することであり、言語によって可能となった究極的な状態であると思われます。

 この世には生きている人しか生きておらず、死んだ人は生きていないのであれば、そもそも生きている人間が言葉によって死を語ることは不可能であるはずです。それを何とか語ろうとするのであれば、言葉の語感を感じる方法によって、文章全体の動きを直感的に感じるしかないと思います。
 「感覚でお互いを理解し合える」「黙っていっしょにいるだけで十分なこともある」という意思疎通が可能となるためには、言語はコミュニケーションの道具であるという捉え方は有害だと感じます。また、励ましの方法の技術論の確立などは不可能であり、「言葉を必要としない」という真実が逆説であることを知るだけで十分だと思います。

足利事件の被害者・被害者遺族

2010-01-24 23:54:26 | 国家・政治・刑罰
 足利事件の被害者遺族が今現在どのような状況に置かれているのか、全く報道がないので、私にはわかりません。ですので、一般論としての想像をするしかありませんが、それが4歳で我が子を殺された者の両親の心情である限り、すぐに想像を絶することに気がつきます。
 世間的に理解される表面的な喪失感ではなく、我が子の死によってすべての価値観が足元から崩壊し、周囲の色や音が意味を持たなくなり、生ける屍として死にながら生かされている者にとっては、「心のケア」などの誤魔化しは全く通用しないはずです。そして、犯人が罪と向き合って反省し、自分を責め続け、しかるべき刑を受けることが最低条件であり、しかもそれですら償いにはならず、遺族の苦悩は一生続くのだとしか言えません。犯人が死刑になっても、単に1つの区切りであるというに過ぎず、明るい人生を前向きに再開するなど不可能です。
 ここまででも想像を絶することですが、20年間も犯人だと思っていた人が真犯人ではなかったというに至っては、いったい何百回、何千回と胸が張り裂けているのか、想像を絶する以前に想像すべき対象すら不明確であり、思考が停止してしまうのを感じます。

 刑事政策学においても、犯罪学においても、「冤罪事件の被害者遺族」については、ほとんど向き合ってこなかったようです。これは、あまりに複雑な要素が1つの場所に集中しすぎて、向き合いようがないのだと思われます。
 犯罪被害者の苦悩と言えば、大雑把には「怒りと悲しみ」と言われ、犯人に対する怒りと、愛する者の死に対する絶望や喪失感の2つに分けられてきました。これに対して、その事件が冤罪であったとなれば、ざっと思い付くだけでも、真犯人への怒り、真犯人が判明しない絶望、真犯人を捕らえられなかった捜査官への怒り、懸命の捜査を尽くした捜査官に怒りを持ってしまう自責の念、その自責の念を持たなければならないことへの不当感、冤罪の絶望に苦しんだ被告人への同情や自責の念、その同情や自責の念を持たなければならない理不尽、その理不尽を理解してもらえない苦痛、なお被告人が真犯人ではないかとの希望、その希望が世論からのバッシングを生む恐怖、冤罪を生んだ責任の一端を負わされることの恐怖、その恐怖を感じなければならないことへの不当感、複雑な人生に巻き込まれた自分自身への不信などが複雑に絡み合い、これらの重層的な苦悩の最上位には、愛する者の死に対する絶望と喪失感が包括的に存在するのだと思います。

 足利事件が起きたのは平成2年5月であり、その後の20年間の被害者遺族の心情については、報道がないので、実際のところはわかりません。もし、20年間をかけて徐々に怒りと悲しみから立ち直っていたとすれば、今回の結果は地獄だと思います。
 他方、愛する我が子の死から立ち直ることなどできず、20年間をかけてますます悲しみを深くしていたのであれば、これはさらに地獄だと思います。このような状況は、いわゆる「悲嘆のプロセスの12段階理論」(麻痺→否認→パニック→怒り→敵意→罪責感→空想→孤独→無関心→受容→新しい希望→立ち直り)においても、さすがに想定されておらず、完全に説明に窮すると思います。時の経過に重きを置いている以上、その時の経過が全く無意味であったとなれば、12段階をまた1からやり直すことすら絶望であり、段階そのものが滅茶苦茶に崩壊して、手の打ちようがない精神状態に追い込まれるからです。
 また、修復的司法の理論においても、冤罪事件の被害者遺族は最初から視界に入っていないようです。「被害者遺族は犯人を恨むことが生きがいとなっており、怨恨の呪縛から解放されなければ救われない」と言われたところで、その生きがい自体が喪失してしまっては、解放も救いも何もないからです。

 これも一般論としての想像ですが、「なぜ冤罪が起きたのか」「この教訓を無にしてはならない」「被告人の名誉と人権の回復を急げ」「捜査や裁判の過程を徹底検証せよ」といったテーマによる一律の報道は、失われた命を思って苦しむ遺族にとっては、凶器の言葉で全身を刺されているように感じられ、耳を塞がざるを得ないと思います。これは、悲惨な冤罪の防止というテーマ自体はどこから見ても正しく、それゆえに凶器と感じられるのは誤解であるという意味で、共感を得ることが難しく、口に出せないので耳を塞ぐしかないという意味です。
 足利事件についても、殺人事件そのものは風化したままであり、時効の完成によって真相解明の希望もなく、「なぜ自白に偏ったのか」「二度と冤罪を生まない体制を作れ」という議論の場には、殺された4歳の女の子の命の重さはありません。また、無辜の者を犯罪者に仕立て上げた捜査官への怒りというストーリーにおいては、被害者の4歳の女の子は匿名化された記号であり、背景の一部を構成するのみです。さらに、「DNAの功罪を見極めよ」という枠組みにおいては、殺された女の子は、完全な証拠物です。
 「被告人のDNA型と女児の下着に付着した体液の型は一致しない」という論点の前には、「その最後に着ていた下着には、たった4年の短い人生であっても生きていた証が残されている」という繊細な感情は押し潰され、出る幕はありません。

 無実の罪で絶望の闇に叩きつけられ、獄中から叫びを上げても聞いてくれない、このような体験を経た者の「私の人生を返してくれ」「間違ったでは済まされない」という訴えは、世論においては深い共感が可能であり、非常に説得力があります。何回繰り返しても、正義の力によって、その威力が落ちることはありません。それは、「二度と冤罪を生まない体制を作るべきである」とのゴールに有機的に結びつく点において、主義主張が直線的であり、捜査官に対する怒りを共有した者における連帯が容易であるという点に起因するのだと思います。
 これに対し、「娘の人生を返してくれ」「元に戻らない限り解決はない」という訴えは、表面的な共感はあっても、深い理解は非常に困難です。それは、遺された者が同じところを生きていることによって、そこだけが深く掘られてゆき、底なしの絶望の中で同じところを往復し、ゴールに着いたと思ったら一瞬にしてスタート地点に返されるような経験は、実際に生きてみなければわからないからです。従って、「死者の命を返せ」という訴えが繰り返されると、世間では論理的に筋の通らない感情論として客体化されるのが通常だと思います。
 このような世間の価値観の下では、「生きていてくれさえすればそれだけでいい。殺されることに比べれば、何十年間刑務所に入っていても出てくればやり直せる」と感じても、口に出すことは難しいと思われます。

 ここ数十年の犯罪被害者保護法制の拡充においては、「日本社会はこれまで被害者の存在を見落としてきた」と言われることがありました。そして、本来の政治的スタンスにおいて相容れない弁護士会も、「社会全体で犯罪被害者保護に取り組まなければならない」と述べています。ここにおいて、最後に残された試金石が、「冤罪事件の被害者・被害者遺族」に対する捉え方だと思います。そして、足利事件の一連の報道を見る限り、やはり社会は被害者の存在を見落とし続けていると感じます。
 最愛の者の死を乗り越えられることなどできず、この世のものとは思えない現実と悲観の中で、被告人に対する正義の法の裁きを唯一の心の支えとして生きてきた者にとって、その被告人が真犯人ではない事実を受け入れることは、心の支えを奪われるどころか、そのことについて自己反省と自己否定を迫られ、生きる希望を何重にも奪われる経験であると想像します。ここにおいては、言語化の過程において複数の感情を同時に表現することは難しく、しかもそのすべての感情において適当な言葉がないとしても、繊細な精神によって人間心理の複雑なあり方を丹念に辿るしかないと思われます。
 また、人間の負の感情は諸感覚に訴えて多元的であるがゆえに、現実に同時に起きている感情について、それに順番をつけて1つ1つ語っていく積み重ねの作業が不可欠なのだろうと思います。

下村湖人著 『次郎物語・上巻』

2010-01-22 00:17:08 | 読書感想文
第2部 p.393~

 次郎は、いつのまにか敷蒲団のうえに起きあがって、2人(祖母と兄)の様子を眼を皿のようにして見つめていた。しかし、その時、彼の心を支配していたものは、怒りでも、悲しみでも、驚きでもなかった。彼は恐ろしく冷静だった。耳も眼も、これまで経験したことのないほど、さえきっていた。彼は、恐らく、お祖母さんが彼のほうに鋒先を向けかえて、何を言い、何をしようと、そのどんな微細な点をでも、見のがしたり、聞きのがしたりはしなかったであろう。それほど彼は落ちついていたのである。

 むろん、彼のこうした落ちつきは、彼が幼いころから、窮地に立った場合いつも発揮して来たところで、いわば彼の本能であった。しかし、この場合、その中味は、以前のそれとはずいぶんちがっていた。この場合の彼には、すこしもずるさがなかった。自分を安全にするために策略を用いようとする気持ちなどは、みじんも動いていなかった。彼はただ無意識のうちに真実を見、真実を聞き、真実を味わっていたのである。

 なるほど、彼の心のどこかには、お祖母さんに対する皮肉と憐憫との妙に不調和な感情が動いていた。また、自分のこれまで持っていなかった、ある尊いものを、恭一(兄)の言葉や態度に見いだして、単なる親愛以上の高貴な感情を、彼に対して抱きはじめていた。しかし、そうしたことのために、真実が、次郎のまえに、少しでもその姿をゆがめたり、くもらしたりはしていなかったのである。いな、かえって、真実をはっきり見、聞き、味わった結果として、そういう感情が彼の心に動きはじめていたといったほうが本当であろう。

 「運命」と「愛」と「永遠」とは、こうして、いろいろの機会をとらえては、次郎の心の中で、少しずつおたがいに手をさしのべているかのようであった。だが、次郎はまだ何といっても少年である。「永遠」は見失われやすいし、「愛」は傷つきやすい。ただ「運命」だけは、どんな場合にも彼をとらえてはなさないであろう。


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 この本は、私の中学校の課題図書でした。その当時は難しくて意味がわかりませんでしたが、久しぶりに読んでみて、こんなに面白いとは思いませんでした。第1部は昭和16年、第2部は昭和17年の上梓だそうですが、「古さを感じさせない」という表現すら適切でないように思われます。

 中学校の保護者の間からは、「もっと新しい作家の本を読ませろ」といった声もあったと思いますが、課題図書に指定してくれた中学校に今さらながら感謝です。脳の奥深くに眠っている読書の記憶は、本人の気付かないうちに熟成し、色々な形で発芽しているのかも知れないと思います。

高見沢潤子著 『兄 小林秀雄との対話 ― 人生について』

2010-01-19 00:57:11 | 読書感想文
p.185~

 兄は、自分の仕事に生命をかけている。仕事に対するその真剣さに、わたしはいつも頭のさがる思いがする。その仕事は、ただおもしろくて、たのしいものではけっしてない。兄は、苦しんで苦しんで仕事をしている。だから、なかなか原稿が書けない。今は、ほかの仕事を全部ことわって、何年か前から本居宣長だけを書いている。このごろも、いろいろ資料をあつめては、読み、研究して、原稿を書いているので、2ヵ月に20枚しか書けないそうである。

 義姉は、兄の苦しみに胸も痛む思いを口にする。けれども兄はこの大きな苦しみと戦って、仕事をしたいのである。兄が文化勲章をもらったときには、連日、報道関係の人たちや来訪者たちの応対で、しばらくは仕事がぜんぜんできなかった。仕事をしようとすると、祝い客や電話で、気持ちを切断される。それがいちばん困ったそうである。

 仕事に精神を集中して、じいっと考えていると、兄の頭には、音楽がきこえてくるのだという。その音楽をまたきいているうちに、そこから、書こうとすることばなり、表現なり構想なりが、出てきそうになる。なんとかなりそうだ――そういう時に雑音がはいると、それはぷつりときれてしまう。あとでまた仕事にとりかかろうとする時には、なんにもなくなっている。兄はまたいちばんはじめからやりなおさなければならないのである。


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 「音楽が聞こえてくる」「ぷつりと切れてしまう」といった表現は、非常に的を射ていて、形而上と形而下の接触の常態を示しているように感じます。小林秀雄の文化勲章受章と比べるのは誠におこがましいですが、私も最近、仕事上でそのように感じることが多くあります。
 法律相談に訪れる方々の中には、様々な人生の苦悩が言葉にならないのを、途切れ途切れに何とか言葉にして、口ではなく全身で語る方が多くいらっしゃいます。私はそれを正式な書面にするのですが、記憶が鮮やかなうちに、自分が書いたメモを見返しながら苦しんでいると、「表現なり構想なりが、出てきそうになる。なんとかなりそうだ――」という域に達する瞬間があります。

 しかし、そのような時に限って、なぜか無関係な電話がかかってきます。特に多いのが、貸金業者からの分割払いの計画案の催促や、過払い金の値切り交渉の電話です。この交渉では、自分の弁舌次第で何十万円ものお金が動くこともあり、経済効率から見れば「人生の苦悩の代弁」よりも遥かに重要な仕事です。そして、電話を切った後は、中断した仕事はそこから再開するのではなく、一番初めからやり直しとなります。
 この世の中の仕事というのはそういうものだ、自分の世界に入って書類を書きたいなど甘えるんじゃない、同時並行で効率的に仕事を処理する能力が求められるのだと言われれば、私には反論する言葉もありません。法律家の書く書面には、人間の息づかいなど求めるのが筋違いなのでしょうが、やはり心中複雑です。

岩田隆信著 『医者が末期がん患者になってわかったこと』

2010-01-17 23:10:18 | 読書感想文
p.144~

 午前中、昨日のMRIの結果を河瀬教授より聞く。Ope(手術)はほぼパーフェクトに近いが、hippocampus(海馬)内側に沿った部分にGd enhance(造影剤で濃く強調)される部分あり。血管のsacrifice(犠牲)のためのinfarction(梗塞)であろうと思われる。術中のpatho(病理検査)ではGrad(悪性度)Ⅲということだったが、術後の検査で、恐れていたとおり、glioblastoma(神経膠細胞腫)であった。死刑の宣告と同じである。残された時間は1年しかない。今後の不安が一気に突き上げ、頭の中を駆けめぐる。

 もはや決定的な状況でした。この日の検査結果で、怖れていたとおり、最悪のグレードⅣ。平均余命わずか1年のglioblastomaという脳腫瘍の一種であることが判明しました。まだいくらが余裕がある、ひょっとすると治せるかもしれない、という私のかすかな期待も、この日、見事に打ち砕かれてしまったのです。

 私自身、ほとんどうつの状態で、何も手につかない状態に追い込まれることになりました。とにかく、同じ思考が頭の中をグルグル回るのです。回復の希望をもてない患者がこうした気持ちになりうることは、医学の知識としてわかっていても、自分自身ではなかなか止めることができません。


p.10~ 河野浩一氏の「編者ノート」より

 彼もまた、これまで患者のために最善の医療を行い、幾多の命を救うと同時に、その一方では努力の甲斐もなく、多くの患者の最期を看取ってきたに違いない。人間の生と死の狭間で常に闘ってきた人間なのだ。だが、そんな医師とはいえ、自分自身が患者の立場に立ったとき、生と死の狭間という現実を平然と見据えながら生きていけるものなのだろうか? しかも、自分の病気の専門医である彼は、自分の置かれた現実を隅々まで《不幸なほどの正確さ》で見抜く能力をもっている。

 この世に何が地獄といって、我が身の不幸がありありと正確に《見える》こと以上の地獄があるだろうか。見えすぎること、それはまごうことなき地獄の世界である。そんなこの世の地獄に、はたして人間は直面できるものなのだろうか?


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 現代医療の落とし穴を示すものとして、「病を見て人を見ず」という言い回しがあります。そして、現代医療が科学的客観性を前提としている限り、常に落とし穴の存在を注意することはできても、これを埋めることは難しいと思います。例えば、脳腫瘍1つ取ってみても、その個別的な脳腫瘍だけを見ていては治療など不可能であり、「人を見ずに病を見る」ことなしには、病気の治療はできないからです。すでに、多数の人々に生じてきた現象を「脳腫瘍」という言語で一般化したことが、すでに概念に侵されていると言ったほうが正確であるとも思います。

 医師が「病を見て人を見ず」という状態を完全に脱却するためには、自らが末期がん患者になってみるしかないのだろうと思います。そして、この状態に追い込まれた岩田医師は、河野氏の述べるとおり、その専門的知識によって地獄の世界を見ざるを得なくなりました。ここには、医師ではない素人にはその地獄の世界が見えないという点において、科学的客観性を前提とする現代医療の限界が、非常に正確な形で表れているように感じます。この本の帯には「マスコミ騒然! 医療の現実がわかる」「日記とテープで綴った執念の同時進行ドキュメント!」などと書かれていますが、その軽さには辟易します。

法哲学レジュメ 「正義とは何か」

2010-01-16 00:08:00 | 国家・政治・刑罰
「正義とは何か」

● 一般的正義・・・・・・・・ 適法性  法とは徳を奨励し悪徳を禁止するもの

● 特殊的正義(均等)・・・・ ①分配的正義  ②矯正的正義  ③交換的正義

① 分配的正義
 二者をそれぞれふさわしい扱いをして、その価値に比例して扱う。
 幾何学的比例に即しての均等
 名誉や財貨とその他国民の間に分配されるものの分配における正義
 現代における重要な問題である。アリストテレスの原本を近現代に定式化を行う。

② 矯正的正義
 二者間の均等  随意的交渉と非随意的交渉
 算術的比例に即しての均等
 諸々の人間の交渉において矯正の役目を果たすところの正義
 随意的(販売・貸金・寄託・雇用等)
 非随意的(窃盗・誘拐・姦淫・暗殺・侮辱・殺人等)
 良き人が悪しき人から詐取しても、悪しき人が良き人から詐取しても、それは全く関係がない。
 法律が顧慮するのは、その害悪の差である。法はいずれも均等な人として扱う。
 ここでいう「正」とは、事前と事後との間の均等を保持するということにある。

③ 交換的正義
 アリストテレスは、均等正に即する正ではなく、比例に基づく応報的な正について語っている。
 比例的な対応給付として、大工による家屋と靴工による靴との取引の例が挙げられている。
 この箇所をもって、取引における交換的正義をアリストテレスが主張しているといい、
給付均衡論を展開する現代の研究者もいる。
 ただし、「交換的正義」の内容や位置づけは、見解が一致していない。


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 大学院の時の法哲学のレジュメです。このようなものを読むとすぐ眠くなっていたのですが、今でもやっぱり眠くなります。法哲学なんぞ実際に何の役にも立たない、抽象概念の遊びだという批判がありますが、その通りだと思います。

被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず

2010-01-12 00:24:41 | 実存・心理・宗教
 1月5日の読売新聞オンラインニュースに、「被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず」との記事がありました。読売新聞の集計によると、被害者参加制度が適用された裁判員裁判では、検察官の求刑と比べて判決の懲役年数の割合が8割程度となっており、顕著な厳罰化の傾向は見られていないとのことです。

 被害者参加制度への反対論の論拠に、「裁判員が被害者参加人に感情移入して適正な裁判が妨げられ、厳罰化が進む」というものがありました。今回の集計結果は、この懸念が見込み違いであったことを裏付けています。
 それでは、反対論はこの結果を受けて、被害者参加制度に対して一定の譲歩をするのかと言えば、なぜか人間の心はそのような動き方をしません。被害者参加人が法廷に出ても裁判に影響がないのであれば、このような意味のない制度は廃止すべきだという主張に結びつき、反対論を勢いづかせるのが通常のことです。その意味で、反対論はあくまでも反対論であり、足元の安定した政治的主張だと思います。

 他方、被害者参加制度への賛成論の論拠は、「裁判員が被害者参加人に感情移入して厳罰化すればよい」という単純なものではありませんでした。そうかと言って、「被害者参加人が主体的に法廷で意見を述べられるならば刑罰の重さは関係ない」というものでもありません。
 こちらは、単純な厳罰化賛成論ではなく、人間の実存的苦悩がやむを得ず政治的主張の形を取らされた状態であり、常に足元が崩れ落ちそうな状況だと思います。そして、今回の集計結果は、「被害者参加人の言葉は裁判員の心に何も響いていない」との印象を与え、さらに実存的苦悩を深める方向で作用せざるを得ないと思います。

 今後、被害者参加制度の裁判員裁判において厳罰化の傾向が生じたとしても、反対論が政治的主張を勢いづかせ、賛成論が実存的苦悩を深める構図は変わりないものと思います。厳罰化が進めば進むほど、「裁判員が感情的になって適正な裁判が妨げられる」という参加制度反対論の論拠は力を増します。そして、賛成論に対して、「厳罰化すればそれで済むのか」という批判が可能となります。
 そして、この批判に対しては、参加制度賛成論は反論することができません。それは、犯人が死刑になっても殺された者は帰らないからであり、加害者に厳罰が下されてもそのことによって被害者遺族が立ち直ることはないからであり、その意味で「厳罰化しても済まない」という政治的意見は正しいからです。すなわち、どちらに転んでも、参加制度反対論は他者を責めて苦しめるのでしょうし、参加制度賛成論は自身を責めて苦しむのだと思います。

不幸な事故

2010-01-10 02:30:28 | 言語・論理・構造
 裁判所に勤務して刑事裁判の法廷に出ていたとき、自動車運転過失致死傷罪の裁判で、「不幸な事故」という単語をよく耳にしました。主に弁護人の最終弁論の中で使われる単語です。私も最初の頃は、この「不幸な」という単語の中に、言葉にならない万感の思いが凝縮されているように感じていました。幸・不幸の感情は人間だけが持ち得るところ、非人称の「事故」という抽象名詞に対して「不幸な」という形容詞句が冠せられていることが、言語の限界に突き当たった人間の苦悩であるように感じたからです。
 ところが、次々と「不幸な事故」が流れ作業のように目の前を過ぎてゆくうちに、私の認識は徐々に変わってきました。言葉に思いを込めるということは、人間が言葉を自由自在に操れるという前提に立っているわけですが、この認識自体が転倒しているように思われてきたからです。

 私の狭い経験からですが、事故で最愛の人を失った者の万感の思いは、「不幸な事故」という言葉で納得させられることはまずありません。人間の細かい心の襞のようなところを絞りに絞って単語を厳選した場合、「不幸な」という修飾語は失格だということです。
 私がこれまで聞いた中で、現実を言語によって正確に描写していると感じた表現には、「全身を踏みつけられて内臓を引っぱり出されている状態」「魂を抜かれた人間の抜け殻が自殺もできずに虚脱している状態」「心の底から笑ったり喜んだりすることは一生できず、してはならず、したくもない状態」などがありました。そこでは、「事故」という非人称の出来事は脱落し、「死者の無念」という表現すら比喩の限界に耐えることができず、消去法によって、遺された者がその状態を他人事のように記述しているものだけが残っているように感じます。

 ところが、刑事裁判の法廷という場は、上記のような人間の苦悩の正確な描写を好みません。裁判の品位や、法廷の権威の維持といった要請からは、「不幸な事故」のような当たり障りのない表現のほうに圧倒的に分があるからです。私も刑事裁判の法廷において、自分の「起立!」の一声で満員の傍聴席が新聞記者も含めて一斉に立ち上がるなどの経験を通じて、この権威の力を肌で感じてきました。
 起訴状が朗読され、黙秘権が告知される頃には、もはや儀式の場に相応しくない言語のほうが非常識に感じられてきます。「不幸な事故」は品位のある言葉であるのに対し、「魂を抜かれた人間の抜け殻が自殺もできずに虚脱している状態」は品位のない言葉となります。そして、弁護人の最終弁論において、「本件は一瞬の不注意による不幸な事故であり被告人は二度と事故を起こさないことを誓っている」「被告人は不幸な事故を乗り越えて立派な社会人として更生することを決意している」などと述べられ、法廷はつつがなく終わります。

 私は現在、法律事務所で最終弁論を書くほうに回っていますが、「不幸な事故」という単語の使い勝手の良さに改めて驚かされています。刑事裁判のテーマは事実認定と量刑であり、執行猶予の相場を調べる仕事などに追われている際には、個々人の内心に立ち入っている暇はありません。また、量刑の前提となる示談における慰謝料の額ですら、過去の事例を検索して妥当な金額をはじき出すシステムが確立されており、実際に精神的苦痛を感じている者の内心を深く掘り下げることは、事務処理上有害となります。
 もちろん、世の中の問題は法律などで解決できないものの方が多く、客観的・科学的言語はすぐに行き止まりとなります。そこで、「不幸な事故」という単語の出番がきます。恐らく、全国で忙しく働いている弁護士は、山積みの仕事を効率よく終わらせるために、自動車運転過失致死傷罪の最終弁論の難しいところは「不幸な事故」で片を付け、先に進んでいることが多いのでしょう。

 私が現在、自分自身に対して恐れていることは、「不幸な事故」という言い回しに対して、感覚が麻痺してしまうことです。特に、裁判が終わって判決も確定し、事故が社会的には過去のものとなったとき、つい世間的な枠組みに流されそうになります。世間的な幸・不幸の基準からすれば、事故を克服して立ち直ることは幸福であり、事故が乗り越えられずに立ち直れないことは不幸です。そして、事故それ自体の衝撃は過去の歴史的事実として人々の記憶から消えていくとなれば、「不幸な」という形容詞は、事故を離れて、人間に取り付くことが避けられなくなります。
 そして、「不幸な被害者遺族」に対して、幸福にならなければならないという無形の暴力が生じるのは、この場面であると思います。「いつまでも悲しんでいると亡くなった人が浮かばれない」「恨みや憎しみからは何も生まれない」という励ましに対する違和感は、「不幸な事故」という表現に対する違和感と似ているような気もします。

自分を客観的に見る

2010-01-09 23:34:10 | 実存・心理・宗教
 大学入試センター試験の時に、予備校の先生から、自分を客観的に見ることの必要性を力説されました。ライバルの中に自分を置いて、自分の弱点を客観的に眺めてみる。そして、全国の受験生全体の中で自分の置かれている位置を客観的に把握する。私はこのような熱弁を聞き、何の疑問も感じず、自分を客観的に見るように努めていました。試験の合格にとっては合目的的であり、余計なことを考えなくて良かったと思います。

 大学生になって、色々と考える時間を与えられたとき、自分を客観的に見ることの恐ろしさに気が付きました。自分を客観的に見てみると、自分は群集の中の1人に過ぎず、自分がどこにいるのかわからない。客観的な視点からは、誰も彼もが「その他大勢の1人」であって、別にその人が自分であっても他人であっても変わらない。私にできたことは、自分を客観的に見ることができるのはもう1人の自分だけであり、そのもう1人の自分は主観であると気づくだけでした。

 社会に出て、再び自分を客観的に見ることの大切さを語る人が多いことに気づかされました。人々の中に自分を置き、客観的かつ冷静な眼で、自分に対する社会的評価を把握しなければならない。社会的成功を収めるためには、自分自身を客観的に見る能力が不可欠である。私はこのような訓示を聞き、いつも白けています。自分を客観的に見る大前提として、人生を損得で捉えているのであれば、それは他人を蹴落とすための手法にすぎず、大学入試センター試験の続きで一生が終わってしまうような気がするからです。