日記

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往生院・玉日姫坐像の由来について

2023年06月18日 | ブログ
さて・・色々と情報を頂けている中で、九条家から分家した縁の方からかなり信憑性の高い情報を頂いた。

往生院に、玉日姫の坐像並びに親鸞聖人坐像(自作像とは別)が奉納された時期についてである。

それは、本願寺派20世の広如の頃ではないかとのことである。つまり、玉日姫の坐像については、比較的に新しくて、江戸後期、1850年代に意図して作成されて奉納されたものであると。。

西本願寺・本願寺派では、13世・良如の頃から、教義論争(以後、興正寺との不和)、16世・湛如の頃では、一説には宗主自身が宗意安心のため能化(現在の勧学)の勧めにて自害、その後を一旦継いだ湛如の弟の静如は問題多々にて退任、歴代宗主の取り消し、17世・法如の頃には、明和の法論、19世・本如の頃での三業惑乱・・と江戸期の西本願寺・本願寺派は、艱難辛苦の連続となっていた・・

13世・良如の時に九条家と再び縁戚関係となった西本願寺は、19世・本如に至るまでのトラブル続きなことには、何か原因があると、特に九条家(と鷹司家)の者が留意するところとなり、20世の広如の際に、「玉日姫」の弔いをする必要があると進言されたということで、その際に、全国の玉日姫の関連ある菩提寺、祈願寺、史跡を再整備するように号令が下ったということで、その一か所が、往生院であったということのようです。

要は、九条家・鷹司家は、それらのトラブルの原因を悲運にあった玉日姫の「祟り」にあると危惧し、もちろん、浄土真宗の教義では、当然に祟りなどありえないものであり、認めるところでは絶対にないため、あくまでも宗祖に関係あるかもしれない者の供養として「内々」にて進められたということであります。

となれば、この時期であれば、往生院に訪れて奉納したと考えられる者は、九条家の者ではなく、鷹司政熙の娘の関係者、つまり、鷹司家と推測することができます。奉納の施主が、鷹司政熙、鷹司政通、鷹司輔煕かとなるわけです。

玉日姫の坐像の由来の核心に近づくことができそうです。

また、摂関家との婚姻とは異なり、宮家の降嫁、つまり、皇族から大谷家への降嫁については、教義中枢との絡みから、法義を護る側と宗主の側で相当な軋轢があったようである。

それが特に明らかとなったのが16世・湛如の時であり、閑院宮直仁親王の長女が降嫁した際に、宮家の神道との兼ね合いの中で法義を護る側が相当に苦慮したことが窺えるわけであります・・

表向きは、閑院宮側においての神祇不拝の原則に抵触する行為があったとした訳ですが、結局は、皇族の降嫁そのものが、浄土真宗が神道との習合として、以後、門末、檀信徒に見られてしまうことが必至となるため、また、かといって皇族との離縁は、大谷家一族としても後々のことを考えれば相当な憂いとなることから、離縁もできずとなり、一説では、湛如は自害する以外にはもはや西本願寺・本願寺派を護る手段が無くなってしまっていたと考えることができるのであります・・

しかし、それも大政奉還、尊王攘夷の明治の改革、廃仏毀釈の中では、もう保てるものでなくなり、やがては神道を教義中枢に受け入れざるを得なくなってしまうのでもあります・・そして、戦時教学へと繋がっていくわけです・・

また、一方の東本願寺・大谷派は、二十四世の大谷光暢が、久邇宮邦彦王の三女の降嫁を受けることになるものの、それが直接的な原因ではないにしても、開申事件以降、宗門の方針、教義的な論議が激化し、やがてお東騒動へと発展して、分派していくことになるのであります・・

・・

情報提供のお願い(往生院の歴史に関して)

この度、往生院六萬寺では、本堂の安置物について詳しく再調査した結果、幾つかの文化的、歴史的な新しい発見と共に、これまでの寺史の見直しが必要となることが明らかとなりました。

そのため、東大阪市・文化財課と協同して、本堂の幾つかの安置物と共にお寺の歴史について、改めて精査していくことになりました。

その精査へと向けた関連となる年表を整理した上で、既に史実的に確実となってあるものとは別に、新たな歴史的な事実として裏付けとなる古文書や史跡等の情報の提供を求めていくことになりました。

特には、浄土真宗の開祖である親鸞の正室であった玉日姫(九条兼実の娘)と往生院、親鸞と往生院に関するものでございます。

もし、年表をご確認して頂いた上にて、関連したことでの知見がございましたら、往生院六萬寺の方へと情報を提供して頂けましたら有り難くに存じます。

宛先メールアドレス oujyouin アットマーク gmail.com となります。(アットマークは、@へと変換をお願い致します)
どうかご協力のほどを宜しくお願い申し上げます。

















伝・親鸞聖人自作像

由緒書解読

具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故應頂礼

星歳如夢 往昔□□日□□末代門葉唯称佛名歓喜踊躍
祖大織冠鎌足末父有範母吉光前師慈鎮和尚後?帰?法然上人

釋愚禿親鸞世壽六十五歳而自像作者也

干時□□□丁酉年三月廿二日
南旡阿弥陀佛

丁酉(ひのととり)は、1237年1297年1357年1417年1477年1537年1597年1657年1717年1777年1837年1897年1957年

とある。本当に六十五歳の時に自作されたとすれば、1237年・嘉禎三年となる。

筆跡は、親鸞聖人の自筆では無いと思われる。筆跡を親鸞聖人真筆の教行信証等と比較すると、特に「世」が明らかに違うと思われる。また、名前も正式には、愚禿親鸞 か 愚禿釋親鸞 と書くはずである。おそらくは、後にお付の者か、弟子か、後世の者かが、その由来を書いて貼ったのだと思われる。

胎内仏・阿弥陀如来立像・金属製・後ろに「九品仏」と彫られてある

法然聖人、三日月の御影

知恩院の三日月の御影の軸画ともまた違う絵柄である。知恩院の三日月の御影は、特別な時(御忌定式)にしか掲げられない大切なもののようで、南北朝時代に描かれたものであるらしい。

三日月の御影の由来は、藤原隆信(1142-1205)が、夢の中で見た三日月に座す法然聖人であるらしいが、隆信が描いたものは、現在、現存していない(未発見)。隆信の原画ではないにしても、原画の模写の可能性もある。

藤原隆信の子、藤原信実(1176-1266)によるものではないかと思われる。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家しており、藤原北流であり、九条家とも交流は深く、その子、信実は、似絵の家元になっている。特に信実は一尺五寸の坐像を主に描いており、まさにこれもその寸法である。信実によるものを九条兼実か九条道家、あるいはその子孫、または鷹司家が、往生院に下賜したものであろうかと思われる。

玉日姫坐像

この尼像は、親鸞聖人の後妻・恵信尼ではなく、前妻・玉日姫である可能性が高い。九条家の菩提寺であった往生院において、当時は徹底的な念仏法難の折にて、京都や奈良では念仏での供養は難しい中(大坂の四天王寺でも念仏停止中)であったが、往生院であれば、幕府や南都仏教の監視を掻い潜って、玉日姫の菩提を念仏供養にて行えたものと考えられる。親鸞聖人の妻は二人おり、一番有名であるのが、三善為教の娘、つまり、恵信尼。三善為教となれば、その先祖は三善為康と思われる。為康は、拾遺往生伝を著した浄土教信仰者で、その拾遺往生伝には、平安期に念仏聖の安助上人が往生院を創建された由来が詳しく記されている。その恵信尼とは別人である親鸞聖人の最初の妻が、関白・九条兼実の娘の玉日姫(たまひひめ)である。

九条兼実は、法然聖人の弟子で、浄土信仰の篤信者でもあり、教義的な確信を得たいとのことから、法然聖人に弟子と自分の娘との結婚を懇願し、親鸞聖人が選ばれたということである。更に、九条兼実の異母兄弟には、親鸞聖人の戒師となった天台宗の慈鎮和尚(慈円)がいる。つまり、親鸞聖人と九条家との関係もここで生じているところである。また、同じ藤原家の流れとなる日野家の親鸞聖人と藤原家の流れの当時の一番の有力者である九条兼実の娘との結婚、そして、当時の日本仏教界の指導者的な立場であった慈円、その姪にあたる玉日姫と親鸞聖人との結婚は、僧侶の破戒的な行為として本来であれば咎められるところであるはずが、公然、黙認されたのも兼実と慈円が兄弟関係であったことからも頷けるところとなる。九条家、鷹司家により、江戸時代においての玉日姫の供養の際に、対となる親鸞聖人坐像と共に、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院に奉納されたものと考えられる。

玉日姫であるとして、なぜ往生院で祀ることになったのか。

浄土宗往生院の開基は、鷹司信房である。

以後、鷹司家が往生院の後見となるが、藤原北家の嫡流の流れでは鷹司家と九条家は同じ摂関家となる。特に鷹司家は戦国時代に中絶したものの、九条家の流れを汲む二条家により再興したのである。

この再興した際の二条晴良の三男・信房が、まさに浄土宗往生院の開基となっている。もともと九条兼実の頃から九条家の祈願寺であった往生院に、鷹司家が、九条家の玉日姫(兼実の娘)を供養のために祀った可能性が極めて高いと思われるのである。

また、臨済宗往生院の開基、九条道家の父、九条良経は、兼実の子であり、玉日姫とは兄弟姉妹の関係である。

父の兄弟姉妹であり、祖父の兼実から道家は後継ぎとして寵愛されていたことから、その道家がよくよく兼実から話を伺っていたであろう玉日姫のことを篤く弔ったことは十分に考えられる。

つまり、浄土信仰の中心地でもあった往生院において、玉日姫が亡くなった当時、念仏はまだ法難中ではあるものの、法然聖人、そして正妻として親鸞聖人と、浄土教との強い縁があった玉日姫を、浄土教の根本地である往生院にて隠れて弔わせた可能性が極めて高いと思われるのである。

そして、関東から関西に戻った親鸞聖人が、玉日姫の菩提を弔いに、玉日姫の縁のある地としての往生院を参詣した可能性がある。その際に、妻である玉日姫の供養の意のためにと、自分の像を作って、あるいは作らせて、安置させ、常にそばに私がいるからと、手厚く供養したとも推測できるのである。

また、あくまでもこれも推測となるが、玉日姫の遺骸の一部か、遺髪か、遺品かが、九条家の祈願寺としての往生院に祀られてある可能性も否定はできない。

であれば、やはり親鸞聖人が供養のためにと自分で彫った自作像ということも否定されるものではないと考えることができるのである。

舎利容器と舎利塔

かなり古い金属製の方には明らかに舎利がない。しかし、本堂最奥にあり、昔から寺宝級として大切に保管されてきてあったと思われる複数は、当寺院と縁のあったとされる高僧、その中でも慈雲尊者の舎利(遺骨)であると先代は判断して、新本堂建立に際して、東西の三重塔に全ての舎利を納めたようである。

これまでの調査から分かってきたことから、あくまでもここからは私の憶測となるが、木製の古い舎利塔には、玉日姫の御遺骨か遺灰、遺髪が、そして金属製の舎利塔には、もしかすると親鸞聖人の御遺骨が納められてあったのではないかと思われるのである。

本当であるとすれば、わざわざ自分の木像まで自分で彫って、玉日姫の菩提を弔った親鸞聖人のことである。

ご本人の御遺志ではなくとも、九条家の当代か、あるいは、玉日姫のお付きで、のちに親鸞聖人の下で出家した田村光隆(有阿弥1176~1269)が、親鸞聖人のご遺骨を幾つか譲り受けて、玉日姫のそばへとお祀りした可能性もあるのではないかと思われるのである。

慈雲尊者の舎利と判断した先代も、明治、大正、昭和と戦時における混乱の中で、その由来となる文献類のほとんどが滅失していたため分からなかったが、この舎利塔らの護持のあり方には、何か特別なものがあると思われて、慈雲尊者のものとして三重塔に納められたのであろう。

私の推測が正しければ、本堂前の東西の三重塔には、親鸞聖人の御遺骨と、玉日姫の御遺骨あるいは遺灰、遺髪が祀られてある可能性もあるのではないかと考えており、今後の調査の進展を待ちたいところである。

その他、今回の調査対象

伝・浄泉和尚(浄土宗・往生院中興開山)

江戸時代に作成されたものと思われるが、はっきりとした由来はわからない。

百万塔

百万塔は、天平宝字8年(764)におこった恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱後の動乱を鎮めるために、称徳天皇によって発願され、宝亀元年(770)に完成した100万基の小塔。中には陀羅尼経の一片が納められている。その一つで、奈良時代に聖武天皇勅願・行基開基にて創建された六萬寺に奉納されてあったものが、六萬寺の後に創建された往生院へと伝わったものであると推測される。

役行者像

旧本堂から昭和2年建立の行者堂にて祀られていた。行者堂は後に傷みのため解体、その後、現在の新しい本堂へと安置された。江戸時代の制作と思われるが、由来ははっきりしていない。伝わるところでは役行者の自作となっている。今回改めて調査対象とする。


桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった

念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)

安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。

往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。

仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)

円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)

楠木家の要所となる。山城として利用される。

夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる

楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。

湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。

四条縄手の合戦・高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。

楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺
応仁の乱

畠山家内紛時に城塞化
畠山基家戦死・寺院焼失

往生院の本堂にあった説相箱が神感寺へと渡っている。

戦国期・往生院は、城塞として利用され、著しく衰退、荒廃する。

キリスト教伝来

桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る

織田信長が足利義昭と共に京都に入る

室町幕府滅亡

安土城完成

本能寺の変

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる

豊臣秀吉が関白になる。

豊臣秀吉が天下統一

豊臣秀吉死去

関ヶ原の戦い・東軍の勝利

江戸幕府成立

大坂夏の陣・豊臣家滅ぶ

鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。

浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。

早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。

十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。

江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。

往生院は、明治期に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)
しかし、なぜかこの南木会は早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。

その後、荒廃したままの往生院は無住となり、村の総代、世話人たちが管理していた。南朝にゆかりのある者を住持として迎えたいとして待つ中、大正14年に川口蓮海が入寺し、浄土宗教師となり再興を目指すことになる。

川口蓮海は、楠木正行御墓所の整備、林間学舎(1930)、楠公道場の建設(1940)など、心身の鍛錬所として寺院を開放していた。また、菊水会・楠薫会・三寶会など講社を結成して往生院の檀家を増やすことに努力する。神武天皇御聖蹟巡拝会も結成していた。文筆家としても小誌を多く監修して発行している。

8月11日・川口蓮海・往生
川口立誡が住職となる
単立寺院となる(臨済宗系)
檀家制度廃止、信徒制度となる

戦後すぐの頃の往生院は困窮著しく、薪を売ったり、托鉢に出るなど、日々の生活にも厳しい状況であった。法輪・菊水という機関誌を発行して生計の足しとしていた。

この頃の無縁塔整備から始まり、本堂修理、金堂跡整備、墓苑整備、稲荷社整備と、ようやく本格的な復興が始まる。
寺務所建立
鐘楼堂建立・梵鐘再鋳
中門建立
仏殿建立
新本堂・奥之院建立
宝蔵・校倉建立
仁王門建立
新寺務所・客殿建立
川口立誡・遷化
川口哲秀が住職となる
小楠公銅像再鋳・建立
民具供養館建立
鐘楼堂新規建立
歴史館・展示館の改修
公衆トイレ建立

日想観法要再興
岩瀧山・滝行再興
合祀塔・やよい観音建立

寺史再考証


桓武天皇・誕生・白壁王(光仁天皇)の長男

桓武天皇・即位
桓武天皇の子・葛原親王(桓武平氏の祖)→平高望→平国香(伊勢平氏の祖)

平国香・平将門の乱で戦死
平国香→平貞盛(平将門の乱の鎮圧・鎮守府将軍)→平維衡→平正度→平正衡→平正盛→平忠盛(平清盛の父)


平正度の子・正衡の兄弟・貞季の子が、平正季→範季→季房→家貞(筑後守)→
貞能(筑前守・肥後守)

平貞能は、平清盛の参謀。治承・寿永の乱で活躍。大橋姓を名乗る。

平貞能は、平家滅亡後に流浪。母が宇都宮家でもあり、親友であった宇都宮朝綱(奥州合戦で活躍)を頼り、身を寄せた。宇都宮朝綱には貞能への恩義があった。嘆願により源頼朝の許しを得た。

貞能以降、大橋通貞→貞経→貞宗→貞俊→貞高→定清→定省(愛知県津島市に奴野城を築城・城主となる)

津島四家七名字。新田系の四家としての大橋家・恒川家・岡本家・山川家、七名字としての堀田家・平野家・服部家・光賀家・鈴木家・真野家・河村家となる。

後醍醐天皇を助けた北畠親房の三男・北畠顕能は伊勢国の国司となり、以後、公家大名として伊勢周辺域を支配している。この際に北畠家に従い、南朝方の武将として参戦し、新田義貞・楠木正成と共に活躍することになったのだと思われる。

定省→信吉→信重(良王君の子・後醍醐天皇の後胤説)→定廣

定廣の子に、定安(禅休)・宗定・定祐・廣正と女子(大河内家へ嫁ぐ)・女子(蜂須賀家へ嫁ぐ・蜂須賀正勝の母)がおり、この内の宗定(帯刀・盛祐)が、川口家へと養子に入る。

大橋家と同様に川口家も桓武平氏で、平季房の子の流れで同族であり、美濃の川口村(岐阜県安八郡)にあった宗倫の代から川口姓となり、8代・宗持の養子に大橋家の宗定(帯刀・盛祐)が入った。

川口宗吉。妻は、小島信房の娘、織田信長の伯母とされる。大橋家と同様に織田信秀に仕える。子に川口宗勝。宗勝の織田家での厚遇から織田信長の伯母の子であると考えられる。

川口宗勝。妻は、福富直貞(福富家は織田家家臣)の娘。水野信元→柴田勝家→織田信長に仕える。織田信長の直臣旗本、弓大将となる。本能寺の変後、織田信雄、豊臣秀吉と仕える。伊勢国と尾張国内で1万8千石を拝領している。

関ヶ原の戦いにおいては、安濃津城攻めなどに参加する。西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領は没収。身柄を伊達政宗に預けられる。1606年、徳川秀忠に許されて佐倉市・青菅2千5百石を賜って旗本となった。1612年、青菅にて死去。以後、1698年までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行された。徳川秀忠に許されたのは、何よりも徳川家康との血縁関係によるからであろう。

宗勝が、織田信長、織田信雄に仕えていた時代、つまり、安土幕府の時には、安土城の城下屋敷に移り、川口家も一族が住んでいたと思われる。現在、川口家が代々住職となっている西法寺は、元々武家屋敷であった事が、昔の地名から分かる。安土村大字中屋字屋敷内。川口宗勝の兄弟、あるいは子、川口家の一族が、武家屋敷を寺院として、信長や柴田勝家、戦友たちの菩提を弔うために僧侶となり、西法寺を開基したと思われる。現在の往生院・川口家のルーツは、川口宗吉・宗勝にあると推測でき、また西法寺の由来について改めて詳しく調査、精査することで確定させることができると考えている。

以後の川口宗勝の直系は、徳川家の下、旗本として関東に所領を持ち、代々徳川幕府に仕えることになった。

滋賀県近江八幡市安土町中屋の浄土真宗・大谷派・西法寺は、安土桃山時代から代々、川口家が住職を勤めていると思われる。明治時代に西法寺の住職であった川口法旭の三男・蓮海が、大正14年に往生院に入寺することになる。

川口蓮海は、東大・英文科を出て、朝日新聞の本社編集者となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て色々なところに移り住む中、泉南市信達楠畑にある浄土宗・大雄寺近くにて文筆家として小説を書いていた時、縁によって往生院に入寺し、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指す。

往生院参道・桜並木化
行者堂建立(1926)
小楠公銅像建立(1927)
菊水寮建立(1930)
豊島英海が中心となり、河内新西国三十三箇所霊場を開く(1930)

川口立誡が三樹子(芳樹尼)と結婚
10月、川口哲秀が生まれる

この頃、度々、窮状打開・寺院護持のための断食行、一切経祈願・金剛経祈願・理趣経祈願が修されている。復興へと向けた並々ならない気迫が伝わる。

川口立誡は、浄土宗で得度した後、教師過程から、思うところがあり、曹洞宗・橋本恵光老師門下となり、曹洞宗の僧籍となっている。薬師寺の橋本凝胤の下で3年間、唯識を学ぶ。漢詩に秀でていた。法隆寺の佐伯良謙、東大寺の清水公俊らと交流している。

1966年・川口哲秀・岐阜・正眼寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。1969年に帰山。その後、敏子と結婚。1976年に英俊が生まれる。

民具供養館建立・社会見学の受け入れ(延べ20万人以上)。

1999年・川口英俊・岐阜・
瑞龍寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。2001年に帰山。

仏像・宝物について再調査

聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
光仁天皇は天智天皇の孫

南都仏教を牽制・最澄留学

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北平定

平将門の乱

平忠盛は白河院・鳥羽院に仕えた武将。娘を源義忠(河内守・検非違使)に嫁がせて河内源氏と和合した。

保元の乱

平治の乱

平清盛が太政大臣になる。

源頼朝が挙兵する。

壇ノ浦の戦い・平家滅亡

源頼朝が征夷大将軍になる。
鎌倉幕府の成立

承久の乱(後鳥羽上皇流罪)

一説には、大橋定省に後醍醐天皇の子である宗良親王の娘・桜姫が嫁ぎ、その生まれた子・定元の娘が、宗良親王の子であるとされる尹良親王の子の良王君の妻となり、その子が大橋信重となるとあり、後醍醐天皇の後胤との説もある。

また、新田系となるのは、新田家の世良田政義の娘が、良王君の母であるとされたからであろう。

いずれにしても、以後、津島四家七名字、その代表であった大橋家は南朝方に従って戦ったのである。

後醍醐天皇即位

鎌倉幕府が滅亡

後醍醐天皇・建武の新政

後醍醐天皇が吉野に移る。

足利尊氏・征夷大将軍となる

北畠親房が神皇正統記を著す

南北朝の統一

川口家・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞(定)ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字(向島岩子島史)

川口家は、大橋家とは季房までは同じ平氏で、大橋家は、家貞の流れとなり、川口家は、季宗の流れとなって、川口家は代々「宗」がつけられるようになったと推測できる。つまり、同じ伊勢平氏として大橋家ともほとんど同族関係にあったのだと思われる。そして、盛祐が、宗定と改名して、嫡子の絶える川口家を継いだと考えられる。

川口宗定の妻は、徳川家康の祖母の華陽院(於富の方)。
以後の川口家(川口宗吉から)は、徳川家康とも血縁関係ということになる。

華陽院は、松平清康、水野忠政、あと二人と結婚している。華陽院との子に川口宗吉。華陽院は、なんと5名と結婚している。よほどに魅力があったのだろう。

水野忠政と華陽院との娘(於大の方)が徳川家康の母である。

大橋安定の子、大橋重長は、織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿である。最初は、尾張国・清洲城主織田家と領地を争っていたが、後に、織田信秀に帰順する。

大橋安定と織田信秀の娘の子は、織田一門となった織田信弌。本能寺の変で戦死した。

もう一人の大橋安定の子、大橋重一は、津島に近い美濃の高須城の城主となっている。
川口家の由来となった美濃の川口村にも近い。津島四家七名字に川口家は含まれていないが、大橋家と同様に武家としての力があったと推測できる。

大橋家は、大橋重賢が、織田家の家臣として、滝川一益に仕えたが、滝川家没落後、福島正則に仕える。福島正則の改易後、松平直政(父は徳川家康の次男・結城秀康)に仕えて家老となっている。(直政が、出雲松江藩に入る際、武名の高かった福島正則・旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている)

余談であるが、大坂冬の陣の際、生母の身分が低くて部屋住みの立場であった松平直政には、出陣できる余裕は無かったが、家来の神谷兵庫が西本願寺から2千両の大金を借りてきたおかげで出陣できたといわれている。

織田信雄が秀吉の配下となると共に、川口宗勝は秀吉の家臣となる。おそらくは、織田信長の直臣であった川口家が、秀吉の家臣になることなど屈辱的でもあり、許さなかった川口家一族の中で、秀吉の家臣にはならずに屋敷を寺院として出家した者が西法寺の住職になったということではないかと考えられる。

大雄寺は、大正期に、豊島妙澄尼が住職になっていた。豊島妙澄尼の長女・壽子(松山藩士の子孫、茶道・華道・俳句の師範)と川口蓮海が結婚し、川口立誡が生まれている。

大雄寺は、楠木正成の一族・和田高家が築城した岸和田城に近く、また、楠畑と名があるように、近くには楠由来の名前が幾つも見られることから、南朝・楠木家に縁があったと推測できる。現在は無住のお寺である。

豊島英海・浄土宗教師・旧松山藩士の子孫。蓮海の妻・壽子の弟(松山には豊島家住宅・重要文化財が残る)

梵鐘・小楠公銅像の供出
学童疎開の受け入れ
8月15日・終戦

この頃の楠公道場は断食道場として利用されている。

三樹子(芳樹尼)の母・塩田妙澄尼(前述の豊島妙澄尼とは別人)は大阪市・天王寺区・六大院(真言宗)の尼僧。戦後になり往生院に入り、長年、三樹子(芳樹尼)と共に往生院の復興に大変貢献される。当時、川口立誡が住職であった頃は、檀家制度を廃止しており(信徒制度)、また、葬式仏教を廃するとの強い信念があり、葬式の導師を勤めることは住職在中、一度たりとも無かった。ただ、次世の川口哲秀の頃からは葬儀の導師の受け入れを再開している。

戦時に梵鐘と共に供出されて無くなっていた小楠公銅像を再鋳再建。

寺院・小楠公の歴史・史跡の保全に努める。近隣の幼稚園の園児たちの岩瀧山・登山遠足を受け入れていた。また、定期的に子ども向けに坐禅会を開催していた。民具歳時記の発行(延べ30号以上)。

浄土真宗開祖・親鸞、親鸞の正妻・玉日姫との関連が濃厚となっている。