犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

全国犯罪被害者の会(あすの会)岡村勲弁護士が代表幹事を退任

2011-01-26 23:26:10 | 国家・政治・刑罰
 1月23日、全国犯罪被害者の会(あすの会)の岡村勲弁護士が同会の代表幹事を退かれました。
 「1997年、仕事の上で私を逆恨みした男によって妻が殺害されました。弁護士生活38年目にして犯罪被害者の遺族となって、被害者や家族がどんなに悲惨で、不公正な取り扱いを受けているかということを、初めて知りました。加害者の人権を守る法律は、憲法を始め詳細に整備されているのに、被害者の権利を守る法律はどこにもありません」。あすの会のホームページの冒頭にある岡村弁護士の挨拶文です。
 岡村弁護士の上記のような決意表明に対し、「心変わり」「変節」「転向」との意見をあちらこちらで耳にしたことがあります。38年間も人権派弁護士として被告人のために働いてきたのに、ここまであっさりと信念を捨てられるものなのか。無罪の推定を原則とし、被告人の更生を願い、死刑廃止を訴えてきたのは嘘だったのか。第一東京弁護士会会長や日弁連の副会長まで務めたにもかかわらず、弁護士としての正義はその程度のものだったのか。これらに対する解答としては、「はい、その程度のものです」と答えるのが正確だと思います。

 岡村弁護士の行動を「心変わり」「変節」「転向」と捉えるためには、客観的な原理のほうが確固として変わらず存在し続けるのに対し、主観的に特殊な体験をした者が動揺のあまり真実を見失ってしまったという構造を前提としなければなりません。ここにおいて、原理が確固として変わらないのであれば、それは絶対的正義である必要があります。ところが、絶対的正義はそれが絶対的であると宣言した瞬間から束縛を生じます。従って、人は純粋に正義を追求することにより、誰に頼まれたわけでもなく自由意思で絶対的正義を背負い込み、それが譲れないということになります。
 これに対し、岡村弁護士の体験は、自由意思ではなく受動的に過酷な運命に巻き込まれ、正義や悪の理屈を弁じる以前の段階において、その人生を全身で生きざるを得なくなっていたというものです。弁護士の地位は単なる肩書きに過ぎず、肩書きよりも人間が先であるのは当然のことです。そして、人の心を動かす言葉は、なぜか弁舌の技術を超えたところに生じます。頭に血が上った威勢のいい言葉と、胸が潰された中で絞り出された言葉とでは、人はその質の違いを受け取ります。岡村弁護士の38年間の信念が「その程度のものであった」とは、このような意味で捉えられる必要があります。

 法律の素人は、法律家とまともに戦おうとすれば、頭と口でほぼ確実に負けます。この点において、岡村弁護士の法的知識、論理的思考力が果たした役割は計り知れないものであったと想像します。弁護士会の人権論が絶対的正義である限り、重罰化、被害者の裁判参加、公訴時効の廃止などの政策は絶対的に不正義となります。そして、このような不正義が行われようとしているのは、被害者は感情的に厳罰を叫んでおり、法の裁きを復讐と勘違いしているためだと結論づけられることになります。
 このような議論の核心となるところは、犯罪者の人権を守る人権論が犯罪被害者に対する逆差別となっている点の是非であり、これは絶対的正義の価値を根本から問い直す内容を含んでいます。日本で犯罪被害者の権利の確立が遅れてきた原因も、法律家の頭と口が素人の被害者を負かし続け、このような議論の核心が表面化しなかった点にあると思われます。ここ数年の議論においても、弁護士会からは「被害者は裁判参加によってさらに傷つく」「重罰化では根本的な解決にならない」といった意見が出されていました。逆差別の構造を不明瞭にするこのような懐柔策に対し、論理的に反論するためは、やはり岡村弁護士の力が不可欠であったと想像します。

 さらには、岡村弁護士の「心変わり」「変節」「転向」そのものに対する法曹界のショックも大きかったように見受けられます。人権派弁護士であれば、たとえ家族が殺されたとしても、あくまでも被告人の側に立つべきだとの主張も理屈としては成り立ちます。しかしながら、現実を前にしてみれば、それが動かぬ現実を正確に描写したものか、机上の空論であったのかは自ずと明らかとなります。そして、岡村弁護士のような被害に遭っていない弁護士は、その幸運が単なる偶然であり、自己の努力によるものではないとの現実に向き合わざるを得なくなるものと思います。
 仮に他の人権派弁護士が岡村弁護士と同じ立場に立たされたならば、これも想像の域を出ませんが、恐らく99%は岡村弁護士と同様の「心変わり」「変節」「転向」に至るのではないかと思います。個人的な感情により刑事司法を歪め、私物化しているとの非難など、全く意に介さないということです。他方で、1%の弁護士は、頑として従来の信念を曲げずにいるのではないかと想像します。そして、人々はその態度のうちに自己欺瞞を看取し、絶対的正義の恐ろしさを感じ取り、死者の救われない命に思いを寄せることになるのだと思います。

海堂尊著 『ジーン・ワルツ』より

2011-01-16 00:19:20 | 読書感想文
p.125~ 抜粋

 現代医学はすさまじきもの、なんです。現代医学は、生殖とセックスの完全分離に成功したんです。妊娠、という言葉を医学の定義通り、卵子と精子の結合、という基本要素に還元することができるようになった。それを達成したのは精神論でも倫理観でもない。ただ、医療技術が向上した、それだけなんです。さて、不妊は完全消滅しました。少なくとも、卵子と精子が発生すれば、科学技術で必ず受精に至るようになりました。そうなると、新たな問題が生じてきます。父親と母親の定義です。

 例えば『脳死』という概念は、医療技術が進歩して人工呼吸器の使用などで、生命維持が高度になったため生じてきた事象です。人工呼吸器がなければ、通常の死は、脳死とほぼ同じです。ですが、人工呼吸器の使用により、本来なら死ぬ人が死ななくなる。そこで脳死という概念の導入が必要になるんです。このように、人工呼吸器という医療技術の出現が脳死という社会問題を派生させました。同じように、人工授精という新たな医療技術の革新により生じた新たな問題があります。代理母問題です。

 ある夫婦が受精卵を他人のお腹に戻した時、産まれてきた子どもの母親は誰でしょう。医学的なセンスのある常識的医療人であれば、ふつうは卵子提供者と精子提供者がその子の父親母親だと考える。でも現実は違います。卵子提供者は日本の司法制度の下では母親と認められていないんです。最近、最高裁でも判断されたばかりですけど、そこでは、親子関係は国家の基本だから一義的に決められる必要がある、という判決でした。民法が制定された明治時代なら、母親と子どもの関係は一義的でよかった。その運用は、嫡出外の子どもとの差異が問題だったんです。

 「つまり、法律の世界は明治時代の法典で、現代医療の諸問題を裁こうとしている、ということですか?」「それでは、最新医療を社会還元しようとしても、法律は追いついてこないじゃないですか」。
 「そのとおりです。高度医療と移植医学の社会への導入のために、法律的に死の定義の改変を余儀なくされた。今、生殖医療の技術革新に対する新しい法律制定が必要とされているのだけれど、司法は時代の奔流に追いつけない」。


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 海堂尊氏は先日、病理学者の東大名誉教授から名誉毀損で訴えられた事件の第二審(東京高裁)で敗訴したばかりです。海堂氏は法曹界に対してもかなり強烈なことを言っており、法律家もバカにされたものだと思いますが、多くの法律家は海堂氏に対してそれほど腹が立たないのではないかと思います。

 非嫡子の問題について、法律が時代に追いつかない、司法は時代の奔流に追いつけないと語られる場合、法曹界における主な議論は形が決まっています。すなわち、時代に遅れているのは、民法900条4号但書であり、これが改正されれば法律は時代に追いつくことが前提とされています。従って、さらに大きな視点から司法が時代の奔流に追いつけないと言われても、特に腹が立たないということになるのではないかと思います。

お金の問題ではない問題

2011-01-14 23:41:11 | 国家・政治・刑罰
 宇都宮地方裁判所は1月13日、足利事件で再審無罪が確定した菅家利和さん(64)が請求した刑事補償約8000万円について、その全額を認める決定をしました。刑事補償法によれば、逮捕後の勾留日数や服役期間に応じ1日1000円~1万2500円の範囲で国に補償を請求できますが、逮捕から釈放までの17年半(6395日間)を上限で計算すると、その額は7993万7500円となります。
 いくらお金をもらっても失われた時間は戻らないという事実は、それがなぜ事実かを正面から問う限り、堂々巡りに入らざるを得ないと思います。お金の問題ではないのならば補償金は安くてもよいのか、さらには1円も支給されなくても良いのかと問われれば、やはり人は「そうではない」と答えざるを得なくなります。逆に、しかるべき高額の補償金が支給されれば良いのかと問われれば、やはり人は「そうではない」と答えざるを得なくなります。
 結局、お金の問題ではないと言っても解決しませんし、お金の問題であると言っても解決しません。「失われた時間は戻らない」という事実を、他者に対する非難ではなく、その事実を客観的事実として問えば、個人の主観はその客観性に覆い尽くされて出口がなくならざるを得ないと思います。

 大人の社会における世渡りが「お金の力を借りて問題を無理に解決すること」で成り立っているのであれば、刑事補償の問題は、その汚い部分を浮き上がらせる効果を持つように思います。そして、その汚い部分とは、犯罪被害における賠償および補償の全般の問題そのものでもあります。犯罪被害の中でも、特に自動車事故、医療事故などの過失犯の被害者に対する賠償は、刑事補償との共通性が大きいように思われます。個人的な恨みのために故意に相手方を貶めようとしたわけではなくても、人間はどうしても誤りを犯してしまう動物であり、そこから理不尽な被害が生じるからです。
 過失犯の中でも、業務上過失致死罪や自動車運転過失致死罪によって戻らなくなったものは、死者の時間です。この失われた時間は、法律的には死亡時の年齢と平均余命との差によって計算されますが、哲学的には「永遠」です。そして、遺された者はこの永遠性を問わざるを得なくなりますが、法律はこれに対する答えを持っていませんので、裁判の中では論点自体の食い違いが生じます。
 何億円の賠償金をもらったところで、死者が帰らない以上はお金に意味はありません。しかしながら、意味がないならば賠償金はいらないのかと問われれば、やはり人は「そうではない」と答えざるを得なくなります。もちろん、億単位の賠償金がもらえればそれで良いのではないかと問われても、答えは断じて「そうではない」です。結局、お金の問題ではないと言っても解決しませんし、お金の問題であると言っても解決しません。

 誤判の過ちと犯罪の過ちの問題は、法律論においては既成の概念によって詳細な論理の体系が確立しており、イデオロギーから自由に論じることは困難だと思います。すなわち、近代刑法は積極的真実主義(過ちを犯した者は絶対に罰する)ではなく消極的真実主義(過ちを犯していない者は絶対に罰しない)を原理原則としており、問題はここから左右のイデオロギーに一気に突入し、ステレオタイプの論争に入るからです。
 しかしながら、刑事補償と過失犯で行われている議論の類似性に気をつけて見てみるならば、通常言われているところの問題とは別のイデオロギーの作用が見えてくるように思います。それは、物事の時間的な前後、論理的な前後という常識論から導かれます。人は必ず過ちを犯す動物であるため、法による規制が必要となります。そして、その法による規制を司るのが人間である限り、そこにも過ちが生じます。過ちの時間的な順番、論理的な順番としては、このようにならざるを得ないと思います。
 この順番は、近代刑法のイデオロギーに作用し、「お金の問題ではない問題」の解決不可能性の出口に対して、一定の価値序列を生じさせます。人間は必ず過ちを犯す動物であるという命題に立つ限り、「絶対に犯罪被害が生じない社会」を望んだところで、その実現は無理だという答えを突きつけられます。ここに出口はなく、「お金の力を借りる」という汚い大人社会の論理に引き戻されます。他方、人間は必ず過ちを犯す動物であるという命題に立つと、「絶対に冤罪を生まない社会」の実現は論理的には可能です。この最後の部分での一縷の希望の有無の差は、絶望的な懸隔であると思います。

 業務上過失致死罪や自動車運転過失致死罪など、過失犯の被害者遺族に対する圧力の形は、いつも決まっているように感じられます。それは、寛容を求める圧力とでも言うべきもので、「加害者も憎くてやったわけではない」というものです。「車社会では誰しも被害者になるのと同様に加害者になる」という言い回しもあります。これらは、「お金の力を借りて無理に解決する」という大人の論理に引き込む圧力として作用します。
 それでも問題はお金ではないと言うならば、その先には様々な懐柔策が用意されているのも事実だと思います。それは、悲しみを乗り越える、立ち直る、克服するという癒しや慰めの推奨です。問題の焦点を個人的な心理に集中させ、政治的な要求から遠ざけることは、それ自体が一種の政治的なイデオロギーであるとも感じます。特に、「怒りや憎しみからは何も生まれない」「厳罰に処すれば解決するのか」「冷静な議論を求めたい」などの表現は、その裏側に「うるさい人間を黙らせたい」というイデオロギーがあることが多いようです。
 過失犯の賠償と刑事補償の問題は、どちらも人は必ず過ちを犯すという共通のスタートから発しているにもかかわらず、寛容を求める圧力の差が微妙に生じるのは、やはり消極的真実主義のイデオロギーの微妙な作用の結果ではないかと思います。そのことが、お金の問題ではない問題の八方塞がりの状況に際して、一縷の望みがあるのか、一縷の望みもないのかの違いを生んでいるように思われます。

齋藤智裕著 『KAGEROU』

2011-01-12 23:37:41 | 読書感想文
p.91~

 生まれてすぐに死んでしまう子供もいれば、なにもしないで100歳まで生きる人もいる。たった数十円ぶんのワクチンや薬が買えなくて死ぬ人もいれば、若返りのための美容整形に途方もないオカネを注ぎ込む人もいる。死にたくて仕方がないのに死ねない人、生きたくても生きていけない人。

 『生きたくても生きていけない人のことを考えれば、命を粗末にする行為はできないはずだ』とおっしゃる方がいますが、私は正直心の中で『それは違う』と思ってしまいます。私は大東さんにはなれないし、大東さんは私にはなれないのと一緒で、生きたい人に死にたい人の気持ちはわからないだろうし、死にたい人に『とにかく生きろ』だとか、さきほど大東さんがおっしゃったように『生きてりゃきっといいことがある』と言える方の気持ちは理解しがたいはずです。


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 Amazonのカスタマーレビューを見て、作品が星1つ~星5つで批評される情報化社会はつくづく疲れるものだと感じました。批評という行為を小林秀雄に倣って行うならば、まずは作者ではなく登場人物を捉えた上で、その台詞回しに1ヶ所でも共感するところがあれば、それで特に問題ないのではないかと思います。

昨年の自殺者、平成14年以降では最少

2011-01-09 00:41:37 | 時間・生死・人生
1月7日 産経ニュースより

 警察庁が7日まとめた自殺統計の速報値では、昨年の自殺者は3万1560人で、前年より1285人(3.9%)減った。平成10年から13年連続で3万人を超えたが、過去10年では2番目に少なく、平成14年以降では最少となった。
 政府が自殺防止キャンペーンをした翌月の4月、10月に自殺者が前年同月より1割以上減り、効果があったことがうかがわれた。ただ、11月には逆に同1割増加。不況の長期化や政治不信の高まりもあり、減少傾向に転じたとは言い切れず、異常な状況は続いている。


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 自殺者の減少は、国民全体の願いです。昨年の自殺者数が一昨年よりも減少し、平成14年以降最少となったことは、非常に喜ばしいことであり、絶望の中の希望でしょう。そして、そのように言ってしまった瞬間の虚しさは、言葉に表現できないものがあります。自殺防止キャンペーンの効果を上げたいという政府の側から見れば、死者はその足を引っ張った不届き者ということになります。

 どの自分にとっても、その自分と他人とは別人である以上、他人の気持ちはわかりません。その中でも、人が電車に飛び込もうとする直前の気持ち、人がビルの上から飛び降りようとする直前の気持ちというものは、そのわからない中でも最もわからないものに属し、想像を絶するものだと感じます。これはもちろん、自殺など一度も考えたことのない幸せな人が「命を粗末にするなど理解できない」と語る意味のわからなさではなく、理解しようとすればするほど逃げるという種類のわからなさです。
 これは第一に、言語が凝縮された瞬間は、それに伴う行動が言語によってもたらされているにもかかわらず、言語化できないことによるものと思います。人が「死にたくない」との叫びを上げつつ死ぬことが不幸や絶望なのであれば、「死にたい」と叫びつつ死ぬことは幸福や希望となるはずですが、さらにそれが反転して不幸や絶望と評される以上は、この間の論理は飛躍せざるを得ないからです。第二に、生き残った者は死者に対して質問することができず、その瞬間の気持ちは時空間から永遠に消えてしまう点が挙げられると思います。その結果として、ある者はその瞬間を追い求めて永遠に苦しみ、別の者は「死人に口なし」で得をします。

 私がこのニュースを聞き、自分自身の心情を観察してみて偽善的であると感じたのが、「平成14年以降では最少」という部分の論理を捉えた瞬間の心の動きです。自殺者が年間3万人を超える状況が11年続いた、12年続いたという物事の捉え方に慣れてしまうと、人の死は単なる統計となります。そして、政治的主張の論拠として利用されざるを得なくなります。私自身、現代社会の殺伐、荒廃、余裕のなさを糾弾する文脈において、「毎年3万人もの人々が自ら命を断つ社会」と考えているところがあります。
 そうだとすると、現代社会の異常性を非難し、政府の無策を批判する文脈においては、それを裏付けるデータがなければならないということになります。私が自らの偽善性から逃れられなくなったのがこの点です。私は人身事故で電車が止まることを「迷惑」だと断じて恥じない人々を内心で非難し、その考え方が自殺者を増やすのだと考えてきました。しかしながら、そのような考え方を非難するに際してさえ、「毎年3万人もの人々が自ら命を断つ社会」の論拠は必要であり、3万人を下回ったならば、その論拠は正当性を失うことになります。

 私はこれまでの仕事において、裁判所側と弁護士側の双方の立場から、過労自殺、いじめ自殺などの事件に接してきました。その結果として、人は自ら選ぶ死を前にして遺書を書くことはできず、たとえ書いたとしても正確に書くことは不可能であるという当たり前の結論を再認識しました。この問いは、突き詰めれば明治36年に華厳の滝に飛び込んだ藤村操の『巌頭之感』に通じるものだと思います。「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く不可解。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る」という有名な一節です。
 但し、証拠によって事実の有無を決する裁判制度においては、被告の行為(長時間労働・いじめ等)と自殺との因果関係の有無という形で問いが立てられるため、自殺という哲学的問題を含む問題の議論としては、必然的に的外れになります。確かに、現代の遺書は藤村操の煩悶のレベルには及びません。それだけに、膨大な情報を処理し切れず、他律的に人間の価値を下げられ、その存在を構造的に値切られ、人生に生きる価値はないとの結論を強制されて死を選ぶしかなくなる過程は、厭世的になる余裕すら与えられず、人間が人間であるがゆえの絶望であると感じます。

 大学時代のゼミで、人間と人間以外の動物との違いは何かという議題が出されたとき、ある学生から「自殺をするかしないか」という解答が出て、今でも妙に印象に残っています。その当時は、脳の発達の程度の差がそれに伴う行動の違いをもたらすのであり、自殺もその1つに過ぎないのだから、現象(自殺)よりも本質(脳)のほうが論理的に先ではないかとの感想を持っていました。しかしながら、考えれば考えるほど、この答えの恐ろしさに気付くようになってきました。
 過労自殺やいじめ自殺の死者は、自らの生命の重さをもって論理の筋を示し、しかもその筋は遺書には書くことができず、自分を自殺に追い込んだ者の倫理への信頼をもって死とします。ところが、彼を自殺に追い込んだ者は、彼が遺書の不存在または不正確性をもって、自殺の責任を負うことを否定することが可能です。その結果、遺族の最大の苦しみは、死に至る瞬間の絶望を想像して哲学的に苦しむことから、裁判に勝つための証拠を探して法的に苦しむことに変わります。私は裁判所側の仕事においても、弁護士側の仕事においても、自殺の推奨ばかりしてきたような気がします。

交通事故死者数が10年連続で減少

2011-01-06 00:04:37 | 時間・生死・人生
1月5日 Car Watch ニュースより

 警察庁は1月2日、平成22年の交通事故死者数を発表した。発表によれば、平成22年は57年振りに4000人台まで減った平成21年から、さらに1.0%減少(-51人)し、4863人となった。
 交通事故死者数はここ10年連続で減少しており、発生件数、負傷者数も6年連続で減少している。死者数が減少している主な原因としては、「シートベルト着用者率の向上」「事故直前の車両速度の低下」「悪質・危険性の高い違反に起因する事故の減少」などとしている。


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 交通死亡事故の減少は、国民全体の願いです。昨年の交通事故死者数が一昨年よりも減少したことは、非常に喜ばしいことであり、絶望の中の希望でしょう。そして、そのように言ってしまった瞬間の虚しさは、言葉に表現できないものがあります。交通事故死者を減らすという数値目標の側から見れば、死者はその足を引っ張ったこととなります。

 上記のニュースは、最も死者数が多く「交通戦争」と呼ばれた昭和45年と比較すると、死者数は約3分の1に減少したと述べています。私は、良いニュースだという常識論に流されそうになりながら、昭和45年には自分はこの世に生まれていない事実を思い出し、そこで辛うじて踏みとどまります。
 ある人がある時にこの世に存在していないのであれば、それは死の状態と同じです。そして、交通死亡事故はその中に死を含む以上、それを語ろうとするならば死の側から存在を語らなければならず、それを語らなければ人の命の儚さについて何も語ることはできないように思います。その意味で、前年比の増減という捉え方は、物の見方を既成概念の枠にはめる弊害があると感じます。本来、人の死に関する問題は、進歩や解決があってはならず、変化や進展もあってはならないからです。

 交通死亡事故によって死者の人生は消え、時間も止まります。そして、遺された者の人生は消え、時間も止まります。この人生の消え方、時間の止まり方の違いに直面することが「存在の謎」そのものであり、この生まれることと一体となった死を問わなければ問いを問うたことにはならず、しかも「人は生まれてきたからには必ず死ぬ」という当たり前の結論が答えではなく問いとなり、絶句は絶句として示されるしかないように思います。しかしながら、この沈黙はマスコミの報道にはなり得ず、代わりにデータによって覆い尽くされるしかないようです。
 「交通事故の死者が1人でも減ってほしい」というのであれば、現に昨年は一昨年よりも51人も減ったのですから、政策的には目標を達成したことになります。しかし、これでは何も言っていないに等しいのが死者の生命であり、生まれて生きて死ぬ人間の存在のあり方です。前年比1%の減少では少なすぎる、今後は5%も10%も減らさなければならないと語れば語るほど、この話は「その程度の話」で終わります。そして、データで示される政策論としては、その先の話は無理だと思います。「安全運転しましょう」で終わりです。

 誰もが交通事故で明日死ぬかもしれないという恐るべき真実は、警句として十分に流布しています。しかしながら、これは真実が真実であるがゆえに聞き流され、数値やデータによる政策論の論拠としての意味しか持たなくなっているように思います。死者が5000人台から4000人台にまで減ったのであれば、次は3000人台を目指すというのが経済社会における常識論となるはずだからです。
 自動車は経済社会の必需品であり、ある程度の死者の発生はやむを得ないというのが国民の総意として強制されています。また、自動車を運転しない人であっても、バスやタクシー、宅配便やトラック物流の恩恵を必然的に受けており、その限りで「我々は人命第一の社会を生きていない」という前提を共有しています。そこでは、「交通事故の死者がゼロになって欲しい」という願いは実現性のない標語のようなものであるという前提も共有されています。この自己欺瞞を見失った政策論は、言い知れぬ虚しさが増すばかりだと思います。

 昨年末には、福岡県太宰府市で乗用車が池に転落して生後6か月の赤ちゃんを含む7人が亡くなり、東京都大田区田園調布では乗用車が歩道に乗り上げて6歳と9歳の男の子が亡くなり、三重県四日市市の踏切で乗用車が自転車を踏切内に押し出して2人が電車にはねられて亡くなりました。そして、マスコミは死者の生前の美談を語り、夢を断たれた無念さと悲惨さを語り、視聴者は感情を煽られます。そして、実際には何も語られていません。
 それでは何が語られるべきであるのか、語られるべきことは何かと問われれば、私は何も答えを持ち合わせていません。消去法によって、お涙頂戴の感情論が真っ先に切られるだけです。いずれにしても、私は近しい人を何人か交通事故で亡くしていますが、今のところ最愛の人を交通事故で亡くしたという経験がありませんので、この問いの所在を問いとして問う意味を正確に理解することができていません。語る資格がないと思います。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2011-01-04 23:19:27 | 読書感想文
「不可能な『今年』」  p.185~187より


 「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」。

 しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

 人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

 それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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 平成22年のNHK大河ドラマは、幕末の『龍馬伝』でした。
 平成23年の大河ドラマは、戦国時代の『江~姫たちの戦国~』です。
 そして、平成24年の大河ドラマは、平安時代の『平清盛』です。

 この3作の流れによって、後世に生きる日本人が我が国の歴史の流れを学び、混迷の現代社会を生き抜くヒントを得たならば、それはそれで大したことだと思います。

年頭の辞

2011-01-01 00:15:29 | 国家・政治・刑罰
 昨年は、様々な問題が発生し、社会が大きく変化した年でありました。我々がこのような変化を生き抜いて行くためには、広い視野を持ち、常に最先端の情報を追求することが不可欠です。旧態依然として変わらずにいることなど断じて許されません。変化のないところに進歩はありません。変化は痛みを伴うこともありますが、それを乗り越えてこそ自らを変革することができるのです。

 我々は今すぐにでも広い視野を持つように努め、一人一人が自らの頭で考え、個人レベルで意識を変えていくべきです。内外の政治、経済、社会も混迷の度を深めており、一刻の猶予も許されない時期にさしかかっております。時代はまさに曲がり角であり、1秒でも早く行動を起こさねばならない時に来ております。

 歴史的大転換を迫られた今、従来の古いやり方では、新しい国の枠組も、生活、社会のモデルも創造することはできません。今ここにある危機を放置すれば、我々の社会は永久に取り返しのつかないことになります。今年は、我々が自らを変革することができるのか、まさに勝負の年であります。

2010年(平成22年)1月1日


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間違えました。これは去年の年頭の辞でした。