『横綱大関の公式年収』 (別紙「横綱大関の公式年収)」「固定的な収入の内訳」「月給の推移」)
ここでの公式収入とは、公表されている相撲協会からの支給金と大きな花相撲の賞金の合計額です。
横綱、大関ともなれば、領収書の要らない後援者などからのご祝儀が相当な額になるそうですが、勿論、それは含まれていません。優勝の副賞の賞金・賞品も含みません。
公的収入は二つに分かれます。正式名称ではなく、私が勝手に名付けただけですが、業績によって金額が決まる「業績給」と、番付の地位によって決まる「固定給」です。「業績給」の中には、場所ごとの優勝に与えられる1000万円の「優勝賞金」のほかに、「給金」「懸賞金」「花相撲の賞金」があります。
「給金」の仕組みは、別紙「力士の固定的な収入の内訳」の脚注をご覧いただきたいのですが、勝ち越すたびにコツコツと積み重ねていくものです。そして、優勝などの特別な業績をあげれば飛躍的に上る一方で、負け越しても下がらない温かさもあり、「スポーツ界で世界に冠たる報酬制度」と評価する人もいます。平成19年には年額495万円にすぎなかった白鵬の給金が、25年には6倍以上の3019万円になったのは、その間に22回の優勝を重ねた結果です。ちなみに、給金額での第2位は日馬富士の898万円で、白鵬の1/3に届きません。
「懸賞金」がつくのは幕内の取組だけで、懸賞1本につきスポンサーが出すのが6万円。力士の取り分は5.5万円ですが、その場で渡されるのは3万円で、残りの2.5万円は将来に備えての本人名義の積立金となり、引退時に精算されるそうです。この金額は平成3年5月場所から変っていません。人気絶頂だった貴乃花が平成6年から9年にかけて獲得した懸賞金が年間で3000万円に満たなかったのに対して、白鵬は平成22年と24年に1億円を越え、懸賞金が公式収入全体のほぼ半分にまでなりました。その理由は、1万人近い観衆が注視する懸賞の広告効果が見直されて、懸賞の本数が大幅に増えたためです。ただ何となく見ているだけのテレビのCMの料金が、大雑把にいって関東エリアの15秒スポットで100万円なのに比べて、大相撲の懸賞は割安と判断されたのです。
一方、「花相撲の賞金」は減っています。若貴人気の頃は、相撲番組が視聴率を稼いだため、民間放送が競って国技館での花相撲を開催しました。賞金も結構な額で、平成8年に貴乃花は3つの花相撲で1330万円を獲得しました。その後、相撲人気が急激に下り、3つの系列が相次いで花相撲から撤退。残っているのは元祖のフジテレビ系「大相撲トーナメント」だけで、しかも、賞金額が減らされています。
ちなみに、本場所の放送はNHKが独占しており、その放送権料は年間30億円強で、相撲協会の収入全体のほぼ1/3を占めています。放送は1日5時間×15日×6場所=年間450時間で、1時間当たりにすると700万円ほどです。ただ、この放送権料はテレビだけではなく、ラジオ、海外向け放送、スポーツニュースも含んでいるため、放送権料としては妥当な額とのことです。
次に、「固定給」には、「給与」「賞与」のほか、「場所手当」「出張費」「力士補助費」があり、それぞれの金額は別紙『横綱大関の公式年収』の脚注のとおりです。このうち、金額が圧倒的に大きいのは「給与」と「賞与」です。私がデータをとりはじめた平成3年の月給は、横綱が115.3万円、大関が95.9万円でした。若貴人気は、その直前から始まっており、666日連続の満員御礼という史上空前の大相撲人気をもたらし、相撲協会は平成元年から10までの9年間で、実質50%の増収となります。関取の「給与」も、別紙「関取の月給の推移」にある通りの鰻登りで、横綱大関は翌4年に56%の大幅昇給、その後も毎年数%の昇給が続き、平成13年に現在の横綱282万円、大関234.7万円となりました。「賞与」は年間で給与2カ月分です。
ちなみに、平幕の公式年収の最低額は2000万円、十両は1600万円です。これに対して幕下以下は、衣食住は保証されていますが、協会からの支給金は、幕下で年額90万円、序ノ口では42万円。これ以外には、本場所の会場から部屋までの交通費実費だけです。待遇面だけで言えば、十両からが人間、幕下以下は間の世界です。スター俳優と大部屋俳優との差に比べてどうなのかは知りませんが、こういう世界があってもいいと思います。横綱まで上り詰めた力士が「横綱になった時よりも十両に上った時の方が嬉しかった」と口を揃えます。(別紙「力士の固定的な収入の内訳」)
別紙「横綱大関の公式年収」は平成9年から集計しはじめたものですが、貴乃花については、それ以前から集計していました。平成6年から8年の3年間、貴乃花は年に4回ずつ優勝していますので、公式年収がトップだったのは間違いなく、6年が9879万円、7年に大相撲史上初の1億円突破の1億0814億円、8年は1億1753万円でした。
それを大きく更新したのが、年間6場所を制覇した平成17年の朝青龍の2億0222万円、年5回優勝の22年の白鵬の2億2652万円です。給与が据え置きの中で合計金額が貴乃花時代より大幅にふえたのは、懸る懸賞の本数が3、4倍にも増えたからです。
『五大部屋の変遷』 (別紙「五大部屋の変遷」「勢力上位の部屋の変遷と部屋頭」)
部屋の勢力を比較するには数量化が必要で、諸先輩のご意見を参考に、次のように重みづけたしました。そして、各場所の点数の年間総得点で、年間の部屋の順位付けをしました。
横綱:20点 大関:10点 三役:4点 平幕:3点 十両:1点 幕下以下:0点
平成3年5月場所で千代の富士が引退したのに続いて、翌4年3月場所で北勝海が引退し、長く続いた九重部屋(横綱・北の富士)の時代が幕を下ろし、貴乃花・若乃花・貴ノ浪・安芸乃島・貴闘力の藤島部屋(大関・貴ノ花 平成5年に旧二子山部屋を吸収して新二子山部屋)の時代に入り、平成4年から11年までの8年間、トップの座を守り続けます。この九重時代と藤島・二子山時代に共通するのは、それ以前の大相撲がそうであったように、主役が中学卒のたたきあげの力士ばかりだったことです。
平成12年、かわって首位にたったのが武蔵川部屋(横綱・三重ノ海)ですが、この部屋は外国人(武蔵丸)と学生相撲出身(出島・武双山・雅山)ばかりといってもよく、大相撲界全体の大きな変化を表しています。
出島と雅山が大関から陥落し、15年末で武蔵丸が引退すると、翌16年からの4年間は朝青龍の高砂部屋(大関・朝潮)がトップに立ちます。そして、20年から22年までは琴欧洲・琴光喜両大関の佐渡ヶ嶽部屋(関脇・琴ノ若)がトップ、23年以降は、この佐渡ケ嶽部屋、白鵬の宮城野部屋(平幕・竹葉山)、日馬富士の伊勢ケ濱部屋(横綱・旭富士)の鼎立時代となっていきます。
平成3年からの25年の23年間を俯瞰して、特筆されるのは佐渡ケ嶽部屋です。五大部屋から外れたのは2度だけで、その2年間も、6位と7位なのです。琴欧洲・琴光喜・琴奨菊の大関だけではなく、関取が次から次へと生まれているのです。3大関に加え、この間の関取は、琴錦、琴椿、琴富士、琴ノ若、琴ケ梅、琴稲妻、琴白山、琴別府、琴龍、琴嵐、琴冠佑、琴岩国、琴春日、琴乃峰、琴禮、琴勇輝、琴弥山の20人にのぼります。この隆盛をもたらしたのは先代の佐渡ケ嶽(横綱・琴櫻)の並はずれて熱心な弟子探しです。全国に張り巡らした人脈を活かし、「大きな子がいる」と情報が入るやいなや、どこにでも直ぐに出かけて行って入門を説得するのです。私事ですが、大阪に住んで毎週のように東京に出張していた頃、あの並はずれて大きな頭の佐渡ケ嶽親方と飛行機で隣り合わせの席になり、窮屈な思いをしたことがありました。
15位までの部屋をまとめた別紙「勢力上位の部屋の変遷と部屋頭」には、懐かしい四股名もありますので、ご覧ください。
平成26年4月26日
真石 博之
ここでの公式収入とは、公表されている相撲協会からの支給金と大きな花相撲の賞金の合計額です。
横綱、大関ともなれば、領収書の要らない後援者などからのご祝儀が相当な額になるそうですが、勿論、それは含まれていません。優勝の副賞の賞金・賞品も含みません。
公的収入は二つに分かれます。正式名称ではなく、私が勝手に名付けただけですが、業績によって金額が決まる「業績給」と、番付の地位によって決まる「固定給」です。「業績給」の中には、場所ごとの優勝に与えられる1000万円の「優勝賞金」のほかに、「給金」「懸賞金」「花相撲の賞金」があります。
「給金」の仕組みは、別紙「力士の固定的な収入の内訳」の脚注をご覧いただきたいのですが、勝ち越すたびにコツコツと積み重ねていくものです。そして、優勝などの特別な業績をあげれば飛躍的に上る一方で、負け越しても下がらない温かさもあり、「スポーツ界で世界に冠たる報酬制度」と評価する人もいます。平成19年には年額495万円にすぎなかった白鵬の給金が、25年には6倍以上の3019万円になったのは、その間に22回の優勝を重ねた結果です。ちなみに、給金額での第2位は日馬富士の898万円で、白鵬の1/3に届きません。
「懸賞金」がつくのは幕内の取組だけで、懸賞1本につきスポンサーが出すのが6万円。力士の取り分は5.5万円ですが、その場で渡されるのは3万円で、残りの2.5万円は将来に備えての本人名義の積立金となり、引退時に精算されるそうです。この金額は平成3年5月場所から変っていません。人気絶頂だった貴乃花が平成6年から9年にかけて獲得した懸賞金が年間で3000万円に満たなかったのに対して、白鵬は平成22年と24年に1億円を越え、懸賞金が公式収入全体のほぼ半分にまでなりました。その理由は、1万人近い観衆が注視する懸賞の広告効果が見直されて、懸賞の本数が大幅に増えたためです。ただ何となく見ているだけのテレビのCMの料金が、大雑把にいって関東エリアの15秒スポットで100万円なのに比べて、大相撲の懸賞は割安と判断されたのです。
一方、「花相撲の賞金」は減っています。若貴人気の頃は、相撲番組が視聴率を稼いだため、民間放送が競って国技館での花相撲を開催しました。賞金も結構な額で、平成8年に貴乃花は3つの花相撲で1330万円を獲得しました。その後、相撲人気が急激に下り、3つの系列が相次いで花相撲から撤退。残っているのは元祖のフジテレビ系「大相撲トーナメント」だけで、しかも、賞金額が減らされています。
ちなみに、本場所の放送はNHKが独占しており、その放送権料は年間30億円強で、相撲協会の収入全体のほぼ1/3を占めています。放送は1日5時間×15日×6場所=年間450時間で、1時間当たりにすると700万円ほどです。ただ、この放送権料はテレビだけではなく、ラジオ、海外向け放送、スポーツニュースも含んでいるため、放送権料としては妥当な額とのことです。
次に、「固定給」には、「給与」「賞与」のほか、「場所手当」「出張費」「力士補助費」があり、それぞれの金額は別紙『横綱大関の公式年収』の脚注のとおりです。このうち、金額が圧倒的に大きいのは「給与」と「賞与」です。私がデータをとりはじめた平成3年の月給は、横綱が115.3万円、大関が95.9万円でした。若貴人気は、その直前から始まっており、666日連続の満員御礼という史上空前の大相撲人気をもたらし、相撲協会は平成元年から10までの9年間で、実質50%の増収となります。関取の「給与」も、別紙「関取の月給の推移」にある通りの鰻登りで、横綱大関は翌4年に56%の大幅昇給、その後も毎年数%の昇給が続き、平成13年に現在の横綱282万円、大関234.7万円となりました。「賞与」は年間で給与2カ月分です。
ちなみに、平幕の公式年収の最低額は2000万円、十両は1600万円です。これに対して幕下以下は、衣食住は保証されていますが、協会からの支給金は、幕下で年額90万円、序ノ口では42万円。これ以外には、本場所の会場から部屋までの交通費実費だけです。待遇面だけで言えば、十両からが人間、幕下以下は間の世界です。スター俳優と大部屋俳優との差に比べてどうなのかは知りませんが、こういう世界があってもいいと思います。横綱まで上り詰めた力士が「横綱になった時よりも十両に上った時の方が嬉しかった」と口を揃えます。(別紙「力士の固定的な収入の内訳」)
別紙「横綱大関の公式年収」は平成9年から集計しはじめたものですが、貴乃花については、それ以前から集計していました。平成6年から8年の3年間、貴乃花は年に4回ずつ優勝していますので、公式年収がトップだったのは間違いなく、6年が9879万円、7年に大相撲史上初の1億円突破の1億0814億円、8年は1億1753万円でした。
それを大きく更新したのが、年間6場所を制覇した平成17年の朝青龍の2億0222万円、年5回優勝の22年の白鵬の2億2652万円です。給与が据え置きの中で合計金額が貴乃花時代より大幅にふえたのは、懸る懸賞の本数が3、4倍にも増えたからです。
『五大部屋の変遷』 (別紙「五大部屋の変遷」「勢力上位の部屋の変遷と部屋頭」)
部屋の勢力を比較するには数量化が必要で、諸先輩のご意見を参考に、次のように重みづけたしました。そして、各場所の点数の年間総得点で、年間の部屋の順位付けをしました。
横綱:20点 大関:10点 三役:4点 平幕:3点 十両:1点 幕下以下:0点
平成3年5月場所で千代の富士が引退したのに続いて、翌4年3月場所で北勝海が引退し、長く続いた九重部屋(横綱・北の富士)の時代が幕を下ろし、貴乃花・若乃花・貴ノ浪・安芸乃島・貴闘力の藤島部屋(大関・貴ノ花 平成5年に旧二子山部屋を吸収して新二子山部屋)の時代に入り、平成4年から11年までの8年間、トップの座を守り続けます。この九重時代と藤島・二子山時代に共通するのは、それ以前の大相撲がそうであったように、主役が中学卒のたたきあげの力士ばかりだったことです。
平成12年、かわって首位にたったのが武蔵川部屋(横綱・三重ノ海)ですが、この部屋は外国人(武蔵丸)と学生相撲出身(出島・武双山・雅山)ばかりといってもよく、大相撲界全体の大きな変化を表しています。
出島と雅山が大関から陥落し、15年末で武蔵丸が引退すると、翌16年からの4年間は朝青龍の高砂部屋(大関・朝潮)がトップに立ちます。そして、20年から22年までは琴欧洲・琴光喜両大関の佐渡ヶ嶽部屋(関脇・琴ノ若)がトップ、23年以降は、この佐渡ケ嶽部屋、白鵬の宮城野部屋(平幕・竹葉山)、日馬富士の伊勢ケ濱部屋(横綱・旭富士)の鼎立時代となっていきます。
平成3年からの25年の23年間を俯瞰して、特筆されるのは佐渡ケ嶽部屋です。五大部屋から外れたのは2度だけで、その2年間も、6位と7位なのです。琴欧洲・琴光喜・琴奨菊の大関だけではなく、関取が次から次へと生まれているのです。3大関に加え、この間の関取は、琴錦、琴椿、琴富士、琴ノ若、琴ケ梅、琴稲妻、琴白山、琴別府、琴龍、琴嵐、琴冠佑、琴岩国、琴春日、琴乃峰、琴禮、琴勇輝、琴弥山の20人にのぼります。この隆盛をもたらしたのは先代の佐渡ケ嶽(横綱・琴櫻)の並はずれて熱心な弟子探しです。全国に張り巡らした人脈を活かし、「大きな子がいる」と情報が入るやいなや、どこにでも直ぐに出かけて行って入門を説得するのです。私事ですが、大阪に住んで毎週のように東京に出張していた頃、あの並はずれて大きな頭の佐渡ケ嶽親方と飛行機で隣り合わせの席になり、窮屈な思いをしたことがありました。
15位までの部屋をまとめた別紙「勢力上位の部屋の変遷と部屋頭」には、懐かしい四股名もありますので、ご覧ください。
平成26年4月26日
真石 博之