犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日垣隆著 『刺さる言葉』 その1

2007-09-30 18:01:57 | 読書感想文
「定義」と言えば、辞書によって客観的に与えられているものであり、それに逆らうことはできないものと思われている。例えば、「選挙」の定義は何かと問えば、大辞泉からは「選挙権を有する者が全国または一定区域において一定数の議員・都道府県知事・市町村長など公職に就く者を投票によって選出すること」といった面白くも何ともない答えが返ってくる。「選挙運動」の定義を問えば、「選挙で特定の候補者の当選を目的として選挙人に働きかける行為」との無難な答えが返ってくる。しかしながら、定義は意味ではない。定義された単語は、それぞれ別の単語によってさらに定義されねばならず、相互依存的である。

辞書的な定義によって、わかったと感じるのか、わからないと感じるのか。これは個人によって異なる。少なくとも日垣隆氏にとっては、全くわからなかった。何しろ日垣氏は小学校3年生のとき、組合活動に熱心であった父親に対して、「革新が政権をとれば保守にならないのか」と尋ねている(p.200)。これは、思考の固まった大人にとっては虚を突かれる問いである。辞書的定義からすれば、「変える」「新しくする」「保つ」「守る」といった動詞は単にそれだけのことであり、それを自民党や共産党と切り離せないものとして捉えているのは、実は単なる思い込みにすぎない。このような問いは、通常は大人になれば消えるものであるが、それは納得して答えを出したからではなく、忙しさに紛れて忘れてしまったからである。


日垣氏による定義(憲法学者が聞いたら激怒するもの)

● 選挙(p.14)・・・・ 権力(立法権力と行政権力)争奪戦のこと。勝つためには、逮捕される行為以外、何でもアリと考えられている。

● 投票(p.17)・・・・ なぜ投票に行ったほうがいいのか。現代日本では理由は1つしか見あたらない。開票速報が楽しくなるからである。馬券を買わないと、競馬が楽しめないのと同じ理由だ。

● 法治(p.20)・・・・ 法治とは、強いて言えば“悪法も法”という点にその本質がある。“良”や“悪”が万人にとって法に冠されるわけではない。刑法199条(殺人罪)は復讐を望む人にとっては悪法だろうし、憲法9条もある人たちにとっては悪法だ。

● 人権・自由・平等・博愛・権利(p.118)・・・・ 辞書や新聞をいくら読んでもよくわからないのは、これらの概念を「絶対に正しい」ものと前提にして使われているからにすぎない。次のように正しく定義すると、その本質がよく見えてくる。人権=声の大きい者による既得権の拡大、自由=わがまま、平等=抜け駆け禁止、博愛=敵は殺せ、権利=ゴネ得。    

(続く)

死刑にすれば終わりなのか

2007-09-28 17:28:04 | 実存・心理・宗教
9月25日の朝日新聞の投稿欄である「声」の欄に、山口県光市の母子殺害事件についての投書が載っている。


「死刑にすれば終わりなのか」 主婦・55歳
山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審には疑問を感じている。(中略)元少年を精神鑑定した大学教授は、証人尋問で「元少年は精神的な発達が未熟で、今も殺した意味を十分に認識していない」と指摘した。(中略)元少年を全面的に弁護するつもりはないが、死刑にすれば終わりと言っていいのか。多くの専門家を交え、深い議論を重ねないといけないのではないか。私たちも、一方的な報道に振り回されず、冷静に判断することが大切だ。


読み終わった後、何だか非常に気持ち悪い。理屈は完璧であり、文章も上手くて読みやすく、どこがどう間違っていると指摘できるわけでもない。しかし、何だか騙されているような気がする。この違和感の源泉を述べるならば、殺人事件を語り、死刑を語っているのに、死を語っていないという点に尽きるだろう。「殺害」「死刑」という単語が表面を滑り、実存的な生死の生々しさが伝わってこない。

死刑にすれば終わりなのか。投稿者は反語的に「終わりではない」との解答を含意させているが、現実にそれは無理である。死は終わりだからである。死刑は単に死に方の1つであり、病気や事故、寿命や自殺と並ぶものに過ぎず、生死の下位概念である。死刑にすれば終わりなのかと言って熱く議論するとき、その人は自分が死ぬべき存在であることを見事に忘れている。投稿した55歳の主婦も、あと50年もすれば確実に死んでいる。死刑を死から切り離し、非人称の社会に視点を取るならば、このような緊張感のない政治的な主張に行き着くしかない。これでは被害者の死を見落とすのも当然である。このことに気付かせるためには、「故・本村弥生さん」「故・本村夕夏ちゃん」というように、その都度愚直に「故」を付して語ることが1つの方法ではあるだろう。

投稿者は、多くの専門家を交えて深い議論を重ねるべきだと述べているが、事件から8年経っても議論が深まっていないことからもわかるように、これはまず無理である。そもそも、殺人や死刑についての専門家に意見を聞けば答えが出るという前提が、どうにも緊張感を欠いている。このような専門家は、「生きている自分が第三者の殺人行為を見ている」という存在の形式そのものを見落とし、政策論としての主義主張を大声で叫ぶのが常であるから、議論が深まるわけがない。もし議論を深めようと思えば、殺人や死刑についての専門家である以前に死の専門家にならなければならないが、そもそも生きている人は死んでいないのだから、死がわかるはずもない。従って、この点の専門家は存在することができない。殺人者の心理分析や死刑制度の歴史に詳しい専門家は、生きている限りにおいて、「自称・専門家」であるしかない。

西野喜一著 『裁判員制度の正体』

2007-09-27 18:32:31 | 読書感想文
裁判員制度反対論の立場から述べられたものであり、推進論である丸田隆著『裁判員制度』への対抗心にあふれている。裏表紙には、「推進論者の学者のなかには、驚くべきことに、日本人は働き過ぎだから、自営業者が裁判員の仕事で何日か仕事を休むこともよいことではないかと言う人がいます。・・・開いた口がふさがらないでしょう」(p.172)との部分が引用されているが、これは明らかに丸田氏のことである。ここまで露骨に子どものような喧嘩を見せつけられると、裁判員制度が始まる前からウンザリする。少なくとも、両者の本とも読んでいない大多数の人にとっては、どちらでもいい話である。

西野氏は東大法学部卒で元裁判官、現在は法科大学院教授の超エリートである。エリートの著作らしく論旨明快であり、文章も読み易く、実証的なデータの収集もぬかりない。しかし、最後に引っかかってしまうのは、どうしてそんなに熱くなっているのか、そこがわからないという点である。なぜ丸田氏が推進論でなければならず、西野氏が反対論でなければならないのか、その点である。丸田氏はアメリカ留学体験から真実を得たと述べていたが、それならば西野氏がそのような経験をしていたら、立場は同じだったのではないか。西野氏はすべてを自らの刑事部の裁判官としての経験から語っているが、もし丸田氏がその立場にあれば、両者の主張は逆転していたのではないか。要するに、立場が変われば意見が変わるというだけの話であり、何も推進論が丸田氏でなくても構わないし、反対論が西野氏でなくても構わないということである。

丸田氏の本と西野氏の本は、その内容は正反対であるが、その構造だけは非常に似ている。まずは動かぬ主張があって、自説の根拠づけが沢山並べられ、データやソースで権威づけがなされ、その後に反対説に立った場合の不都合性が述べられる。西野氏は法曹界の超エリートらしく、あらん限りの理由を列挙して説得力を上げる。犯罪の内容とは関係ない被告人の印象で有罪・無罪や刑の重さが決まってしまい、口の上手い被告人が得をしてしまい、裁判がゲーム化するのではないか。会社員は裁判員を断らずに仕事を休んだことにより、窓際に回されたり、エリートコースから外されたり、リストラの要員になったりするのではないか。このようなことが延々と述べられているが、別にこの程度のことならば東大法学部卒でなくても元裁判官でなくても誰でも言える。もちろん、丸田氏のように、「だからこそ国民全体で裁判員制度を理解して育てなければならない」と主張することも誰でもできる。

西野氏も丸田氏も、相手をやりこめるためのロジカルシンキングに長けているがゆえ、この勝負は決着がつかない。西野氏の本には、何と内閣直属の審議会である司法制度改革審議会において委員が興奮して罵声を浴びせたというやり取りまで書かれているが(p.54)、新書で全国に向けて語るほどの話ではない。ソクラテスがソフィストを嗤った時代と何も変わっていないことがわかる。この勝負は、国民の75パーセントが裁判員制度に反対していることからすれば、理屈の上では西野氏が勝っている。しかし、多くの国民がそう述べた理由は、単に興味がなく面倒なことに関わりたくないからにすぎず、西野氏の言うように「憲法改正につながる国民総動員の思想に警戒感を抱いている」というわけではない。

丸田隆著『裁判員制度』については、http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/52addbf02c219306b0c2455ea41d7faf

いじられキャラが立つ

2007-09-26 18:41:25 | 実存・心理・宗教
麻生太郎氏のおかげで「キャラが立つ」との表現が目立っている。キャラとはキャラクターの略であり、人間に使われる場合には、性格類型、その人の持ち味といったものを指している。もともと、「キャラがかぶる恐怖」という現象があり、これはキャラクターを中心とした日本の現代若者文化に特有の表現であると言われていた。ここでは、ある個人が小社会集団の中で「特定の固定された役割を演じているはずだ」という前提がある。そして、その社会集団の中で、ある個人の性格類型(それに基づく固定された役割)が別の個人と重複し、それによって本人同士や集団全体がささやかな不利益を被っている現象が「キャラがかぶる恐怖」である。良い悪いはともかく、言い得て妙である。

今年7月3日に神戸市須磨区の私立高校で飛び降り自殺した3年生の男子生徒は、周囲の人に「いじめられているのか?」と聞かれると、「いじられキャラやから」と答えていたという。高校という特定の小社会集団の中で、特定の固定された「いじる」「いじられる」という役割を演じざるを得ないとなれば、一見穏やかそうに見えて水面下は弱肉強食の生存競争、万人の万人に対する闘争である。どんなに頑張っても、人間にキャラクターがあてがわれる限り、「いじられキャラ」の発生は止められない。いまや学校のみならず、会社でも同じような現象が起きている。一度「いじられキャラ」が確立してしまうと、なかなかそこからは脱出できない。そして、いじる側に立った人間は、「いじられキャラ」に転落する恐怖と直面するため、自らの既得権を絶対に手放さない。

自殺した高校3年生の男子生徒は、「うそを1回つくごとに5万円を払う」という約束をさせられ、それを支払うために学校や親に内緒でアルバイトをしていたが、さらに同級生らの要求はエスカレートし、最後は数十万円になっていた。そして、男子生徒は「借金が返せない」と話していたという。ここで、この金銭の流れが「借金」にあたるか、すなわち法律的に刑法の恐喝罪にあたるか、民法の強迫にあたるかといった話はどうでもいい。「いじられキャラ」を演じて自分を守ろうとした男子生徒が、自分自身に対してそれが「借金」であると言いくるめ、それが自分自身を苦しめてキャラを演じきれなくなったところに問題がある。すべては「いじられキャラ」という肩書きのなせる業である。学校側も「いじめがあったか確認できない」などと寝ぼけたことを言っている場合ではない。麻生さんも、「キャラが立つ」などと言っている場合ではない。

キャラという軽い単語は、実際のところは深い実存不安を内包している。今、現にここに存在している私、人間は誰しもこの実存から逃れられない。それが故に、人間はその対極であるキャラを演じる方向に走る。しかしながら、誰しも演じたくない「いじられキャラ」にはまって抜け出せなくなると、実存不安を解消するためのキャラが自らに実存不安を生じさせ、かえって自殺を誘発してしまう。一度きりの人生で、なぜ自分は「いじられキャラ」であるのか。しかもこのキャラは先祖伝来の宿命でもなく、自由競争の下での自分の努力不足であるとされる。そして、普通の人間では恐喝にあたる行為でも、「いじられキャラ」ならば納得の上で罰金を負担するのがその集団の固定された役割だから、恐喝ではなくて借金である。従って、借金はしっかりと返さなければならない。このような論理の中に放り込まれれば、「命を大切にしましょう」といったお説教など何の説得力もなくなる。「借金が返せない」と言って死んでいった男子生徒の言葉は、キルケゴールやニーチェの実存主義の角度から分析される必要があるが、この視点は教育評論家と哲学者のすき間に入ってしまって、なかなか指摘する人がいない。

茂木健一郎著 『脳の中の人生』

2007-09-25 19:13:24 | 読書感想文
法律学において、条文の一言一句の解釈をめぐって争いが起きることは必然的である。条文とは、この客観的世界に実在するものではないからである。それは、世界のどこにもない仮想である。我々が条文だと言っているものは、脳内の神経細胞の活動において、条文の写しとして表れたクオリアのことである。従って、条文解釈の争いは政治的な政策論としての意味しかなく、単にこの世の生活における便宜の問題に過ぎない。客観的世界に条文という実在が存在すると思ってしまうと、それには唯一正しい解釈もあるように思えてしまい、神学論争となって決着がつかなくなる。

この世の抽象名詞は、すべて脳内における1千億個の神経細胞の生み出すものである。茂木氏の哲学的なところは、この脳神経系のプロセスの可視化は、被験者以外の第三者の脳内における知覚と認識に依存しているという構造を見落とさないところである。すなわち、1千億個の神経細胞の動きは、それとは別種の1千億個の神経細胞の動きによって把握されるしかなく、それは相互依存的であるということである。誰しもそのネットワークの中に投げ込まれているしかなく、特権的に見下ろす場所に立つことはできない。他者の脳は自己の脳においてあるしかなく、逆に自己の脳も他者の脳においてあるしかなく、しかもどの人間も自己であり、どの人間も他者である。これは目が回る話であるが、目を回すことすらもできず、気が遠くなる話であるが、気が遠くなっている暇すらない。

しかし、多くの人間はこのネットワークの構造を忘れて、壮大な仮想世界を作り始める。法律の体系もこの1つである。法解釈学の命は客観性である。これを単に言語ゲームの表れだとして、客観的に存在しないことを前提としつつ、間主観的な合意の産物として接している分には問題ない。ところが、人間は閉じられた専門的な言語ゲームの中に入ると、その整合性の維持に夢中になってしまう。「刑法では類推解釈は許されないが拡張解釈は許される」というルールを作ってしまうと、今度は「類推解釈と拡張解釈は区別できる派」と「区別できない派」が生まれて論争を始めることになる。この論争にはまって熱くなると抜け出せなくなる。

仮想の世界の要素がその本性を全うするには、現実世界との対応はむしろ邪魔になってくる。そして、仮想世界の固有の論理を追求することのほうが本来的な問題となる。これがアカデミックな刑事法学である。犯罪被害者が長きにわたって見落とされたのは、刑事法学の主流がこのような方向を目指していることの副作用である。刑事法学者も、もちろん最初から仮想世界を目指していたわけではない。死刑か無罪か、人間の一生を決めてしまうかも知れない条文の解釈は峻厳なものであり、それに携わるのは社会のためになるとの自負が根底にある。しかしながら、客観的世界に条文という実在が存在するとの信仰は、安易に自己を特権的な場所に立たせてしまう。専門家の被害者に対する独特の「冷たさ」は、突き詰めればここに端を発する。

必要悪が宗教になる

2007-09-24 19:48:26 | 実存・心理・宗教
被告人は、裁判では自己の記憶にあることを語らず、思う存分自己弁護をすることができる。自己の有利になることはいくら主張してもよいが、自己の不利になることは黙秘する権利がある。このような裁判のルールは、それ自体独立で自己を正当化できるわけではない。あくまでも、国家権力による冤罪を最大の悪と位置づけたことの反作用として、その目的を達成するための必要悪である。被害者をさらに傷つける反道徳的な行動も、国家権力の悪を前提としなければ、それ自体では正当化できない。

「疑わしきは罰せず」というルールも、人間に直感的な違和感を生じさせる限りは、単なる次善の策である。被告人は本当に罪を犯しているのか犯していないのか、裁判ではそれ以上踏み込まないという決めごとである。その結果として真犯人を無罪放免にしても、それはそれで必要悪であると割り切ってしまう。単なるこの世のルールである。国家権力による冤罪を避けるためには被害者を犠牲にするという結果も、単なる必要悪であることを前提としてのみ正当化できる。真犯人を無罪放免にすること自体は、独立では善ではあり得ない。あくまで国家権力の悪を前提とする限りで正当化できるのみである。

しかしながら、人権派弁護士や支援者が被告人の冤罪を主張するとき、その運動は宗教に似てくる。すなわち、「信じる」という心情である。本当に罪を犯しているのか犯していないのかわからないからこそ、「この人は犯していない」と信じる必要がある。もし犯していないことが確実であれば、信じる必要などない。半信半疑だからこそ、信じるという心理状態を採ることになる。これが人間の陥りやすい原理主義の志向である。信仰という心理状態は、真理を探究する意志とは対極的である。被告人は本当に罪を犯しているのか犯していないのかわからないのであれば、「この人は犯していない」と信じる必要などどこにもない。

被害者や一般国民の側から見れば、「それならば真犯人は誰なのだ」と言いたくなる。しかし、人権派弁護士や支援者は、そのような当然の疑問を聞く耳を持たない。「あの人が本当にやっているわけがない」という結論が先にあり、それを絶対的に信仰するだけである。このような人々によって苦しめられる被害者が存在する限り、「被告人の人権と被害者の人権は両立する」という見解も、単なる名目上の建前にすぎなくなる。そもそも裁判とは、検察官の提出した起訴状に記載された公訴事実があるのかないのか、それだけを決定する手続であって、被害者のためにあるのではないと言い切るのが原理主義である。そうであれば、被告人の人権と被害者の人権は両立するわけがない。「被告人の人権のためには被害者の人権は犠牲にすべきである」と言わなければ筋が通らない。

米原万里著 『米原万里の「愛の法則」』

2007-09-23 18:28:00 | 読書感想文
外国語に関する議論、特に日本人の英語学習に関する論争はいつも華やかである。しかし、「ある一点」を捉えているか否かで、その議論の面白さと深さは全く変わる。ロシア語同時通訳としての地位を確立しながら、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家として広く人気を博していた米原万里氏は、やはりその一点を捉えている。小学校で英語を必修にすべきかに関する真面目で厳密な論争は面白くも何ともないが、米原氏の人を食ったようなエッセイは適当で面白い。晩年は凄まじい闘病生活だったようだが、この人もこれ以外の人生が送れなかった人物であり、やはり天才の形容が相応しい。

日本人が「国際化」というとき、それは我々の習慣を国際社会の慣習に合わせなくてはいけないという意味で使われている。すなわち、国際習慣・世界標準に合わせることが「国際化」であるとされている(p.64)。そこで、英語を公用語にしようという意見が出てくるが、これは単に軍事力や経済力に優れた国の言葉を知っていれば得であるという程度の話に過ぎず(p.92)、単におめでたいだけの議論である(p.84)。これは「国際化」と言いつつ、実はオランダだけを通じて世界の最新のものを取り入れようとしていた鎖国時代とあまり変わらない(p.86)。国際的なビジネスなどに興味のない人には、英語の必修など余計なお世話である。

言葉はモノそのものではない(p.124)。政治経済の面のみから論じられる英語公用語論の空虚さは、この一点を捉え損なっていることに基づく。言葉を手渡すという営みは、その解釈を相手方に全面的に委ねざるを得ない。これをウィトゲンシュタインは言語ゲームと呼んだが、その意味では、日本語内でのコミュニケーションも日本語・英語間のコミュニケーションも大して変わらない。通訳者の力量の差は、目の前の文章の中の文脈だけではなく、外の世界の歴史的文脈も含めて考慮しているかにおいて表れる(p.154)。通訳を経ても、できる限り同じイメージが維持されているか、これを極限まで目指すのが一流の通訳者である(p.143)。

単語が表れる瞬間というのは、必ず何かモヤモヤした言いたいことがある。言葉が出てくるためには、まずそのモヤモヤが必要である(p.182)。異なった言語の間の一語一句の対応など不可能であり、それができるという信仰が捨てられない限り、通訳業は務まらない(p.184)。その意味で、上手い同時通訳とは、大量の必要のない単語を訳さずに捨てることである。例えば、「言うまでもなく」は、言うまでもないなら言わなくてもいいわけで、省いても何も変わらない。「はっきり申し上げて」は、そのようにはっきり言っているわけだから、やはり省いていい(p.149)。「当然のことながら」、「私が申し上げたいのは」といった単語も、米原氏にかかれば容赦なく省かれる(p.150)。こうしてみると、人間は自分の主義主張を正当化するために、いかに効果のない無駄な単語を連発しているかがわかる。

歴史の中から生み出された人類の叡智

2007-09-22 18:11:17 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の加害少年の弁護団に対する非難の声に対して、広島県弁護士会の会長が勇ましい声明を出している(http://www.hiroben.or.jp/hirobenkai/seimei.html#26)。「亡くなられたお二人のご冥福を衷心よりお祈りする」「遺族の方の心情も察するに余りあるものである」と述べつつ、「しかしながら」でひっくり返した後が10倍以上長い。これは政治的な言論には付き物であるから仕方ないが、注目すべきは、「弁護人依頼権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中からその叡智をもって生み出した被告人の最も重要な権利である」との主張が、国民の広い違和感と怒りの声と全く噛み合っていないことである。

多くの国民は、なぜ「人類の叡智」論よりも、遺族の本村洋さんの言葉に説得力を感じたのか。それは、犯罪という加害者・被害者双方にとって実存的な問題を、正面から人生の文法で語っているか否かの差である。人間が生きるということは、他の誰にも代わることのできない、かけがえのない一度きりの人生を生きることである。キルケゴール(Soren Kierkegaard、1813-1855)に始まる実存主義は、ヘーゲルの歴史論を徹底して忌み嫌ったが、これは「一度きりの人生」に関する感受性の差異に基づくものである。人間が一度きりの人生を生きるということは、人類が歴史から叡智を生み出してゆくという意味での進化論とは相反する。人間が実存するとは、生まれた瞬間から常にゼロの地点から生き始めることであり、それ以前の歴史に束縛される筋合いはどこにもない。

どんなに国民に非難されても弁護人依頼権の趣旨を貫く弁護士は、いくらでも資料を集めてくる。無限に文献を集め、それに基づいて精密な理論を展開し、簡単には倒されないような理論武装をする。その反面として、目の前の人間の声を聞かない。このような政治的な議論は、殺人事件という生死が直接に問題となる事項に際しても、人間の生死を見ようとしない。目の前の勝負に夢中になっている間は、人間は自分が死ぬべき存在であることを見事に忘れる。「遺族の方の心情も察するに余りあるものである」ならば、どうしてその時点で絶句しないのか。なぜその後に長々と演説を述べることができるのか。

法律論においては、人類が歴史の経験から学び、前の時代が到達したとことを引き継いで、さらに先へと進歩するというパラダイムが当然のものとして用いられている。そこでは、民主主義の結果として得られた弁護人依頼権を国民が自己否定するなど、歴史の流れに逆行する愚行であると断罪せざるを得ない。ところが、一人の人間がこの世に生まれて自分の生を生きるということは、一回限りの出来事である。そこには進歩も叡智もあり得ない。多くの国民の弁護団に対する広い違和感と怒りの声は、この実存的な真実をごく普通に指摘したまでである。ここでさらに弁護団に「弁護人依頼権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中から叡智によって生み出した最も重要な権利である」と繰り返されても、そのような主張自体が実存不安に鈍感な政治論であるから、話はますます噛み合わない。

井上薫著 『司法は腐り人権滅ぶ』

2007-09-21 18:11:04 | 読書感想文
井上氏は元横浜地方裁判所の裁判官であり、「判決文では結論を導くのに必要のない部分は蛇足で不要なもの」という信念から、驚異的に短い判決文を言い渡すことで有名であった。被害者からの必死の民事訴訟に対しても、あっさりした2~3行の判決文しか書かず、その読み上げも1分足らずで終了してしまい、被害者からの抗議が起きて物議をかもしたことがある。

そのような多大な犠牲を払っている以上、何か立派な思想があるのではないか。この本にはそれを期待したが、最初から最後まで何が言いたいのかよくわからない。現役の裁判官や退職した裁判官が積極的に著述、発言をすることが悪いわけではないが、問題はその内容である。中身がないのに、裁判官という肩書だけで語られる理屈は空疎である。そこから裁判官という肩書を除けば、後には何も残らないからである。

井上氏はあまりの判決文の短さに横浜地方裁判所の所長から注意を受け、最高裁判所の下級裁判所裁判官指名諮問委員会は同氏について再任不適当と答申したことがある。これに対して井上氏は、このような注意は不当な裁判干渉であるとして、逆に横浜地裁所長の罷免を求めて応戦した。全くもって醜い泥沼であり、外から見てみればどちらでもいい話である。しかし、この間に井上氏の裁判を受けていた当事者はたまらない。特に、人生をかけて勝ち目の薄い裁判に必死で挑んでいた人はたまらない。

井上氏は裁判官の退官の際に、「立場上これまで抑えてきたが、今後は司法の現場の真相を全部暴く」と怪気炎を上げたそうである。そして、昨年7月に『でたらめ判決が日本をつぶす』、今年3月に『狂った裁判官』を発表し、さらに今年5月に本書を発表した。ルサンチマンのエネルギーとは恐ろしい。司法の越権行為から国民の人権を取り戻すという井上氏の主義主張はわからないこともないが、それがどうして極端な司法消極主義に直結するのか、人権を取り戻すと言いながら人権問題・憲法問題に論が及ぶことを最大限に回避しようとするのか、何だかさっぱりわからない。

それでも井上氏の筆致は勇ましく、とどまるところを知らない。「本書の公刊によって、誰も判例と信じて疑わない強固な城が、完膚なきまでに破壊しつくされる一部始終を読者の前に明らかにしてしまいました。判例の威信は、いよいよ傷つきもはや解決はありえないまでにいたりました。裁判の世界では、これ自体、驚天動地の出来事です」、とのことである。多くの国民にとってはどっちでもいい話であり、裁判の世界で勝手に驚天動地していても、別に誰が困るというわけでもない。ただ、被害者に対しては、せめて政治的な争いのとばっちりが及ぶことだけは避けてほしいものである。

生存と実存

2007-09-20 18:23:27 | 実存・心理・宗教
哲学の重要性を説こうとすると、色々な反発を食らうことになる。その中でも強烈なのが、「生活はどうするのか」という疑問である。これは強力である。実際のところ、哲学的な人間の多くは発狂などせずに、平凡かつ力強く生きている。借金や人間関係の悩みで自殺することなどまずあり得ない。そうは言っても、やはり形而上学である哲学は、形而下の生活には興味がない。行き着くところ、人類が連日朝から晩まで「自分はなぜここに存在しているのか会議」を開催し、経済が停滞することを理想とするのが哲学的な思想である。その意味で哲学的な人間は、実存ではなく生存を至上命題としているこの社会に対して、常に断絶と無力感と絶望を感じ続けることになる。

この無力感は、犯罪被害者遺族が加害者に感じる絶望と非常に似ている。被害者遺族の抱える最大の問題は、実存的な苦悩である。なぜ愛する人は殺されなければならなかったのか。遺族は、復讐でも恨みでもなく、この実存的な苦悩の解答を求めて裁判の傍聴に来る。加害者は車を運転して、その結果として自分の最愛の家族を奪ったのであるから、「もう一生車の運転はしたくありません」と述べるだろう。それを確認したいという思いで、遺族は裁判の傍聴に来る。ところが、多くの加害者は、裁判官の前で全く逆の供述をする。すなわち、「今後は気をつけて運転をします」というものである。

現代社会は、車がなければまずやって行けない。加害者も、別に旅行やドライブで車に乗るというわけではなく、仕事で乗るというだけの話である。現に、加害者から「一生車に乗れなかったら仕事もできず、生活もできず、私は一体どうしたらいいのか」と言われてしまえば、被害者遺族としては返す言葉がない。実存の苦悩からすれば、車で人をひき殺した人間は、それ以降は車に乗るたびにそれを思い出さなければならず、とても運転などできないはずだという正論が成り立つ。ところが生存の理論は、何よりもその加害者が現実問題としてその後どのように生活していくのかを問題にせざるを得ない。そして、形而下のトラブルを裁く裁判官は、遺族がどんなに「加害者が一生車の運転をしないように説諭して下さい」と訴えても、それに応えることができない。

それどころか、犯罪被害者保護の法政策は、次々と実存的な問題を生存の問題にすり替えようとする。確かに、交通事故で一家の働き手を失った配偶者や幼い子ども達には経済的援助が必要であり、国家的な補償が必要である。しかし、この側面がどんどん細かく技術的になると、当初の純粋な動機が見えにくくなる。しかも、被害者遺族としても、「なぜ愛する人は殺されなければならなかったのか」という実存的な問題の追求は精神的に苦しいため、法律の条文のどこをどう改正すべきであるという生存の問題に熱中することが1つの救いになってしまう。もちろん法制度がこのような方向で進んだならば、被害者遺族の割り切れない思いは、いつまでも違和感として残り続けることになる。