羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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2014年10月16日 | 横綱昇進、大関昇進、大関陥落、横綱陥落
横綱は東西に必要か。横綱は一人が伝統だった。現代の感覚で歴史を振り返ると間違えることがある。(羽黒蛇)






横綱は東西に一人ずつ、二人いるのがよいと思ったのである。

史上初の横綱として史実が残るのは、谷風と小野川同時昇進。

江戸の相撲御所は、横綱二人が原則としていた故に、強い雷電は一人で横綱になれなかったし、初代梅ケ谷、玉錦も同様に一人で横綱に(なかなか)なれなかった。

武蔵山がふがいない成績なのに横綱になったのも、玉錦が一人横綱だから。

男女ノ川引退の後、すぐに照国と安芸ノ海が横綱に昇進したのも、もし昇進しないと、双葉山・羽黒山の立浪部屋二人が東(か西)で、西(か東)に横綱がいなくなってしまうから。(当時は東西制)






やっぱり横綱は東西に二人必要なんだよね。

だったら、二人に欠けたら、横綱昇進にふさわしくない成績の大関でも、横綱に昇進させ、東西に横綱二人。

でも、甘い成績で昇進した横綱は、もっと強い横綱が昇進したら、大関に戻ってもらう、という制度がよいのではないか、と考えた。






可愛いのだけどソロライブで客が多すぎてメンバーが見えないくらいに人気のあるアイドルが、今日は、椅子席の会場で切符も買えそう。しかし、HPを見ると大人びて、化粧も濃く、可愛くなくなってしまっている。たった1年の間に。そこで、アイドルより相撲と、図書館へ。読んだことない相撲の本を手当たり次第リクエスト。






相撲百話

栗島狭衣著

1940年(昭和15年)

322頁「横綱の粗製濫造時代」

趣旨は、梅常陸の時代の後、太刀山・駒ヶ嶽の時代が期待されたが、駒ヶ嶽が横綱に昇進できず。そこで、

大正4年6月免許の横綱「鳳」は、粗製横綱とののしられ、

大正5年1月免許の横綱「西ノ海」は、濫造横綱で、横砂だと誹謗された。

ここまでは、納得。初めて知る表現だが、そう言われても仕方ない成績の横綱だったという知識はあったから。その次が、初めて知る事実。要約して引用。( )は羽黒蛇補足。






元来横綱は相撲道の最高権威者であって、日の下開山としての存在は、いうまでもなく只一人に限られているのが常道である。この常道が自然に固守されていたのは、嘉永3年2月まで、六代目横綱秀の山を限りと認むべきである。

(七代目雲龍と、八代目不知火が並立して、)二人横綱という変則が襲用されていた。明治になり、鬼面山、境川、梅ケ谷、初代西ノ海、小錦も皆正式の一人横綱であった。それが成績としては不良ながら、とにもかくにも大型力士として大砲が15代横綱となる(ここまでは正式の一人横綱)

常陸山・梅ケ谷が同時昇進すると、三人横綱。常陸山は強豪、梅ケ谷はこれに次ぐ剛者であったから、(三人も横綱とはとんでもない伝統破りなるも)事実の上で得心が行くために、遂に相撲界に未曾有の三人横綱が確立される事になってしまったのである。

(しかし本来一人であるべき横綱を無理に二人にしたために、鳳、西ノ海のふがいなさにより、)今尚神聖なる横綱の体面をよこしているのは、是非もない次第である。






大正時代は、横綱一人が正しい伝統だった。初めて知る。






羽黒蛇





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