犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず

2010-01-12 00:24:41 | 実存・心理・宗教
 1月5日の読売新聞オンラインニュースに、「被害者参加制度の裁判員裁判・厳罰化見られず」との記事がありました。読売新聞の集計によると、被害者参加制度が適用された裁判員裁判では、検察官の求刑と比べて判決の懲役年数の割合が8割程度となっており、顕著な厳罰化の傾向は見られていないとのことです。

 被害者参加制度への反対論の論拠に、「裁判員が被害者参加人に感情移入して適正な裁判が妨げられ、厳罰化が進む」というものがありました。今回の集計結果は、この懸念が見込み違いであったことを裏付けています。
 それでは、反対論はこの結果を受けて、被害者参加制度に対して一定の譲歩をするのかと言えば、なぜか人間の心はそのような動き方をしません。被害者参加人が法廷に出ても裁判に影響がないのであれば、このような意味のない制度は廃止すべきだという主張に結びつき、反対論を勢いづかせるのが通常のことです。その意味で、反対論はあくまでも反対論であり、足元の安定した政治的主張だと思います。

 他方、被害者参加制度への賛成論の論拠は、「裁判員が被害者参加人に感情移入して厳罰化すればよい」という単純なものではありませんでした。そうかと言って、「被害者参加人が主体的に法廷で意見を述べられるならば刑罰の重さは関係ない」というものでもありません。
 こちらは、単純な厳罰化賛成論ではなく、人間の実存的苦悩がやむを得ず政治的主張の形を取らされた状態であり、常に足元が崩れ落ちそうな状況だと思います。そして、今回の集計結果は、「被害者参加人の言葉は裁判員の心に何も響いていない」との印象を与え、さらに実存的苦悩を深める方向で作用せざるを得ないと思います。

 今後、被害者参加制度の裁判員裁判において厳罰化の傾向が生じたとしても、反対論が政治的主張を勢いづかせ、賛成論が実存的苦悩を深める構図は変わりないものと思います。厳罰化が進めば進むほど、「裁判員が感情的になって適正な裁判が妨げられる」という参加制度反対論の論拠は力を増します。そして、賛成論に対して、「厳罰化すればそれで済むのか」という批判が可能となります。
 そして、この批判に対しては、参加制度賛成論は反論することができません。それは、犯人が死刑になっても殺された者は帰らないからであり、加害者に厳罰が下されてもそのことによって被害者遺族が立ち直ることはないからであり、その意味で「厳罰化しても済まない」という政治的意見は正しいからです。すなわち、どちらに転んでも、参加制度反対論は他者を責めて苦しめるのでしょうし、参加制度賛成論は自身を責めて苦しむのだと思います。