台韓の被爆者は今 原爆の苦しみ、同じはず/毎日新聞

2013-08-08 13:03:49 | 世界
特集:台韓の被爆者は今 原爆の苦しみ、同じはず
毎日新聞 2013年08月06日 大阪朝刊
http://mainichi.jp/area/news/20130806ddn010040037000c.html
1945年8月、広島と長崎に米国の原子爆弾が投下された。きのこ雲の下には、日本の植民地だった朝鮮や台湾の出身者も数多くいた。戦後、祖国に帰った「在外被爆者」は被爆の後遺症や差別に苦しんだが、長年、被爆者援護法の枠外に置き去りにされてきた。韓国では今、多くの人々が、被爆者健康手帳の取得を目指し、消えつつある「被爆の証明」を捜し求める。台湾では2011年に「被爆者の会」が結成された。韓国や中国との間で緊張感が高まるなか迎えた被爆68年の夏。日本の市民団体の支援もあり、長年顧みられなかった在外被爆者の存在に、ようやく光が当たり始めた。異国の地で被爆した人々の今を台湾、韓国で追った。

 ◇妻にも話せなかった「生き地獄」−−陳賜兵(ちんしへい)さん(86)

 「以前は無神論者でした。でも、私は特攻でも助かり、原爆でも助かった。神はいるんじゃないかなと思ったんです」

 よく晴れた7月の日曜日。台北市内の小さな教会に陳賜兵さん(86)はいた。約20年前から続ける日曜礼拝を終えると、流暢(りゅうちょう)な日本語で語り始めた。

 日本統治下の台湾で生まれ育った。小学校での授業は大半が台湾語だったが、志望した商業学校の入試は日本語。「東京の書店から郵便為替で教科書を買って自分で日本語を勉強したんです」

 1944年、商業学校4年の時に旧日本陸軍の特別幹部候補生に合格した。学校の担任教諭に勧められ、「遅かれ早かれ兵隊に行くなら幹部で」と考え、受けたのだった。

 45年1月、日本へ。香川県の小豆島で訓練を重ね、配属されたのは広島・江田島の水上特攻隊だった。ベニヤ板製の小型艇で敵艦に接近し、爆弾を放つ。「4秒で逃げろと言われたが、無理ですよ。まあ死ぬんだなと。でも怖くはなかった。『日本のために』と教えられていましたから」

 だが、出撃より先に下ったのは、「新型爆弾」が落ちた広島への救援命令だった。

 次々と火の手を上げる建物。水を求めて防火水槽に頭から突っ込み、動かなくなった人々。原爆投下の5時間後から7日間、半袖、短パンのまま、遺体の処理にあたった。「担架もないから、切断した水道管を鍵形にして遺体の両脇にひっかけて引っ張りました。仏に対してひどい扱いをしたと今でも思います。生き地獄でした

・・・以下全文は
http://mainichi.jp/area/news/20130806ddn010040037000c.html


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