ピアノのお稽古5

2015-05-28 23:30:13 | ピアノ
北海道は札幌 、澄川という真駒内に近い所に住んでいた。
札幌駅から南北線澄川の駅、かなり急な坂を登った所にあるマンションが社宅だった。
雪の季節、この坂道は怖い。登りは兎も角、下りは大層に怖い。しかし若いお姉さんなどはハイヒールでカッカッとそのピンヒールで雪を突き刺しながら下っていく。移住して最初にしたことは靴底に雪道仕様の滑り止めをつけることだった。

ピアノに興味を持った娘に、私は子どもの為のモーツアルトをいきなり与えた。
一度弾いて聴かせると、楽譜の音符の読み方、リズムの取り方を吸い込まれるように娘は理解してくれたので、ついつい夢中になって教えた。
でも、親が教えるといずれはドロドロの闘いになる日が来るのを知っているのでどこか音楽教室を探さねばと思っていたが、とにかく坂道が怖いので近い所、坂道を通らなくてよいところに教室が無いものかとアンテナを張って彼方此方ウロウロ散策した。

そして見つけた。
坂道を登りつめて左折するとマンション、右折すると「札幌コンセルバトワール」というピアノ教室があったのだ。つまりマンションから真っ直ぐ数分で教室だ。
有名な先生が主催されていたが、とてもアカデミックな雰囲気なので、私達のような一般peopleに門戸が開いているようには思えなかったが、ある日、院長先生が坂道を長靴を履いて登っていらした。
その姿がとても普通のおじさまに見えて、というか、どうして院長先生だとわかったのかというと、コンサートのチラシでお顔に見覚えがあったので、思わず話しかけてしまったのだ。
4歳になったばかりの娘を紹介して、
「一般peopleですが(本当にこのセリフを使った)教えていただけますか?」
「勿論ですよ、見学にいらっしゃい」
その足でコンセルバトワールに案内して下さった。白を基調とした明るい内装で、階段には沢山のお花が並んでいた。院長先生の奥様がお部屋を全て見せて下さった。全国各地から、また海外からもレッスンを受けに来られるのでシャワー室まであった。

メトードローズの教本を渡され、「来週からでもいらっしゃい」
あ、バイエルじゃないんだ、メトードローズなんだ、教えるならメトードローズが良い。嬉しい。この時点でまだ自分が手ほどきをするつもりの私だった。

家に帰ってさあさあ……
私は自分自身が真面目に習い始めたのが遅かったから、何を最初にきちんと教えるべきかわかっていた。
私の先生は厳しかったし、嫌味も多かったが、効率良く学ぶ方法を教えて下さったのだ。
娘は既に楽譜の読み方をわかっていたので、一週間後にはメトードローズ上巻の中程以上を弾けるようになって初レッスンということになった。
先生はひたすら花マルをつけるだけ。
4歳の子どもには半時間の集中が限界なのだが、娘は何時間でも集中できた。
そこで、先生は一回間違えたら「も」と書いて「もう一度弾いてきてね」と仰った。
娘はこの「も」が大嫌いで悔しがった。家で完璧に弾けても一度つまづくと「も」がつく。意地になって集中していった。

夫は子どもを褒めることを絶対にしない人だった。逆に私は褒めて育てるタイプ。
夫に「ほらほらこんなに弾けるようになったよ」と報告しても
「それがなんや?」とどうやらピアノのお稽古には反対の様子。
習う前に娘は父親に「絶対やめませんから習わせて下さい」とひらがなのお手紙を一生懸命書いたのに。
音楽を学ぶのに父親の協力や理解がないと大変だ。これは最後まで影響する。
でも、娘はそんな事全く気にもならない様子で、幼稚園もお休みしてピアノを弾いて過ごすこともあった。
私は無理矢理やらせたわけでもない、幼い娘がやりたがったのだ。
2か月でメトードローズ上下巻終了。
バーナムの教本とギロックの練習曲に入った。
ギロックの「フランス人形」が大好きで、幼稚園のグランドピアノで毎日弾いていた。
実はその幼稚園は森の中のとても自由な幼稚園。カリキュラムはない、年齢別の部屋もない。好きなことをして過ごす。しかも親も一緒に遊べるのだった。親の教育も目的にしていたので私も毎日童心に戻って通っていた。
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ピアノのお稽古4

2015-05-26 23:22:57 | ピアノ
久しぶりにピアノのお稽古の続き
高校を卒業してもピアノは続けていた。
音大に行かず、さらに下宿していたので、ピアノの練習場所に困った。
スタジオを借りるなんて考えもできなかった私は、なんと教育学部の教授に直談判しに行った。
教育学部には音楽の授業のために学生が練習するピアノ室が沢山あり、いつも幾つか空いていたからだ。
教授は少し考えてから、
「何か弾いてみなさい」
と仰った。
ちいちいぱっぱの男子学生が四苦八苦してバイエルを弾いている隣の部屋で、バリバリと
ファリアの「火祭りの踊り」を弾いてみた。
「空いていたら何時でも弾いて宜しい」
と言って下さった。
有難や有難や。
ある日ドビュッシーのベルガマスク組曲を弾いていたらトントンと教授がノックされた。
「グランドピアノを使ってもいいですよ。」
ええ~?ええのん?

その日から私は授業のない時間帯ならグランドピアノで練習できるようになった。
が、流石に少し不味かった。
快く思わない学生もいたのだ。それはそうでしょう。
それで、今度はサークル活動用のピアノを狙った。
そこはアコースティックバンドやらコーラスグループなどが良く利用していた。
丁度昼ごろなら誰も使っていない時間帯があったのだ。早い者勝ちで飛び込んで鍵をかける。
広い部屋でまたバリバリ弾いていたら、今度は聴衆が集まってきた。
凄いカーリーヘアの女子が昼にピアノを弾いている、それもクラシックを弾いているのを見物にくるのだ。ドアの向こうに男子学生がいつもニヤニヤしながら覗き込んでいるのがガラス越しに見えた。
勿論使いたくて「早く終われ~」と、せっつきに来ている学生もいた。

まあ、そんなことをしながら、時々は帰省して家のピアノで練習して、どうにかこうにか月一度のレッスンは受けに行った。

その頃先生は車の免許を取得されて、レッスンは琵琶湖の見える高台の豪邸と、結婚後の住まいである膳所のマンションを行ったり来たりして、その時の生徒に合わせて場所を決めていらした。
高台の家の方は、遠いけれどあの優しいお母様がいらっしゃるので嬉しい。
マンションの時はいつも先生はお留守で私はドアの前で立ちん坊していた。
「私の前と後ろには車が無いのよねえ~!」と先生がバタバタ帰ってらして狭い部屋でレッスンを受ける。
ご自分だけの閉鎖空間で本心が剥き出しになるからだろうか、先生の愚痴やら嫌味やらを黙って聞くこともあった。
そんな時は、例の如くぶらぶらされている組んだ足の指先の真っ赤なマニキュアに目を剥きながら辛抱した。
先生は子どもが大っ嫌いだと仰った。子どもを追いかけてくたくたになっている母親には絶対なりたくないそうだ。
国立大の教育学部を出て子どもにピアノを教えていながら何故そう仰るのか不思議だった。
今思うと子どもを産まないことの弁解だったのだろうか。
きっと周りから色々言われて面白くなかったのだろう。

私が結婚するまでレッスンには行って発表会にも出さして頂いた。
最後の発表会では
フォーレのバルカローレ3番
私が最年長となっていたので、ある日、私より上手なのに2歳下の大学生から電話がかかってきた。
ロングドレスを着るかどうかの相談だった。
母の主催するピアノ教室の発表会で、私がロングドレスを着たことがあったからだ。
彼女は私に遠慮して、私がロングならロング、違うならやめるとのこと。
私はどうでも良いことなのになぁと驚いたけれど、彼女にすれば大事だったのだろう。
結局私はワンピースにした。彼女はロング丈とミディ丈のどちらにもできるスカートを用意して、ミディ丈で弾いた。

結婚して東京に行きます
と先生に報告した時、先生は「良かったわねー」と目を丸くして仰った。やれやれこれでこの娘と縁が切れるとホッとされたのかもしれない。

東京の住宅事情は想像以上に厳しかった。
アップライトピアノを4畳あるかないかの洋室に、根来塗りの和ダンスと一緒に押し込んでギリギリペダルを踏み込めるスペースしかなかった。ピアノなんか嫁入り道具にして……と、姑に嫌味を言われてもそれだけは譲れないことだった。広い寺でそだったのに、46平方メートルのマンションに住むことになり、私は息が詰まりそうだったが、それでも夫の月給は家賃で半分飛んで行くのだから分不相応と言われても仕方ない。

ピアノの練習はぼちぼちしたが、先生を見つけるわけでもなく、ピアノ殺人事件とかも起きていて、マンションで弾くのはやはり徐々に難しくなってきた。
そして、子どもが生まれたらもうそれどころではなくて、ピアノ室はただの納戸と成り果てた。

ところがその後、夫が北海道に長期出張となり、住環境はいきなり改善された。
社宅扱いで80平方メートルだ!
6畳弱の洋室にピアノだけを置くことができた。
私がピアノを弾いていると3歳の娘も次第に興味を持ち始めた。
ここから私の第二のピアノ生活が始まった。 続く。



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ピアノのお稽古 3

2014-11-02 16:48:34 | ピアノ
中学生になると、学校から直接電車に乗って通うようになった。当時は土曜日も学校はあったからね。
お昼も食べずに一番に先生のお宅に到着しても、先生はなかなか出て来られない。グウグウお腹を鳴らして待っている私に、先生のお母様が紅茶とサンドイッチを持ってきて下さった。そうか!先生もお食事Timeなんだと納得する。
 

この先生になって与えられた教則本ははツェルニーの30番とバッハのインベンションだった。

ベートーベンを弾く為のツェルニーの練習曲。
面倒くさいが達成感があるのでもくもくと練習した。
40番の後半から面白くなり始め、ベートーベンは嫌いでもツェルニーが好きになった。
あとでわかった。
ツェルニーはツェルニーを好きな人が練習すれば良いのだ!50番、60番となると好きでなくちゃやってられない!

バッハインベンションを数曲習ったあたりで辞めていく人が多かったようだ。
私もバッハは苦手で嫌いだったのだが、どうにかこうにかシンフォニアに取り掛かった頃、また投げ出したくなった。
先生は
「一小節と次の一音まで弾いて、それを繰り返し、覚えたら次の小節に入り、次はまとめて二小節と次の一音、それを続けて最後まで弾いてごらんなさい。」
と仰った。
これは非常に効果的な練習で三声の組み立ても理解できるし、最後は自分の脳波が変わるのまでわかる。
気持ち良くなり、延々と引き続けることができるようになる。
「あなたバッハ好きになったわね。」
と先生に言われた時は嬉しかったなぁ。シンフォニアを制覇した時の満足感たるや……。
 
二年目の発表会は
モーツァルトのソナタ
高校受験直前の三年目の発表会は
モーツァルトのファンタジーだった。
本当に大胆な先生だ。
大切な小学生時代がすっぽ抜けていたのに、私もよく弾いたものだ。
 
レッスンはいつも洋間のアップライトピアノだったが、発表会前になると、お許しの出たものは10畳程の和室に置いてあるグランドピアノを弾かせてもらえた。
 
中学時代は部活をしない帰宅部だった。
帰宅してもグランドピアノは母のレッスンで使われているので、私はアップライトピアノで練習する。
二台のピアノがガンガン鳴り響き、賑やかな午後の寺。
 
高校一年生になった私に与えられた曲は
ショパンのバラード第一番。
あのね、大胆な選曲にも程があります。
 
これはフィギュア男子羽生選手の今シーズンの曲だ。
当時本堂にアップライトピアノとステレオが置かれていた。
家にあるレコードの中から見つけ出し聴いて頭を抱え込んだ。
弾けるわけない!と思った。
先生、何を考えてるの???
悩んで悩んで
 
「ショパンの幻想即興曲弾きたいですm(_ _)m」
と頼んだ。
 
「そんなもの、中学生が弾く曲よ!小学生だって弾くわ!」
 
そもそも出遅れている生徒の私、高校生ともなると、プログラムで先生の顔に泥を塗る事になるわけだ。
すごすご引き下がり、またレコードを聴いてうな垂れる。
 
半年やそこいらで仕上げて発表会で弾けるとは到底思えない。
 
この頃先生のお宅は引っ越され、更に遠く琵琶湖が見える山の中腹の立派な御殿に日曜日に通っていた。
広い洋間に二台のグランドピアノが置かれ、レッスンも常時グランドピアノとなった。
休むことなく通っていたレッスンだったのに、初めてズル休みをした。
 
親には内緒、先生には連絡もせず。喫茶店で適当に時間を潰ししれっと帰宅して寝ていた。
 
先生の怒りはMAXになったらしく、お母様から電話がかかった。
まるでレッスンを終えて帰ったかのような振りをしていた私に、母の雷が落ちた。
「出掛けたけど、友達に出会って、その友達が具合悪くなったから……」
 
誰が信じるねん!レベルの嘘をシドロモドロにつく情けない自分。
 
嘘はいけません。嘘はいけません。身に沁みた。
 
「とにかくいらっしゃい!」
とのことで、もう一度出直して平謝りして、とてもショパンのバラードなんて弾けませんと泣きつくが、先生は首を横に振って……。
それでも、破門にならなかったことを感謝した。
 
 
ところがラッキーが舞い降りた。
突然先生の結婚話が持ち上がったのだ。
当時28歳の先生。
当時としてはギリギリ適齢期。
おかげでその年の発表会はお流れに☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
翌年の発表会で弾く事になった。
何としても弾かねば!という気になり、とにかく弾いて弾いて弾きまくった。
 
レッスンでは最初の一音を何度も弾かされた。
もう一度、もう一度……何が悪いのかわからないがダメなのだとはわかる。
難所が何箇所もあるが、最初のページが一番大変だった。ゆっくりで音が少ないのに。
 
友人が
「いつ電話してもあんたはピアノの練習してるわね」
と、言っていた。
ピアノ最優先ではあったけれど、高校では軽音楽部に入ってギターを弾いて歌っていた。そのおかげでピアノも続けられたのだと思う。
勉強はしなかったが、恋もして充実した高校生活だった。
 
本堂での練習は、母の生徒さんのレッスンの音も気にならなくてとても集中していたから、お檀家さんとかが突然入ってくると心臓が止まるかと思うほどドキッとした。
 
どうにか弾けるようになった頃、母が�島屋でとても綺麗な硝子のペンダントとエレガントなワンピースを用意してくれたので、急に大人になった気分だったのを憶えている。
 
発表会当日には、当時お付き合いしていた先輩も聴きにきてくれて、
「よくまああんなに指が動くなぁ、びっくりした。」
と言ってくれた。
バイエルを自分で丸つけて終えた私が、5年後にショパンのバラードを弾いているなんて。
私の娘は5歳からピアノを始め、私が人生変わるほど悩んで練習したこのバラードを、小学6年生でいとも簡単に弾いた。幼少時の音楽教育はそれなりに意味があると思う。
 
有難いことに、先生は私の何処にいつ起爆剤を入れるかよくわかっていらしたのだろう。
追い込む先生、追い込まれて階段をぐわーっと登る私。
やがて、先生はご自分の師匠のレッスンを月に一度私にも受けるように仰った。
この大先生のレッスンを受けて、私は先生のもう一つの姿を知った。
私が怖がる先生にも怖い先生がいるのだ!
私が大先生のレッスンを受けている間、先生は部屋の隅っこで小さくなっておられた。脚をブラブラなんてあり得ない。
先生にしたら試験を受けている気分でいらしたのだろう。
 
私には大先生はちっとも怖くなかった。大らかで優しくて、良いところをうんと褒めて歌うように引っ張って下さる。
終わると先生が
「どうしていつもよりずっと上手く弾けるのよ!」
とすねた顔をされた。
苦労して教えた生徒が大先生の前で上手く弾けば御自身嬉しいだろうに、反面悔しいような気持ちもおありの様子が手に取るようにわかるようになったとは、此方も成長したということか。
 
 
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ピアノのお稽古その2

2014-11-01 22:05:02 | ピアノ

小学校6年生のある日、母の恩師のお嬢様の所に連れていかれた。

大学の官舎であるその御宅はさほど広くない平屋建てだった。
1時間に1本しかないバスに乗り、国鉄に乗り、更に京阪電車に乗り換えて徒歩5分程。
ひとりで電車に乗ったことなどなかったので通えるのかなあと少し心細かった。
 
その先生は恐かった。
まだ若いのに、今だかつて体験のない恐さだった。
よその教室の門下生などあまり欲しくないようで、取り敢えずテストをさせてあげるだけよ!みたいな顔で睨みつけられた。
弾いている間中、ずっと組んだ脚をぶらぶらさせたり、あからさまに溜息ついたりされるのですっかり萎縮して疲れ果てた私は、しょんぼりうな垂れて母と一緒に帰宅した。
先生のお母様はとても優しくて上品な方で、「後で連絡しますからね。」と仰ったけれど、私はもうすっかり諦めていて母に次の先生を探してと頼んでいた。
あんな恐い先生、こちとらだってごめんだわい!
 
夜、電話が鳴った。
母の応答に耳をすませていて私は教えてもらえるらしいことを悟った。
ちょっと複雑な気持ちではあるが嬉しかった。
 
さあ、それからが大変だ。小学校6年生は結構忙しい。
遠いので土曜日に通うことにした。
今は1レッスン何分で幾ら…みたいな教室が主流だと思うけれど、当時のピアノ教室は、よく練習をしてきたものはより長く、練習しないものはサッと帰されるものだった。時間も予約ではなくて、早いもの順で、順番待ちの間ずっと他の生徒さんのレッスンを聴いている、聴かされる。それは大変な学びの場だった。
音楽用語の基礎知識はそこでほとんど覚える。
 
初レッスンでは、今までどんな練習をしてきたか訊かれた。
どんな曲を弾いたか?どんな教則本を修了したか?
 
はっきり申し上げて、まともなレッスンを受けた記憶がありませんがな(^^;;
教える側はまともでも、全くその気がなかったもので、改めて訊かれると、何と答えてよいのかわからない。
熟考する頭も持ち合わせていない。
これは弾いたか?あれは弾いたか?と尋ねられ、殆ど耳で覚えていたもので、ハイハイ知ってます、やりました(O_O)と返事していた。
 
今思う、嗚呼、その厚かましさ、その心臓、ほんまに私???
 
過去を綺麗にリセットして新しく与えられた教則本は、物凄く背伸びするものばかりだったが、後には退けない。
その日から無我夢中のピアノの練習が始まった。
バイエルもきちんと終えていないのに、最初の発表会はソナチネ全集の中に収められていたとはいえ、ベートーベンのソナタだった。
先生も大胆だ。
 
レッスンの時はいつも姉が習っていた先生の事を仄めかして、良い先生がいらっしゃるのだからそちらへ行けば?と嫌味らしいことを仰った。
母の生徒さんや姉と全く関係無い先生に習いたかった私は、聞き流すことにして我慢した。
何故なら、先生のレッスンは怖いけれどとても充実感があったのだ。
未だかつてない怖さだが、未だかつてない魅力的な指導に、私はこの先生についていきたいと、よくわからないくせに本能で思っていた。
 
発表会当日のリハーサルで恐ろしい光景を目にした。
 
やっぱり脚を組んで、客席の最前列ででんと座り生徒を睨みつける先生。
最後までそこそこに弾き終えることのできないものや、暗譜もできていないものには容赦無く
「帰りなさい」
 
発表会に出られないのだ(O_O)
びっくりした。
 
今夜はここまで。お休みなさい。
 
 
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ピアノのお稽古

2014-10-30 00:44:55 | ピアノ

今夜はピアノのお稽古のことを思い出してみよう。

物心ついた時、我が家にはアップライトピアノがあった。
古い寺の庫裡に不思議な洋間があって、その奥には「奥座敷」と呼ばれる書院造りの二間とトイレがあった。そのトイレの不思議なこと。トイレとは言わなかった。お便所。
何が不思議かというと、微かにしか思い出せないのだけれど、上品な感じ。侘び寂びを感じるお便所だ。廊下は一面硝子張りで日本庭園の中庭を鑑賞できる。
お便所の入り口は硝子戸を開けると大きな石の手洗いがあり柄杓がおいてあった。
夏の忙しい時期には、蚊取り線香を焚いて中庭の草むしりとこの石の掃除をした。
その昔、「なんとかの宮様」がお泊まりになったことがあり、その時に新書院として増築された座敷のようにきいている。
ピアノのお稽古の話に奥座敷は関係ないようだが、私にはそうでもない。
寺の廊下とは客が迷子になるようにできている。
いつの間にかグランドピアノが入った洋間の前から奥座敷にと続く一本の廊下は若かった私には何かと思い出がある。
グランドピアノがきた頃、洋間に入る廊下に対してT字に走る廊下の反対側の部屋を子供部屋としてリフォームされた。
二つ机を並べて、背中側に母の嫁入り道具であったアップライトピアノが置かれた。
姉の机はぐっちゃぐっちゃ、私の机はスッキリ。姉は超読書家で私は超遊び人。机が必要なのは姉で、私には不要だったので置くものがなかったというわけだ。
グランドピアノは母の仕事用。毎日沢山の生徒さんが、半数は義務的に、廊下を叱られる為にパタパタ歩いていた。
ピアノの先生は熱が入るとめちゃくちゃ怖いものだ。
生徒さんのレッスンが早めに終わった日、姉か私かどちらが呼ばれるかドキドキしていた。大概姉が呼ばれていた。
姉はピアノも上手、絵も上手、身長も高くて口も達者。期待の長女だ。
私は叱られるのが怖くてビクビクしているのに、あまり叱られない。母はあきらめていたのか疲れていたのか、ほどほどのレッスンで終わる。
 
ある年の発表会で私より歳上の男の子の母親が、私の曲を変えさせた。
自分の息子が年下の私より進んでいないのは体裁が悪いからと、それもプログラムができてから。
私の名前の横の曲名に線が引かれて、私は簡単な曲を弾け!と命令された。
怠け者でぼんやりの私にもかすかな意地があった。
わざとつっかえつっかえ弾いてやった。どうでもよい、失敗すべき発表会だと思っていた。よほど面白くなかったのだ。今でも憶えているのだもの。
そしていつしか私は母のレッスンを受けないでバイエルの上下巻を自分で丸をつけて修了した。
その頃私はバレエに夢中だったこともある。
レニングラードバレエ団の「白鳥の湖」
を小学一年生の時に観せてもらった。
帰るなり私は土下座をして母に頼み込んだ。
「バレエ習わせて!」
さあ、母は困ったことだろう。
こんな田舎ではバレエ教室なんてありゃしない。ピアノ教室だって母が第一号。
色々調べて京都まで行かないとクラシックバレエの教室はないとわかった。毎週京都まで通うなんて流石にできない。それで母はモダンバレエ教室というのを見つけてきた。週二回、私はレオタードを着て踊れると思うと嬉しくてバレエの日は大急ぎて帰宅した。母は私のバレエ教室通いに合わせてその近くでもピアノ教室を始めた。学校から帰るとバスで教室に行き、レッスンが終わると母のピアノ教室まで歩いて行く。母の生徒さんのレッスンを聴きながら終わるのを待って一緒に帰るのだ。
姉は月に一度京都からやってくる偉い先生のレッスンを受けていた。
私はピアノは適当に弾いては自分で丸をつけるということをしていた。練習曲はほとんど耳で覚えていたから。
でも、それはやはりまずいと母は思ったらしく、教え子の所に私を通わせた。でもお姉さん先生は優しいし、ほとんど遊びに行っていたようなものだ。三人姉妹のお姉さん先生、姉妹が愛読?していた「少女フレンド」という漫画目当てで通っていた。
だからピアノはいつまでたっても私にはどうでもよいものだった。
今夜はここまでお休みなさい。
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