犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その34

2013-08-31 22:51:43 | 国家・政治・刑罰

 人の職業は、仕事を離れたあらゆる場面でのものの考え方に影響を与える。弁護士を数年でも続ける者は、「正誤」「快・不快」「損得」「満足・不満」の思考を正確に身につける。この概念の枠組みは、交通事故の示談に関する職務の遂行には全く合っていない。すなわち、刑事弁護人は、死者の家族に対する寛大さを求めるに適格ではないまま、この仕事を一手に引き受けていることになる。

 被害者の家族からの血を吐くような手紙に対して、ある弁護士が「金額にご不満もおありでしょうが、何とぞ精一杯の誠意の表明として……」と回答した後、被害者が一切の連絡を絶った場面を見たことがある。その弁護士は、依頼者に対して、「被害感情が厳しくてなかなか心を開いてくれない」と説明していた。これは、本当にそう思い込んでいるのであり、何を隠しているわけでもない。

 実務家とは、目の前の問題に片をつけるのが仕事である。そして、実務能力とは、右から左へと雑事を流す能力である。この場面において、示談とは金額が高いか安いかの問題以外ではない。誠意のこもったお金は高く、誠意のこもらないお金は安い。弁護士の能力とは、「お金でなく誠意の問題だ」という意見をやんわりと退けつつ、「誠意をお金以外で表す方法がありますか?」という行き止まりの問いをそれとなく示すことである。

 かく言う私も、仕事上で何度も痛い目に遭い、性悪説に依拠しながら、「誠意」という単語と向き合ってきた。狡猾な人間は、些細なトラブルを嗅ぎつけ、「誠意を見せろ」と要求してくる。これは、具体的な金額を言うと恐喝になるため、抜け穴としてこの単語を利用しているのである。このような行為ができる人間は頭がよく、金儲けが上手く、下品である。かようなトラブル処理と並行して、交通事故の被害者からの「誠意」の語を聞いても、恐らく多くの弁護士はその意味を受け止めることができない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その33

2013-08-30 22:06:21 | 国家・政治・刑罰

 例えば、就職活動における「御社を志望した動機」とは、時に「何でもいいから仕事に就かなければならない切迫感」を意味する。また、選挙の候補者が「皆様のために働かせて下さい」と叫ぶとき、それは多くの場合「選挙に費やした資金を当選して取り返さなければならない」を意味する。このような大人の事情をお互いに理解し合うことは、生活していく上での社会性を身につけることでもある。

 人が法で厳格に裁かれ、針の筵に座らされて追い込まれる刑事の法廷は、社会と異質な空間であるように見えて、実際は世の中の縮図である。本来、罪の重さを自覚している者は、同時に罰の重さも自覚して覚悟しなければならないはずである。すなわち、過ちを反省して謝罪するというのであれば、いかなる重い刑をも受け入れることを望まねばならないのであり、許しを求めることは矛盾した態度となるはずである。

 ところが、司法エリートが主宰する現実の刑事裁判は、「謝るから許して下さい」という論理に貫かれている。人がこの論理を自然に受け入れるのは、近代刑法の大原則の講釈によってではなく、自身が社会性を身につけ、大人の事情を察知しているからである。とにかく、重い刑罰は嫌なものだからである。このような被告人の自己弁護の手助けをするのが弁護人であり、ここに職業人としての義務が生じる。

 私を含め、従来の刑事司法のあり方に疑問を持ち、「被害者にも配慮した刑事弁護を行いたい」との志を持ってこの業界に入った者は、正直なところ苦戦を強いられている。しかし、それは「世の中を甘く見ていた」「社会人として通用しなかった」という一般的な挫折感とは全く異なる。あくまでも、自分は好きでこの仕事をしており、刑事の法廷に立っている。これに対し、加害者も被害者も好きでこんな場所に来ているのではない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その32

2013-08-27 23:44:20 | 国家・政治・刑罰

 「この国の法曹界は腐っている」「刑事裁判は茶番劇だ」と内心で憤慨するとき、私は批判だけで何もできない評論家になっている。実際のところ、私は今、心の底で何を考えているのか。現場で時間に追われている状況では、とても大局的な見地に立っている余裕はない。批評家目線で肥大化した自我は、現場では一瞬にしてしぼむ。

 私は今、この依頼者について執行猶予の判決を確実に得ることで頭が一杯である。判例及び実務の量刑相場からは、禁錮2年、執行猶予3年といったところである。それだけに、これよりも重い判決は、弁護人が与えられた職務をしっかりと履行しなかったことを意味する。厳しい批判と嘲笑は免れない。

 私が何よりも怯えているのは、判決宣告の瞬間の裁判官の口である。私は全てをそこから逆算し、保険会社には何回も電話で示談交渉の進捗状況を聞き、裁判官にアピールする証拠を確実に集めている。執行猶予を取れずに依頼者や家族から非難されるのが怖い。多忙な状況の中で控訴審までしていたらパンクする。

 人が被告人であるということは、1つの特権である。現代社会において、真面目さはそれだけでは価値がなく、人柄の良さなどという価値基準は役に立たない。しかし、刑事法廷に立つ被告人においては、真面目さと人柄の良さは最重要の事項である。すなわち、「この人は善人なのです」という印象操作の勝負になる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その31

2013-08-26 22:03:40 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪の公判において、生者と死者の対照は理不尽の極致である。被告人は何をどう頑張っても生きており、被害者は何をどう頑張っても生きていない。生きて死ぬべき人間は、この論理を支配することができず、深く残酷な沈黙を強いられる。

 ところが刑事裁判の主題は、有罪と無罪の対照、あるいは実刑判決と執行猶予の対照においてのみ発揮され、人の生死は隅に追いやられる。この転倒を転倒と認識せず、「厳罰感情」という単語を発明して済ませている法曹界は、腐っていると心底思う。

 私の偽らざる感覚としては、生と死の対照を脇に置いた実刑と執行猶予のせめぎ合いは、法廷という虚構の上で開催されるゲームの風景である。裁判官は期間限定の神であり、本物の神ではない。人間が作った制度に従って行動している限り、問題はどこまでも他人事である。

 これに対し、人の生死の存在形式は、人間が作った制度ではない。刑事の法廷における生者と死者の絶望的な対照は、それを見る者にとって他人事ではあり得ない。ゆえに人はそこから逃避し、虚構のゲームに没頭する。人のために法律が存在するのではなく、法律のために人が存在する状況である。

 
(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その30

2013-08-24 23:58:06 | 国家・政治・刑罰

 刑事政策学では、「被告人の人権保障と被害者保護は両立する」「両者の権利は矛盾しない」といった理論が述べられる。そして、人が理論と実務の融合の困難に直面するとき、嫌でも思い知らされるのは、現場の悲鳴が聞こえない場所で展開される机上の空論の気楽さと、うんざりするほどの理屈っぽさである。

 自動車運転過失致死罪の刑事弁護の職務に就いているとき、加害者と被害者を両立させてしまえば、人は恐らく気が狂う。弁護人はこれを避けるため、空間的・時間的に加えて政治的な意味で、物事を遠近法で捉える。近いものは目の前にあり、遠くのものは豆粒にしか見えない。ここでの両立は、矛盾と同義である。

 加害者と被害者の権利が漫然と両立するとき、両者は「立ち直り」という共通項で括られる。ここには、(1)もう立ち直った、(2)まだ立ち直らない、の二種類の状態しかない。この強制的な二者択一は、「いつになったら立ち直るのか」という催促の圧力を必然的に伴うことになる。

 死者は時間性を失う。死者にとっては1日も100年も同じである。死者は、生者の中の記憶が存する限りで時間的な存在であり得る。遺された者において時間が止まり、何年が経過したという計算が無意味になるのは、比喩ではなく論理である。過去から未来への単純な時間軸の上に話をまとめるのは、あまりに軽薄なことだ。

 
(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その29

2013-08-21 01:26:07 | 国家・政治・刑罰

 「人はなぜ働くのか」という古典的な問いに対しては、それなりの模範解答が用意されている。労働は苦痛よりも喜びであり、仕事は世のため人のために行うものであり、労働の目的は金儲けでないという正論である。綺麗事は綺麗事である限り、その存立を否定されることはない。

 現在の厳しい経済情勢の下でも、法律事務所という言わば特殊な職種においては、この正論は辛うじて生き残っている。そして、「お金の問題ではない問題」に向き合う精神は、常に消耗を強いられる。1つの案件を無事にやり遂げたときの依頼者の安堵の言葉は、確かにそれまでの疲労を吹き飛ばしてくれるものである。

 それだけに、交通死亡事故の依頼を目の前にしたときには、このような短絡的な正論は破壊される。「お客様の笑顔が何よりの仕事のやりがいである」「依頼者に尽くすことが職業人の生きがいである」といった決まり文句は、あくまでも貨幣の交換価値に頼りつつ、その価値の否定を装う場合にしか説得力を持たない。

 法曹倫理の学問的な体系化は、依頼者に対する誠実義務と、客観的真実を前提とした真実義務との対立を明示する。私は現場の最前線で、このような抽象論の無意味さを思い知る者である。誠実義務の遵守と利益相反行為の禁止を両立させてしまえば、人が働いて報酬を得ることの意義が単純化し、それに対する考察が欠落する。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その28

2013-08-20 23:24:15 | 国家・政治・刑罰

 私は、この世に人として生まれたからには、「食べるために生きる人生」ではなく、「生きるために食べる人生」を送りたいと思う。しかしながら、実際に社会に出て働き、お金を稼いで食べていくことは、本当に大変なことだ。人は食べなければ死ぬという事実を、頭でなく腹で感じることはかなり虚しい。

 金儲けではない仕事のやりがいの重要性は、いわゆる「お金に苦労したことがない人」が語ると、地に足が着いていない空論となる。大前提として、当人の生活感が欠如した論評は、社会の仕組みに対する考察からも乖離し、今までほとんど参考になったことがない。心に響いたこともなく、苛立つばかりである。

 他方で、食べるために稼ぐ理屈に染まることは、人生の名に値しないとの直観が私にはある。法律事務所の経営者は、得てして費用対効果・経費削減の価値基準が強力になるあまり、それ以外の物の見方を失う。この世間の垢に一度まみれると、それ以前の状態に戻ることはほぼ不可能だ。

 弁護士が依頼者や相手方と連絡を取る度に「電話代を損した」「郵便料金が無駄になった」と感じることは、それ自体が相当なストレスである。経営者として至極当然の姿勢は、依頼者や相手方の前では隠さなければならない。この世の中のシステムや約束事を学ぶことは、同時に自分に嘘をつくことでもある。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その27

2013-08-18 23:18:23 | 国家・政治・刑罰

 依頼者にとっての「人生がかかった相談」は、弁護士事務所にとっては「数ある相談の中の1つ」に過ぎない。事務所のホームページには、全てのお客様の1件1件に親身になる旨が謳われているが、これは言わば相談者に対する試金石である。この建前と実際のギャップについて苦情を言う者は、社会の仕組みと社交辞令を知らないということだからである。

 現実がホームページの理念の通りに行かないのは、何も弁護士が利益優先で手を抜いているからではない。全ての事件に同時に親身になり、一緒に苦しんでしまえば、肉体的・精神的に持たず、体がいくつあっても足りないからである。弁護士が依頼者に感情移入をして順調に行っているうちはよいが、事件が思うように進まなくなると、かえって信頼関係の崩壊は速くなる。

 社会全体として、顧客から専門家に対する要求水準が高くなるにつれ、弁護士は依頼者からのクレームを想定し、神経を尖らせていなければならなくなる。この点において、自動車運転過失致死罪の被告人は非常に安心であり、好ましい客層に分類される。最初から最後まで弱り切っており、「金を払ったお客様」の攻撃性は薄く、事務所との目線の上下は固定しているからである。

 私は実際にこの仕事に就く前、「人の命を奪った人間」といかに向き合いつつ職務を遂行するのかという点につき、色々と考えを巡らせていた。今では、全てが雲散霧消である。私は、世の中の一番汚い部分を見ながら、それを利用して生き延び、その世の中の1人となっている。そうでなければ、「罪を一生涯背負って生きて行く」といった浮き世離れした台詞を堂々と語れない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その26

2013-08-16 22:37:54 | 国家・政治・刑罰

 刑事公判の弁論手続は、検察官の論告求刑、弁護人の最終弁論、被告人の最終陳述の順番で行われる。既に確立されたルールは、その根拠疑われる対象ではなく、その意義が学ばれる対象である。いかなる対立的な議論も、「最後の一言」を語る者が有利となる。それは、時間的に最新の位置を占め、聞く者の記憶に鮮明に残るからであり、かつその言葉は誰からも反論を受けなかったことを意味するからである。

 私は、このような特権を有する側の者として、それに甘えることのないよう注意を払ってきたはずであった。ところが、以前に書いた自動車運転過失致死罪の弁論要旨を読み返してみると、目も当てられない。その当時には、私は確かに論理の限界まで考え続けたはずであり、内心では得意になっていた。しかし、あまりに無難にまとまりすぎ、論理が綺麗に流れすぎている。与えられたルールに則り、忠実に役割を演じていたことがわかる。

 自白事件における最終弁論とは、お上である裁判官に向かって許しを請う手続きである。被告人の正直な本音としては、「犯した罪を忘れず一生背負い続ける」などということは無理である。また、「真面目に生きて社会の役に立つ人間になることが被害者に対する供養になる」というのも嘘っぱちである。しかしながら、嘘を嘘と知りつつ語るべきことが決まりなのであれば、その決まりを破ることは、単に職務過誤の不祥事でしかない。

 検察官が被告人の所業を責めてくれればくれるほど、被告人には自己を守る正当性が生じることになる。身体の外側の法律に善悪の判断を委ねるべき場では、身体の内側の倫理は退かなければならないからである。被告人にとって、「反省の言葉を語る資格もない絶句」は、お詫びの拒否と不反省の態度を意味する。また、弁護人にとって、「反省の情の深さを示す逆説として重罰を希望すること」は、職業倫理に反する暴走を意味する。

(フィクションです。続きます。)

地下鉄サリン事件を語り伝えることについて

2013-08-14 23:17:47 | 時間・生死・人生

高橋シズヱ著 『ここにいること 地下鉄サリン事件の遺族として』のコメントに対する回答です。)

 自分が生まれる前の出来事は、3年前も300年前も同じ時間軸の上にあり、その出来事を知らないことに対しては特権的な地位が保障されるものと思います。それにもかかわらず、自身がその場に居合わせていたように物事を捉え、ありありとした感覚を持つことは、歴史的な存在である人間の知性の究極的な形態ではないかとの感を持ちます。この地点においては、歴史認識をめぐる正義と不正義の争いも生じることがないはずだと思います。

 私は地下鉄サリン事件の現場にいたわけではなく、当日のニュースを見て驚いただけですので、正確には「事件を知らない」のほうに入ります。しかしながら、年を重ねるに従い、事件の時にはこの世に生まれていなかった方々の数が増えるにつれ、私自身が「事件を知らない」から「事件を知っている」のほうに分類されているように感じるようになりました。この妙な感覚は、ある出来事を後世まで語り伝えることの意義や、その難しさと関連しているようにも思います。

 抽象的な社会という視点から見ると、地下鉄サリン事件の当時に各界の識者が激しく議論し、日本社会の将来のために解決を目指した問題の多くは、解決を見ないままに解消してしまったとの感を持ちます。当時はスマートフォンどころか携帯電話も流布しておらず、ネットを巡る現代の様々な問題は影も形もありませんでした。また、当時は現在ほどグローバル化の弊害も実感されていない頃であり、その時点での問題提起と議論自体が、当時の未来(現在の現在)と合っていなかったのだと思います。

 地下鉄サリン事件の当時に地球上に生きていた多くの人が去り、事件を契機として激しく悩んだり考えを深めた人々の多くもこの世を去りました。入れ替わりにこの日本に誕生した者は、ゼロの状態からスタートすることになります。これは、ある日本人が一生を賭けて深めた頭脳が消滅し、またゼロからやり直しということですから、これは絶望的に虚しいことだと思います。私は少なくとも、「社会の変化」「人類は学んだ」など、社会や人類を主語にして語ることには慎重でなければならないと思いますし、「変化」や「未来」といった単語を簡単に希望の側に結び付けてはならないと感じています。

 この事件が現在では取り上げられないことの理由について、平成7年頃と現在を比較した私の個人的な実感ですが、社会がより明るさや楽しさを切望し、重さや暗さを拒絶する方向が顕在化したことが大きいように思います。もちろん、私の年齢が上がったことも影響しているのだと思いますが、社会問題に対して熱が冷める速さや、ニュースとしての旬が過ぎ去る早さなど、当時の比ではないと感じます。この軽い明るさは、物事を深く考えても答えが出ないことを知ってしまった多くの人々が、考えても仕方がないことは深く考えず、面白くないものには公然と不快感を表明するようになったことの表れだと思います。

 社会問題がますます複雑に絡み合い、解決されないままに問題が山積している現在の日本社会は、恐らく当時のような真剣さで地下鉄サリン事件に向き合うだけの体力を持たないと思います。これは、経済的な格差というよりも、社会の矛盾に目をつぶることのできない人間が競争社会の中で弱者となり、ますます住みにくい世の中になっている状況だと感じます。考えること自体の価値が軽視されればされるほど、実体のない形式としての「未来」が絶対的な正義の地位を得て、「過去」の価値が下がるのだとも感じます。