犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (その5)

2011-12-31 03:36:23 | 国家・政治・刑罰
 被災地に対する弁護士会の対応を通じて、私は、犯罪被害者に対する弁護士会の対応との共通点や相違点を観察してきました。その中で、私が引っかかったのは、やはり死刑廃止論との絡みで、各地の弁護士会の声明が殺人事件の被害者遺族を評する際に用いるフレーズでした。すなわち、「被害者遺族に必要なのは厳罰よりも心のケアである」「厳罰化の促進は被害者遺族の心のケアにつながらない」といった言い回しです。
 法律相談の際の別の注意点として、弁護士も法律以外については素人である以上、無責任なことを語ってはならないとの点があげられています。一般的な弁護士は精神医学については素人である以上、「心のケア」といった問題については精神医学の専門家に委ねざるを得ず、弁護士はこれを論ずる権利も義務もないということです。ところが、こと厳罰化や死刑への反対を論じる場になると、弁護士会にとって「心のケア」は万能の地位を与えられているように私には感じられました。

 私も「心のケア」については全くの素人であり、本で読んだ知識しか有していませんが、それ故にその厳しさと絶望は想像を絶します。不眠症・アルコール依存症・PTSD・自傷行為などとの闘いが一生続くというのは、何も大袈裟な表現ではなくて、居るべき人がここに居ないという単なる不在の事実を直視するならば、時間軸は「一生」という形を取らざるを得ないと感じます。また、他者の殺害の現実を通じて自己の自殺の問題に直面し続けることによる肉体的・精神的な限界への追い込まれ方は、経験せずに頭で理解できるものではなく、この存在の形式には戦慄を覚えます。
 「心のケア」を施す側も地獄だと思います。全人格的な体力を消耗し、対立し、孤立し、絶望し、精神疲労で燃え尽きて心身に変調をきたし、自分のほうが「心のケア」が必要になるという話もよく耳にします。躁鬱の繰り返しには際限がなく、薬を増やせば依存症になって新たなる疾患を生み、悪循環に陥るという話も聞きます。一般的な会社のデスクワークよりも遥かに厳しいと思われる仕事について、なぜ簡単に「心のケアをすれば厳罰感情は治まる」と言えるのか、私にはよくわかりません。殺人事件の被告人が法廷で保身に走る行為が、被害者家族への心のケアの効果を真横から破壊しているとあっては尚更のことです。

 被災地における弁護士会の無料相談において相談者が答えを求め、そして弁護士が受け止められなかった問題は、すべての人生における最大の問題、すなわち死の謎でした。法律の専門家にすぎない弁護士は、死について問われれば、相続や賠償金の問題にしか答えられません。これは、私が常々感じている疑問、すなわち法律学の結論が哲学の問いを覆い尽くしていることの派生であり、天災と犯罪に共通します。「心のケア」は、この問題を避けては通れないはずです。
 殺人事件によって最愛の人の命を奪われた家族が論理的に最初に直面するのは、加害者の罰の問題ではなく、被害者の死の問題だと思います。これは天災と犯罪に完全に共通するところであり、法律問題よりも先に来る人生の難問です。存在と不在を問うている場では「恨む」も「赦す」もなく、恨み続けようが赦そうが、謎は謎のまま残ります。連れて行かれた者が帰ってくれば、存在と不在の問いは消え、恨みも赦しも無意味になります。それが不可能であるゆえに、人は世間の自己中心性や、人間の一番醜い部分を洞察せざるを得なくなります。

 「死刑により被害者遺族は救われるのか」という問いを立てられれば、これは加害者側の土俵に乗ります。実際に救われることの証明は難しいからです。このような問いの視角は、国家権力の抑制・刑罰の謙抑性・死刑廃止という体系を実現する際に苦し紛れに出てくるものと思われます。そして、この視角は自然災害の場合には生じないという事実において、まさに死の問題が欠落していると感じます。殺人や死刑を論じつつ、死を見落とすということです。
 政治的な主義主張に熱くなっている者には、暗い部屋で1人で泣き続ける者の姿は見えないだろうと思います。また、「立ち直る」「癒す」との価値が「語り継ぐ」「忘れない」との価値と衝突することの絶望を知らない者は、なぜ人生は一旦狂わされると元に戻らないのか、どのような形で家庭不和や一家離散に派生していくのか、想像も付かないだろうと思います。いずれも自然災害と犯罪に共通する話であり、両者への「心のケア」にも共通する話です。

 この年末、一方で世間の浮かれた空気に背を向けなければ生きられない方々の姿を見ながら、他方では一家で楽しく海外旅行に出かける弁護士の方々の姿を見て、上記のようなことを考えました。

この1年 (その4)

2011-12-31 00:57:51 | 国家・政治・刑罰
 3月下旬から始まった弁護士会による被災地での無料法律相談は、文字通り、法律問題の相談を目的として実施されたものでした。そこでは、確かに「津波で流された船のリース料の支払義務」「流された遺言書の効力」「行方不明者の借金の処理」といった教科書的な法律相談も行われていました。しかしながら、これも私が聞いた範囲の話ですが、大多数の相談は一般的な法律相談の形を取ることが困難であったとのことです。
 無料法律相談に持ち込まれた主な悩みは、「何もかもなくなって途方に暮れている」「自分だけが助かったことに対して負い目がある」「どこから何をしたら良いのか手のつけようがない」といったものでした。当然といえばあまりに当然のことですが、津波が全てを押し流した土地では平時の法律相談の水準の悩みは超越されており、より広い人生全般に関する難問がその場を支配していました。被災地においては、弁護士という肩書きの権威は無意味であり、単に話を聞いてくれる人が求められていたように思います。

 法律相談の際の注意点の1つとして、法律相談と人生相談は一刀両断に分けられるわけではなく、まずは相手方の話に真摯に耳を傾けるべきだという点があげられています。法律の条文で解決できない問題については余談であると決め付け、相手方の話を遮り、話を強引に本筋に戻そうとする態度は最悪です。法律問題に道筋がつけば精神的負担が減ることは当然であり、まずは傾聴の姿勢によって相手方の雑談の中から自然に話を引き出すことが出発点です。
 その反面、法律相談の際の注意点の1つとして、法律相談が人生相談で終わってしまっては、プロとして恥ずべきことであるという点があげられています。これは、一方では客観的な法律に則った職業倫理及び専門家の品位の保持の目的に沿うものであり、あらゆる職業に共通するルールです。他方で、「先生」と呼ばれて頭を下げられ続けることは、「無知な者に知識を授ける」という上から目線ないし特権意識が染み付いてしまう弊害を生むことにもなります。

 被災地の法律相談においては、この事実を改めて突きつけられたように私には感じられました。ある人が筆舌に尽くしがたい経験をした場合、まず必要とされる人物は、法律問題の専門家ではありません。ここで必要とされるのは、いわゆる「心のケア」「見守り」「声掛け」と言われるところの精神保健活動・医療活動であり、心身の不調への対応及び予防であり、突き詰めれば単にその場に寄り添うことです。
 法律家の出番としては、3月下旬は早すぎました。ただその場に寄り添うという任に耐え得る者は、肩書きや実績を持った人間ではなく、無名の1人の人間であったように思われます。それは例えば旧知の友人や知人であり、または初対面のボランティアであり、あるいは「先生」という肩書きを忘れて奔走する医師や教師であったように思います。これに対し、弁護士先生は、政治家の先生と同じく、被災地の真ん中ではその肩書きが浮いていたとの印象を受けました。「弁護士会は何もしていない」という批判を避けるためのフライングであったとの揶揄も耳にしました。

 弁護士会による被災地支援の主流は、夏以降は「被災者が日本司法支援センター(法テラス)を利用する際の資力要件を撤廃する法改正を実現する運動」に形が変わったように見受けられました。これは、税金によって弁護士に報酬が支払われるシステムです。旅費・日当・宿泊費の計算及び領収証の提出といった日常性に軸足を置く限り、被災地の非日常性を全身で感じ続けるのは、非常に困難なことだと思わされます。弁護士会のイメージアップ、売名行為といった戦略の匂いから自由になることは難しいと感じます。
 その一方で、原発被害者相談の話になると、そこで用いられる文法は一気に変わります。福島原発の近くに住んでいた訳ではない私には何も言う権利はありませんが、この文法の違いを目の当たりにして私が感じたものは、「犯罪の加害者の人権と被害者の人権は車の両輪である」という言い回しから察知した欺瞞性と似たものでした。人が集まって組織を作る限り、どの組織においても収まりが良い活動と収まりが悪い活動があり、その差異からは同じような空気が生じるものだと知りました。

この1年 (その3)

2011-12-31 00:04:16 | 国家・政治・刑罰
 私が3月11日の大震災の後に感じたことは、人権論は犯罪による死者やその家族の考察が不得手であるのみならず、自然災害による死者やその家族の考察が不得手であるということでした。
 天災による被害の場合には、国家権力による刑罰権の発動の問題が生じず、被告人の人権との調整は必要となりません。それにもかかわらず、人権論はなぜ震災の被災者の不条理感・喪失感・無力感などの最重要部分を捉えることが難しいのか、その理由を改めて考えてみました。

 3月下旬、私の勤める地域では、弁護士会の人権大会シンポジウムの分科会の打ち合わせが予定されていました。ここでは、「死刑廃止に向けた社会的議論の呼びかけ」の戦略がテーマの1つとなっていましたが、震災により延期となりました。主催者としては水を差された形です。
 死刑に関する政治的な選択としては、私は一貫して賛成の意見を持っています。死刑制度は存置すべきであると考えます。但し、これは政策論としていずれか一方を選べと言われた場合の答え方であり、神学論争に発展する問いについては、各自が問いを問うことによって答えを示すしかないと思います。私にとって重要なことは、世論調査による死刑賛成論・反対論の割合ではなく、自分の心の中の死刑賛成論・反対論の割合です。

 私が関心を寄せていたのは、死刑廃止を求めている弁護士の哲学ないし倫理が、この震災による夥しい生命の終了と人生の断絶を目の前にして、どのような洞察を見せるかということでした。死刑は人の生命を奪う点において他の刑罰と問題の本質を異にするならば、死刑に含まれるところの死の考察に引き付けられざるを得ないからです。
 私が死刑廃止論に求めていたのは、(1)震災により失われた生命、(2)殺人事件により失われた生命、(3)死刑により失われる生命の一元的な洞察でした。すなわち、生き残った側に立つ者は、その生き残った事実とどのように向き合い、さらにはその事実の中でどのように苦しむのか、ということでした。

 そして、上記の問いに向き合っていた法律実務家は、私が知る範囲の話ですが、1人も見つけることができませんでした。これは、国家権力の制約原理である憲法論ないし人権論からの演繹としては、ある意味当然の帰結であったと思います。国家権力による死であるところの死刑と、自然災害による死とでは、問題の入口が違うということです。(法律実務家以外では、作家の森達也氏はこの点に向き合って苦しんでいると感じました。)
 震災の被災者に関しては、各地の弁護士会や有志の団体において「国に対して早急な対策を求める提言」が採択されていたほか、「被災者は平和的生存権が脅かされている」として憲法9条の精神を論じる意見も目に付きました。私はこれらの活動を目の当たりにし、死者の存在が完全に欠落しているとの印象を受けました。また、不条理感・喪失感・無力感といった根本事項への想像力が脱落しており、被災者に寄り添っていないと感じました。

 上記分科会の打ち合わせは、震災一色のほとぼりが冷めた頃を見計らって再開されました。そろそろ「死刑廃止に向けた社会的議論の呼びかけ」をしても大丈夫な時期であり、プロ野球の開幕強行のように顰蹙を買わないだろうとの判断がなされたものです。この活動に携わる多くの弁護士の言葉からは、2万人の死者・行方不明者の前に打ちひしがれている様子は看取できず、その人生の前に立ち尽くした形跡も見られませんでした。
 被災地の2万人の生命と死は対岸の火事であり、「ご冥福をお祈りします」の一言で済ませつつ、松本智津夫死刑囚の生命は地球より重いと述べて疑問を生じない様子は、やはり目の前で見せられると辟易します。私は今年、被災者への視線の軽さを通じて、犯罪被害者への視線の軽さの内実がわかったような気がしました。

この1年 (その2)

2011-12-30 00:04:10 | 国家・政治・刑罰
 弁護士会からのDMやFAX、弁護士会の運営するメーリングリストにおいて、今年は「被害者」の文字が例年の10倍は見られたように思います。これは、「原発被害者相談」「原発被害者支援弁護団」などの事務連絡が連日行われていたためです。津波による被災者の支援と、原発事故による被害者の支援とでは、力の入れ方が全く違っていました。

 私は、原発の是非についての明確な意見を持つことができません。自然エネルギーへの転換を図ろうとすれば、人間の欲望の増大が科学技術の発達の歴史であったことを直視せざるを得ず、個々人のライフスタイルを変えざるを得ないからです。すなわち、東京電力に責任があろうとなかろうと、現実に電気が不足するならば、人間は一旦享受した便利な生活を捨てざるを得なくなります。これは、政治的な主義主張や住民投票に馴染まない問題であると思います。
 直ちに脱原発に踏み切るべきとの主張が、電力不足による経済の低迷について、少子高齢化・年金・雇用・福祉などの問題と結びつけて説得的に論じているかと言えば、私にはそのようには見えませんでした。原発が絶対安全ではないことはもとより当然であり、「安全神話」という単語はそれが崩れた時に初めて使用されるものです。私は、原発についての明確な意見はないにしても、FAXやメーリングリストで目にする脱原発の主張は急進的であり、この点には常時違和感を有していました。

 私が心を抉られるように感じたのは、震災後の脱原発派の色めき立ち方でした。大震災の直後、私はこの国の多くの人々と同じように、「こんなことしている場合か」という焦りと無力感に打ちひしがれました。その後も連日テレビに写る映像に唖然とし、死者と行方不明者の数字を夢の中の話のように聞いていました。この国の多くの人々のライフワークが取るに足らないものとなり、それまで積み上げてきたものが崩れ、被災地以外の多くの人々も実存不安に苛まれていたものと思います。
 そのような中で私は、福島原発の事故を受けて生気が漲り、実存不安とは全く無縁の世界で生き生きとしている一部の弁護士の姿を見せつけられました。それは、その人達のライフワークに合致する事態が目の前で生じ、それまで積み上げてきたものが生かされる時でした。弁護士の間では、過去の原発差し止め訴訟の請求を却下した裁判官が実名で槍玉に挙げられていました。さらに、そこから「原発被害者支援活動」への動きは非常に速く、これまでの弁護士会の「被害者支援活動」との違いが日々際立っていきました。

 私は原発を推進する思想を持っているわけではなく、脱原発論が唱える「人間の無力さ」「科学技術の奢り」「自然への畏怖」などの言葉は、字面としてはその通りだと感じます。しかしながら、原発被害者支援に奔走している弁護士は、私が知りうる範囲のことですが、「こんなことしている場合か」という震災直後の無力感を経ておらず、死者と行方不明者の数字に驚くこともなく、人間として基本的な部分が欠落しているうえ、あまりに生き生きし過ぎていると感じました。
 実際のところ、一口に原発被害者と言っても、一方では風評被害に苦しんでいる農家の方々がおり、ここでは「安全である」とのお墨付きをもらうための支援が必要となっています。他方では、安全性に敏感になりすぎて風評被害を起こしている側に位置する方々もおり、ここでは「危険である」との警告を発するための支援が必要となっています。これらの方々は相互に対立しますが、脱原発の署名を集めるという点においては、一律に「被害者」として団結・協力すべき矛盾を包含することになります。

 例年の10倍の「被害者」の文字が飛び交っているとは言っても、そのほとんどは原発関連であり、逆に従来の被害者支援活動に関する内容は明らかに減りました。時間が割けなくなったのだと思います。弁護士会の被害者支援活動は、「刑事裁判は被害者のためにあるのではない」ことを前提とし、被告人への厳罰の回避を主目的としていたことは公知の事実ですが、それを目の前で見せられると複雑な気分になります。

この1年 (その1)

2011-12-29 22:30:09 | 国家・政治・刑罰
 1年が365日と1/4であることは科学的事実ですが、どこに1月1日を持ってくるかは人為的なものであり、単なる偶然だと思います。平成23年の日本の国民生活に関して言えば、たまたま3月11日に起きた震災を境に二分されており、「今年」で括るのは乱暴な気がしています。
 私は仕事柄、犯罪被害者の置かれている筆舌に尽くし難い状況を目の前にして絶句することが多く、この絶句を言葉にしない限り、法治国家も刑事裁判の正義もあり得ないと感じてきました。その反面として、事件や犯罪以外による不慮の死については、目の前で接する機会がなく、抽象的な理解に止まっていました。過去の文章を見ても、「天災による死者の遺族は、犯罪や事件の場合に比して死の受容が容易である」といったことを書いていたように思います。

 今回の大震災を経験した直後の私の心情は、この国の多くの人々と同じように、目の前の細々した仕事を前にして、「こんなことしている場合か」という焦りに覆われていました。すなわち、「こんな仕事が一体何になるのか」という、1人のちっぽけな人間の実存不安でした。そして私は、やはり多くの人々と同じように、「自分ができることをするしかない」というお決まりの理屈に逃げました。
 私のこの間の心情の変化は、過去に刑事裁判に携わる者として、犯罪被害者とその家族に接するようになった頃と非常に似ていました。私は、筆舌に尽くし難い人の死を前にして何もすることができず、「自分ができること」、すなわち刑事裁判の儀式を誠実に遂行していました。1人のちっぽけな人間の実存不安は、調書や判決書の誤字脱字を探しているうちに消えました。

 天災による突然の人生の断ち切られ方は、事件や犯罪による突然の人生の断ち切られ方に似ています。仕事も家事もその日で終わり、読みかけの本の続きが読まれることはなく、「3年日記」も「5年日記」もその日で中断し、カレンダーに毎日書いていた体重や血圧の推移もすべてが無意味になり、将来に備えて蓄えていた貯金は一瞬にして「遺産」となり、しかもその絶望を本人が語ることはできません。これは、今回の震災を通じて、私が改めて肌で感じたことでした。
 それと同時に、私は、刑法学における被害者への視線が、震災で亡くなった方々への法律家の視線と重なることに気がつきました。「哀悼の意を表する」「冥福を祈る」というときの偽善性の形が似ているということです。刑法学は行為を能動的に捉える限り、犯罪者の側から論理を組み立てざるを得ず、被害者はその枠組みから脱落します。同じように、天災による死は国家権力への抑制とは関係がなく、その死は体系から欠落します。

 震災の後、常磐山元自動車学校、日和幼稚園、山元町立東保育所を被告とする民事訴訟が提起されました。この裁判に関しては、過去に私が経験した医療訴訟、いじめ訴訟、過労自殺訴訟と同じ種類の無力感を覚えると同時に、「天災を裁判所に訴えるのはおかしい」といった常識論を唱える世論との懸隔を思い知りました。
 残された者は、死者の存在した穴を埋めるために絶えず動いていなければならず、しかも動いていなければ死んでしまうにもかかわらず死にたくないわけではなく、この言語道断の状況を説明するのは非常に困難です。法治国家においては、裁判所はそのような機関ではないと言われたところで、その役割を担う場所は裁判所しかありません。そこでは、被告側の「立場」「地位」と、原告側の「全人生」「全存在」が衝突します。

今年の漢字「絆」 その3

2011-12-27 23:30:08 | 言語・論理・構造
震災4日後のあるメールより

各位
平成23年3月15日

 この度の東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 震災の影響により、当局から修了祝賀会の開催の自粛を強く要請されたことに伴い、現状を勘案し、他機関の動向にも配慮し、残念ながら3月22日に開催を予定しておりました祝賀会を控えさせて頂くこととしました。

 同期生の絆を深めるまたとない機会であり、関係各位のご落胆は如何ばかりかと存じますが、何とぞご理解の程お願い申し上げる次第です。


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 物資の買い占めが起こり、被災地の農作物の風評被害が続き、がれきの受け入れが拒否され、節電が忘れられる中で、「絆」を初めとする希望的な言葉が目立ちました。建前と本音、総論賛成各論反対、自分が同じ目に遭わなければわからない等々、私はこの「絆」から色々な意味を感じ取りました。

 建前の「絆」ばかりの中で、私が見た唯一の本音の「絆」が上のメールでした。絆という言葉が正当に使用できる範囲を示しているように思います。やはり、阪神大震災の年の漢字が「震」であったことに比すると、現在はそれだけ事態を正視する余裕がなくなっており、「絆」は事態の深刻さを物語っているように感じます。

今年の漢字「絆」 その2

2011-12-25 00:01:27 | 言語・論理・構造
12月25日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄  
「『絆』は苦難乗り越える根拠」 (東京都・53歳・会社員)
  

 「今年の漢字『絆』に思い複雑」(19日)を読み違和感を覚えた。「絆」が選ばれたことに「痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果」というが、果たしてそうだろうか。

 3月11日には、首都圏でも多くの人が身をもって大震災の恐怖を体験し、家族や仲間の安否を確認することに躍起となった。それを経験したからこそ、「絆」の大切さに気づき、力を合わせて苦難を乗り切っていくためのよりどころとして、この言葉を選んだのではないか。

 痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけているのは私たち生活者ではなく、政府や役人、それに東京電力だと思う。


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 ある人が「違和感を覚える」というとき、それに対して論理的に反論する方法はないと思います。「『あなたが違和感を覚える』ということに私は違和感を覚える」となり、違和感の応酬となるからです。違和感を覚えてしまったものに「覚えるな」と強制することも不可能であり、それが政治的な意見の形を取って正義・不正義の問題となれば、収拾がつかないものと思います。

 今年の漢字ということではなく、人と人との「絆」が良いか悪いかと問われれば、これは良いに決まっています。問題は、この場面における問いの問い方であり、答えの側でなく問いの側を共有しなければ、争っても虚しいばかりです。福岡県に住む投稿者が死者と行方不明者に思いを馳せ、東京都に住む投稿者が自分の経験から結論を出しているのであれば、そもそも議論になっていないと感じます。

 今年の4月22日、日本の7歳の女の子がイタリアのテレビ番組でローマ法王に対し、「なぜこのような怖くて悲しい思いをしなければならないのか」と質問したことを思い出します。これは、大人が封印している問いであり、しかも逃げている問いです。神が存在すればこんな悲しいことは起こさないでしょうし、少なくとも震災が起きる前に教えてくれるはずでしょうし、震災が起きてから冥福を祈るような神は不要だからです。

 ローマ法王ベネディクト16世の答えは、「私も自問しており、答えはないかもしれない」「私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」というものでした。ローマ法王が自問し、答えがないというのであれば、「絆」が苦難を乗り越える根拠であるはずがないだろうと思います。人が何に対しどのように違和感を覚えるかという点は、生死に関する日常からの思索の深さによって異なっており、震災の受け止め方の問題ではないとも感じます。

今年の漢字「絆」

2011-12-23 00:06:18 | 言語・論理・構造
12月19日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄  
「今年の漢字『絆』に思い複雑」 (福岡県・27歳・医師)
  

 今年の漢字は「絆」。日本漢字能力検定協会の恒例の公募で、東日本大震災やなでしこジャパンの勝利などから連想されたという。

 予想はしていたものの、私は少し違和感がある。東日本大震災の大津波で1万5千人を超える命が奪われ、約3500人がまだ行方不明だ。(中略) 1年間の世相として、「絆」の字を選んだことは、痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果ではないだろうか。

 今年の漢字が始まったのは阪神大震災が起きた1995年だ。その時選ばれた字は「震」だった。1月に起こった大震災がみんなの脳裏から離れなかったのだと、今も思う。あれから16年。この国は弱く、軽くなったように感じられてならない。


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 被災地のドキュメンタリー番組で、子どもを亡くした親や、行方不明の子どもを捜し続ける親の姿を目にします。実際に亡くなった人数に比べれば、テレビでの放映自体が少ないですが、それでもそのような親の姿を目にしてしまえば、私は言葉を失います。そして、自分の心を正直に記述してみれば、私は一瞬「見ていられない」「目を逸らしたい」と思います。世間的な反応としては、チャンネルを変える人も多く、視聴率は上がらないというところだろうと思います。

 「絆」という単語が本来の位置に収まるとすれば、それは死を受け入れないことによって絆が証明され、行方不明者を捜し続けることの中に絆がある、と言うしかないと思います。このように考えることによって、初めて偽善性が消失するからです。街が復興したとしても、その街にいるべき人がいなければ何もかもが虚しいと感じるとき、それが人の絆の証明です。間違っても、天国から復興を見守っているのが絆だ、といった生易しい話ではありません。

 今年の漢字として選ばれた「絆」は、その周辺で語られる言葉を聞く限り、マスコミの空気によって作られた出来レースの結果であり、軽い意味しか込められていないように感じます。もちろん、漢字そのものには良いも悪いもなく、「絆」という単語に恐ろしい意味を読み取ることも可能ですが、明るくポジティブな解釈が与えられてしまえば、国民としては逆らいようがないように思います。

 痛いところから目を背けないとすれば、今年の漢字としては、「滅」「壊」「消」「流」「失」「潰」「倒」などの候補が沢山あります。このような漢字を選べなかったことが、この国が弱く軽くなったことを表わしているように思います。投稿者に同感です。

御木歳三著 『不動産屋の手口とやり口 業界のウラのウラ』より

2011-12-21 23:46:14 | 読書感想文
p.14~ 「客を人間と思うな。ポチに仕上げよ」より

 ダメな営業マンはなぜ、成績が上がらないのか。それは客の注文(言い分)を聞き過ぎて、客の方が主導権を握ってしまい、客に対して発する言葉にパンチ力がなくなってしまっているからだ。一発KOパンチ力を繰り出すためには、絶えず営業マンが主導権を握っていなければならない。

 『ポチ』というのは自分自身のことを何でもハイ、ハイ、と素直にきく従順なる犬(客)のことを指していう。そのために営業マンは客と面と向かったとき、客の顔を見ながら、「お前は俺のポチだ」「お前は従順なる犬だ」と心の中で何度も何度もつぶやいているのである。当然のことながら、「どうやって落とそうか」と心の中でつぶやいているのである。

 客は自分の前でニコニコしている営業マンを見て、まさか、そいつが自分のことを「ポチだ。犬だ」などと心の中でつぶやいているなんてことは、夢にも思っていないはずである。


p.43~ 「菓子折は客の前で踏みつぶせ」より

 気の弱い客は契約書にサインはしたものの、すぐに目がさめ、平常の心、神経に立ち戻ってしまい、「さあ、どうしよう!」ということになる。朝には営業マンが集金に押しかけてくることになっているため、「さぁ、なんとしよう?」というわけなのだ。

 営業マンが集金できずに戻って来る場合には、2つのケースがある。1つは、客が逃げてしまうことである。いわゆる営業マンが、いくら呼び鈴を鳴らしても誰も出てこないというやつである。この場合、営業マンは最低2時間は呼び鈴を鳴らしたり、電話をかけ続ける。2時間も攻め続けられると、青くなって出てくる場合もあるし、近所の人間から「2時間も家の前で粘ってましたよ」と聞かされると、ゾッとする。当然のことながら、その夜も営業マンはその家を攻めに行く。

 なお、逃げ出し組の客などが午後になってから菓子折などを持って会社に謝りに来ることなどがある。その場合、そこの責任者が出て来て、客の目の前でその菓子折を思いっ切り叩きつけ、足でグリグリと踏みつぶしてしまう。「こんなもん、誰に喰えと言うとるんだっ。持って帰れっ、こんなゴミクズ」。客はブルブルと震える手で、グシャグシャになってしまった菓子折を拾い上げ、生きた心地もしない様子で店を出ていく。こうすることで客を、二度と他の会社にも怖くて行かせないようにしてしまう。


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 「これまでの弁護士は加害者の権利ばかり主張し過ぎた」「自分は被害者の権利を擁護する弁護士になりたい」との志を語る新人弁護士の多くは、2~3年のうちに、いわゆる「普通の弁護士」に落ち着きます。この原因を探ってみると、刑事・少年事件の側ではなく、仕事の圧倒的なウェイトを占める民事・家事事件のほうに解答らしきものが見つかるように思います。例えば、上にあげたような不動産売買に関するトラブルなどです。

 法律事務所に持ち込まれる民事・家事の案件は、すでに人間の醜い部分が剥き出しにされた争いごとであり、専門家の手を借りなければ解決できない段階に来ています。そこでは、学生時代に習った「憲法」「人権」「正義」を論じている暇などなく、とりあえず自分の依頼者の側の醜さは正義であり、相手方の当事者の醜さは不正義であるとして戦いを始めなければなりません。そのため、弁護士の職業病として、どうしても好戦的になり、正義が勝たなければならないため気が強くなるように思います。

 そして、仕事の数としては少ない刑事事件は、弁護士が精神のバランスを取り、心を浄化する作用を担わされることになります。「人はどんなに悪いことをしても反省し、立ち直ることができる」「人生は何回でもやり直せる」という論理は単純であり、民事・家事の醜い争いに明け暮れている中では、この論理の登場は救いとなるからです。学生時代の「憲法」「人権」「正義」も復活し、仕事へのモチベーションも上がります。民事事件の敏腕・辣腕弁護士が、刑事事件の人権派弁護士である例は多いと思います。

土屋賢二著 『ツチヤ教授の哲学ゼミ―もしもソクラテスに口説かれたら』

2011-12-19 23:11:35 | 読書感想文
p.26~

学生: 性格でもルックスでもなくてわたしそのものを愛するって、ちょっと考えにくいんじゃないかな。

土屋教授: たとえばね、君の親はたぶん君のことを愛していると思うんです。親は君のことを、ルックスがいいからとか、性格がいいからとか、そういう理由で愛しているのではないと思えるでしょう? 君の外見や性格がどんなことになろうとたぶん親はずっと愛し続けるんだから。君が犯罪を犯しても、寝たきりになっても愛情は変わらないんだよ。
 親だったら、たとえ君の見た目がガマガエルそっくりだとしても、ガマガエルと見た目が区別できないとしても、君が交通事故なんかで知能が普通の人間ではなくてカエル並みになったとしても、それでも嫌いになるということはないと思うんですね。

p.68~

学生: 魂や心はどこにあるんですか? 脳にあるんですか?

土屋教授: どこに心や魂があるのかはぼくも分からないんだよ。心がどこにあるのか言えますか? 頭蓋骨の中にあるとは言えないような気がしますね。中には脳しか入っていないように思えるし、脳を調べても脳細胞や血管しかないように思えるからね。
 でも、どこにあるのか分からないものはけっこうあって、たとえば5という数もどこにあるのか分からないし、時間というものがどこにあるのか分からないよね。空間がどこにあるのかだって分からないし、この宇宙がどこにあるのかも分からない。ドミソの和音がどこにあるのかも分からないし、ベートーヴェンの「運命」がどこにあるのかだって分からないよね。

p.97~

学生: 脳死状態になっていても、家族がずっと生命維持装置を切れないってことがあるじゃないですか。人格も魂もない身体を愛しているから、その人自身を愛していることにはならないと言わなきゃならないんですか?

土屋教授: ソクラテスなら何というかな。ぼくの想像を言ってみるね。愛する人が脳死状態になっても、あるいは完全に死んでも、愛はなくなるわけじゃないし、火葬になって身体が跡形もなくなっても、ふつうはそれで愛が終わるわけではないよね。それは認めますか。

学生: はい。

土屋教授: 脳死状態でも死んだ後も、魂が存続していると考えれば、愛が続くという事実は説明できるよね。

学生: ええ。

土屋教授: 問題は死後は魂がないと考えたときです。かりに死んだら魂はなくなるとするよね。その場合には、死後も愛が続く現象を、魂によって説明することはできないよね?

学生: はい。

土屋教授: では、死んだ後も愛が続くのは、身体を愛しているからだと説明できますか?

学生: できないと思います。

土屋教授: 身体が消滅しても愛は続くんだからね。身体を愛していたら、身体が消滅したとたんに愛が消えてもいいはずだよね。死後も魂があるかどうかは分からないけど、身体は確実に消滅するよね。だから少なくとも、「死後も愛が続くのは身体を愛しているからだ」と言えないということは確実だよね?

学生: そうですね。


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 数年前、鳴り物入りで始まった司法制度改革の目玉が法科大学院であり、さらにその目玉が「ソクラテス・メソッド」でした。これは、旧司法試験の予備校による暗記中心のテクニックが受験生の思考力を減退させ、法曹の質の低下を招いているとの批判に基づく施策であったと記憶しています。すなわち、大学院の教授と学生との緊張した問答により、将来の実務的な思考力が鍛えられるとの触れ込みでした。

 現在の法曹界の議論を見てみると、法科大学院制度開始後の法曹の質の低下の問題ばかりが指摘され、「ソクラテス・メソッド」など悪い冗談のような扱いを受けています。これは恐らく、哲学的懐疑を持続し続ける能力と、法律実務を処理する能力が全く逆の方向を向いていることによるものと思います。理論と実務の融合など、そもそも無理な話ではなかったかと感じます。

 実務の現場で必要な事務処理能力とは、例えば作成すべき書類が山積みである時に限って急なトラブルが起きて時間を割かれ、しかも宅急便で送ってくるはずの書類が届かず、和解が暗礁に乗り上げて先が見えず、さらにそんな時に限って話が長い人からの電話が来た場合に、どうやって早く穏便に話を切り上げるか、といった能力です。決められた時間内に並行して複数の案件を捌く法的実務能力は、「ソクラテス・メソッド」によって身に付く能力とは全く異質のものであると思います。

(上に引用したのは、法科大学院ではなく、お茶の水女子大の哲学ゼミの問答です。)