犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マルクス・アウレーリウス著 『自省録』

2008-09-30 20:01:03 | 読書感想文
神谷美恵子氏(訳者)の序文 (p.3~)

プラトーンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、この理想が歴史上ただ1回実現した例がある。それがマルクス・アウレーリウスの場合であった。大ローマ帝国の皇帝という地位にあって多端な公務を忠実に果しながら彼の心は常に内心に向って沈潜し、哲学的思索を生命として生きていた。組織立った哲学的研究や著述に従事する暇こそなかったけれども、折にふれ心にうかぶ感慨や思想や自省自戒の言葉などを断片的にギリシア語で書きとめておく習慣があった。それがこの『自省録』として伝わっている手記である。この書物は「古代精神のもっとも高い倫理的産物」と評され、古今を通じて多くの人々の心の糧となってきた。それはテーヌのいうように「生を享けた者の中でもっとも高貴な魂」がこの書の中で息づいているからであり、その魂のたぐいまれな真実さがつねにあらたに我々の心を打つからである。


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ローマ五賢帝の最後の1人として名高いマルクス・アウレーリウス帝(Marcus Aurelius Antoninus、121-180)は、ストア哲学の第一人者としても有名である。ローマ皇帝として絶大な権力を持っていた彼は、戦乱や天災によってほとんど余暇もない中で、この断片を書き留めていた。蛮族との戦いの陣中において、明日の命も知れぬ極限の状況の中で、誰に見せるつもりでもなく、自分自身のためにひっそりと書き留めていた。その皇帝の独白が、2000年の時を経て、今なお世界中で読まれている。ストア哲学は、今でこそ倫理的・禁欲的な哲学であると体系付けられているが、彼自身はストア哲学の第一人者であろうとしたわけではない。時代や場所を超えた人間の感情や葛藤、道義心を随筆的に綴ったところ、それが実際に時代や場所を超えて、何十世紀を経た現代の我々の心を打ったということである。そして、彼の思想は、時代も場所も全く異なる東洋の仏教哲学との共通性も指摘され、世界中の人々の苦悩の処方箋として読み継がれてきた。

神谷氏が述べているように、アウレーリウスの心は常に内心に向って沈潜している。「君がなにか外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ」(第8巻47節)、「君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることができるのである」(第4巻3節)といった断片が典型的である。これは、現代の民主主義における政治家の資質とは正反対である。現代の政治家は、何よりも外交的でなければならず、演説が上手くなければならず、しかも裏では策略が上手くなければならない。彼のように自分自身の魂の動きを注意深く見守り、1人の人間としてより善く生きることを目指すような人は、今や最も政治家に向いていないタイプである。人間を人間たらしめるものの中心に倫理学を置き、常に諦念と悟りによって懊悩に向き合っているようでは、選挙戦に勝つことはできない。これがプラトンの述べる哲人政治の難しさであり、神谷氏が述べる「哲人政治の理想が歴史上ただ1回実現した例」の奇跡である。

今や、独裁制、封建制、共産主義はシステムとしては完全に崩壊し、民主主義以上のシステムは存在していない。どんなに民主主義の行き詰まりが明らかとなっても、「もっと良い制度が発明されるまでは民主主義が最善の制度である」と言われ続け、しかも「もっと良い制度」など発明される兆しもない。プラトンの述べる哲人政治は、ここにおいて初めてその意味が明らかになる。マルクス・アウレーリウスのような為政者は、そのシステムが独裁制であっても、共産主義であっても、民主主義であっても、同じように存在することが可能である。特に、民主主義は正義に関する相対主義であり、絶対的な正しさがないゆえに定期的に選挙をやり直すシステムであり、一種のプラグマティズムである。そうだとすれば、選挙のたびに与党と野党がお互いに絶対的な正義を主張して戦い、国民に閉塞感と絶望感をもたらすことは必然的である。また、絶対的な正義を政治的に主張する虚しさを見抜く視点が、哲人政治に存することも明らかである。

選挙のたびに、「今こそ日本を変える」と熱くなっている現代の政治家は、地元の有権者の挨拶回りに忙しく、この2000年前の政治家の言葉を聞いている暇はない。いかなる人間も、長大な歴史の視点から眺めればほんの一瞬しか生きることができず、しかもそのことは人々の記憶の中にとどまることはなく、地位や名声などにこだわっても虚しいばかりである。この虚しさに直面していている限り、その人は選挙に勝つことはできない。そして、国民は政治に期待を持つことができず、あるいは期待を持っては裏切られる。「死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上っては消え行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにはその記憶全体が消滅してしまうことを。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ」(第4章19節)。

門田隆将著 『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』 第8章

2008-09-28 00:25:13 | 読書感想文
第8章 「正義を捨てた裁判官」より

p.123~135より抜粋


間もなく上司が駆けつけてきた。「本村君、バカなことは考えるな」。上司は、本村の顔を見るなり、そう言った。本村は、前日、遺書を書いていた。もし、判決が死刑でなかったら、命を絶とう。本村はそこまで思い詰めていた。被害者が2人なら判決は「無期懲役」だろう、と専門家は言う。本村は「被害者が2人なら」という司法の常識が嫌だった。1人であろうと2人であろうと、人を殺めた者が、自らの命でそれを償うのは当たり前のことである。ひとり悶々とした本村は、もし本当に司法がそこまで数字にこだわるなら、抗議のため命を断とう、と思ったのである。自分が死ねば、事件に関して死んだ人間は「3人」になる。そうすれば、社会も声をあげてくれるかもしれない。24歳になったばかりの本村は、そんなことを考えたのだ。

真面目な本村は、パソコンに、一切に滞りが出ないように、引きつぎのすべてを記した。そして、社を出る時、最後に「僕に何かありましたら、パソコンを開いてください」と言ったのである。先輩は、その最後のひと言を聞き逃さなかった。彼は、本村の退社後、本村のパソコンを調べ始めた。パソコンには、前日、本村が書いた遺書も入っていた。そこには、小倉の両親に対して、<先立つ不幸をお許しください。死刑判決が出ない時、命をもって抗議することしか私にはできません>と書かれていた。発見した先輩が直ちに上司に報告し、そのまま上司が本村の寮に駆けつけてきたのである。被害者遺族にとって、判決というものは、そこまで重いものなのである。判決直前に居ても立ってもいられなくなった本村は、気持ちが昂ぶって、ぎりぎりまで自分を追い込んでしまったのだ。落ち着いて考えれば、「死」を選ぶことは、本村にとって最も安易な道だった。

(中略)

「主文。被告人を無期懲役に処する」。渡邉裁判長は、そう言い渡した。その瞬間、弥生の母・由利子は泣き崩れた。本村も滂沱の涙だった。「裁判とは、被害者に配慮する場所ではない」。その言葉が証明された。配慮されるのは、被害者ではない。加害者だけだ。日本の裁判は狂っている。そう思った。判決は、個別の事情には何の関係もない、過去の判例に縛られた単なる「相場主義」に基づいたものだった。判決後、記者会見場に姿を現した本村の怒りは凄まじかった。「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します」。そう言ってのけた青年の迫力に居並ぶ報道陣は、声を失った。やがて、本村は感極まった。「遺族だって回復しないといけないんです。被害から。人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには……死ぬほど努力をしないといけないんです」

普段、穏やかでクールな吉池検事が、突然、怒りに声を震わせた。目が真っ赤だった。「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。そんなことは許されない。たとえ上司が反対しても私は控訴する。これはやらなければならない。本村さん、司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」。涙を浮かべた吉池の言葉に、遺族の方が圧倒された。本村が何もかも手につかなくなり、自殺を考え、自らの命を断つことによって抗議しよう、と思っていたのは、つい昨日のことである。だが、揺るぎない信念と正義感で訴えてくる目の前の吉池の姿に、本村は突き動かされた。この時、本村の頭に初めて「使命」という言葉が浮かんだ。単なる自分の「応報感情」を満足させるだけではない。司法にとって、そして社会にとって、今日の判決がなぜいけないのか、どうしてこれを許してはならないのか、自分も訴えるべきではないか、と思った。それこそが弥生と夕夏の死を本当に「無駄にしない」ことではないのか。


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結論1: 死刑によって命の重さを示すことはできるが、自殺によって命の重さを示すことはできない。

結論2: 何があっても自殺してはならない。

池田晶子著 『残酷人生論』 「生死」より

2008-09-27 21:15:50 | 読書感想文
「死んだ人は生きている」より(p.24~27)

私は、他人の死というものを、「悲しい」というより、むしろ「おかしい」「変だ」というふうに感じる。というのは、死んだ人は死んでいるのだから、自分の死を悲しいとは思っていないはずなのだから、悲しいと思っているのは、したがって、死んだその人ではなくて、生きている人の側である。そんなふうな視点をもつと、人の死を悲しむというのは、かえって何かこう分を越えたことをしているような気持ちに、私はなる。

人は、お葬式というあのセレモニーによって、いったい「何を」しているのだろう。「死者を送る」「冥福を祈る」「弔辞を読む」、これらすべて、死んだ人は生きていると思っているのでなければ、あり得ない行為ではないか。死んだ人は生きている、何らかの形で存在していると思っているのでなければ、人が死者のために何かをするなど、あり得ないはずではないか。しかし、そう思っているなら、なぜ人はお葬式で悲しんでいるのか。

生きていた人が死ぬ、死んで居なくなる、ということは、どう考えても変なことだ。人がそれを「変だ」と思うより、「悲しい」と思うことが多いのは、人生という出来事を、形式の側からではなく内容の側からのみ見ることに慣れているからだ。人生の内容とは、自分は誰かであって、苦しみとか喜びとかの感情とともに、前方へ向かって生きているといったような意味的内観である。対して、人生の形式とは、ほかでもない、生死というこの枠である。枠それ自体は、無時間、非意味、非人称である。


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喜びはプラスの感情であり、悲しみはマイナスの感情である。従って、悲しみから立ち直ることはプラスであり、いつまでも悲しみから立ち直れないことはマイナスであって、周囲の者は立ち直りを支援しなければならない。これが一般的に言われるところの幸福論である。しかし、生死という枠の側を突き詰めてみれば、これは単なる現世利益の中途半端な思想であることがわかる。人間は誰しも必ずいつかは死ぬ。従って、一度きりの短い人生なのだから、苦しいことが多い人生よりも、楽しいことが多い人生のほうが得である。ゆえに、悲しみから早く立ち直ったほうがよい。立ち直りの支援は、このような善意に基づいている。しかしながら、避けがたく湧き上がってくる問いとは、他人の死の「悲しさ」ではなく「おかしさ」である。生きていた人が死んで居なくなるということは、どう考えても変なことである。人間は大人になるにつれ、この子供の頃の直観を忘れる。

人間が幸福を求めるのは、いずれ死が訪れることを心のどこかで知っているからである。それゆえに、目の前の他者の死から目を逸らそうとし、忘れようとし、それを幸福であると結論付けようとする。人生を形式の側からではなく内容の側からのみ見ていれば、それでも話は済む。しかし、他者の死の「悲しさ」はそれで誤魔化せても、「おかしさ」を誤魔化すことはできない。立ち直りとは、一般に他者の死を認めることであると考えられている。現実に死者は死んでいるのだから、その現実を受け入れられないことによって苦しみが生じるのであって、現実を受け容れれば苦しみを克服できるとの常識論である。ところが、それによって見過ごされて遠ざけられるのは、いずれ訪れるべき自らの死という最大の現実である。人生の形式、生死の枠を置き去りにしたまま、他者の死による悲しみや立ち直りを論じることはできない。このような理屈を一言で逆説的に述べれば、「死んだ人は生きている」ということになる。目の前に姿がない人のことを思い続けることは、現世利益では説明のつかない幸福であり、喜びである。

カウンセリングマニュアル

2008-09-25 22:51:27 | 言語・論理・構造
●悪い例

相談者 「夫は結婚記念日も忘れ、私の誕生日も忘れているのです。しかも私の誕生日には、自分の趣味のフィギュアを買って喜んでいました。私はもう我慢できません。離婚したいです」

弁護士 「それでは離婚事由になりませんね。あなたは暴力を振るわれていませんか。旦那さんは不倫をしていませんか。ギャンブルにはまって借金をしていませんか。お酒に酔って物を壊したりしていませんか。私は民法770条1項5号所定の婚姻を継続しがたい重大な事由を探しているのです。さあ、何でもおっしゃって下さい」

相談者 「・・・・・」


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●良い例

相談者 「夫は結婚記念日も忘れ、私の誕生日も忘れているのです。しかも私の誕生日には、自分の趣味のフィギュアを買って喜んでいました。私はもう我慢できません。離婚したいです」

弁護士 「それはさぞかし辛い思いをされましたね。お気持ちはよくわかります。それでは、良い未来を迎えられるように一緒に考えましょう。まず、民法には、離婚できるための条件が決められています。もう少しお話を聞かせて頂けませんか」

相談者 「はい、ありがとうございます」


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●解説

2人の弁護士の違いは、返答の冒頭に「それはさぞかし辛い思いをされましたね。お気持ちはよくわかります」という表現の共感があるか否かである。これだけで相談者の心を動かす力があるのかと思われるかも知れないが、絶対的な違いがある。共感を示すときには、それまでよりも声のトーンを一段低くし、一瞬だけ目を合わせて3回うなずき、次の瞬間に口元に視線をそらし、その次の瞬間に再び相談者の目を見ることが重要である。


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●実践編

相談者 「夫は結婚記念日も忘れ、私の誕生日も忘れているのです。しかも私の誕生日には、自分の趣味のフィギュアを買って喜んでいました。私はもう我慢できません。離婚したいです」

弁護士 「(声のトーンを一段低くし、一瞬だけ目を合わせて2回うなずきながら)それはさぞかし辛い思いをされましたね。(口元に視線をそらして1回うなずき、次の瞬間に再び相談者の目を見ながら)お気持ちはよくわかります」

相談者 「そんな簡単に気持ちがわかるなんて言わないで下さい。あなたに私の気持ちがわかるわけないじゃないですか」

弁護士 「・・・・・」

母親に殺されるとはどのようなことか

2008-09-23 23:30:56 | 時間・生死・人生
福岡市西区で18日、小学校1年生の富石弘輝君(6つ)が殺害された事件で、福岡県警は22日、母親の富石薫容疑者(35)を逮捕した。弘輝君の葬儀翌日の21日、福岡県警は任意の事情聴取で薫容疑者に「本当のことを聞きたい」と告げたところ、薫容疑者は「私がやりました・・・」と打ち明け、堰を切ったように号泣したという。薫容疑者は、「最初から殺すつもりはなかった。衝動的にトイレの中で首を絞めた」と供述しているとのことである。小学校によると、弘輝君には軽い情緒障害があり、福岡市の発達教育センターで昨夏「適正就学指導」を受け、特別支援学級に進むことを決めていた。そして、薫容疑者自身も難病を抱えており、「自身が病気を患っているため、子供が不憫で将来を悲観し、子供を殺して自分も死のうと思った」と供述しているとのことである。幼い男の子の死というやり切れない事件は、母親による殺害というさらにやり切れない結果で終わった。

子供が不憫で将来を悲観した。それゆえに、将来の時間を永遠に奪ってしまった。生きている限りの将来であり、生きている限りの不憫さである。殺されてしまえば、将来も不憫もない。それにもかかわらず、殺すという行為を選ぶ。もちろん犯行は衝動的であるが、それゆえに恐らく、犯行に至るまでの葛藤は他者の想像を絶するものと思われる。これは本人にしかわからないことであり、しかも本人にも完全にはわからない。母親であれば、本来は自分の命を犠牲にしてでも子供を守る存在である。そして恐らく薫容疑者も、息子のことを本当に心の底から愛していた。愛していなければ、子供が不憫で将来を悲観することもできないからである。「従って」、母親は我が子を殺してしまった。この「従って」という順接の掘り下げは、殺意や動機といったありきたりの解釈を厳然と拒む。発見時、薫容疑者は何度も弘輝君の名前を呼び、泣き崩れ、救急車に追いすがり「死なせて」と叫んだという。弘輝君の最後の「何で?」という疑問の答えは、この叫びの中にしかない。

一般的に、母親にとって、子供から言われてショックを受ける言葉の筆頭は何か。それは恐らく、「何で自分を産んだのか」「自分なんか生まれて来なければよかった」といったような言葉である。これは存在論的な真実を示している。子供にとっては、その親のところに生まれてきたことは単なる偶然にすぎない。これに対して、母親は自分の体で子供の体を産み出したことによって、「私の子供」という所有格を錯覚する。親子はあくまでも他人である。しかしながら、自分の体によって別の人間の体を存在させたという歴史的事実からは逃れることができない。これが縁であり、愛である。「情緒障害を持って生まれてきてしまった子供が不憫だ」、これは深い愛情である。「子供が不憫で将来を悲観した」、これも深い愛情である。赤の他人であれば、このような心情は絶対に生じることがない。ましてや、このような理由で見ず知らずの他人の子供を殺すことはない。その人間を過去に存在させた者が、未来に向かってその存在を消してしまう。これは、深く存在論的な問題であり、心理学の専門用語による客体的な分析を拒む。

我が子を殺すとはどのようなことか。薫容疑者は、我が子を殺した経験のある者だけが直面する問いを、正当に問いうる地位に立った。我が子に対する愛情表現が殺人であったことは、どんな理由を挙げても許されるものではない。法律が厳罰を与えねばならないことは明白である。しかしながら、この問いの解答は懲役刑の長さとは関係がない。ましてや、精神鑑定における責任能力、心身耗弱といったものは、存在論的な問いを突き詰める際には余計な概念である。答えの方向性は、すでに本人が事件の直後に見せている。捜索に加わった人が、トイレの外壁と柱のすき間で弘輝君を見つけると、薫容疑者は顔が黒ずんだ弘輝君にすがりついて泣いた。救急車で病院に向かう間は、ずっと弘輝君の名を呼び続けた。葬儀の出棺前には、弘輝君の頭をなで続けた。人間の倫理的直観は、これを証拠隠滅のための演技だと評価することを許さない。実の母親に殺されるとはどのようなことか。絶望の中に救いがあるとすれば、それは恐らくこの支離滅裂の矛盾の中にある。


福岡小1殺害、母親を殺人容疑などで逮捕(読売新聞) - goo ニュース

米原万里著 『不実な美女か貞淑な醜女か』

2008-09-21 18:53:22 | 読書感想文
通訳業は、その性質上不可避的なジレンマを強いられる。すなわち、言外のニュアンスも含めて美しく訳そうとすれば、内容の正確性は失われる。これに対し、一言一句まで丁寧に訳すならば、非常にぎこちなくなり、全体の流れやムードが台無しになる。米原氏は、前者のような訳を「不実な美女」と命名し、後者のような訳を「貞淑な醜女」と命名し、この使い分けの難しさと面白さを述べている(p.147)。この分類法で言えば、法律の条文や判決文は「貞淑な醜女」の典型である。民主主義であるにもかかわらず、専門家以外に読まれることを拒むような文が作られているからである。

以前より、日本語は論理的な思考に向かないと言われ、国際化時代において英語の早期教育が叫ばれることも多いが、これはある意味では危険な発想である。母国語は人間にとって空気のような存在であるがゆえに、その存在が忘れられることが多いが、母国語の習得は世界の成立を保障するものである(p.281)。これは、シニフィアンとシニフィエの恣意性に基づく。母国語が習得できない時点で外国語の習得を強いられると、人間はいずれの言語の抽象概念をも扱えなくなり、不安定な自我意識に苛まれることが多い。母国語が上手い人は外国語も上手く、外国語は母国語よりも上手くなることはない。

文科系の学問のうち、哲学や文学は実用性がなく、法学や経済学は実用性があると言われてきた。しかしながら、現代社会では実用化知識が細分化しすぎ、応用範囲が狭くなってきた。その専門を少しでも離れると手も足も出なくなり、役立たずと言われるようになってきた。そして、哲学や文学のほうが全体的な視点を提供することにより、現代社会の役に立つようになっている(p.79)。まさに無用の用である。古今東西の文学は、世の中の諸々の現象や人間の営み、思索の過程を言葉によって余すところなく表現しようと試みてきた。即物的な金儲けという意味でなければ、哲学や文学には法学や経済学以上の実用性がある。

法学者は言葉の専門家であるが、言語に対する敏感さという点において、通訳業にはとてもかなわない。米原氏は人間の殺意について、次のように述べている。「殺意の原因は、本来自分の意思や思想や感情を表現することを使命とする脳のある部分が、あまりにも長く他人の意思や思想や感情に占領されていたために、耐えられなくなってあげる悲鳴のようなものではないか」(p.306)。誰しも人生のうちには、瞬間的に殺意を覚えた時というのがあるはずである。その瞬間を思い起こしてみると、この「占領」や「悲鳴」によって言わんとしている意味がよくわかる。殺意の有無を正確に研ぎ澄まして言語化しようとすれば、人間はこのような比喩的な表現を突き詰めるしかない。裁判における証拠による殺意の認定は、このレベルにまで至ることができない。今後は、裁判員がこの作業を遂行することになる。

福岡小1男児殺害事件 / 鹿沼市自動車水没事故

2008-09-20 18:22:53 | 時間・生死・人生
9月18日、福岡市西区の公園で、小学校1年生の富石弘輝君(6つ)が殺害された。昨日の通夜では、同級生や保護者、学校関係者など約150人が幼い命の冥福を祈った。やりきれない思いと深い悲しみに包まれた会場では、固く口を閉ざしたまま足早に会場を後にする親子も多かったとのことである。今日も現場の公園には多くの花束が手向けられ、人々は手を合わせながら、「どうしてこんな事件が起きるのか」「夢だったらいいのに」「早く犯人を捕まえてほしい」「絶対に犯人を逮捕してほしい」と訴えた。

裁判員制度の導入を控えて、有識者や専門家からは、マスコミが大衆の厳罰感情を煽る行為が問題視されている。そして、「絶対に犯人を逮捕してほしい」という安易な認識が誤認逮捕や自白の強要を産み、厳罰化の温床になっていると言われることもある。しかしながら、6歳で人生を終えなければならなかったという事実の不可解さに直面し、絶望の中で絶句し、何とか絞り出した言葉について、「大衆の厳罰感情」とのレッテルを貼ることが果たして可能なのか。「許せない」「絶対に犯人を逮捕してほしい」との反射的な直感を抑え込まなければならないような人生は、果たして人生の名に値するのか。

捜査の進展により、犯人はわずか2~3分の間に犯行に及んだこと、首には細いひもを二重にして絞めた跡が残っていたことが判明した。そして、公園内からは携帯電話を首からつるすストラップが発見され、犯人につながる有力な物証として鑑定が急がれている。しかしながら、肝心の目撃情報は全くなく、捜査は難航しそうである。この捜査を支えるものは、「絶対に犯人を逮捕してほしい」「絶対に犯人を逮捕しなければならない」との信念以外ではあり得ない。近代国家では無罪の推定が働いている以上、「犯人を逮捕する」という表現は厳密には誤りである。それにもかかわらず、人間の倫理的直観は瞬間的にこの言葉を求める。


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8月16日、栃木県鹿沼市内で、豪雨で冠水した道路に軽乗用車が水没し、運転していた高橋博子さん(45)が死亡した事故があった。この事故では、通報を受けた県警が別の水没事故と混同して出動せず、同市消防本部も通報を受けながら別の事故と混同して出動指令を出しておらず、県警と消防による二重の不手際が判明している。携帯電話から悲鳴とともに母親に助けを求めた博子さんの最後の言葉は「お母さん、さよなら」であった。博子さんの長男は、自宅での取材において、やりきれない表情で、毎晩水没した車の中にいる母親の夢を見てうなされると述べ、「犠牲者は母で最後にしてほしい」と何度も繰り返した。

今日、この事故を受けて、宇都宮中央署などにより車の水没事故を想定した救助訓練が行われた。昨日は、鹿沼署や同市消防本部が、通報受理や指令の合同訓練を実施している。同署管内で関係機関が連携した訓練は初めてであり、事故を教訓とした実践的な再発防止の取り組みが県内各地で始まっているとのことである。さて、このような訓練の様子を目の当たりにして、「二度とこのような思いをする人がいなくなるように」「死を無駄にしないでほしい」との家族の思いは満たされるのか。

これは、恐らくある意味では満たされる。そして、残された者にとってできる限りの最善策でもある。ところが、技術的・政策的なマニュアル、将来に向けれらた制度設計を見せ付けられることは、逆に大きな苦しみをもたらす。再発防止策をされなければ苦しいが、再発防止策をされても苦しい。再発防止策が完璧になればなるほど、戻らない時間と覆らない現実がますます遺された人間を苦しめる。この逆説が、犯罪被害者救済は政治運動ではあり得ないことを示している。

宮崎哲弥・藤井誠二著 『少年をいかに罰するか』

2008-09-19 10:54:10 | 読書感想文
p.324~

藤井: 大げさな言い方だと批判されるかもしれませんが、私自身も含めて、少年法を研究し擁護してきた人々のアイデンティティは、被害者やその遺族の慟哭を踏み台にしていたのですよ。それに気がつかなかったのは愚かです。そこをきちんと総括して、自己反省してからでないと、被害者の言い分に向き合うのは不誠実だと思う。それをしないで、場当たり的に被害者の問題に関わろうとしても、そういう人たちの欺瞞を被害者の人々は見抜きます。


p.339~

藤井: 被害者側にしても、訴訟の動機は、民事訴訟を通じて事実が知りたいのです。しかし、そのために、そうした泥沼の戦いを3年から4年しなければならない。これはこれまで全然触れられてこなかった少年法の問題だと思うんです。しかも、民事裁判では弁護士が少年にすごく厳しい追及をする。被害者側弁護士は刑事記録も他の資料も全部とり寄せて読んでいます。弁護士は少年にたいして容赦しません。
宮崎: 弁護士は(検察官が少年審判に関与すると)少年が萎縮するとか健全育成によくないなどと主張しますが、ただの二枚舌みたいですね。法律界なんてタテ割りの世界です。少年法やってる人は、みなさん刑事法の特別法として専攻しているから、民事は対象外なのかもしれない。


p.361~

宮崎: 日弁連が被害者の問題を等閑視してきたのは、日本の法学教育そのものに問題があるんです。刑事法の場合、被害者のことなんか考えません。学者も考えないし、学生も教わらない。刑法・刑事訴訟法・刑事政策の授業で、被疑者・被告人・受刑者の処遇問題などは物凄く細密に教わるけれど、被害者学はどうでもいいような選択科目にすぎない。そういうところで学習している法曹や法律学者、ジャーナリストたちが、被害者に注意が行かないのは当然です。これはある意味では無理もない。法学の体系がそうなっているからです。


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教育は言語によって構造を作り、世界を作る。世界は言語そのものであり、言語で語られたように世界は見える。これは、一般に言われるところの世界観のことではなく、世界観を成立させている世界そのもののことである。従って、教育を受けた者の世界は、教育を与えた者によって全く変わる。これが教育の重要性である。そして、この重要性は、義務教育も専門教育も変わるところがない。むしろ、専門教育は多くの場合、その教育を受けた者におけるものの見方を一生にわたって固定する。この世界は、全く別の専門教育を受けた者の世界と抵触し、相互にその世界の安定を脅かす者を攻撃し合う。一度作り上げてしまった世界はその中に生きる人々の人生そのものであり、今さら「間違っていました」と言ってしまっては取り返しがつかないことになるからである。

なぜ目の前に被害者がいるのに被害者が見落とされてきたのか、その答えは刑事訴訟法の判例集を見てみればすぐにわかる。八海事件、白鳥事件、練馬事件、狭山事件、草加事件、甲山事件、高田事件、袴田事件、杉山事件、浅井事件、若松事件、名張毒ぶどう酒事件、鹿児島夫婦殺し事件、調布駅前事件、高輪グリーンマンション事件などなど、これだけの判例を読み込めば、その読者にとってそれ以外の世界は存在しなくなる。ここで急に犯罪被害者保護が必要だと言っても、生活に密着した言葉は出てこない。「被害者は大黒柱を失って収入が減少し、医療費等の出費は増える一方、ローンも払えなくなり、残された家族の就業も事実上制限されるばかりか、不慣れな裁判所、警察や行政官庁に対してストレスを感じ、裁判に関する手続に出席する時間の捻出も大変なのです」といった判で押したような言葉が繰り返されるだけである。

性善説と性悪説

2008-09-18 00:04:30 | 国家・政治・刑罰
大阪市の米粉加工会社「三笠フーズ」が、工業用に購入した事故米を食用に転売していた問題は、人々に深い脱力感をもたらした。ここ数年、あらゆる分野で偽装が次々と判明しており、そのたびに色々な対策が叫ばれている。しかしながら、この資本主義社会は、最後まで上手く偽装を通した者が得をし、正直者が馬鹿を見る構造になっている。従って、他者の偽装が判明したならば、それを他山の石として自らの偽装をやめる者よりも、より巧妙に偽装の方法を考える者の方が多くなる。「三笠フーズ」の問題においては、まず消費者の食の安全という視点が浮き上がったが、農林水産省の公表によって菓子メーカーや米穀販売店が大損害を蒙り、農林水産省への批判も高まってきた。こうなってくると、もはやそれぞれの利害が入り乱れて収拾がつかなくなる。

姉歯秀次一級建築士、ヒューザーの小島進社長らによるマンション耐震強度偽装問題が判明したのは、3年前の秋のことであった。それ以降、1つ1つ思い出せないほどの様々な偽装事件が世間を騒がせてきた。ところが人間は、どんなに他者の偽装が判明しても、自らは偽装という行為をやめない。そして、ある者はずらっと並んで謝罪をし、ある者は開き直って弁解をする。また、どんなに毎月のように偽装が判明しても、人間はそれに対して怒りを感じることをやめない。そして、マスコミは正義感において憤慨し、道徳を述べ、偽装した者を激しく非難する。人々は、どんなに偽装が日常茶飯事となっても、偽装に対して泰然自若とした態度を身につけることはない。信頼が裏切られようが裏切られまいが、偽装という行為は、人々に対してなぜか本質的な脱力や憤りをもたらす。

マンション耐震強度偽装問題の後、一種の流行となったのが「性善説から性悪説へ」という言い回しである。監督責任を問われた役人が、「チェックは性善説に基づいており、偽装を想定する性悪説は考えていなかった」という答弁を行ったところ、これが意図せずして深い真実を突いてしまい、マスコミで繰り返し報道されることになった。性善説とは、善は普遍的に存在し、無垢な人間が同族に対して害意を持つ事はあり得ないとの思想であり、孟子(BC372-BC289)によって提唱されたものである。これに対して性悪説とは、人間は往々にして意固地で悪意に満ちており、善意は後天的に習得するものだとの思想であり、荀子(BC313-BC238)によって提唱されたものである。そして、マンション耐震強度偽装問題が生じた根源は、我々が性善説に基づいて社会の構築をしたことであり、我々は今こそ性悪説に立って社会を立て直すべきであるといった主張が声高に叫ばれた。

性善説か性悪説か。2000年以上も前から決着がついていない理論について、21世紀の日本で争ったところで答えは出ない。問題は、3年前の耐震偽装事件のときに叫ばれた「日本は性善説から性悪説へ移行すべきだ」「企業は性悪説に立ってコンプライアンスを徹底すべきだ」との理論が、どのような成果を挙げているかということである。今回の「三笠フーズ」の事件を受けて、また同じことを叫ぶというのでは全く前進がない。性悪説に基づいた理想的な社会の建設という大目標は、どんな時代にも等しくあてはまるがゆえに、2000年以上も同じところで足踏みを続けている。そして、2000年以上も動いていない真実は、偽装という行為が人々に対して本質的な脱力や憤りをもたらすという点である。これは、偽装が悪であるが故に、本能的な善の力が葬られまいとして湧き上がる動きである。すなわち、偽装が善であれば、それは偽装ではない。

落合恵子著 『母に歌う子守唄 その後・ わたしの介護日誌』

2008-09-17 23:28:22 | 読書感想文
● p.18より

難しい医療の専門用語ではなく、ひとがひとに贈り得る、優しく、易しいことばと姿勢……。多くの患者と呼ばれるひとたちやその家族が、医療に求め続けているものも、ひととしての共感であり、その深い共感に基づいた治療や助言であるのだろう。


● p.77より

亡くなる直前のこと。血圧も血中酸素の数値も異様に下がり、彼女は看護師さんを通して、医師を呼んでもらった。急ぐ彼女の思いは、看護師さんには伝わった。10分、15分……。23分たって、担当の医師が廊下の向こうから現れた。

母の手を握って声をかけ、来ない医師を待ちわびて病室のドアのところに走り、またベッドサイドに戻ってという動作を繰り返していた彼女は見た。「それは、別の医師と談笑し、すれ違った看護師さんに何か声をかけてさらに弾けるように笑ってゆっくりと歩いてくる医師の姿でした」

医師にとっては母のような状況は日常の点景のひとつかもしれない。それでも、といま彼女は思う。「最期のあの瞬間、廊下を急ぎ足でやって来る彼の姿を見ることができていたら……、わたしはいま、母を失ったシンプルな悲しみに浸っていられるのかもしれません」


● p.154より

医療はむろん医学的技術と体験と知識が基本だろう。しかし、それだけではない。……あなたたちが診ているのは、それぞれ長い個人史をもった人間なのだ。あなたが聴診器をあてている「部分」だけが、患者の「すべて」ではないのだ。

多くのわたしたちは、目の前にいる愛するひとの看病と介護が優先と、医療の現場での、悪意はないけれど不用意なことばに対する悲しみにも憤りにも蓋をする。患者やその家族は一体、いくつの「蓋」を自分にしなくてはならないのだろう。それは不当だ。そういった日々の中で支えになるのは、誰かからの優しいことばやこころづかいだ。


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患者の権利が叫ばれるようになると、インフォームドコンセントの技術ばかりが先行しがちである。そして、契約書の文字をどんどん小さくし、細かい書類をどんどん増やして誰も読まないという現代社会のビジネスの悪い側面が、医療の現場にも及んでしまう。細かい文言が書いてある同意書にサインした以上、医師は説明を尽くしたことになり、患者はもう文句は言えないとなれば、インフォームドコンセントは逆効果である。生死を契約で語ろうとすれば、必然的に無理が噴出する。患者や家族に張り裂けそうな胸の思いが生じることは、同意書にサインをしても抑えられない道理である。

医療過誤の裁判は、死亡直後の説明におけるわずかなボタンの掛け違いが、巡り巡って双方の膨大な負のエネルギーとなって衝突してしまう例が多い。ここで同意書を持ち出すことは、「なぜ大切な人が亡くならなければならなかったのか」という患者の家族の問いに対する回答としては逆効果である。この場面で必要なものは、数値化できない説明のわかりやすさや、医師の誠意が伝わったか、納得の行くまで説明をしてくれたかといった、医師という立場を超えた人間の言葉の力である。人間としてのほんの少しの想像力を働かせることは、実際にはなかなか難しい。しかし、恐らく膨大な契約書の文言を考えることよりは簡単である。