羽黒蛇、大相撲について語るブログ

相撲ファンから提供された記事・データも掲載。頂いたコメントは、記事欄に掲載させて頂くことがあります。

映画 「名寄岩 涙の敢斗賞」(羽黒蛇)

2015年11月08日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
映画 「名寄岩 涙の敢斗賞」(羽黒蛇)






映画名 「名寄岩 涙の敢斗賞」

映画館 神保町シアター

鑑賞日 2015年11月8日(11月13日まで上映、但し木曜以外は昼間)

映画封切り日 1956年(昭和31年)6月7日






映画の舞台は、昭和25年1月場所(3勝12敗)と5月場所(9勝6敗、敢闘賞)、断髪式

引退は昭和29年9月場所。






感想:脚本よし。名寄岩の演技よし。俳優ではないので上手くはないが、素人にしてはセリフが棒読みではない。相撲のシーンもしっかり撮影されていた。






時代考証的観察

その1:師匠の立浪親方(緑島)役の男優の背が高すぎる。

その2:昭和25年1月場所千秋楽の支度部屋のシーン。吉葉山・三根山が上位、北ノ洋の顔も映る。昭和25年は吉葉・三根とも上位ではない。映画公開の昭和31年、三根は大関から陥落して下位。吉葉・三根が横綱大関だったのは、昭和29-30年。

その3:支度部屋のシーンは5月場所でも出てくるが、女性を含めファンが出入りしている。今ではマスコミ以外は立ち入り禁止。当時はおおらかな時代だったようだ。しかし、女性が支度部屋にいるのは史実に反するのではないか。回しをつける時に裸になるのだから。

その4:昭和25年1月場所千秋楽、名寄岩が帰宅。贔屓から頂いたカステラを切る。付け人に分ける時に、「信州」「石狩岩」と声をかける。

番付を調べると、

信州は、昭和24年5月に大昇に改名。改名した後でも愛称で呼ばれることはあるが、昭和25年1月の大昇は十両2枚目。大昇は付け人ではなく内弟子としてついてきたと解釈。

石狩岩は昭和33年3月に引退。最高位幕下8枚目。昭和25年1月は小坂岩という四股名。映画を撮影した昭和30-31年には石狩岩なので、時代考証より分かりやすさを優先したようだ。

その5:昭和25年5月場所、9勝5敗の名寄岩は、7勝7敗の備州山と対戦。水が入るも疲れた名寄岩は控えに下がらず土俵中央で待つ(これは史実なのだろうか)、東の備州山が西の控えに下がったのはミス。

その6:土俵に仕切り線がない。観客に西洋人数人。

その7:昭和25年5月場所、千秋楽敗れるも9勝6敗の名寄岩が敢闘賞を受賞。その日に夫人が死亡(これは史実なのだろうか)先妻の妹と再婚(これは史実である)

その8:断髪式。時津風(双葉山)、力士会代表吉葉山、立浪(羽黒山)






名寄岩の初婚相手の女性とは恋愛結婚。その女性は名寄岩のファンだったという。映画には登場しないが、立浪部屋関係者より教えていただいた話。






羽黒蛇

ーー
補足;大達羽佐ェ門さん調査結果

まず先妻の初枝さんの死去は9月(谷中霊園墓石より。相撲の史跡)なので史実に反します。






次に、昭和25年夏場所の手捌きですが、同日のスポーツ報知によれば備州左を覗かせ一気の出足、名寄上手を引き堪える所を備州すくい投げで勝ち、とあり、文面から見る限り水入り相撲とは到底思われません。二日目の神若戦が水入りで名寄がグロッキーだったと記載されており、この相撲をもとにしたと思われます。






仕切り線については、どうもこの場所初めは存在せず、途中から中央に一本引かれたようです。しかしながらいつからどのような目的で仕切り線が無くなったのか、また何日目にどうして復活したのかが不明なので、今後の調査対象とします。






最後に、名寄岩の後妻が読売大相撲で、先妻(姉)と名寄岩の結婚はお見合いだったと答えています。

名寄岩物語、感想(羽黒蛇)

2015年08月13日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
名寄岩物語、感想(羽黒蛇)



書名:名寄岩物語

見出し:砂つけて男を磨く相撲とり

発行日:2014年9月27日

編集・発行:名寄市北国博物館



この本を読んで始めて知った名寄岩のエピソードを中心に要約引用し感想を述べる。

――

2ページ:立浪親方は、緑島の緑と、立浪の浪を合わせた緑浪、有望な弟子が現れたらつけようと考えていた。これを新弟子が断り、自ら、強そうな、名寄岩を申し出た。親方は、

「こいつは驚いた。わしのつけた名を断った弟子なぞ今までいないぞ。」「それにしても、おまえは相当な強情者だな。だが相撲取りには絶対必要なことだ。こいつは出世するぞ」

――

3ページ:怒り金時の名寄岩を「怒らせて、からかおうや」と発案したのは出羽海部屋の大邱山。立合いにならない雰囲気の仕切りで、突然立ち上がって蹲踞(そんきょ)中の名寄岩の肩を押し、名寄岩は土俵下に転がり落ちる。九州山はのろのろ仕切り、立合いで猫だまし。

――

4ページ:昭和8年1月横綱免許を授けられた直後の玉錦の土俵入り、太刀持ち双葉山、露払い旭川(立浪部屋)

――

昭和13年1月場所9日目結びの一番は、玉錦と名寄岩(西前頭2)一つ前の相撲が双葉山と両国。両国がうっちゃるが軍配は双葉山。「双葉山の足が大きく土俵を出たため、控えの玉錦が物言いをつけた。とはいえ、両国の死体(しにたい)は明らかで、実に無茶な物言いであった。勝負検査役が協議の結果を玉錦に説明に行くと、興奮して口を尖らせなにやらまくしたてる。それから協議すること実に26分。取り直しでようやく決着がつく。取り直しの一番は、双葉山の勝利であっさりと終えた。」

玉錦への怒りがおさまらない名寄岩。「塩に分かれた玉錦が柱に向かっても、名寄岩は土俵の真ん中で蹲踞のまま睨み続けている。」「時間一杯、だが名寄岩はなかなか立たない。土俵下かた双葉山が名寄岩に立つように促し、ようやく始まった。」玉錦外掛けの勝ち。



羽黒蛇感想:勝負検査役は双葉山の勝ちと玉錦に言ったが、玉錦がごねたので取り直しになったのか? 現在の勝負判定は相撲の流れと体が生きているか死んでいるかより、先についたか・出たかを重視するので、両国の勝ちを判定されるのではないかと思う。個人的には、「両国の死体は明らか」とする昭和初期の勝負判定の基準の方が好きです。

――

5ページ:13年5月場所は立つ気のない名寄岩の一瞬のすきをついて一方的に玉錦の勝ち。夏巡業の高知で対戦。「郷土の英雄に華を持たせるものと思っていた」玉錦は名寄岩に寄り倒され、尻餅までつかされた。

6ページ:玉錦に限らず、名寄岩のあまりにかたくなな一本気に困り果て、相撲に関して一歩も引かない態度が、力士たちの不評を買うことになった。



秋の大阪の準本場所。玉錦と名寄岩は同体取り直し。二番目、やる気不十分に見える玉錦の仕切り。手を緩めない名寄岩。上手投げで名寄岩の勝ち。12月に玉錦は死んだのでこれが最後の一番。

「宿願かなったり。本場所の一番ではないにしても、横綱玉錦に正攻法で勝った」左四つ、右上手という「自らの相撲に自信を持った」

――

9ページ:新横綱羽黒山の土俵入りに際して、太刀持ちをつとめる名寄岩に、「恥だ、名寄。もう引退しろ」と名寄岩ファンからの悲痛の声が響いた。



10ページ:昭和20年11月場所後に大関に復帰した名寄岩。「大関復帰は、明治の西ノ海、大正の千葉ヶ崎、昭和6年の能代潟につづく史上4人目」

――

14ページ:昭和25年5月場所、西前頭14枚目の名寄岩。名寄岩が勝つと大歓声、負けるとため息とともに静まり返る。相手力士にとっては、「名寄岩と相撲をとっているのではなく、大観衆を相手に戦っているような錯覚に陥った」



15ページ:7勝4敗で迎えた12日目、相手は入幕して2場所目の若ノ花。「この一番には戦後初の懸賞もかけられていた。勝ち名乗りを受けて、水引のかかった懸賞袋」「江戸の勧進相撲の頃に行われていたという手刀を切り」「堂々とした手刀を切る姿は、観衆のみならず、力士たちにも強烈な印象を与えた」

25ページ:一説によると、初めて懸賞金を受ける名寄岩が緊張して手がふるえたのが、手刀を切る姿に見えた。現在のところ最も有力な説は、昭和17年ごろから手刀が始まっている。名寄岩が手刀を広めた源であるが、いつから始まり、どう広まったかは断定できない。

24ページ:時津風理事長が、昭和41年7月場所から、正式に相撲規則として取り上げた。



羽黒蛇感想:名寄岩にとって戦後初の懸賞なのか、大相撲にとって戦後初の懸賞なのか。戦前は懸賞があったのか。私が知っていた通説「初めて手刀を切ったのが名寄岩で、他の力士もそれにならった」は間違いのようだ。

――

15ページ:9勝5敗の名寄岩、敢闘賞候補で千秋楽を迎えるが、備州山に敗れ、「控えの間でがっくり肩を落とした。と、そこへ師匠の立浪親方が飛んできた。『名寄、選考委員会で、おまえの敢闘賞が通ったぞ』と話した親方の目には涙があふれていた。」「一説によれば、この一番を解説していた天竜三郎の『敗れたとはいえ、名寄岩をおいて、敢闘賞をだれにやるのか』との発言が物をいい、敢闘賞が決定されたという話である。」



羽黒蛇感想:現在の三賞は千秋楽の幕内取組前に決まるが、当時は取組後に決めていたのだどうか。天竜が選考委員ではなく、天竜のラジオ放送を聞いた選考委員が名寄岩の受賞を決めた、と解釈できるが、天竜の放送は千秋楽ではなく、その前の場所中だったと想像する。そうでないと選考委員の耳には入らないから。

――

17ページ:昭和28年9月場所8日目、日本テレビで流れたコマーシャル。「名寄岩が鳴戸海に快勝した直後、チョコレート・キャラメルの大写しが出て『森永のキャラメルを食べると、今勝った名寄岩のような力が出ます』との宣伝が流れたという(電通月報、1953年11月号より)

――

18ページ:昭和29年3月場所、横綱東富士が土俵下に投げられ大怪我で途中休場。土俵外にビニールマットと筵(むしろ)がひかれた。「土俵が柔らかいことで故障者続出」「珍しく仕切り線のない土俵での相撲となるなど、とにかく問題の多い場所だった」

「相撲協会は、この礼に始まり礼に終わる名寄岩の姿が力士の鏡であるとして、特別表彰を与えることに決定した。」賞状の文面は、「貴下の敢闘は後進力士にとって好個の師表であるのみでなく、相撲史上特筆さるべきもの」

――

20ページ:昭和31年6月、映画「涙の敢闘賞」を見た大関若ノ花は、「落ち目になる名寄岩の子供がいじめられるのがかわいそうだった。お菓子を物差しで計って切ってやるところなんか、そのままだ。映画をみて、みんなが泣いている。相撲社会がよく出ていた。」

――

21ページ:双葉山の太刀持ちをつとめていた頃、10時の門限に遅れた名寄岩が、真冬に日の出まで寒さを紛らわすため四股を踏み続けた。親方は、「おまえの身体はおまえだけのものではないのだぞ」と激怒。

――

22ページ:「春日山部屋にとって、もっと深刻であったのは、弟子の横取りであった、次々と集まる新弟子に各相撲部屋から」言葉巧みに、小遣いまで与えて誘い出した。「例えば、現役時代から弟子入りを約束していた義ノ花は、赤ん坊の時に名寄岩に抱かれ親と固く約束していたが、一言の相談もなく他の部屋に行ってしまった。」「そのほか入門直前で他の部屋に行ってしまった力士は数えれば切りがない」



昭和46年1月26日幕下東筆頭の白法山が4勝目、来場所には春日山部屋に関取が誕生。この日に春日山親方は亡くなる。

――

この本は、東京江戸博物館の図書館で知る。発行元の博物館に照会し買い求めた。発行の経緯として、例言に次の趣旨の記述あり。

・ 本書は、名寄岩生誕100年記念事業の一環として、名寄岩の生涯の事績について記述したものである。

・ 文献、雑誌、新聞の記述と、親族を含めた関係者の聞き取りなどを基に記述している。

・ 原稿は平成16年の名寄岩生誕90年展開催時に成毛哲也(名寄市北国博物館)が展示会資料を集成して執筆したものを基礎とし、今回若干の補足をした。



羽黒蛇

「なぜ、日本人は横綱になれないのか」舞の海秀平著、感想(羽黒蛇)

2015年08月12日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
「なぜ、日本人は横綱になれないのか」舞の海秀平著、感想(羽黒蛇)



書名:なぜ、日本人は横綱になれないのか

著者:舞の海秀平

出版社:ワック株式会社 新書版

2015年5月11日



相撲が伝統文化として存続していけるか否かは、相撲をとったこともない素人のファンが「相撲は面白い」と感じて鑑賞してくれるかにかかっている。

相撲協会の人々が理解しているのか、私は疑問に思う。舞の海はこの本質を理解している。その部分を要約して引用する。



179ページ:

引退して解説をしてきたなかで感じたのは、ほとんど相撲を見たことがない素人の方が見ても、勝ち方に違和感があれば「何か変だな」と感じるものです。

素晴らしい勝ち方を見れば、私のように相撲を取ってきた玄人も素人も一緒に感動する。

そういう意味では、お客さんを騙すことなんてできません。

相撲界のなかにいる人や、相撲を取ってきたいわばプロの人が、「素人がこんなこと言いやがって」と上から目線で見下したりすることがありますが、それは愚の骨頂で、

素人ほど自然に感じ取れるところがあると思います。

素人の目はふし穴ではないですよ。



羽黒蛇感想:相撲協会の人たち、相撲メディアは、(玄人の)舞の海ですら、協会を離れた者が何を勝手なことを言っている、と見下しているのではないか、と想像する。いわんや、素人をや。



189ページから:佐田の山親方の改革は周りの反対でつぶされた

191ページ:境川理事長が年寄名跡の協会管理を提案したが、みんなに反対されて全面撤回した件について、

西村氏(床山):理事長は業界外のいろいろな人の意見を聞いて勉強し、相撲界は遅れている、一般社会に通用するオープンな社会にならないといけない、と考えて改革を進めようとしたんです。

舞の海:理事長は改革案をたたき台にして話し合いたかったのです。それにしても、相撲記者の人たちの報道の仕方に失望したようですんね。



羽黒蛇感想:境川理事長の案は1996年に提案され全面撤回。その内容とほぼ同じ案が2014年相撲協会が公益法人に移行する際に採用された。舞の海の「相撲記者に報道に失望した境川理事長」に注目。

私が読んだ昭和32年の国会討議に対する相撲雑誌によると、当時の相撲記者と評論家は「公益法人として相撲協会は何をすべきか、何ができていないか」を理解していた。

しかし約40年後の平成8年(1996年)は「相撲記者が劣化していたと、境川理事長が感じていた」ことを、舞の海が回想している。





88ページ:宮城野親方が、白鵬がどの部屋に出稽古に行くのかを知らなかったという逸話



16ページ:編集協力/荒井敏由紀、と書いてあるからこちらが実質的な著者と理解した。



タイトル;モンゴルはハングリー精神あり、日本人力士はハングリー精神がない、というが舞の海の論調。これもあるが、素質のある日本人アスリートが相撲に入らないのが、日本人横綱が出ない理由だと思う。ライオンズの「おかわり」中村や、他のスポーツで活躍しているトップアスリートが力士になれば、モンゴル力士に対抗できるのではないか。



羽黒蛇

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2014年11月08日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
Amazonに投稿、相撲の本の感想(羽黒蛇)






相撲錦絵 [Kindle版]

歌川広重 (著), 歌川豊国 (著), LOGDESIGN publishing (編集)






購入してよかった価値あるkindle本。

365円と安い。

Kindleの画像は、書籍よりも鮮明。

江戸時代の力士に関心はあるが、知識が少ないので、とても勉強になる。

是非、シリーズ化して欲しい。






http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00NMO259K/ref=cm_cr_ryp_prd_ttl_sol_0

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2014年07月12日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
「東京自叙伝」に登場する相撲(羽黒蛇)





書名:東京自叙伝

著者:奥泉光

出版社:集英社





127ページ

戦争してみて少しでも辛ければ、すぐに引っ込むのがアメリカである。

戦争するよりダンスホールで踊っていたいのがアメリカ人である。

そんな国に三千年の歴史が培う国民精神を盾にした我が皇国が負ける道理があろうか。

かりに日本を双葉山とするならば、アメリカなどは栄養過多の肥満児にすきぬ。

と、コンナ調子で村尾は論じていたが、これは私の書いたメモが元ネタになっている。

双葉山云々の喩えも私の発明だ。





143ページ

筋目正しい地霊ならば、火柱くらいは立ててB29の一機や二機は打ち落とすところなんだとうが、そんなこともなかったところをみると、かりに地霊だとしても大した地霊じゃないんでしょう。相撲で申せば幕下あたり、





150ページ

靖国神社の相撲場





269ページ

私は力士時代の力道山のファンで、いわゆるタニマチというやつだが、力道山が二所ノ関部屋をしくじって新田建設の新田社長の下に居た時分もどきどき酒を飲ませたり小遣いをやったりしていたところ、ハロルド坂田と云う日系人レスラーが進駐軍の慰問で来日して、(略)そこで私と日新プロモーションの永沢社長の二人で新田社長を説得して力道山をハワイへ行かせた経緯がある。





補足:

この小説は、歴史上の人物を仮名にしてある。例えば正力松太郎は、正刀杉次郎。

双葉山、力道山は、そのまま。

新田社長もそのまま。ネットで調べたら、ハロルド坂田も実名。

永沢社長は仮名、永田社長が実名。





羽黒蛇

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2013年10月19日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
「大相撲の見かた」右四つと左四つ、どっちが多い(羽黒蛇)







書名:大相撲の見かた



著者:桑森真介



出版社:平凡社新書







この本を読んで関心を持った箇所を引用し、感想を述べる。







80頁から引用



小見出し:右利きは右四つが組みやすい。すると数が少ない左四つは有利か?!



「平成25年3月場所の幕内力士42名中、右四つは20名、左四つは6名、どちらともいえない力士は16名である。



稽古で押しの練習をする場合でも、受け側は右胸を前に出し、押す側はその右胸を押すことが一般的だ。これは右四つで、右胸が前に出る体勢と合致している。つまり右四つがベースとなった稽古が行われているのである。」



「一般的には、左四つは力士の中でも比較的少なく、左四つの体制を押すことには不慣れなために、左四つが有利になるのであろう。」







94頁から引用



「序二段:平成25年3月場所では九十四枚目までの番付がある。つまり東西合わせて200人近い力士がしのぎを削っている激戦の階級といえる。」







154頁以降から引用



小見出し:補論 科学データで読み解く ちょっとディープな相撲のはなし



小見出し:立合いで力士が体に受ける力は1トンを超える



小見出し:足を滑らせるためにある、土俵の砂の不思議



小見出し:押し上げることで、相手の体重を自分の力に変えられる!?



小見出し:立合いに両手をつくと有利か不利か



「相撲経験のある関係者は、立合いに両手をつくとスピードが落ちて当たりが弱くなると感じるようであるが、実際の測定データから、むしろ有利になることがわかった。」



「経験から生まれる思い込みと現実が異なることを、科学的なデータが実証した一例である。」



小見出し:土俵を大きくすると小さな力士が活躍できる?



「私たちの研究グループでは、直径16尺(4m85cm)の拡大土俵と、直径15尺(4m35cm)の両方で学生の相撲選手に住もうを取ってもらい、体重の軽い側がカツ率、決まり手数、競技時間を比較した。



土俵を拡大すると、体重差が10%以上ある取組では、体重の軽い方が、30番行うと2・3番多く勝つことができるようになると分かった。決まり手数と競技時間は、土俵を拡大しても大きな影響は見られなかった。」







羽黒蛇の感想:



私は、右四つより、左四つの方が多いと感じていたので、右四つが多いという数字は新鮮だ。



自分が相撲を熱心に見た子供の頃、柏鵬、北玉時代は、左四つが多かったのか、一度調べてみたい。



千代の富士が大関・横綱とスピード昇進した当時、右四つの千代の富士が、左四つが多い上位力士に勝てるようになったのは、相撲の早い千代の富士が、自分十分・相手不十分の体勢になるからだと、感じていたのを思い出した。



上位に右四つが多ければ、千代の富士が十分でも相手も十分なら、そんなには勝てない。



のちに、右四つの隆の里が強くなってから、千代の富士が苦手としたのも、自分は体が小さいのに、相四つだから。







序二段は、相撲の弱い力士が多く、一番つまらない階級である。激戦の階級と表現するのは誤りである。序二段から三段目にすぐ昇進できない力士のほとんどは将来性がないと、私は評価している。



序ノ口は、入門したばかりで相撲を覚えていない力士たちの、体格・足腰の強さ・面構えを見て、将来強くなるかを想像する楽しみがあるが、序二段は、見飽きた弱い力士たちの、ゆるゆるの階級と感じる。







科学データで読み解く相撲の話は、知らないことも多く、読みごたえがあった。羽黒蛇

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2013年03月27日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
34歳ドイツ人の相撲の本を見てみたい(羽黒蛇)



文末に引用した朝日新聞の記事で知ったドイツ人の書いた相撲の本を見てみたい(ドイツ語なので読めませんので)

AMAZONで調べたけど、見つからず。ドイツ語の書名が分からない。



この著者は日本に来て、相撲部屋の稽古に通い、力士に認知されている。

アイドルの握手会に通い、アイドル本人に認知されるファンを連想した。アイドルと違って相撲部屋に通うには参加料がかからない。羽黒蛇



I am writing Sumo blog.

I want to read your book and write blog article.

Could you please tell me the title of the book so that I can buy by Amazon.

著者のfacebookに投稿してみます。羽黒蛇



(ひと)マンフレート・ドイチュレンダーさん ドイツで相撲の解説本を出版した






マンフレート・ドイチュレンダーさん=池田良撮影

 昨年末、ドイツ語で「相撲の魅力」と題した本を出版した。取組や力士の生活だけではなく、呼び出し、床山ら裏方の活動も紹介している。「伝統と美しさを持つ相撲は、スポーツを超えた存在」

 15年前、テレビで初めて相撲を見た。巨体がぶつかる迫力に圧倒され、化粧まわしやまげの様式美に感動した。「とりつかれたんです」。初観戦はその4年後。今回の春場所で観戦はもう18回目だ。

 ドイツでは電力会社で働いているが、渡航費用が足りないときは父親の援助を受ける。「お父さんがタニマチです」と日本語で笑う。日本の言葉と文化はドイツのセミナーや日本の大学で学んだ。

 角界の人と仲良くなるため、朝稽古にも連日顔を出す。だから、顔なじみの力士や裏方が数多い。今場所、幕内若の里に「よく来たな」と握手された。本に掲載された850枚の写真と約180ページの文章は、そうやって培った人間関係のたまもの。力士の普段の生活は境川親方(元小結両国)に頼み込んで撮影した。フェイスブックで行司や呼び出しと「友達」になり、しきたりを教えてもらった。「みんなと友達になれるなんて、15年前から考えたら夢のよう」

 ドイツでは、相撲の魅力はなかなか理解してもらえない。「いつか、大学の講義で相撲の素晴らしさを伝えることができたら」。それが次の夢だと思っている。

 (小田邦彦)

     *

 Manfred Deutschl●(●はaに¨〈ウムラウト〉付き)nder(34歳)

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2012年07月16日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
相撲書籍:押尾川部屋の機関誌・縮刷版





「このごろの相撲を見ていて感じることは、なぜか、はたき込み、引き落とし、突き落とし、という決まり手の多いことだ。

それも、立ち合い頭からぶつかって激しい押し合い突き合いの攻防があってののち、機を見てのはたき込み、突き落としが決まるのなら面白さもひとしおだが、最近のはそうではない。

まず立ち合い一瞬のそれ、最初から計算してのはたきや突き落としであり、ひどいときnいは一秒前後のはたき込みが三番も続いたことがある。」





書名:押尾川部屋 創刊号(昭和53年8月28日)~第74号(最終号/平成16年12月23日)

発行者:大石亨太郎

発行日:2010年11月7日





押尾川部屋の機関誌を縮刷版で発行されたもの。雑誌「相撲」で紹介されていたものを、アマゾンで買い求めた。





冒頭の引用は、昭和60年の記事より。羽黒蛇は今の相撲で変化による一瞬の勝負が多いと不満を抱いているが、いつから増えたのか明確に指摘できない。この記事は参考になった。





この本で初めて知ったこと:作家立松由記夫は、学生時代、両国のビリヤード場で、当時幕下の佐賀ノ花と知り合い、兄弟の契りを結んだ。

立松氏は、西日本新聞で相撲記者、「ふれ太鼓」ほかの著者もある相撲通。押尾川部屋を公演。

立松氏の実兄である建石賢治氏は、昭和50年に、門真市に、「私設・日本相撲記念館」を創設、昭和2年頃からのコレクションを展示。





小戸龍:私の相撲同好会の先輩が応援していた。昭和16年5月場所新入幕の小戸ケ岩(若藤部屋)の孫





古市→若隆盛:後に、琴光喜を脅迫して逮捕された。

http://hagurohebi6.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-dea6.html ←本ブログでは2010年6月にとりあげた。





鈴川→若麒麟:後に、大麻問題で解雇





押尾川部屋からの関取は、wikipediaによると

関脇


•青葉城幸雄(宮城)

•益荒雄広生(福岡)


平幕


•恵那櫻徹(岐阜)

•騏ノ嵐和敏(北海道)

•佐賀昇博(佐賀)

•大至伸行(茨城)

•日立龍栄一(茨城)

•若兎馬裕三(東京)

•若麒麟真一(兵庫)


十両
•乾龍初太郎(北海道)

•壽山勝昭(茨城)

•盛風力秀彦(青森)

•玉麒麟安正(埼玉)






羽黒蛇

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2012年07月04日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
「東京セブンローズ」 昭和20年6月夏場所が登場する小説 (羽黒蛇)






著者:井上ひさし

書名;東京セブンローズ

単行本発刊:1999年3月、文藝春秋

文庫本発刊;2002年4月、文春文庫

連載:別冊文藝春秋 1982年から1997年

あらすじ:昭和20年4月からの根津在住の男性の日記。三輪トラックを使っての輸送業を営んでいる。

以下、文庫版上巻より、引用します。

相撲に関係ない文章は省略。補足は羽黒蛇。ふりがなは、原文の通りだが、( )で表示。旧かなは現代仮名遣いに変更して表示。読みやすくするため改行を追加。











144頁 <仕事の依頼を断ろうとしたところ、おまけに相撲の切符をつけると言われる場面>






「その上、おまけ付きだ」

「おまけ?」

「明治神宮奉納大相撲の入場券だよ。それも七日間通しの入場券・・・」

五日後の五月二十三日から七日間、神宮外苑相撲場で夏場所が行われることは誰でもしっている。

初日は、午前十時から土俵祭、午後一時から十両以上の取組だそうだ。

皆が首を長くして初日を待っているが、一般人は絶対に入場できない。

相撲見物がしたければ銀献納者になることだ。






<三越で聞いた宣伝を思い出した場面>






なお、当三越では、十匁以上(銀を)お売り下さいました御客様に、来る二十三日より神宮外苑で挙行の奉納大相撲の入場券を差し上げております。

双葉山が出場いたします。前田山が出ます。照國が、羽黒山が、佐賀ノ花が、安藝ノ海が、名寄岩が、備州山が、柏戸が、そしてここ日本橋からそう遠くない浅草橋出身の東富士謹一が出ます。

皆様、銀を献納なさって東富士が金星を稼ぐところを目のあたりで御覧なさいませ。






<主人公が妻の銀絲の帯に目をつけると>

そういったら妻が怒った。

これを食料に替えなければならないときがきっときます。いわばこれはお米なんですよ。

双葉山を見たくたってしにはしませんが、お米がなければ飢えて死にます。






銀献納者以外では、傷痍軍人と産業戦士に入場券が重点配布されているそうだが、自分はそのどちらでもないから、神宮外苑相撲場はジャワやアリューシャンより遥に遠いと諦めていた。

午後七時のラヂオ報道で勝敗(かちまけ)の発表があるだろうから、そのときは受信既にかぶりついているさと自分で自分をなだめてきた。






152頁 <電車で隣り合わせた人との会話>






「その隅田川駅で双葉山一門が艀取り(はしけどり)をしているそうで、そえを見物に行くところです。」

自分としては甚だ迷惑だが、相撲愛好者のよしみで勘弁してやった。

「二十三日から奉納相撲を見物する伝手がありませんのでな、せめて遠くからでも双葉山を拝もうと思います。」

「入場券ならありますぜ」

戦闘帽の声が少し低くなる。

「初日の千秋楽のが二十円で、二日目から六日目までが十五円だ。よかったらお分けしましょう」

「非国民!」

すぐ前にいた改良服の女がこっちへ首をひねった。

「工場の機密は喋る、人員配置の噂をする、その上、公衆の真っ只中で闇の相談をぶつ。全体それでも日本人ですか」






158ページ <5月20日相撲通し入場券を受け取った日の日記より>






相撲通し入場券はいうまでもなく神棚にお供えした。






159ページ <閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王が81才で亡くなったとのラジオ報道を聞いて>






自分は二重に悲しんだ。

(略)閑院宮元帥殿下を、現戦時局下に失わねばならなくなったこと、これはなにより悲しい。(略)

もうひとつの悲しみは、二十三日からの明治神宮奉納大相撲が延期になるにちがいないということ、少なくとも二十四日まで行われることがあるまい。果たしてラヂオ報道員は次のように告げた。

「大日本相撲協会は、大東亜戦下の銃後の激励奮発を御指導あそばされた閑院宮元帥殿下の御遺徳を偲び申しあげ、哀悼の念を表したてまつらんがため、明治神宮奉納大相撲の初日を二十三日から二十五日に延期することに決定しました。

なお、初日の取組番付は以下の如く予定されております。

中入後、

信州山には愛知山

若港 には小松山

羽島山には鯱ノ里

駿河海には緑島

廣瀬川には九州錦(くすにしき)

神東山には九ケ錦(くがにしき)

八方山には大ノ海

九州山には鶴ヶ嶺

大ノ森には若潮

笠置山には琴錦

肥州山には立田野

鹿島洋には高津山

清美川には不動岩

若瀬川には双見山

增位山には柏戸

櫻錦 には二瀬川

五ツ海には十勝岩

汐ノ海には名寄岩

東富士には佐賀ノ花

前田山には三根山

安藝ノ海には輝昇

備州山には羽黒山

照國 には海山

結びの一番は相模川に双葉山。

以上であります。二十五日に延期になりました大相撲初日の予定取組番付をもう一度申しあげます・・・・・」

二度繰り返してくれたのでこうやって取組予定を日記に書き写すことができたのである。

これを眺めていれば、頭の中に自然と土俵場(ば)が見えてくる。

その脳裡中の花場(はなば)では双葉山に勝たせようが、相模川に金星を授けようが、こっちの勝手次第である。






296頁 <初日を観戦した日の日記、途中で切れている>






もうなに一つ思い残すことはない。――今の自分の気持にこれぐらいぽったりと適う(あう)言葉はないだろう。

(略)目を閉じればたちまちのうちに、金絲銀絲の縁取りのさまざまな色合いの化粧回しが、鮮やかに眼瞼(まぶた)の裏にうかびあがり、それだけでもう心が和んでくる。

そうなのだ、久し振りに相撲見物ができたのだ。

しかも日本曹達会社の江口さんの呉れた入場券は「甲券」という大変な代物だった。

御贔屓の輝昇の髻(たぶさ)が腕をエイと伸ばせそうな砂被りに坐り、しかも今どき信じられないことだが、合成清酒の二合壜までついたのだ。

(略)

いまは一分の時間も惜しい。

できるだけくわしく明治神宮奉納大相撲初日の様子をここに書き留めておかなければならない。

いつまでの命かは知るはずもないが、生きている限り、とりわけ心が屈したとき、今日の日記を読み返そうと思う。

そのたびに心が慰めを得ることになるだろうから。

徹夜してでも、ことこまかに記録しなければならぬ。

さて、両國國技館に着いたのは朝の四時半だった。

國技館はこの三月十日の大空襲











下巻の203-204頁には主人公が、小学生でも難しい漢字を書ける、それは相撲で覚えるからと主張するシーンが出てくる。






「これらの漢字は小学生の大好きな力士の名前なんです。ラヂオや新聞で、鯱ノ里、出羽湊、九州錦、大邱山という四股名をしょっちゅう、読みかつ聞く。だから連中には難しいとは思えない。」






決まり手で字を覚えると、引用されたのが、

仏壇返し

上手櫓

襷反り

掬投げ

二枚蹴り

裾払い






補足:初日の取組は著作の通りだが、結び四番は順番が異なり、東正横綱照國が結びの一番。海山は神風。双葉山は西張出横綱で、横綱では一番先にとっている。翌日から休場で現役最後の一番。


データは相撲レファレンス

http://sumodb.sumogames.com/Banzuke.aspx?b=194506&heya=-1&shusshin=-1&l=j 






羽黒蛇

吉田秀和「相撲は勝ち負けがすべてではない」「わが相撲記」

2012年06月02日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想

「相撲は勝ち負けがすべてではない。」吉田秀和2011年(羽黒蛇)






ネット情報で見つけた、2011年2月19日の朝日新聞に、吉田秀和の一文を文末に引用。






「相撲は勝ち負けがすべてではない。」とは、相撲を文化として鑑賞するということ。

私は、このブログで、勝負に関する曖昧さを排除すべきと主張している。

それは、勝負については精緻なルールを決めることが、文化としての曖昧さ「例えば、同部屋は対戦しない。」を文化として残していくために大事だと思うから。 羽黒蛇








大正2年の生まれの吉田秀は、小学校に上がる前に、大工の棟梁から聞いたこんな相撲談義をよくおぼえている。以下引用。

Quote

「坊ちゃんも相撲は好きでしょう?相撲は何たって梅常陸。西と東の横綱が楽日に顔を合わせる。待った数回、やがて呼吸が合って立ち上がると、差手争いで揉み合ったあと、ガップリ四つに組むと動きが止まる。立行司の庄之助がそのまわりをまわりながら『ハッケヨイ』のかけ声も高く気合いを入れるが、小山のような二人の巨体はいっかな動かない。その姿は錦絵そのまま。いや見事なものです。相撲の取組はこう来なくちゃ行けません。」



彼に言わせると、相撲は勝ち負けがすべてではない。鍛えに鍛えて艶光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの。瞬時にして相手の巨体を一転さす技の冴え、剛力無双、相手をぐいぐい土俵の外に持ってゆく力業。そういった一切を味わうのが相撲の醍醐味。
それに花道の奥から現れ、土俵下にどっかと座り腕組みして、自分の取組を待つ姿から土俵上の格闘を経て、また花道をさがってゆく。その間の立ち居振る舞いの一切が全部大事なのだ。


これがおよそ私の受けた最初の相撲に関するレッスンであり、この時の話は酒臭い息の匂いとともに今も私は忘れない。
(中略)
落日の優勝をかけた熱戦といえば、ある年の大阪春場所での貴ノ花と北の湖の一戦も忘れ難い。当時の北の湖は「憎らしいほど強い」といわれ、実力抜群。一方、貴ノ花は猛稽古で鍛えた強靭な足腰と技の冴え。貴公子然とした容姿で絶大な人気を博していたが。相手の大太刀に対して細身の剣のような感があり、勝つにはどうかと思われたが、それがまた観衆の判官びいきの熱を一層高める。そんな中で、かなり長い攻防の末、勝ち名乗りを上げたのは貴ノ花だった。その時の満場の歓呼、歓喜の沸騰の凄まじさ!あれはもう喜びの陶酔、祭典だった。あとで北の湖は「四方八方、耳に入るのはみんな相手の声援ばかり」と言っていたが、私はTVを前に「北の湖、よく負けた」とつぶやいた。
今、相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。
あなたはまだ相撲を見たいと思っていますか。

Unquote

ーーーーーーー
吉田秀和「わが相撲記」感想(羽黒蛇)







図書館で、吉田秀和の全集より、相撲の記述を見つけたので、興味深いところを要約・部分引用します。







書籍:吉田秀和全集10



出版社:白水社



発行日:1975年11月25日



317ページ以降に、次の一文。



わが相撲記 文芸春秋 昭和47年10月号



国技館変貌 読売新聞 昭和46年1月27日



番付の擁護のために 朝日新聞 昭和50年7月23日



大鵬引退の報をきいて、その場で 朝日新聞 昭和46年5月15日







私が国技館で初めて相撲をみたのは、大正11年5月場所2日目。



http://sumodb.sumogames.com/Results.aspx?b=192205&d=2&l=j 取組表をリンク







初日に横綱栃木山が阿久津川に敗れた翌日。



めったに負けることがなかった栃木山が初日に負けるとは、まったくありそうもないことだった。







大関常ノ花が阿久津川に負けた一番を見て好きになった時の感情



「今にして思えば、これこそ、私が生涯でいちばん早く経験した情熱の劇だった。」



「人は必ずしも自分で望ましく、願わしいと思う存在を愛するようになるとは限らない。それどころか、初めからこれは不幸の種になるぞと、予感していたにもかかわらず、好きになってしまう。」



「小学から中学の初めにかけての私が、精神のほとんどすべてを傾けて努力したことは、まさに自分がはまりこんだ情熱の克服、それからの脱却にあったといっても、誇張ではない。」



「解決は、彼の引退によって、やっと獲得された。それ以後、私の相撲熱は、減退した。私は救われ、解放されると同時に、情熱を失った。



 私はやっと息をついた。



 だが、このときの私は、まさかまた何十年かの後になってから、またしても、そういう苦しみを味わう羽目になろうとは思ってもみなかった。」







最後の一文は、昭和35年に柏戸のファンになったこと。



筆者は、柏戸が、琴桜・清国を相手に、ものすごい力と力の攻め合いを演じた姿を思い浮かべる。







父は中立親方、現役時代は友綱部屋の後援会にはいっていた。



東京生まれで大関になった伊勢ノ浜。







ラジオもテレビもない当時、国技館からの電話を受け、商店街で力士の木札で表示したので、翌日の新聞より早く知ることができた。



制限時間がないので、いつ木札が表示されるか、待つしかなかった。














「相撲を知らない人は気がつかないだろうが、力士たちが立ち合いの呼吸を担うその微妙さは、超人間的動物的敏感さの絶頂であり、これが勝敗の大部分を決定してしまう。



 相撲ほど一つの呼吸が大切なものは、音楽を別とすれば、ほかに一つもないのではないか。」







相撲場で見られる公衆のあり方について、



「かきつくせないようないろいろな要素が重なり合う中で、一つの微妙な均衡が生まれ、ハーモニーが成立する。」



「そのためには力士をはじめ興行者の側だけでなく、公衆の間にも、ある本能的なものがかよっていて、異物を排し、本当に適したものを選びとり、保存するように働く。」







相撲土産に風呂敷が使われなくなったという「味気ない変化」に疑問を提示したあとに、










「相撲に限らず、およそ歴史があり、ある方向に向かって洗練されてゆく過程の中で、微妙なハーモニーを成立させるのに成功した集合的組織をささえるには、さっきいった本能的選択の力がなければならない。」







「本能とか直感とかいったものは、はっきりしたつかまえどころがなく、たよりにならないようでいて、実はこれほど根の深く強いものはない。」







「つまり、これは、意識的な努力で、育てたり強化したりしようのないものなのである。私の商売にしている音楽でも同じである。」










「私は、相撲がこのまま衰えるのではないかとなどといっているのではない。だが、新しい変化の中には、何か私を不安にするものがあり、もしこの新しいものがまた生き生きとしたハーモニーを鳴り響かす原動力の一つになるとするなら、それはいつ、どんな仕方でだろうか?と、宿題でも渡されたような思いでいる。」







最後の引用は、昭和46年に国技館の壁が猥雑でなくなり、力士のまわしの色が鮮やかになったことを不安に感じた一文。










「相撲は私の好物である。」と書いている筆者は、その魅力について、



「私たちの生活となんの関係のないところに反映されている人生の哀歓の姿、それから土俵をとりまくすべてにつきまとっている一種の祭礼のドラマとでもいった性格が、私にはたまらない魅力なのである。」



「これは、基本的にはこのうえなく簡単で原始的でありながら、しかもすごく洗練された精緻な近代的性格を発展させてきた競技である。」














感想:相撲が文化として継承されるには、相撲が相撲たる伝統を守りつつ、観客に見に来ていただき収入を得る必要がある。収入がなければ、文化としての維持ができない。



吉田秀和が不安を覚えたまわしの色は、カラフルさにより観客が増えたという効果があり、伝統が守られていると感じる。



まわしの色はなす紺か黒という伝統はなくなったが、失ったものより、大きな収入があったと解釈できる。



これからも、試行錯誤して、伝統を変えつつ、収入を維持しなくてはならない。










ファンサービスの議論で、「野球場のようなスクリーンでビデオを見せる」という案が出るが、私は反対。



理由その1:相撲場の文化に似合わない。



理由その2:次の取組の邪魔。



理由その3:携帯電話でNHKの中継を見ることができるので、見たい人はすでに見ている。










羽黒蛇

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2011年12月19日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
酒井忠正コレクション、12月23日まで(羽黒蛇)

国技館に前売りを買いに行きました。
14日目と千秋楽はHPより、ネットで買いましたが、手数料がかかるので、初日、7日目、8日目を今日国技館で買いました。

相撲博物館で、酒井忠正コレクション。
タイトルは、取って、見て、集め、調べた相撲の殿様

これまでに、相撲の本で、見たことのある有名な展示物もありましたが、ほとんどが初めて見るものでした。
江戸時代が中心、見ごたえがありました。

酒井忠正本人の作品の中では、昭和3年の幕内土俵入りの絵が、印象に残りました。

この展示は、10月から始まっていましたが、本場所がなかったので、今日まで見過ごしていました。
相撲ファンなら、一見の価値あり。
12月23日まで。

羽黒蛇

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2011年10月06日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
小説に登場した相撲のフレーズ








書名:なぜ絵版師に頼まなかったのか



著者:北森鴻



あらすじ:葛城冬馬、十三歳。明治元年生まれの髷頭の少年は、東京大學医学部教授・ベルツ宅の給仕として働くことになった。古式ゆかしき日本と日本酒をこよなく愛する教授は、比類無き名探偵でもあった。米国人水夫殺害事件、活き人形が歩き出す怪事...数々の難事件を冬馬の調査をもとに鮮やかに解決してゆく。史実を絶妙に織り交ぜながら綴る、傑作ミステリー。








引用、167ページ








明治十一年。新設された東京脚気病院で、「漢洋脚気相撲」と称された公開治療が催されたことがある。



すでに脚気は恐ろしい国民病であり、死者累累の有様だったから、催し物にして良いはずがない。



にもかかわらず相撲興行と同類にみなすあたり、お祭り好きに江戸っ子気質の面目躍如といったところか。



勝敗は決しなかったが「わずかに漢方の旗色良し」と、記録にはある。










羽黒蛇

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2011年09月20日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
二十八代木村庄之助の行司人生 尾形昌夫著(羽黒蛇)




出版されたばかりの相撲書籍を紹介する。




書名:二十八代木村庄之助の行司人生 


著者:尾形昌夫


発行:庄内日報社


価格:1000円




曙に横綱としての心構えを指導したことで有名な木村庄之助の伝記。後藤の親方と呼ばれていた。


双葉山時代に入門し、貴乃花時代に庄之助をつとめた、56年の行司人生。


著者は、後藤の親方、横綱柏戸と同郷、昭和4年生まれの82才。


過去に相撲雑誌等で、発表されていないエピソードが満載で、相撲に興味がある読者には、是非一読いただきたい。






発売場所:国技館1階向正面東寄り、ベースポールマガジン社の販売コーナー




国技館に来ることができない方は、庄内日報社(山形県鶴岡市馬場町8-29 電話:0235-22-1480)に連絡下さい。




羽黒蛇




印象に残った箇所を、要約して引用する。


78ページ


若貴時代の1989年11月場所11日目から、1979年5月場所初日にかけて毎日満員御礼だった。1994年5月場所を評して、木村庄之助は、「幾分活気はみられたものの、総体的には攻防のない相撲が多く低調だった。今の相撲人気はいわば砂上の楼閣のごときもので決って安定したものではない。




























































79ページ


二子山理事長が、力士、行司、親方衆を集めた緊急集会の模様を後藤さんから聞いたことがある。


二子山理事長が、出席した板井をにらみつけて、「板井!よく聞け」と口火を切り、「八百長問題が国会で取り上げられ協会が財団法人の資格を失うことになったときには、国技館も国に取り上げられる」という危機感を、激しい口調で相撲協会の資格者一同に訴えたとのことであった。


感想と補足;二子山理事長の演説は、今年テレビでも報道された。そして、板井の著書「中盆」にも詳しく記載されている。ただし、


「板井!よく聞け」


と、二子山理事長が、名ざしで、板井を非難したという話は、少なくとも私の知る限り、これまでの相撲報道では出ていない。


この演説を本ブログでは、http://hagurohebi6.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/nhk-efa9.html で取り上げている。理事長の言葉を、再引用する。


Quote


今までの相撲見てみろ


師匠は何とも思わないのか


その勝ちで喜んでいるのか


考えてみたら恐ろしいことですよ 君ら


万が一、これが文部省にとりあげられたら、財産を全部 没収されちゃうんですから


どうして生きていくんだ


そうすると国技でも何でもなくなっちゃう


落ちてしまってからでは、浮かび上がれない


本当に鬼になってやってもらいたい


Unquote


この前に、「板井!よく聞け」があったのだ。

落語「花筏」

2011年05月19日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
花筏

http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo30.htm 

【上方落語メモ第1集】その三十
花     筏
(はないかだ)
--------------------------------------------------------------------------------
【主な登場人物】
 提灯屋の徳さん  親方  素人力士の千鳥が浜  千鳥が浜の父親

【事の成り行き】
 町を歩いていたり、電車に乗っていて鼻をくすぐるいい香りがしたらちょっ
と振り向いて周りを眺めてみてください。たぶん頭二つ飛び抜けたお相撲さ
んの姿が目に入ると思います。

 テレビで稽古場風景など見ていると全身汗と砂にまみれて、すえた臭いが
漂いそうな気がするのですが、あれは朝稽古の最中のこと、稽古が終われば
風呂に入り髪を結い直し、街中で見かけるお相撲さんは綺麗な肌に糊のきい
た浴衣を着て清潔そのもの。それにビンツケの香りが加わって、なおさら男
ぶりが上がっています。

 風はまだまだ冷たいけれど、日の光はきらきらと春めき、色とりどりのノ
ボリがはためく。大阪の春が賑やかにやってきました。

             * * * * *

●無茶言ぃなはんな親方、何を言ぃなはった今。何ですかいな、わたいに大
関花筏(はないかだ)の身代わりになって相撲取ってくれ? 無茶言ぅてもろ
たらどんなりまへんで。何ですて、恰幅がある? なるほど体はごついよぉ
なけれどもね、これ決して肥えてんのと違いまっせ、太ってんのと違いまっ
せ、言ぅたらふくれてまんねんで。水ぶくれ、酒ぶくれだ。

●医者からも言われてまんがな「酒、もぉちっと慎まなあかんで」ちゅうこ
とをね、けど慎まれしまへんねん。ブクブク水ぶくれ、酒ぶくれだんねで。
それで体が大きぃだけのことだっしゃないか。ゆや病気だっしゃないか。ま
して、わたいみたいなド不器用(ぶっきょ)な人間、子どもの時分に相撲取っ
たことないことはないけれども、体の小さいもんにゴロゴロひっくり返され
て、自慢やないけど一度として勝ったことおませんがな。

●たった一度として勝ったことがないといぅわたいがでっせ、いま大阪相撲
で一番強いと言われてる、大関花筏の身代わりで相撲を取れるか取れんか、
あぁ~た冗談も休み休み言ぅてもらわな困りまっせ。

■待ちなはれ徳さん、大きな声出すねやないがな。誰がおまはんに相撲取っ
てくれと言ぅた「大関花筏でござい」ちゅうて納まっててくれてたらそれで
えぇねん。することっちゅうたら、まぁ何じゃなぁ、土俵入りの真似事さえ
ちょっとしてくれたら、あとは呑み次第の食い次第や。

■日当は……、おまはんそぉして朝から晩まで提灯張ってなはって日に何ぼ
儲けるのじゃ? えぇ? 「一分儲ける」よろしぃ、そんならその倍の二分
出そやないかい。どぉや、話に乗らんかえ?

●ちょ、ちょっと待っとくなはれや。あれ? だいぶ話違いまんなぁ。何で
すかいな、花筏の代わりっちゅうても、相撲は取らいでもよろしぃんですか?
あぁなるほど、土俵入りの真似事っちゅうたら、こぉやって手ぇ上あげて、
こんなことさえ覚えたら後は呑み次第の食い次第で、日当がこぉしてわたい
が朝から晩まで提灯張って儲けてる倍の二分おくなはんのですか。

●悪い話やおまへんやないかいな。これだけやりゃよろしぃんや、手ぇ上げ
てこんなことだけ、何でもないことでんがな、やらしてもらいまひょか。

■やってくれるか、おおきありがと助かった。おまはんに断られたらどぉしょ
しらんと思てたんじゃで……。とりあえず半金のこれだけ渡しとこ、半金は
またのちほどといぅことにしてもろてやな、気の変わらんうちに……。何じゃ
で、行き帰りの日数もあるやろし、雨の降る日もあるやろ、十五、六日と思
といてくれたら間違いないわい。乗り込みはあさってや、頼んだで。

 ポイッと帰ってしまいます。えらい相談が出来上がりましたもんで、今で
こそ大相撲は十五日間の年六場所九十日。三百六十五分の九十日ですから、
四日に一日は取り組みしてらっしゃるといぅことですから、意外と重労働な
わけです。

 当時は江戸相撲と大阪相撲に分かれてまして、それぞれが晴天十日、春場
所と夏場所の二場所だけ「一年を二十日で暮らすよい男」の時代やったんで
す。間はどぉしてるかといぃますと、地方巡行といぅのがありまして、地方
の興行元からお声がかかりますと出かけて行ったわけです。

 大阪相撲で一番強いと言われていた大関花筏、当時はまだ横綱といぅ名称
はございません、大関がハイエストランクでございます。ここの親方が播州
へさして十日間の相撲興業を請合ぉたわけであります。手金取ってしもた、
番付送ってしもた、あと乗り込みを待つばかりとなって、肝心の大関花筏が
どっと病の床に着いたわけでございます。

 お医者さんに診てもらうと「今いま命がどぉこぉいぅ病気やないけれども
重病には違いない。敷居一寸外へ出すことはならん」といぅお達しでござい
ます「さぁ、えらいことになったなぁ……」ふと思い付きましたんが、近所
におります提灯屋で徳さんといぅ男、これが水ぶくれ酒ぶくれにいたしまし
ても、なかなか恰幅がある。そこへさして、顔かたちが何とのぉ花筏に似て
いるといぅことで、これを大髻(おぉたぶさ)に結い上げたら誤魔化しがつか
んことはなかろぉ。

 ただ今でしたら、こんなことできません。テレビや新聞があるわけですか
ら、日本全国知れ渡ります。当時はそんなものございませんから、大髻に結
い上げて大関花筏でございといぅて行ったら通らんことはなかろぉちゅうの
で、親方が徳さんのところへ相談に来たといぅわけでございます。

             * * * * *

 さて、当日になりますといぅと提灯屋の徳さん、大関花筏に成りすましま
して総勢数十人、汽車や電車があった時代ではございませんから、足にまか
せてテクテク、テクテク高砂まで乗り込んでまいりますといぅと、前人気は
上々でございます。たくさんのノボリやなんか立ちまして、風にハタハタは
ためいているのでございます。なぜハタハタはためくかと申しますと、元来
が旗でございますから、旗めくのでございます。

 初日が明けますといぅと、何しろ久しぶりの大阪相撲やといぅので大入満
員でございます。もっとも、木戸のところにはちゃ~んと立て看板がしてご
ざいまして「大関花筏儀、病気の為、相撲取組相叶わず、土俵入のみ相勤め
ます」と断り書きが出ておりますけど、何と申しましても久しぶりの大阪の
相撲でございますから「相撲取らいでも土俵入りだけでも結構や、とにかく
見に行こやないか」といぅことで、どんどん、どんどんお客さんが集まって
まいりまして、まことに結構な人気でございます。

 さて、花筏の徳さん、生まれて初めて化粧回しといぅヤツを着けてもらい
まして、初めてのことでございますから、ひょっとしたら顕われはせんかと
思て、ブルブル、ぶるぶる震えながら土俵へ上がりますが、もとより偽もん
と知れよぉはずおません「待~ってましたぁ~! 大関ぃ~花筏ぁ~! 日
本一ぃ~! ウォ~ッ!」上々の首尾で宿へ引き上げてまいります。

 さっそく勧進元が挨拶に来る、土地の顔役が挨拶に来る、宿の亭主が挨拶
に来る、若い女の子がキャ~キャ~、キャ~キャ~言ぅてくれる。徳さん喜
んで呑みよった食いよった。十分に呑み食いをして、ゴロォ~ッと横んなっ
て寝てしまう。

 がらり夜が明けまして二日目、またまた立派に土俵入を済まして宿屋に引
き上げて来る。酒攻めの�肴攻めのベンチャラ攻め、女の子のキャ~キャ~攻
め。これで日当が二分。こんな結構なことなら十日といわず二十日といわず、
ものの三年も続かんかいなぁ、虫のえぇことを考えておりますうちに相撲は
どんどん取り進んで九日目。

 さて、いよいよ明日(みょ~にち)が千秋楽といぅことになりましたが、こ
の九日目まで勝ち残りがたった一人しかないのでございます。これが大阪の
相撲でございません。土地の素人で千鳥が浜大五郎といぅ網元のせがれでご
ざいますが、これが素人といえ強よぉ~いの強よないの、大阪の玄人を向こぉ
に回して毎日まいにち勝ち進んでおります。

 あの花筏が相撲を取らんもんでございますから、ひとつは「あいつオモロ
イで、あいつ勝ちよるで、ひょっと全勝しよるか分からんで」と、この千鳥
が浜の人気でお客さんが集まろぉといぅ具合。

 あすの取組ご披露といぅ時「千秋楽結びの一番、千鳥が浜には花筏、千鳥
が浜には花筏」と行司が呼び上げますと、これ聞ぃてお客さんの喜ばんはず
がない「聞ぃたか、あしたいよいよ花筏が相撲取るぞ。土俵入りだけじゃあ
りゃせんわい、相撲を取んのじゃ、それも相手が千鳥が浜。この相撲だけは
隣の嫁はん質(ひち)に置いても見逃すわけにわ……」わけの分からんこと言ぃ
ながら帰って行きましたんです。

 これ聞ぃた花筏の徳さん真っ青になって帰って来よった。

             * * * * *

■徳さん何をしてなはんねん?●「何をしてなはんねん」て、見て分かりま
へんか? わたい荷造りしてまんねん。わたい、大阪へ去(い)なしてもらい
ます■こ、これ、何を言ぅのじゃ。今日は九日目、相撲はもぉ一日残ったぁ
るで●残ったぁるか何か知りまへんわい。わたい大阪へいなしてもらいます。
当り前だっしゃないか、約束がちゃいまっしゃないか。言ぅときまっせ、わ
たいはね、相撲は取らんちゅう約束で来てまんねん。

●今の町ぶれ聞きなはったか「千秋楽結びの一番、千鳥が浜には花筏」とは
どぉでんねん。わたいが相撲取りまんのか? それも相手がこともあろぉに
千鳥が浜、あの千鳥が浜ちゅうのん人間やと思てなはるか? あれねぇ、こ
の山の奥に住んでる鬼の子ぉですとぉ。せやなかったら、あんな強い道理お
まへん。

●そぉだっしゃないか、大阪の玄人相手に回して毎日まいにち勝ちっぱなし、
それもただの勝ちよぉやおまへんで。あんさん見てなはるやろ、何じゃバ~
ンと突いたら土俵の外へ飛んで出る。ヨッコラショと投げたら土俵の土へニョ
ロッとニエ込んでしまう。あんな強い相撲見たことないわい。わたいらヨイ
ショッと立ち上がったら両の手でピ~ッと引き裂かれてしまいますわ。

●わたい確かに体、二分で預けましたけどね、人間のスルメにはなりたいこ
とおまへん、命まで売ったわけやおまへんので、じきに大阪へいなしてもら
います■ほぉ、えらい剣幕じゃなぁ……。そら、おまはんそれでえぇか分か
らんが、それではこっちが困るやないか。

●困んなはったらよろしぃがな、あんたが身代わり立てよてなしょ~もない
工夫するよってに、こんなことになりまんねん。言ぅたら、あぁ~たが蒔い
た種であんたが困んなはんねん。困んねんやったら、せぇだい勝手に困んな
はったらよろしぃがな。

■徳さん、そない言ぅねんやったらわたしも言わしてもらうが……、おまは
んもいかんで●何がいけまへんねん?!■何がいかんて、そぉやないかいな、
確かに呑み次第の食い次第やとは言ぅた。言ぅたけれども「大関の花筏は相
撲の取れん病人でおます」ちゅう触れ込みやで。せやさかいに相撲を取れへ
んよってに土俵入りだけで堪忍してもろてんねん。

■それがや、宿の亭主が勧進元のとこ来て言ぅには「花筏関、相撲の取れん
病人やそぉでおますけど、毎日、飯三升に酒五升呑まはります。あんな達者
な病人見たことない」わしも「大阪なりゃ五升の飯と八升の酒欠かしたこと
のない花筏のことじゃ、病気なりゃこそ、それぐらいしかよぉ呑み食いしま
へんねやろ」冗談めかして言ぃ訳はしといた。

■しといたがじゃ……、ここに言ぃ訳のならんことが一つできた、といぅの
は、徳さん……、おまはんおとついの晩やったかいなぁ、宿の女ごしのとこ
に夜這いに行ったちゅうやないか……

●わ、わ、わ~っ。あれ、もぉ聞こえてますか……■「聞こえてますか」や
ないで、何でそんな行儀の悪いことすんね「そんな元気があんねんやったら、
高砂くんだりの素人相手にひと手やふた手教えてくれても、まんざら罰も当
たりますまい。フンフン」言われてみ、向こぉは素人こっちは大関やないか
いな「そないに元気があんねんやったら、病気が治ったんかも知れまへん」
と、こぉ言わなしゃ~ないやないか。

■「ほなまぁ、千秋楽は土俵に上げまひょ」ちゅうた時のっけのわしの腹は
やで、大阪の相撲と組まして何とか八百長をして、おまはんを勝たすつもり
やった。けど、向こぉが承知するかいな「それやったら、今ずっと勝ちっぱ
なしの千鳥が浜と組ましとくなはれ。花筏と千鳥が浜が組むといぅことになっ
たら、千秋楽は大入り。この相撲尻晴れすること間違いおまへん」と言われ
てみ、今も言ぅたよぉに向こぉは素人こっちは大関、何がどぉあろぉが断り
のしよぉがあるか?

■黙って引き上げて来たんやが……、どぉじゃ、おまはんにもいかんとこあ
るじゃろが、大きなこと言えた柄じゃあろまいが。夜這いに行たりして、ど
んならんで……。ここは度胸据えて一番、相撲取ったらどぉじゃいッ!

●え、えらいことなってしまいました、えらいことに……。おっしゃること
もっともだす。もぉ、こぉなったら取らなしょ~まへんやろ。ひょっとした
ら投げ殺されるや分からんけど、取るわたいはしょ~ないとして、大阪で何
も知らんとわたいの帰りを待ってる、二十六のせがれと三つになる嬶(かか)
が……■あっちゃこっちゃになってるで。

●そのあっちゃこっちゃが待ってますんで、どぉぞ命ばかりはお助け■何を
言ぅのじゃ、おまはんさえその気になってくれたら誰が命まで取ろぉと言ぅ
たんや。花筏の名前に傷が付かず、おまはんの体も無事、千鳥が浜の顔も立
て、八方丸ぅ納まるといぅ手ぇが……、一つだけあるのじゃ。

●そ、そんなえぇ手だてがおまんのか?■任しとかんかい。相撲はこっちが
玄人じゃい。えぇか、あした土俵へ上がったら「天下の大関花筏は俺でござ
い」と、立派に仕切れ。ヨイショ~ッと立ち上がったら、もぉ何も考えたら
あかんぞ。総身の力を両の手へ込めて前へド~ンと持っていけ。この手ぇが
相手の体にちょっとでも触ったなと思たら、弾みつけて後ろへゴロ~ンとひっ
くり返れ。思いっきりひっくり返れ。

■これ見てよった見物人がどない思う「天下の大関花筏ともあろぉものがあ
んな脆い負けよぉをするはずがない。やっぱり噂の通り重いおもい病気やっ
たんや。立つこともできんよぉな重い病気やったものを、みんなのために無
理して、あんな無様な負けよぉをすんのも承知のうえで、みなに相撲を取っ
て見せてくれたんじゃ。あぁやっぱり大関ともなれば心意気が違うなぁ」と、
花筏の名前に傷が付かず、おまはんの体も無事、千鳥が浜の顔も立っちゃろ
がな。

●……! ……、なるほどッ■何(なん)してんねん?●感心しすぎて手ぇの
打てんところ見せてまんねん■しょ~もないことすんねやないがな。やれる
か?●やれま、これならやれま。何でしょ、とりあえず手ぇ前へ持っていっ
たらよろしんでしょ。ほんで、千鳥が浜の体にちょっとでも触ったなと思た
ら、弾みつけて後ろへゴロ~ッとひっくり返ったらよろしぃねん。これなら
ケガする間ぁがおまへんがな。これならやれると思います。

■そぉか、そぉと決まったらあしたの相撲が大事じゃで、今日は呑み食いは
えぇ加減にして早いこと休みなはれ。

 「そぉさしていただきます」二階へあがります。しばらくするとズッシ~
ン、バッタ~~ン。

■これこれこれ、徳さん何をしてなはんねん?●親方、ちょっと相撲の稽古
してまんねん■えぇ~? おまはん、ホンマに取るつもりかえ?●いんや、
尻餅付く稽古でっせ■アホなことしてんねやないで、早いこと休みなはれ。

 「おやすみやす」こっちはこっちで休んでしまいます。一方千鳥が浜の方
でございます。

             * * * * *

◆お父っつぁん今戻ったで▲お帰り。今日もまた勝ったんやそぉななぁ、店
の若いもんが知らしてくれた「若旦那、今日もお勝ちになりました」ちゅう
て。けどな、なるたけなら相撲てなあんな危ないこと置いとくれ。何であん
な乱暴なことすんのじゃ、勝ち負けはどっちゃでもかまやせんわい、ひょっ
と、こなたの体にもしものことでもあったらと思たら、わしゃ気が気でない
でな。仕事もろくに手がつかんのじゃ、どぉぞあんな危ないことだけは止め
てもらいたい。

◆すまんのぉお父っつぁん、心配かけて。しかしまぁ喜んどぉくれ。あした
の千秋楽、誰と取ることになったと思う? いま大阪相撲で一番強いと言わ
れてる大関の花筏と取ることになったぞ。お父っつぁん喜んどぉくれ。

▲大関の花筏と取ることになった? こなた、断ってきたじゃろなぁ。はっ
きりと断って……、なに? 喜んで承知した? こんなアホやとは思わなん
だ。お前はそこまでアホやったんか、何ちゅうことをしてくれんねん。

▲おまはん今日までの相撲、あら自身の力で勝ってると思てか? 何を言ぅ
のじゃ、相手は寒中ヒビ・アカギレを切らして修行をなさる商売人、何でお
前らごときに負けよぞ。わしゃここの網元じゃ、まして今度の興行には随分
金も出してる、いわば旦那衆の、お前はせがれじゃ。

▲わざと負けてくれてるぐらいなことが、分からんのかホンマにもぉ。大阪
の相撲は無念なこっちゃったろ、何ぼ商売のためとは言ぃながら、こんな若
造に負けてやらんならんと思たら、腹の中は煮え繰り返ってたじゃろ。あし
たここを打ち上げてしもたら、あと何年先ここへ来るや分からん。いわば恩
も義理もない土地じゃ、そぉじゃろ。

▲一番憎い千鳥が浜、土俵の上で叩き殺して、溜飲下げてシュ~ッと大阪へ
いのっちゅうので、一番強い花筏が出て来たんじゃ。おまはんら何も知ろま
いが、病気じゃ病気じゃちゅうて何の病気なことがあるかい、宿の亭主に聞ぃ
たらな「酒が三升飯が五升、宿の女ごしに夜這い」わけの分からんこと言ぅ
ておったぞ。そんな元気のあるもんが……

▲あした殺されるとも知らんと、よぉそんなこと引き受けてきた。こんな馬
鹿じゃとは思わなんだわい◆お父っつぁん、アホなこと言ぅな。何ぼわしか
て、随分と相撲取ってじゃ。わざと負けてくれてるか、自分の力で勝ってる
かぐらいのこと分かるつもりじゃ。間違いないわい、自分の力で勝っとるの
じゃ。

◆よし、そぉにしても、いま大阪相撲で一番強いと言われてる、あの大関花
筏と四つに組めたら、それだけで腕の一本や足の一本、どこ行たかてかまや
せん……▲「腕の一本、足の一本、どこ行たかてかまわん……」親の思うほ
ど子は思わんてなぁ……。そぉかえ、そこまで言ぅのなら相撲でも何でも取
りくされ! 今日限り勘当じゃ。

◆お父っつぁん、堪忍しとくれ「勘当じゃ」てな無茶なこと言ぅてもろたら
どんならんなぁ。勘当は堪忍しとくれ。取りたいがなぁ、勘当は辛いなぁ、
取りたいなぁ……、勘当が辛いなぁ……、取りたいなぁ……、勘当が辛いわ
い。クゥ~~ッ、花筏と取りたいもんじゃが……、勘当は辛いわい。

◆父っつぁん、勘当や言われると返す言葉ないわい。辛いのぉ……、取りた
いのぉ……、勘当は辛いわい。辛いが、明日の相撲は思い止まるわい▲そぉ
しとぉくれ、おっきありがと。ほかに何の道楽もないこなたのこっちゃ、相
撲ぐらいは取りたいやろが、うちの大事な跡取り息子じゃ。

◆何べんも言ぅな、分かってるわい。もぉ諦めたわい。その代わり、わしが
取らなんだら誰ぞ代わりが取るやろと思う。今、大阪で一番強いと言われて
る天下の花筏、どんな相撲取りよるかそれだけは見たいと思うので、見に行
くのは行ても構わんか?▲見るのは何ぼ見ても構わんのじゃ、どぉぞ相撲だ
けは取らんよぉに◆分かったわい。そんなら先休むで。

 「あぁ、お休み」と、こっちはこっちで寝てしまいました。

             * * * * *

 さて、がらり夜が明けますといぅと暗いうちから鳴り響く櫓の太鼓でござ
います。天下泰平、国家安穏、五穀豊穣。ドンがドガドガ、テンつテンテン、
テンこテンテン……。あの櫓太鼓といぅものは相撲の好きな人間には何ぁん
とも言えん音に響くのでございます。

 さぁ、今日の大事の一番見逃してはといぅので、暗いうちから大勢の人間
が、ドンドンどんどん、ドンドンどんどん……、相撲場へさして詰めかけて
まいります。

 千鳥が浜も「見るだけにしても締め込みを絞めとかんことには力が入らん
わい」といぅので、下に回しをしっかりと締めまして、その上から浴衣を羽
織りまして「人に見付かってはいかん」といぅので、後ろの方で小そぉなっ
て隠れかくれ見ていたのでございますが、何と申しましても根っからの相撲
好きでございます。一番いちばん取り進むうちに思わず力が入ってジリッ、
ジリッ。

 思わず前へジリジリ、ジリジリ。ふと気が付いたときにはもぉ既に土俵の
溜まりまで出ておりましたんです。いよいよ千秋楽、結びの一番。呼び出し
奴(やっこ)が土俵へ上がる。パラリと扇子を開きます。

 『にぃ~しぃ~ ちどぉ~りがぁ~はまぁ~ ちどぉ~りがぁ~はまぁ~
  ひぃがぁ~しぃ~ はなぁ~いかぁ~だぁ~ はなぁ~いかぁ~だぁ~』

 「花筏ガンバレ! 千鳥が浜ガンバレ! 千鳥が浜 花筏 うわぁ~~!」
この声を聞きました千鳥が浜、根っからの相撲好きでございます。親の意見
も何もコロッ、と忘れて、うかうかっと土俵へ。

 可哀相ぉなんは花筏の徳さんでございます。とにかく生まれて初めてホン
マの相撲を取る奴(やつ)でございますから、塩がどぉすんねやら水がどこに
あんねやら、水口入れてゴボゴボ、ゴクッと飲んでしもたリ「何をすんねや
いな、飲んだらいかんがな。これっ、土俵降りて来てどぉすんねん、相撲は
これからやがな」親方一人で気をもんでおります。

 行司が二人を合わせるうちに、ジリッジリッと仕切る。この相撲の仕切り
の瞬間といぅものは何とも言えんもんでございますなぁ。ジリッ、ジリッ、
ジリッ、ジリッ、ジリジリジリ……、ジリッと仕切る。

 さぁ徳さん、怖かったら見ぃでもえぇんで、とにかく立ってバ~ンと手ぇ
持って行きゃよかったんですが、人間といぅもんは妙な性癖があるんでござ
います。怖いものほど見てみたい「怖いもの見たさ」ちゅうやつ。

 この期に及んで「あの千鳥が浜、いったいどんな顔してよんねやろ?」と、
ヒョイッと顔を上げますといぅと、目の前に千鳥が浜の目玉が、ゴリゴリご
りごり、ゴリ~ッ。

●怖わぁ~、えらい顔して睨んどぉる、こらあかん。あら? 手が動かんが
な。足突っ張ってもぉたがな。ひぇ~~、ひっくり返る間ぁも何もないのん
とちゃうんかいな。蛇に睨まれたカエルとはこのこっちゃ。あかん、あかん、
思や思うほど、体が堅とぉなってきた。このままやったらゴロッといかれて
まう。

●え、えらいことになった、えらいことに……。もぉおしまいか、嫁はんの
顔も子どもの顔も見ることできんじゃないかいな。えらいことになってきた、
えらいことに……、大阪でおとなしゅ~、一分儲けて提灯張ってたらよかっ
たものを、わずか二分といぅ金に目がくらみ、ここで命を落とすのか、これ
がこの世の見納めか……

 と思いますと、えらいもんで両の目ぇから涙がボロ~ッ、ボロボロ~ッ……
「なんまんだぶつ」と、思わず念仏を唱える。これが千鳥が浜の耳にチラッ
と入ってんで、

◆あれっ? 「なんまんだぶつ?」わしゃいままで何十番、何百番と相撲取っ
てきたけど、仕切りの最中に念仏聞ぃたん初めてや……。泣いてる……、泣
いてる? 念仏? 泣いてる? 涙流してる? 「なんまんだぶつ?」

◆わ、わぁ、あらぁ~~。ゆんべお父っつぁん言ぅてたよぉに、こいつやっ
ぱりわしを投げ殺す気ぃや。それにしても不憫なやっちゃいぅんで涙流して
念仏まで唱えてくれてるんや。あかん、あかんわ。手が動かん足が動かん。
えらいことなったがな、ここで命落とすんかいな……

 「親の意見を聞かなんだばっかりに、ここで命を落とすのか、これがこの
世の見納めか」熱い涙がボロッ、ボロぼろ、ボロ~ッ「なんまんだぶつ……」

 行司がビックリしましたなぁ、土俵の真ん中で二人の男が涙流して「なん
まんだぶ……」息も何もあったもんやない「八卦よい。エイッ、えぇかげん
に取れ!」ぱっと軍配を返す�。

 もぉ花筏の徳さん、無我夢中で両の手を前へドドォ~ンと持って出る。千
鳥が浜の方はホンマに殺されると思ぉておりますから、怖い怖いの一点張り、
手ぇを出す間ぁも何もない。バァ~ンといかれたんで、ゴロ~ッとひっくり
返った……

 『花ぁ~筏ぁ~~!』の勝ち名乗り。

 「見たか! 花筏、強いなぁ~。千鳥が浜、何じゃかんじゃ言ぅてもやっ
ぱりあきゃせんわい、素人じゃわい。花筏がひとつバ~ンと張っただけで飛
んでしまいよった。花筏は張るのがうまいなぁ~!」


【さげ】
 うまいはずです。提灯屋の職人でございます。


【プロパティ】
 大関=番付上最高位は大関であった。「横綱」はその大関のうち綱を付け
   て土俵入りを許された免許のことを言った。1890(明治23)年5月場所
   で前例のない四大関が出現し、横綱免許された西ノ海が成績二位で張
   り出される(本来張り出しは三位以下)ことに物言いをつけた西ノ海を
   なだめるため、番付に横綱(免許)を明記して納得させた。これが横綱
   を地位化する前提となり、明治42年、階級地位として成文化した。
 花筏関=江戸相撲・大筏岸右エ門、九州出身。1763(宝暦13)年春場所大関
   として初土俵、宝暦13年冬場所大筏から花筏に改名、1764(明和元)年
   冬場所花筏から大筏と改名。1765(明和2)年春場所廃業。花筏は1763
   年冬1764年春の二場所のみしか名乗っていない、その間大関ではなく
   二段目。
 呑み次第の食い次第=次第:意向のままに、動作が行われるままにという
   意を表す。
 晴天十日=本場所ごとに小屋をかけ、雨が降れば入掛(いれかけ)と称して
   興行を中止し、天候が回復すると触太鼓をまわして再開するという興
   行形態のこと。
 大髻(おおたぶさ)=近世、男子の結髪で、髻を普通より大きく結うこと。
 顕われる=隠されていた物やわからなかった事柄などが、人々に知られる
   ようになる。露顕する。
 ニエ込む=めり込む。はまりこむ。
 せぇだい=精々・うんと・懸命に努力して、などの意。セイダシテ→セイ
   ダイテ→セイダイ→セェダイ。
 勧進=寺社・仏像などの造立・修復のために寄付を集めること。またその
   ために行う興行を勧進興行という。
 くんだり=(下りの転)地名に付いて、中央から遠く離れていることをやや
   強調して言い表す語。
 あっちゃこっちゃ=反対。逆。あべこべ。
 感心して手ぇの打てんところ=手を打とうとして空振りを繰り返す。
 置く=よす。やめる。中止する。
 溜飲=胃の消化作用が不十分で胸やけがしたり口にすっぱい液が出たりす
   る症状。溜飲が下がる:不平・不満・恨みなどがなくなって胸がすっ
   とする。
 よし、そぉにしても=よしんば:たとえそうであったとしても。かりにそ
   うであっても。
 土俵溜まり=行司・力士・審判員などが控える土俵下の場所。
 音源:1982/05/16 枝雀寄席(ABC)

--------------------------------------------------------------------------------【作成メモ】
 ●参 照 演 者:main=桂枝雀 sub=*
 ●main高座記録日:1982/05/16  ●番  組  名:枝雀寄席(ABC)
 ●ファイル公開日:1996/11/04  ●江戸落語相当:*
 ●更  新  日:2004/11/10  ●リクエスト数:
 ●注 意 事 項:内容を削除、追加、改訂している部分があります。
          記録日のmain演者によるさげを採用しました。


--------------------------------------------------------------------------------
         

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2011年04月25日 | 書籍、映画、展示会、美術等相撲作品の感想
書評 土俵の砂が知っている 元出羽錦 田子ノ浦忠雄 (羽黒蛇)








書名:土俵の砂が知っている 涙と笑い・二十五年の生活記録 



著者:元出羽錦 田子ノ浦忠雄



出版社:一水社



初版発行:昭和40年3月1日








出羽錦の経歴は、





生年月日



大正14年7月15日




出身地





東京都墨田区




身長 体重



181センチ 143キロ




所属部屋



出羽海




初土俵



昭和15年5月




最終場所



昭和39年9月
















幕内77場所、2準優勝、3殊勲賞、1敢闘賞、10金星



昭和22年11月場所に新入幕で、9勝2敗で殊勲賞 (今の感覚では、敢闘賞に該当する)








出羽錦は、年2場所から、年6場所までを経験している。同世代の力士では、栃錦・若乃花と同様。



昭和23年 2場所



昭和24年―27年 3場所



昭和28年―31年 4場所



昭和32年 5場所



昭和33年から 6場所



出羽錦は、昭和22年から39年まで、17年間、1101番、幕内で相撲をとった。













本文より、面白かった箇所を引用。



Quote



同期生は、時津山・国登・力道山・出羽湊・清水川・信夫山・福ノ里



当時の出羽海部屋は、十枚目に昇進するまで四股名がもらえず、小倉という本名を四股名にしていた。








今のようにスカウトする手間ヒマはかけずに、優秀な体をした青年たちが、ワンサと入門してきた。だから、兄弟子たちがひどいことを新弟子にしても、親方たちは見てみないふりをしていた。根性なきものは去れという思想が徹底していた時代である。



兄弟子も決して有望力士には手を出さない。私なんかは、どうせ幕下にでもあがれないと思っていたのだろう、よくいじめられたほうである。








昭和17年から、満州巡業に、両国関の付人として参加した。



私のついた関取は、両国関、豊島関、竜王山関、安芸ノ海関、駿河海関の5人。








豊島関は当時新進気鋭といわれ、「猪」というニックネームがついていた。



激しくぶちかまいして、一直線に押して出る相撲ぶり。



身長は五尺六寸と恵まれておらず、四つ相撲では到底芽が出ないと、親方(出羽海梶之助)の言葉を忠実に守って励んだ。



昭和17年春場所の5日目には、初顔の双葉山関と取組み、この大横綱をまっこうから押し切る大金星をあげたのである。



Unqoute








豊島は、本場所で2回、準本場所4回で、双葉山に勝っている。



照国は、本場所で3回、準本場所6回で、双葉山に勝っている。



北の湖が朝汐に弱かったのは有名だが、双葉山も豊島と照国は苦手にしていた。



Quote



土俵の上でまわしを落としたのを二度見たことがある。地方場所で、明瀬川、名古屋で、駿河海。








竜王山が双葉山に対して一回目の仕切りで立った一番。



部屋に帰ってきた竜王山に対して、親方は、「一度で立つとは失礼じゃないか、双葉に謝ってこい」と深くいましめられた。



竜王山は、和田信賢アナウンサーに、「どうせ君は勝てないのだから、アッといわせるようなことをしたらどうだ」「勝てないまでも双葉山に待ったをさせたということになれば、こりゃ大した記録に残るだろう。」と言われ、その通りにやったまでのことである。








ヒゲの伊之助は、名寄岩と綾昇の一番で、勝った綾昇に対して「ナヨロイワ」とやり、「に勝ったるアヤノボリ」と続けた。



Unquote








この失敗談は、



昭和二十八年か九年二月の名古屋準本場所で、鏡里に勝ち名乗りをあげるとき「玉乃海…」といってしまい、ひょいと顔をみると鏡里だったので、とっさの機転で「…に勝ったる鏡里」とあげてピンチを切り抜けたこともあった。



というエピソードの方が有名である。








「地方巡業で乱闘事件」より引用、終戦後の話。



Quote



その1



広島の駅前で興行した時、飛付五人抜きをやっていたのだが、小林さん(現入間川親方、元行司木村宗四郎)が土地の親方の上に落ちた。よくあることなのだが、



「この野郎ふざけあがって・・・」ということになった。



支度部屋へ外から石の雨が降ってきた。



最初のうちは我慢していたが、堪忍袋の緒を切らした鯱ノ里関が、「小倉、太刀持ってこい」と、たいへんな剣幕で、まさに歌舞伎の役者なみ。








その2



岡山の興行でのトラブル。



飛付五人抜きで、土地のヤクザが五人ほど参加していた。



その中の一人が何度負かしても、こりずにかかってくる。



そのうち面倒くさくなり、泉州山がつかまえて、思い切り二、三度たたきつけた。



それをみていた見物席の仲間が怒り出し、いっせいに土俵にあがって大乱闘になった。



乱闘がおさまってから、ヤクザが七、八人で、横綱安芸ノ海の支度部屋に、



「いちばん先に問題をおこした若い者を引き渡せ」



安芸ノ海は、「若い者は渡すことはできない。だが呼んであやまらすだけでいいならそうしよう。しかし指一本ふれたら承知しないぞ」



押し問答のすえ、向こうが折れて、謝ることで話がついた。



Unquote








感想:相撲巡業という興行では、土地のヤクザと共存共栄の関係にあったのだろう。








Quote



当時の巡業は一門別で旅をした。



相撲は不況時代で、幕内力士が一人でも休むと勧進元がうるさく、ケガをしても休めなかった。



巡業でケガをしては、部屋に戻り、「手術をしても成功するかしないか保証の限りでない」と言われ、手術もできず。



それ以来、勝ったり負けたり、いや負けたり負けたり、エレベーター三役というありがたくない名を頂戴した。



Unqoute








「今の“しょっきり”はまるで漫才」という章では、



栃錦と出羽錦が、いかに真剣にしょっきりをやったのかという解説。








Quote



双葉山関の引退相撲が両国の旧国技館で行われたときを最後に、私と栃関は、しょっきりから引退した。



私たちの後は、常ノ山、大江戸のコンビ。しょっきりをやったものは幕に上がれないというジンクスを破り、四人とも幕内にあがった。



Unquote