犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その20

2013-07-31 22:44:09 | 国家・政治・刑罰

 刑事自白事件の中心テーマは、加害者の被害者に対する「反省」「謝罪」である。そして、このテーマに対する講学的な結論は昔から決まっている。国家権力の濫用から国民の内心の自由を保障するという原則からは、このような反省や謝罪を求める心情は、必ず危険視される。この視線は、感情に厳罰を求める大衆世論への軽蔑のそれと同様であり、何十年議論を重ねても全く動かない。

 私が法律実務の最前線に出て思い知らされたことは、法律問題解決の手法としての反省と謝罪を巡る、高度な駆け引きの技術と欺瞞性であった。修羅場になればなるほど、「人に頭を下げたことがない人間」と、「人に頭を下げてばかりの人間」が織り成す複雑な力関係は固定化する。そして、この政治的な駆け引きに揉まれた者においては、犯罪の加害者と被害者の対立関係は驚くほど単純に見えてくるはずである。

 この社会で何らかの組織に属して生きて行くということは、下げたくない頭を下げるということである。「下げたくない」という部分は変えられないし、変える必要もない。重要なのは「下げる」という部分であり、要するに自分の置かれた立場を理解するということである。反省を求められた結果として、心底から反省して心を病むような者は、むしろ社会人失格であると言われかねない。

 社会のルールにおいては、内心の誠意が相手方に伝わらなければ無意味である。そして、このような場所に発達するものは、謝り方の技術やテクニックである。すなわち、内心は口先に移り、最後はお金の力を借りるという「大人の事情」に至る。私は、反省・謝罪が直接的に賠償・補償に結びつく現場において、この人間の汚い部分を連日目の当たりにし、有識者による内心の自由の議論がひどく的外れなものに感じるようになった。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その19

2013-07-29 23:10:34 | 国家・政治・刑罰

 私はこの仕事に就く前、裁判や弁護士が登場するテレビドラマが大好きだった。しかし、今ではほとんど楽しめなくなり、途中で見るのをやめることが増えた。所詮は作り物であるという寛容な心持ちよりも、現実離れして迫真性に欠けることのイライラが遥かに上回り、自分の仕事に支障が生じる恐れさえ出てきたからである。

 社会派のドラマは根本が真面目であり、強いメッセージ性を有している。そして、私が鼻に付くと感じたのは、この押し付けがましい正義であった。現実の紛争は利害が複雑に絡み合っており、その真ん中で神経を磨耗させているとき、明快なメッセージを発する余裕などない。また、ほんの数時間で結論が出るはずもない。

 私が法律のドラマに望んでいたことは、私自身が全身で感じているような徒労感や脱力感を正確に描写してもらうことであった。しかし、これはドラマにならない。生産性がなく無意味だからである。制作者が視聴者に対して何らかの問題提起をし、あるべき理想を示すものだとすれば、機械的な現実はドラマとして取り上げられないのが道理である。

 仕事に際して生じる出口のない苦悩は、「人はなぜ働くのか」「私は何のために何をしているのか」という問いに至る。ここにおいて、テレビドラマの中の登場人物の仕事は、あくまで俳優やタレントである。バラエティやコマーシャル、別のドラマに出ずっぱりの俳優に突然「弁護士です」と言われても、私にはどうしても弁護士に見えない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その18

2013-07-24 22:51:21 | 国家・政治・刑罰

 被害者遺族が遺族と呼ばれるとき、そこには1種類の遺族しか存在しない。「B型の遺族」も「AB型の遺族」も存在せず、「○○県民の遺族」も存在することがない。血液型は千差万別の人間をたった4種類に分けるものであるが、遺族は4つにも分けられずにおり、強制的に型にはめられる。47の県民性ランキングも、被害者遺族の前では実に虚しい。

 この1種類の被害者遺族は、必ず加害者を恨み、激しく憎むことになっている。そして、この厳罰感情は法治国家の理性を歪め、社会を滅茶苦茶にすることになっている。他方では、「遺族の方々の気持ちを考えろ」と持ち上げられる。この議論の土俵は、東でなければ必ず西であり、北東も南西もない。二元論は抽象的になればなるほど、現実の混沌や複雑性から遠ざかって行く。

 ある時、私は虚を突かれて呆然とした。最愛の者を事故で亡くした遺族が、後日車を運転中に自らが事故を起こし、人を死に至らしめた場合の混沌に触れたときである。また、事故を起こして人を死なせた加害者が、後日最愛の者を事故で亡くして遺族となった場合も同様である。これは単に確率論の問題ではなく、研究者の知的遊戯でもない。人生の存在形式そのものである。

 法律論は、本来肩書きに過ぎない「遺族」を人間の属性とする。他方で、弁護士は抽象的思考を離れれば、他の弁護士が乗っている高級車の買い替えを気にし、他の事務所の評判や経営状態を探り合う。同業者の葬儀に出れば、参列者の数や供花の名札を観察し、死者の一生を値踏みする。この延長線上において、遺族の厳罰感情が単純に激烈なのは当然のこととなる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その17

2013-07-16 23:28:20 | 国家・政治・刑罰

 法律の文書を作成していると、流れで「遺族」「ご遺族」という単語を使わなければならない場面に遭遇する。私は、この単語が持つ無神経さに対する強い非難を聞いて以来、できる限りこの言葉を避けるようにしてきた。しかしながら、これは単に腫れ物に触るような慎重さで、他人事として気遣いのポーズを示していたに過ぎない。

 私がこの単語を避けなければならないと感じたのは、ある機会に、あるご遺族が「被害者遺族は……」という主語を用いて語り始めるのを耳にした時である。私はその時、自分が瞬間的に「ご遺族の言葉をお聞きする態度」を取っていることに気づいた。私はその言葉に身構えた末、安易な解釈に飛び付いていた。

 言葉は構造を作り、実体のないものを実体化する。しかし、この言葉の特質を言葉として納得しているとき、現実の世界は教科書の中に閉じ込められる。ここでは、ステレオタイプの言語空間が繰り返しお勉強されるしかない。そして、勉強の構えで受け取られた言葉は、その者の生々しい人生とは無関係の場所に追いやられる。

 遺族が「遺族」という主語で語っていたとき、私は無意識のうちに、その言葉を「我々遺族というものは……」という党派的な演説として受け取っていた。主語が固定観念を作り、何かを訴えれば政治的な主張となり、私はマニフェストを聞くようにそれを聞く。私は死を遠ざけつつ、憐憫の情と敬意とを内心で上手くすり替えていた。

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ある日の刑事弁護人の日記 その16

2013-07-14 22:44:07 | 国家・政治・刑罰

 もう一度、過去の自分が書いたはずの文書を読み直してみる。弁護人は被告人の弁護をするのが仕事であり、被害者は二度と戻らない。被告人質問のシナリオは、やはり巧妙に質問と答えが練られている。そこで示されている最大の対立軸は、「生命と死」でなく、「有利と不利」である。つまるところ、裁判官に対する効果的なアピールである。

 あの時、被告人である依頼者は、自らの油断、気の緩み、考えの甘さを全身で悔いており、自責の念に打ちひしがれていた。色々な心配事が重なって集中力に欠けていたこと、寝不足であったこと、そのような精神状態では運転すべきでなかったことを語っていた。ところが、私のシナリオを見ると、この辺りの具体的な反省の念はバッサリと削られている。

 その代わりに、問答の全体から示されているのは、「被告人は被害者の苦しみを想像して苦しんでいる」ということである。これは極めて抽象的な話であり、掴みどころがない。そして、これを繰り返していると、「被害者の苦しみと加害者の苦しみは比較できない」という命題から、加害者の苦しみの絶対性が浮かび上がってくる。ここから、加害者に有利な構造が作られる。

 弁護人は言葉に敏感でなければならず、検察官や裁判官に言質を取られてはならない。一問一答の内容を慎重に吟味することは、嘘を語らないことによって嘘を語るものであり、言葉に対する能力の悪用という側面を有する。被告人が「自分としては最善の注意をしていた記憶である」と言ってしまえば、これを反証できる者はどこにもいない。

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ある日の刑事弁護人の日記 その15

2013-07-13 23:56:12 | 国家・政治・刑罰

 証拠調べ手続の最後に行われるのは、被告人質問である。以前の事件の際に書いた問答のシナリオを読み返してみると、驚くほどそのまま使える。「申し訳ございません」。「深くお詫びいたします」。極端な話、名前と場所を変えるだけで目鼻がついてしまう。私が全く成長していないのだとしても、これ以上どう成長すればいいのかわからない。

 前回の件のときには、今回と異なり、私は国選弁護人として仕事をしていた。そして、私は業界の常識に逆らい、この件に相当の時間と労力を注ぎ込んでいた。その結果として、何かが得られたという記憶はない。ただ、公判の時間が押してしまい、検察官と裁判官が露骨に迷惑そうな顔をしていたことは覚えている。自動車運転過失致死罪の自白事件などに無駄な時間は費やせないということだ。

 私の昔の力作を改めて眺めてみると、偽善臭が漂うばかりである。「人の生命と死に何らかの意義を持たせたい」「裁判を形だけの儀式にさせない」という野心が鼻につく。「私がこの事件を担当したからには、被害者と加害者の双方にとって、他の弁護士が担当するよりも有意義な裁判にしたい」ということである。何という思い上がりだろう。

 弁護士稼業は、心臓に毛が生えていないと務まらないところがある。気持ちの切り替えの上手さ、メンタルの強さ、過去を引きずらないことなど、スポーツ選手に求められる才能に近いと感じることもある。自動車運転過失致死罪の周辺で生じる無数の繊細な言葉の空間とは、全く異質な世界であると言うしかない。私はいったい何をやってきたのか。

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ある日の刑事弁護人の日記 その14

2013-07-10 22:33:22 | 国家・政治・刑罰

 公判期日前の適当な時期に必ず行うべきことは、被告人側の情状証人として出廷する者との打ち合わせである。主尋問のシナリオの読み合わせ、検察官からの挑発的な反対尋問に対する想定問答、言ってはいけない単語の確認、答える時の視線の向け方、当日の好ましい服装の指示など、かなり現実的で技巧的な話ばかりとなる。

 民事裁判と刑事裁判の尋問を何件も経験して私が気付いたことは、刑事裁判の情状証人尋問は、なぜかその日が近づいてきても緊張しないという事実であった。質問者や証人の不用意な一言で形勢がひっくり返り、何千万円が一瞬で消えてしまうといった緊張感がない。これは理屈ではなく、自己保存の本能のなせる業なのだと思う。

 「情状証人など、所詮は法廷に来てくれることが最大の意義であり、尋問自体は大して難しい仕事ではない」。これは、多くの弁護人の実感であり、かつ表向きは非難を受ける種類の言説だと思う。しかしながら、法が事実認定と量刑判断とを峻別し、情状の問題を低い位置に配している以上、これは実務家にはどうしようもない。

 刑事裁判の否認事件は、証拠によって有罪無罪を競うゲームであり、罪と罰の哲学の出る幕はない。他方で、自白事件は最初から演目が決まっている茶番劇であり、やはり罪と罰の哲学の出番はない。私は、民事訴訟の腕が上がってきたと実感する一方で、刑事訴訟については毎回同じことの繰り返しで熟練していないことに気付いたとき、このことを深く実感するに至った。

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ある日の刑事弁護人の日記 その13

2013-07-08 23:36:10 | 国家・政治・刑罰

 裁判の期日が近づき、公判で提出する予定の書面を検察庁に事前にFAXする。最初に送信するのは、都道府県公安委員会発行の運転免許取消処分書である。これは有印公文書であり、証明力が高い。この行政処分は、死亡事故を起こしたということで自動的にくっついてくる社会的制裁である。そして、この制裁は、「加害者のほうも相当な苦痛を蒙っており、被害者だけが一方的に損をしているのではない」との弁解が可能になる特典と表裏一体である。それゆえに、この書面は刑事裁判の有力な証拠となり得る。この間、加害者本人には何の努力も要しない。

 検察庁にFAXした2通目の書面は、都道府県運輸支局長名義の自動車検査証である。これは、加害者が車を売却した場合に、名義が変更された事実を証する公文書である。すなわち、加害者が「私にはもう車を運転する資格がありません」とアピールするものであり、自らの意思で自身に制裁を与えたことによって反省の情が示されることになる。そして、これは必然的に裁判官に対する自責の念の押し売りになる。また、裁判が終わった後のことについては、加害者が新たに車を買おうと、裁判官も検察官も弁護人も知ったことではない。私も、過去の依頼者のその後は知らない。

 検察庁にFAXした3通目の書面は、保険会社からの報告書である。今回の件もそうであるが、刑事裁判の期日までに示談が成立していない場合には、加害者の加入する対人賠償責任保険の状況を説明すべきことになる。多くの場合、保険金額は無制限であり、その立証趣旨は「いずれ全額の賠償がなされることは確実である」というものになる。そして、この論理は必然的に、「ゴールは決まり切っているのに未だ話が進んでいない」「進捗を妨げている唯一の原因は被害者側の頑なな態度である」という結論を導く。被害者救済のための保険制度は、救済のために被害者をせき立てることになる。

 世の中から悲惨な交通事故がなくなってほしいという私の思いは、特に保険会社の担当者と電話で交渉している時には、何か未熟で稚拙な考えのように感じられてくる。「お世話になっております」という社交辞令で始まる電話は、レールに乗せられた死者の家族に対する優越的な視線、すなわち「いつになったら心を開いてくれるのか」との苛立ちの存在を相互に確認せずにはいられない。私は、自分を誤魔化し続け、人の命に値段をつけている。「命とお金とどっちが大事なのか」と自分の内側で苦しまず、その問いを物知り顔で他者に投げつけている人間は大嫌いだ。

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ある日の刑事弁護人の日記 その12

2013-07-05 22:34:31 | 国家・政治・刑罰

 過去の事件の文書ファイルを使い回すことの利点は、実際の仕事の細かい段取りが瞬時に把握できることである。時間との勝負の中でミスを犯さないためには、現実にミスをしなかった過去の流れに沿うことが最も確実である。かつては首っ引きであった刑事弁護マニュアルの本は、今ではほとんど使う機会がない。世の中のあらゆるマニュアルは、「習うより慣れろ」の諺の前には無力だと思う。言葉の意味は辞書が決めるものではなく、辞書を引きながら言葉を使うことはできない。

 裁判所に弁護人選任届を提出し、期日を決めて請書を出す。検察庁には証拠の謄写の申請をする。淡々と粛々と、私自身がシステムの中に組み込まれる。裁判所書記官も色々、検察事務官も色々である。立場と立場、肩書と肩書がぶつかり合う。そして、不意に触れる人の善意や悪意は、その瞬間の私の全人生を支配する力を持っている。人が労働の過程で心を病むか否かは、実に紙一重だと思う。この部分を心底から実感してしまうと、政治家や経済評論家の言葉は心に響かない。

 終了した自動車運転過失致死罪の件のファイルを見るたびに、被害者の名前が私の目に飛び込んで来る。私は加害者の弁護をして、被害者の命を踏みつけた。被害者の死を踏みつけた。実存の深淵を覗き込んだ瞬間、目の前の電話が鳴る。生活保護を受けている債務整理の依頼者からである。保護課の担当者から、まだ再就職が決まらないのかと辛辣な嫌味を言われ、もうどうしたらよいか分からないとのことだ。人一人の全人生が載った涙声に、私の無数の感情は単純化され、頭の中は強制的に整理される。

 好きで選んだこの仕事である。いつの間にか要領の良さばかり追求させられていると、物事を深く考えたいという本心が、私の中に必然的に沸き上がってくる。しかし、それと同時に、頭の中には数々の凝縮されたフレーズが浮かぶ。「仕事は遊びではない」。「職場は学校ではない」。「仕事をなめるな」。「そんなことはあなたに求められていない」。これらのフレーズは、いずれもかつて誰かにどこかで言われたものであるが、割り切れない複雑な思いとともに、自分の頭のどこかに貼り付いている。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その11

2013-07-03 22:44:39 | 国家・政治・刑罰

 どのような組織や団体であっても、マスコミの報道だけを手がかりに外から眺めるのと、実際に内情を知ってみるのとでは、全く違った光景が広がる。私はこの業界を外からしか見られなかった頃には、弁護士という人種は本気で人権という宗教を信仰しているのだと考えていた。弁護士は誰しも本音で厳罰化を批判し、死刑廃止を目指し、取調べの可視化を叫ぶものだと思っていた。実際、マスコミで伝えられる弁護士の活動はそのようなものばかりだったからである。

 その後、この業界の内部に入った私は、信仰の誠実さとは対極的な空気に思わずうろたえた。同時に、人間の汚い部分や腹黒さを具体的に知らされ、人間の野心や欲望の底深さも思い知らされた。人権という神は、白を黒と言いくるめるところに出現し、黒を白と言いくるめるところにも出現する。口八丁手八丁でいつの間にかその場の論理を支配し、詭弁と屁理屈を駆使できる者が、なぜか弱者の味方となっており、正義の味方となっている。私はあまりに世間知らずでお人好しだった。

 日々の職務では絶えず神経の図太さや鈍感さが求められ、打たれ強さや胆力が試される状況において、人が内省や哲学的思考の時間を持つことは難しい。ここで、改まって職業倫理や正義が問われるならば、それはいつも決まった方向へ走り出す。絵に描いたような高圧的で横柄な言動は、常に優越感や猜疑心と表裏一体だからである。そして、乾いた心の状態で書かれた文章は、やはり乾き切っている。正義はいつも絶対的正義であり、それが正義であるか否かが問われることはない。

 尊大でシニカルな態度が原則である弁護士において、被害者の意見陳述なるものを聞かされることは、虫酸が走るほどの不快な場面なのだと思う。「法廷は被害者が感情をぶつける場所ではない」という公憤は、身の毛がよだつ私憤なしには生じない。また、腕力を競うのが商売の弁護士にとって、「被害者の相手など我々の仕事ではない」という直観は避けがたいのだとも思う。人に頭を下げるのが大嫌いで、人に頭を下げさせるのが大好きな弁護士において、被害者は「感情的に厳罰を求める者」以外の存在ではない。

(フィクションです。続きます。)